•  赤ん坊の頃に捨てられ、わたしは物心つく前から孤児院で育つことになった。
 小学校に上がる年齢の頃にいまの養親に引き取られ、この施設を去ることになったが、引き取られて数年が経ったいまでも、わたしは自主的にちょくちょく施設を手伝いに来ている。
 ここの大人たちはお世辞抜きにみんな人格に優れたひとばかりなので、赤ん坊のわたしがここに捨てられたのはある意味幸運だったのかもしれない。ひとえに園長先生の人望のおかげだろうか。
 わたしが園の手伝いをしようと思ったのも、ボランティア精神というより、先生達と離れがたい気持ちがあったからだ。
 別に養親に不満があるわけではなく、いまの家から施設までたまたま歩いて通える距離だったのでどうせなら、というだけなのだけれど。

 そんな生活の中の、雨の降った秋のある日、いつものように園への道を行く途中のことだった。野垂れ死ぬ寸前の仔猫をみつけたのは。
 道ばたに死体のように倒れている。わたしの足音に反応して、弱々しく、のろのろとした動作で、立ち止まったわたしを見た。
 目が合ってしまえば――いや、見つけてしまったのなら無視していくなんて選択肢はない。無視してしまえばそれこそとんでもない後ろめたさがわたしを襲うだろう。こんなときばかりは自分を善良に教育してくれた先生達を恨みたくなる。
 小学生のわたしのてのひらにすら収まるだろうほどの小さな猫だった。産まれて3ヶ月も経っていないだろう。野良ならば親猫の姿やキョウダイらしい姿が近くにあるはずだ。なのにどこにもみあたらない。

 ―――飼い主に、たった一匹だけで見捨てられたのだ。

 雨が地面を打つ音が響く中、近づいてかがみ込んだ。仔猫は冷たい雨に身体を濡らし、泥に身を汚されながらひどく震えている。
 雨で目立たなかったが、こうして近づくと糞尿の匂いが鼻をつく。用を足したところで身体を動かす気力が尽きたのか、それとも倒れたまま垂れ流すだけしかできないのか。
 仔猫をてのひらにとりあげた。子供たちのおもらしの始末やらオムツ替えやらで、糞尿の臭さには慣れている。
 体温は冷たい。いのちの証である心臓の鼓動は、その弱々しい印象に反して、早くて正確だった。
 そのことに一瞬驚いて目を見開いた。だけどいのちのもうひとつの証である呼吸はもう細く、なにより不規則なことに気づいたらそんなことはもう忘れた。この仔はもうすぐ死ぬのだと、子供のわたしにすら否応なしに直感させた。
 この仔はもう助からない。よだれを垂らして糞尿も垂れ流すその様子はただの衰弱だけというにはあまりにも悲惨すぎた。おそらくこの仔一匹だけが、何らかの病気を持って生まれてしまったのだろう。だから飼い主はこの仔だけを捨てたのだ。
 だけどいま、わたしのてのひらの上で呼吸をしてる。生きようとしてる。
 外にひとりぼっちで放り出された赤ん坊が、今の今まで生きて来れただけで途方もない奇跡だと思った。涙がこみあげてくる。
 もしも、もしもわたしが、施設の門に捨てられたまま誰にもみつからないままだったら、と錯覚がよぎるもうどうしようもなかった。
 ひとりぼっちで、何も知らないまま野垂れ死に、だなんて。
 誰かに甘えることも淋しがることさえも知らないまま、だなんて―――!

 仔猫を抱いて走った。水たまりをはねとばして足が汚れた。雨を避ける傘は仔猫のためにかざした。わたしの身体は雨でずぶ濡れになった。
 冷たくなっていくこの仔に、せめて最後に、なにかぬくもりを与えてあげたいと思う一心だった。

 わたしがかつて捨てられた門をまたぎ、園庭を駆け抜けた。傘を放り捨て、仔猫を両手で包み、玄関の扉を肩で体当たりする勢いで押しあける。
「うわっ!?」
 扉に衝突する音の大きさに驚く大人の女のひとの声。ちょうど玄関に居てくれてよかった、呼びに行く手間が省けて助かる。
 倒れ込むように、わたしは玄関をくぐった。
「ど、どうしたの!?」
 ずぶ濡れで、尋常でないわたしの様子をみて彼女は目を見開く。
 そこにいたのは、わたしと同じように外から自主的に手伝いに来るひとりである年上の女のひと。優だった。
かつて門の前に捨てられた赤ん坊のわたしを最初にみつけてくれたのが、幼かった頃の彼女だったという。
「ゆう、助け―――」
 わたしがここで一番に慕うやさしいお姉さん。真っ先に会えたのが彼女でツイてると思った。助けを請おうと顔をあげたそのとき。
「て……」

 わたしの動作にあわせて、
 腕に抱いていた仔猫の首が、空を掃くようにぐるんと揺れた。

「―――」

 せっかく頼る人をみつけたのに、それはもう遅かった。走るのに必死で、雨音と冷たい風のせいで、仔猫の状態がわからなくなっていた。
 ―――この仔は、冷たい雨に打たれながら、死んだのだ。

 首が据わらない猫の身体をどう扱っていいのかわからなくて、わたしは仔猫を抱いたまま硬直する。
 呼吸も鼓動も体温も、いのちの証は、そこにはもう無い。

「……」 

 足音。わたしに歩み寄ってくる優を、ぼうっと見あげた。優はなにも言わずに、二回、首を振った。
 ずぶ濡れのわたしと、汚い猫の小さな死体。なにがあったかを察してくれたのだろう。
 かがみ込んで、仔猫と一緒にわたしを抱き寄せる。
「いいよ、ゆう。わたしたち、いま、けっこうよごれてるから」
 身体が冷たいせいか、頭の中の冷静な部分で、自分たちはいま、雨やら泥やらでかなりひどい状態だろうなとぼんやり思った。
 こんな状態でも、他人を気遣う余裕を持てるように、優や先生たちがわたしを躾てくれたのだと思うと、場違いな笑みすら浮かぶ。
 うん、わたしは、れいせいだ。ちっとも取り乱してなんかいない、こんなことでどうにかなるほどやわじゃない。
「ほんとに、なんともないってば、だいじょうぶだよ」 
 わたしから離れようとしない優に、もういちど声をかける。
 優は返事をしようとしなかった。
「ゆうってば」
 この仔のお墓とか、作ってあげないとだし、離れてよ。
 ずぶ濡れの手で優に触るのもなんだったので、自分から身体をよじろうとした。
 それをとめるように、ぽん、ぽん、と。優がわたしの背中をやさしく叩く。

あたたかい手。お姉さんの、やわらかなぬくもり。

 ―――それは、わたしが、この仔に与えてあげたかったものだ。

 ぽろぽろ、涙がこぼれた。猫の死体に涙が落ちる。
「あ、あれ?」
 泣くつもりなんて、これっぽっちもないのに。
 わたしのとまどいをよそに、優は片方の手であやすようにわたしの背を叩き、もう片方の手でわたしの髪をなぜる。
「いいって、ゆう、濡れ、ちゃう」
「いいから」
「よく、ないよ」
「いいの」
 涙は嗚咽を誘発し、嗚咽がまた涙を誘発する。


「いいから、離れてよぅ……!」
「だめー、離さない」
「わたし、ほんきで言ってるんだよ!?」
「わたしだって本気だよー」
「――――ッ!」

 涙の衝動は、いくら我慢しても強まるばかり。
 いつしかわたしは優の胸に顔を埋めて、声をあげて泣いていた。

 雨上がりの空の下。仔猫は園庭の隅っこにわたしひとりの手で埋めた。
「結局、何も出来なかったな」
 門に背中をあずけながら呟いた。
「なんだかなあ」
 見知らぬにんげんの手の中なんかより、猫にとってはあのまま土の上で死んだ方がまだマシだったのかもしれない、なんてことも考えられるのかと思うとやりきれない。

「だいじょうぶ?」
 優が尋ねながら、わたしの隣に並ぶ。
「うん、だいじょうぶ」
「そう」
 それ以上はたずねてこない。その態度がありがたいと思った。
 確かにいま、かなしい思いをしているけれど、でもそれを自力で乗り越えられないほどわたしはひ弱ではないのだとわかってくれている。
 ただ、十分な時間さえあればいい。

 沈黙がややあって、ふいに優は口を開いた。
「『虹の橋』の話、してあげたことあったよねー?」
「聞いたけど……」
 『虹の橋』―――簡単に言えば、死別した飼い主とペットが天国で再会して、二度と別れることのないしあわせを抱いて虹の橋を渡っていく、という、作者不詳の寓話だ。
「あの猫はわたしのペットじゃないよ」
「うん、でもね、『虹の橋』は、もうひとつあるの」
「もうひとつ? あ、それは知らない」
「もうひとつの『虹の橋』はね―――」

*************************************************

天国とこの世を結ぶ橋がある。
その橋は、様々な色合いから『虹の橋』と呼ばれている。
『虹の橋』の一歩手前には草地や丘、青々とした緑あふれる谷がある。
大切なペットは、死ぬとその場所へ行く。
そこにはいつも食べ物と水があり、気候はいつも暖かい春のようだ。
歳をとって、からだが弱っていたものは、ここへ来て若さを取り戻し、
からだが不自由になっていたものは、元どおりの姿になる。
そして一日中いっしょになって遊んだりしている。


橋のそばには、様子が異なるものもいる。
疲れ果て、飢え、苦しみ、誰にも愛されなかった動物たちだ。
他の動物たちが一匹また一匹と、
それぞれの特別なだれかといっしょに橋を渡っていくのを
ものほしそうに眺めている。
彼らには特別なだれかなどいない。
生きている間、そんな人間はだれひとり現れなかった。


しかし、ある日、動物たちが走ったり遊んだりしていると、
橋への道のかたわらにだれかが立っているのに気づく。
彼はそこに繰り広げられている友の再会をものほしそうに眺めている。
生ある間、彼はペットと暮らしたことがなかった。
彼は疲れ果て、飢え、苦しみ、だれにも愛されなかったのだ。

そんな彼がポツンと立っていると
愛されたことがない動物が
どうして一人ぼっちなのだろう、と近づいてくる。
すると、不思議。
愛されたことがない動物と愛されたことがない人間が
互いに近づくにつれ、奇跡が起こる。
なぜなら、彼らは一緒になるべくして生まれたからだ。
この世では決してめぐりあえなかった特別なだれかと大切なペットとして。
今、やっと『虹の橋』のたもとで彼らの魂は出会い、
痛みや悲しみは消え、友はいっしょになる。


そして、いっしょに『虹の橋』をわたり、もう二度と別れることはない。

(作者不詳)
*****************************************************

「……ゆうはさ」
「うん?」
「ゆうは、ここでわたしをみつけてくれたんだよね」
「うん、そうだねー、わたしも小さかったから、あまりよくは覚えていないんだけどー……、
 でも、泣き声が聞こえて、みにいってみれば赤ちゃんが居てびっくりしたことだけは覚えてる。
 確かに、この場所で」
「そう……」

「ねえ、ゆう」
「うん?」

「―――わたしをみつけてくれて、ありがとう」
 素直な気持ちで、朗らかな気持ちで、わたしは言った。

「どういたしまして、っていうべきなのかなー?」
 優は困ったように、でも口元に笑みを浮かべていたずらっぽく首をかしげる。
 泣き声がわたしを見つける要因だったというなら、別に優がみつけなくても他の誰かがわたしをみつけただろう。
 だから、このことにはたいした意味があるわけではないのだ。

「別にそんなに真面目に受け取らなくていいよ、ちょっと、そう言ってみたい気分なだけ」

 目を閉じて、名前をつけてあげることすらできなかった仔猫を思い浮かべながら、わたしは笑った。

 ―――そう、ちょっと、そう言ってみたい気分だっただけ―――


  • 最初はただのきっかけだった。
始業式の翌日の最初の授業、隣の席の子の消しゴムが落ちて、こちらの足元に転がってきた。
でも本人はそのことに気づいている様子はない。
「消しゴム、落としたよー」
そういって転がってきた消しゴムを拾って手渡し、笑いかける。
「あ、ありがとう・・・」
それに気づいた隣の席の子は照れながら少し笑う。
少しあどけなくて、そしてどこか優しい顔。
そんな彼の照れ笑いが凄く印象に残った。

その笑顔をもっと見たい。
今まで欲と言える欲を出さなかった私に、我侭が一つできた瞬間だった。
彼はよく消しゴムを落とす。
私は彼の照れ笑いを見るために消しゴムを手渡すのだ。

男「あ、ありがとう。いつもごめんな、優」
優「えへへー いいんだよー」






  • 『くろいねこ』

 我が輩は猫である。名前はまだ無い。
 人間とは面白い生き物だ。
 今日は諸君らに人間について話そう。

 時は春。著名な人間が「あけぼの」と詠いし春だ。
 今日も下等な人間どもが黄昏時の町を闊歩している。小さい黒影をそこらの小石のよう
に見下しながら。
 腹が減った。そろそろ行くか。夕餉を食す。

 本来ならばここでは飯の心配をしなければならない身分であるのだが、我が輩には当て
がある。毎度、我が輩に飯を献上する愛い人間の小娘がいる。その者はいつもこの時刻に
なると町の学び舎から出てくる。どうやら生徒らしい。
「あ、ジジちゃんだー」
 因みにジジとはこやつが勝手につけた呼び名である。爺と呼ばれているようで、気に入
らない。こう呼ばれたときは決まって不機嫌そうに鳴いてやることにしている。
「にゃあ」
「よしよしー」
 小娘は我が頭頂部を撫でようとするが、それも叶わず。気安く触るな。
「お、また来てるのかそのホーリーナイト」
 この男は、小娘と何時も相伴う男である。番であるやも知れん。「ほーりーないと」な
る呼称もやはりこの男の独断で付けられた名である。エゲレスだかメリケンだかから渡来
した言語であろうが、如何なる意味を持っているのかは定かではない。
「にゃあ」
「よしよしー。今ご飯あげるからねー」
 それでいい。貴様は我が輩に飯を奉れば良いのだ。
 小娘の差し出す魚を食す。いつも通りの味だ。悪くない。
「しっかし、汚いネコだな」
 黙れ小僧。貴様らの美的感覚と我らのそれとは異とする。理解できぬのは無理からぬこ
とであろうが、滅多な口を利くものではない。
「にゃーん」


 食事が終われば謝辞を申すのは常識といえる。我が輩もそれに倣っておく。
「うんうんー。ご飯が食べたくなったらまた来てねー」
 なんと愚かな小娘か。我が輩の言葉も分からぬだろうに、分かった風にするとは。これ
ぞ驕った人間の醜態か……だが、まあ貴様が望むなら来てやっても構わん。
「じゃあ、また明日ねー」
「車に轢かれんなよ」
 人間の番が場を後にする。我が輩も長居は無用だ。素早く離れる。

 長い野良生活では色々なことがある。飼い犬から落ちぶれ、野良に放り出された犬に襲
われるなど茶飯事である。悉くを返り討ちにしてきた我が輩だが、此度の件は我が輩にと
っては稀なことである。
「なんだよ、このネコきたねーなー」
「やっちまっても問題ないんじゃねー?」
 人間の小童どもがニ人屯している。そやつらの視線の先に茶色の箱があることから概ね
の状況は察知した。
 くだらぬ。実にくだらぬ。何故人間とは是くも愚かのものなのだろうか。
 相手はどう考えても己らよりも非力なものであろうに。そのような者をいびったところ
で何の誉れにもならぬであろうに。愚かなる者には仕置きが必要だ。
 我が輩自慢の研ぎ澄まされた爪を出す。
「うわっ、なんだコイツ――」
 一閃、小童の一人の手がパクりと切れる。
「いってえ!」
「おい、なんかヤバいぜコイツ!」
「失せろ小童。我が爪が届かぬうちに」
 毛を逆立てて威圧する。小童は猫が喋るのがそんなに珍しいのか、
「喋った!」
「化け猫だ!」
 などと言いながら走り去っていった。百年も生きれば猫も喋る。
 そこに残されたのは箱。中を覗くと、一匹の三毛猫がいた。
「にゃー」

 助けてくれてありがとう、か。このくらいの状況を自分で切り抜けられんでどうする。
「にゃー」
 あのような輩に情けなどいらぬ。痛めつけてやれば良い。人間とは皆ああいった生き物
なのだ。
「にゃー」
 良いヤツもいる、だと?愚かな。そのような愚考を持っているからつけこまれるのだ。
「にゃー」
 優?そんな人間は知らん。貴様と話すのももう飽きた。どこへなりとも行くが良い。
 猫でもああいった者もいる。付き合ってられん。今日は床に入り休むことにした。

 翌日。三毛猫は絶命していた。
 様子を見るに鋭利な刃物で切りつけられたようだ。やり方がなんとも拙い。あの小童ど
もか。次に会えばその命、無きものと思え。
 愚かとはいえ、猫は猫。同士を弔ってやる気持ちはある。充分に出来ぬのが遺憾ではあ
るが――
 ガサッ
 ――誰か来たようだ。物陰に隠れる。
「……そんな、どうして……」
 飯をよこす小娘だ。彼の者と交流があったとは。
 小娘は白い袋を提げており、外見から察するに飯が入っているのだろう。なるほど、三
毛の言っていた「優」とはこやつのことか。
 優は三毛を抱えて目から大粒の水を溢している。……泣いているのか。多種の命が無く
なったところで、貴様らには如何なる影響も無いだろうに。
 ――胸が、イタい。
 いや、気のせいだ。胸に傷は負っていない。外傷も何も無い。無い筈なのだが。
「ごめんね、ごめんね……」
 優はしきりに謝りながら、三毛を連れて行く。埋葬してやるつもりなのだろう。謝るこ
とはない。誰も貴様に期待なぞしてはおらんのだからな。

 どうせ暇だ、ついていくことにする。
 行き着いた先は、行き場を失った人間の子供が集う場所だった。孤児院という。
 優はこの孤児院の庭の片隅に三毛を埋め始めた。ご苦労なことだ。
「ごめんね、ごめんね……」
 謝りながら埋めている。何も悪いことなどしていないというのに。何を悪びれているの
だろうか。理解に苦しむ。
 どのくらい時間が経ったか、日が傾き始めた頃、三毛を埋め終えた彼女はしょぼくれた
顔で帰り始める。昨日の笑顔が嘘のようだ。
 彼女と出会って幾日が過ぎているかは数えていないが、かような顔を見たのは初めてだ。
――ふむ。しばらくこやつの様子を見るのも面白いかも知れん。
「にゃあ」
 我が輩の呼びかけに反応し、優が振り向く。
「ジジー……?」
 ジジではない、と鳴いたところで理解もできぬであろう。我が輩は足に擦り寄って飼い
猫の真似事をする。いつか、人間が泣いているときはこうすれば泣き止むと聞いたことが
ある。
「ジジー!」
 突然、優の大きな身体が我が輩を包んだ……否、力強く抱きしめられた。
「にゃあ、にゃあ」
 苦しい、離せ。無論、鳴いても聞かない。いかん、このままでは殺される。
 必死で這い出た我が輩は一目散に逃げた。まったく、人間とは恐ろしい。油断させて捕
まえるとは。
 逃げながらも恐る恐る後ろを振り返ってみる。
「ジジー」
 追ってきた。なんてヤツだ。我が輩を捕縛して食うつもりか。
 必死で路地裏に逃げ込む。優は追ってこない。助かった。やはり人間は油断ならんもの
どもだ。もう騙されん。

 ぐううぅぅ~~~~
 ……そうだ。朝から何も食べていない。優に会えない以上、別の食事処を探さねばなら
ん。まったく、面倒なことになった。
 しばらく路地裏中を歩き回ったが、ダメだ。どこの飯場も他の連中にやられている。
 もっと他に無いものかと普段は行かない場所まで歩を進めた。
 ――人間の声が聞こえる。いつかの小童どもやも知れん。我が輩に出来る弔いはこれだ
けだ。人間の下に駆け寄ってみた。
 違う。小童ではない。もっと大きい。年の頃は優と相伴っていた男に近い。それが三人
いた。誰かを取り囲んでいる。
「あの、通してくださいー……」
 優だ。こんな所まで来ていたのか。
「いいじゃん、オレ達と遊ぼうよ」
「かわいい顔してるな~、胸無いけど」
 下賤な笑い声が夥しく耳障りだ。匂いもどこかおかしい。こやつらは人間か。
「急いでるんですけどー」
「これ、やらない?一発打ちゃ気持ちよくなるぜ」
 ゲラゲラと笑っている。こやつらを見ていると何故だか無性に癇に障る。何故だ。
「いいです、やりませんからー」
「待てよ!」
 一人が彼女に短刀を突きつける。どうあっても彼女にちょっかいを出したいようだ。
 ……分かっている。今、我が輩がしようとしていることは酷く無駄なことだ。猫である
ならばいざ知らず、多種の身の安全を確保しようというのだ。これほど無駄なことは無い。
 それでも。我が輩の身体は勝手に動く。或いはこやつの馬鹿がうつったのやも知れん。
「貴様ら、我が領分において何をしとるか。これ以上我が輩の怒りを買わんうちに早々に
立ち去るが良い」
 やってしまった。
 人間どもは一度呆けた後に大声で笑い始めた。
「おい!ネコが喋ってるぞ!」
「バカ、ネコが喋るかよ。大分ヤクが回っちまったみたいだ」

 不愉快だ。貴様らの気が狂っていることは認めるが、それを我が輩にまで当て嵌めると
は。その無知さ、蒙昧さ。恥を知れ。
「もはや真っ当に話すことも儘ならんか。良い。最初から期待などしていない。脳無き者
は痛みでしか学習できぬものよ」
 言って研ぎ澄まされた爪を出す。連中が動き出す前に目標の一人目掛けて突進した。
「うおっ!?」
 その身体を一気に駆け上り首を抉る。噴出す鮮血。人間(壱)は昏倒した。
 その様子を見ていた残りの二人がこちらに牙を向く。
「テメェッ!!」
 掛け声は勇ましいが、如何せん相手が悪い。小さな的を相手に大振りで殴ってどうする
つもりなのか。
 もう一人の頭まで駆け上がる。先の人間(弐)がやはり大振りな拳をこちらに目掛けて
振るってきた。その拳は人間(参)の顔を見事に捉え、気絶させた。少しは学習しろ愚か
者。
 さて、残るは一人だ。しかし、人間(弐)は流石に恐ろしくなったのか、悲鳴を上げて
逃げ出した。
 殲滅は完了した。我が輩は優に振り向く――
 ドスッ
「ジジー!」
 脇から鈍い痛みが走る。なんと、人間(壱)は昏倒していなかったか。我が輩の脇腹に
は銀色の短刀が刺さっていた。
「この糞ネコがっ!!」
 そう吐き捨てて立ち去る人間。糞とは失礼な。これでも我が輩は綺麗好きだぞ。

「ジジー!」
 またか。よく泣く子だ。
「にゃあ……」
 百年生きた我が輩ともあろう者が人間の小娘一人救うために命を捨てるとは……あの世
では笑い物だな。
 そんな赤恥をかいてでも助けたんだ。
「泣かないでくれないか……」
「え……?」
「笑っておくれ、泣かせる為に助けたわけではないのだから……」
 優は必死で涙を拭いている。身体が冷たくなってきた。
「待っててね……」
 優は涙が止まらないようだ。感覚が無くなってきた。
「……えへへー……」
 涙を溢れさせながら笑っている。目が霞んできた。
「……ぁ…………とぅ…………」
 意識が遠のいていく。最後の言葉が上手く言えなかった。それだけが悔やまれる。

 ……。

 …………。

 ……………………。



 我が輩は猫である。名前はジジ。
 人間とは本当に面白い生き物だ。



  •  冷たいね、君の手は。
 そっと握りしめて言った。
 寒い寒い、冬の夜に、泣き疲れた君の手を。
 いまのわたしには、それくらいしかできないから、
 だから、その手を握りしめてあげる。

 冷たい君の手が、たまらなく愛おしい。
 ごめんね、わたし、喜んじゃってるね。
 君がこうして泣いていることを、うれしいと思ってしまっているよ。
 わたしの手で君をあたためてあげられることに、どうしても顔が微笑みをかたち作ってしまう。
 不謹慎だね。でも、君のことを笑いたいと思って笑っているんじゃないことは、わかってほしい。

 冷えた手を手であたためて。わたしは思う。
 ああ、わたしは、ずっと君とこうしたかったんだなって。
 もっともっと、やさしくしたいよ、もっともっと君の心の中まで。

 どうしてかな。わたしがやさしいから?
 ううん、それは違うね。
 たまらないほど君が、愛おしすぎるから。

 ずっと君とこうしたかったよ。君の髪に顔をうずめて目を閉じる。
 君をほんとにダイスキだよ。君の耳にそっと囁く。
 ごめんね、慰めの言葉じゃなくて、こんな言葉で。
 でも、何度でも言うよ。何度言っても言いたりないから。


  • ピ・・・ピ・・・ピ・・・
俺は今年で18歳になる元、高校生。
病気で2年ほど入院している。
この故意に薄暗くした病室で一日の大半を終える毎日。

「おはよー、きょうもいいてんきだよー」
「おはなのみず、かえてくるよー」

僕の彼女、優。
高校一年のとき、同じクラスで出会った。
中学は別だったが、小学校では同じクラスで、入学式の時はびっくりした。
すぐに打ち溶けた僕達が、恋人同士になるにはそれほど時間はかからなかった。

「きょうの具合はどうー?」
うん、まあまあいいよ。といつものように俺は言葉をかえす。
彼女は、生まれつき、手がすこし不自由。手のひらがうまく握れない。
そして、すこしだけ言葉に不自由がある。
でも、ベットに張り付いたままの俺の看病を一生懸命してくれる。

「きょうはがっこうで、私がんばっちゃったよー」
「うん、おいしいクッキーつくったんだよー」
「あーん。おいしいー?」

僕の様子を見て、嬉しそうに微笑む彼女。
こんな穏やかな時間がコレから続いたら、どんなに幸せだろう。
だがしかし、 僕の心に反し、体は未来を望んで居ないようだ。

「あっ、はなじでてきたー、ふくよー」

僕の血は、止まらない。白血病とは少し違うが、似たような感じだ。

「はい、とまったよー。」
この頃毎日、僕が頻繁に鼻血を出している事は、彼女は触れない。
いつもごめん、と、言葉をかけようとすると、決まってその柔らかな手で口を塞がれる。

「・・・わかってるよー、大丈夫だよー」
涙目でそういってくれる。

僕の体は、おおよそ18歳の健康な男とは癒えない、やせ細った、冷たい青白い体だ。
殆ど動かすこともできない飾りの様な体を、彼女は一生懸命ふいてくれる。
拭き終わると背中に頬をくっつけ、

「・・・あったかいよ・・・まだ、あったかいよ・・・」
そういってくれる。

今日は、その後の言葉が出てきた。

「あったかくなくなったら・・・どうしたらいいかなぁ・・・?」

僕は、いままで通り、でいて欲しいと伝えた。

そして、

「じゃあ…君がつめたくなったら、私が胸の中で殺してあげるよー」

「君の最期の鼓動を、私が受け止めるよ」

いつも、舌足らずな彼女が、この時だけははっきりとした口調で言った。

僕は小指を差しだした。
彼女は小指を口にくわえた。

「ばか。ころしたら、ちゃんと私のおなかの中に戻って来るんだよー。」
「そうしたらもう一度、君を産んであげるよー。大事に大事に守ってあげるよ。」


僕は、その場で泣き崩れた。

fin

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最終更新:2006年09月01日 00:29