• ─ 1945 九州・鹿屋基地 ─
「じゃあな、優」
立ちすくむ優へ微笑みを投げ、男が愛機へと歩き出す。
出撃命令が降り、慌しく滑走路脇に集合してからの、五分足らずの決別だった。
整備兵たちの敬礼に送られながら搭乗員が遠ざかっていく。
彼らは出撃後、基地には帰らない。片道分の燃料と爆弾を抱えて空へ
そして靖国へと旅立つことが既に決まっている。特攻なのだ。
「男くんー!」沈んだ顔で男の背中を見送る優。
駆け出したい誘惑に駆られる。走って、彼に追い付き
泣きすがって引き止めたい。それが心からの本音だった。
「男くん・・・」足が動かない。感情と強い抑制が優を絞めつける。
双眸に涙が満ち、男の背中を歪ませながら溢れて
赤く染まっていく頬を伝う。それでも足は動かなかった。
彼への想い、軍人としての理性、抗命への恐怖。なによりも愛しい者を失う恐怖。
不甲斐ない自分と今を憎む。いったい、どうすればいい…

「優少尉、そこは作業の邪魔です。どうか向こうへ」
不意に肩を叩いた整備班長が指さす先は
より男の機体に近い整備兵の待機場所だった。
本人達は隠しているつもりでも、誰もが彼らの仲を知っていたのだ。
感謝の頷きとともに、振るえる膝を殴り付けると優は走った。
最後の瞬間まで、少しでも男の傍に居たかった。
「男くーん!!」今度は声を出して叫ぶ。力の限り。
始動したエンジンの爆音でかき消されるのはわかっている。それでも。
想いが通じたのだろうか、男が優の方へ視線を向けた。
微笑みを含んだ敬礼。そして風防ガラス越しに口を動かす。
(優、おまえは生きろ)。機体はゆっくりと進んでいき
プロペラの起こした風の中に、優は取り残された。

男少尉
戦死後、二階級特進・大尉
停戦命令により、出撃を免れた優少尉の手記には恋人同士であったことが記されている


書いている途中であんまりやさしい関係ないなと思ったが折角書いたのでうpするw

  •  雨ウゼェな。下校時、玄関先で途方に暮れていた。
「あれー? 池君どうしたの、帰らないの?」
「ああ優さん、傘忘れちゃってさ」
「ふーん、池君でも忘れものすることあるんだね」
「あはは、今度お礼するから、よかったら優さんの傘に―――」
「ごめん、わたしまだ学校に用事あるんだ。
 無理に雨の中に出ようとしないで少しここで雨宿りしてたほうがいいよ。じゃあね池君」
「ちょwww優さんwwwそりゃねーよwうぇwうぇっw」

 ……あー行っちゃった。優さん俺のこと嫌いなのかな……なんか最近やさしくしてくれなくなった希ガス。
 まあ、これからなんとかしてくしかないか。さしあたっては優さんよりこの雨だ。
「入ってく?」
「おお、友子」
 俺の背後から声をかけてきたのは、中学から付き合いの長い友人。
「私の傘は優の折りたたみと違って広いよ」
「なんで優さんが出てくるんだよ」
「あなたが傘を忘れて途方に暮れてるから一緒に帰ってあげてって」
 そうか、優さんが校舎へ引き返したのはこのためだったのか。
 見捨てられたわけじゃなかったんだな。
 ……でもなんでこいつに頼んだんだろう? 一緒に帰れ、なんて。

 どしゃ降りの道中、足音がぱちゃぱちゃ、一定のリズムを刻む。
「あ、相合い傘だからって俺に変な気起こすなよ」
「ハァ? それ私の台詞なんだけど」
「お前俺に気があるだろ。まあ俺は異性にモテるオーラがあるからな」
「ええ、あなたはかっこいいと思うよ、イケメンに産んでくれた両親に感謝して、毎日拝み敬い奉ることね」
「……素で返されても困る」
「本音だよ? でもモテる割には優に相手にされてないよね」
「ぐ」
「それにさっきから肩張ってるじゃない、私といるから緊張してるんでしょ」
「べ、別にお前なんかどうでもいいっつーの、ただこんなところ優さんにみられたらなんて思われるか」
「この相合い傘はその優が作ったようなものでしょうに。だいたい、今日はもう優がこの道通ることはないよ。
 校門のあたりで私たちの先行ってたでしょう。」
「え、嘘!? 気づかなかった」
「狭い折りたたみで相合い傘してたからね、ふたりでぴったりくっついてて、お似合いのカップルだったよ」
「ああ、そういえば居た、あんなイチャイチャしてて恥ずかしくねーのかってくらいのやつら……ってあれ優さんだったのかよ!?」
「そうよ、ヘコむ? 優を別の男にとられて」
「……別に、これっぽちでへこたれるほど弱くねーし。優さんの相手がアレなら取り返そうと思えば簡単に取り返せるっつーの」
「ふーん」
 含むような相づちをうって、友子が足を止める。
「ついたよ、池の家」
「あ、もうここまで歩いたのか」
 いつの間にか話に夢中で気づかなかった。
「ありがとう、助かった」
 気がつけば、雨の音の強さが増している。
「いいよ、どうせ通り道だし。それに」
「ん?」
「あなたと相合い傘が出来て嬉しかったし」
「え?」
「実はさ」
「あなたが好きだ、って言おうとして、一緒に帰らないかって声をかけたの」
「へ?」

 ちゅっ

 唇がくっついて離れる。お互いの鼻息がかかりそうな距離で。
「私は、あなたが好き」
 そう囁いた。
「返事は要らない。でも明日から態度を変えるようなことはしないでくれるとうれしい」
 立ち去る背中。

 雨の音が、いやにうるさかった。


 次の日、友子のことを考えてばっかりだった。ろくに目を合わすことも出来ず、会話もないまま、気まずく過ごす。
 態度を変えるな、なんて、どだい無理な要求だった。
「池君、今日は元気ないね」
 そんなだったから、優さんの声と笑顔はいつにも増して俺のオアシスだった。
「んー、ちょっとね。でも別に具合が悪いとかじゃないから大丈夫」
「そう?」
 首をかしげる。だったらいいんだけれど、と気遣ってくれる。ああ、優さん可愛いよ優さん。
「優さんさあ」
「うん?」
 ふと、尋ねた。
「アイツとつきあってんの?」
「ううん」
 即答で、否定がかえってきた。
「あれ?」
「まだつきあってることにはなってないんだよー」
 それは、いずれ、つきあうことが確定しているということだろうか。
「うふふー」
「気になるの? わたしのこと」
「んー……、そりゃあ、まあ」
「ふーん……」
 俺の気のない、曖昧な返事にちょっと考える仕草をしてから、優さんは言った。
「放課後、時間あるかな」
「へ?」
「体育館裏で、ふたりで話がしたいの」
「は?」
「待ってるからー」
 チャイムが鳴る。自分の席に戻る優さんを、ぼーっと見ていた。
 体育館裏、ふたりきりの話。優さんは、アイツとつきあってるわけでもない。
 つまりは。
「告白」
 なわけねーよな。

「……ずっと、池君のことが好きでした」
 ほんとに告白だよ、おい。
「俺?」
「うん」
 嘘だろ?
「わたしと、つきあってください」
 やった。
 優さんが、
 俺のこと好きだって。
 いや。
 でも。
 その。
 あれ、
 なんでだろ。

「え、と」

 あまり、嬉しくない。

「ごめん」

「どうして、断るのー?」
 まるで断られることがわかっていたかのような、いたずらっぽい表情で尋ねてくる。
「わたしのこと好きだったんじゃないのー?」
 そう言われると、言葉に詰まる。
 つーか、優さんに俺の気持ちを見透かされていたことが、かなり恥ずかしいのだが。
「昨日さ、友子に好きだって言われたんだ」
「うん」
「で、さ」
「うん」

「優さんより、友子に告白されたときの方が、衝撃的だった」

 そう言ったら、優さんは。
「やっと気づけたんだねー、自分の本当の気持ちに」
 そう、やさしく微笑んだ。
「本当の、気持ちって」

「だって池君、友子のこと好きなんだよねー?」

 優さんは、ずるい。
 俺の気持ちを、俺以上に見透かしていた。

優さんが他の男と相合い傘をしていても、あまり悔しいと思わなかったり、
 優さんに好きだと告白されても、あまり嬉しいと思わなかったのは。つまりは。
「俺は、お前のことが好きらしい」
「好きらしい、って何よ」
「細かいことは気にするな、とにかく、俺とつきあってくれ。両思い、問題なし」
「まあ、いいけど……何があって私とつきあうつもりになったのかくらいは説明してよ」
「んー……、まあ、優さん絡みってだけ言っておく」
「そう、優のおかげなの。明日お礼言っておかなきゃね」
 つきあってくれ、って言った直後に、他の女の話題を出すのもどうかと思ったが。
「あのさ、友達のお前の目から見て優さんってどういう人なんだ?」
「優は普通の娘よ、そうとしか言えないな」
「普通より、やさしいよな」
「そうかもしれないけど、でも、普通の範疇を越えてるほどやさしいとも思わないのよね、少なくとも私は」
「そんなもんか?」
「そんなもんよ。
 嬉しいときやおかしいときには、私と一緒に声をあげて笑ったり、
 なにか不愉快なときには、私と一緒に頬をふくらませてそのことに文句言ったり、
 他の女の子の恋愛沙汰には興味津々だったり、
 そう言うあの娘の普通の一面を知ってるから、私はあの娘を特別に思えないのかもね―――」

 そんなわけで。
「よかったねー池君。念願が叶ったんだー」
「念願?」
「ずーっと前から好きだった友子と、恋人同士になれたんだから」
 いや、それはちょっと違うぞ優さん。
「なにそれ、ちょっと詳しく話を聞く必要がありそう」
 友子が俺の頭にアイアンクローをぎっちりと。
「ちょw待て、誤解だ」
「ずーっと前からって何よ、私のこと好きだったくせに他の女に目移りしたり私につれない態度をとってたってこと!?」
「ギ、ギブっ、ギブアップッ、頭、ミシミシってwww

「なあ優、俺も池はお前のこと好きだったと思うんだが、なんで友子さん?」
「だって池君、いつもボーっと友子の方見てたからー」

 ああ、そうか、優さんがやさしさの秘密は、
 ほんのささいなことからでも、他人のことをわかってあげられるひとだからこそのものなのかもしれない。

 割れそうな頭の痛みとともに、俺はそんなことを思っていた。

  • 優「男君かっこよかったよー」

校内の球技大会で、俺はバスケに参加していた
昔ちょっとかじっていたのと、人数が足りなかったのとでお呼びがかかったのだ

優「優勝だよー。すごいよー」

確かに優勝はしたが、実際俺はあまり活躍しなかった。他の奴が上手かったのだ
俺のした事と言えば、相手を止めたり、少しの点を取ったりしただけで、あまり目立たなかったのだが

男「いや、俺は何もして無いよ。池とかが頑張ったお陰だ」

参加が決まってからお荷物にだけはなるまいと、鈍った体を締める為に毎晩走ったりはしたが、それだけだった

男「俺は特に何もしてない」

俺は真実そう思っていた

優「そうかなー?」

優は足を止めた。俺も立ち止まる。足がミシミシと音を立てた気がした

優「試合の後、皆君を褒めてたよー。特に池君なんて。『あいつが居なきゃやられてたってとこが何度もあった』とか言っちゃってさー」

俺は正直驚いた

優「私だって分かるとこあったよー。池君がボール取られて、君と敵が一対一になったとこがあったよねー」
男「でもボールは取れなかったよ」
優「君が敵を止めたから、池君達が守備に戻れたでしょー?」

俺は急に恥ずかしくなった。顔が紅潮するのが分かる
他人に褒められた事なんて、今まで一度もなかったからだ

男「あんなの、誰だってできるよ。別に俺じゃなくてもさ」

話は終わりと足を進めようとしたが、優は動かなかった

優「…君さ。毎晩走ってたんだよね」
男「え?…うん。体、鈍ってたから…何で知ってるの?」
優「お姉ちゃんが言ってた。散歩してたら見掛けたんだって」
男「あんな時間に散歩って危ねえな。物騒なのに」

話を逸らしてみた
恥ずかしくてどうにかなりそうだった
だが優は俺を見たまま動かない。西日が優の顔を照らしていた

優「たかだか校内の球技大会の為に、そうやって影で努力する人なんて、そう居ないよー?」
男「…そうかな」
優「君は皆の足をひっぱりたくなかったんだよねー。だから頑張ったんだよねー」

優「私には、君が誰よりかっこよかったよ」

そう言って優はやっと顔を逸らし、歩き始めた
俺は少し呆然としていたが、無言で優の後を追った
足がミシミシと音を立てた気がした

  • いつもの風景だった。
そのはずだった。
優「消しゴム落としたよー」
俺「ぉ、サンキュ………優…??」
優は俯いたまま掴んだ消しゴムを離そうとしなかった。
俺「…おい優……??」
優「私ねー……」
声が、震えていた。
優「お父さんの仕事の関係で…転校するんだー……」
………………………
俺「………は…??」
優「もうすぐねー…」
俺「…は、ははっ……つまんねぇ冗談よせよ。」
優「そ、そうだねー…面白くなかったかなー??」
俺「笑えねえっつの!!さ、早く帰ろうぜ~」
優「ぅ、うんー」
でも、帰った後もあの時の優の顔は、俺の頭から離すれらなかった。

「起きてーっ」
俺「………ん…」
「起きてよー」
俺「……ん……んん…??」
「遅刻しちゃうよー??」
俺「…優……??」
「私、行っちゃうよー??」
俺「ま、待ってくれよっ!」ガバッ
…………………………
妹「あ…やっと起きたぁ~…」
俺「…………あれ…優は……??」
妹「優さん??今日はまだ来てないなぁ…」
俺「そ……そうか…」
妹「もう8時45分だよ…??」
俺「はぁっ?!」
完璧な遅刻。朝ご飯も食べずに家を飛び出した。
俺(………優が家に起こしに来てくれないの…始めてだよな…??)
そんな事を考えながら学校へ走っていった。

俺「はぁ…はぁ……」
友「ギリだったなw」
俺「あぁ………ったく……優は…??」
友「ん??あ、あいつはまだ来てねぇよ……」
俺「…??そうか珍しいな…風邪かな……」
友「…………………」
俺「ん??どうした、急に黙って……」
友「いや……」
俺「今日見に行ってやるか………」
友「Σあ、それは止めたほうがいいと思うぞ!!」
俺「…??なんで…??」
友「え……いや、そりゃ……Σほら、授業はじまるぞ!!前向けって!」
俺「あ…あぁ……」

放課後。
ああ言われても心配だった俺は、見舞いにでも行ってやろうと思った。
花を持って行って、驚かせてやろうと思った。
ピンポーン
俺(……いないのか…?んなはずないだろ…)
ピンポーンピンポーン
俺(………??)
「あら…君は……」
俺「あ、隣のおばさん……」
「何をしてるの??」
俺「優のお見舞いですよっ」
「……優ちゃん、引っ越したのよ…知らないの??」
俺「………は??」
「私も引っ越し先は知らないけど…昨日の夜遅くに…」
俺「…っ!!」
俺は優の家に駆け込んだ。

昼飯を一緒に食べたリビングにも。
優がいつも転げ落ちそうになってた急な階段にも。
宿題を手伝ってやった時に入った優の部屋にも。
なにもなかった。
俺「…………嘘だろ…なんで………っ?!」
優はあの時、言ってた。
(お父さんの仕事の関係で転校するんだー…)
それで、俺は何て言った…??
(ははっ…つまんねぇ冗談よせよ。)
俺「ぁ……うぁ……」
俺はそこで、
俺「うあ…あぁぁ……」
優の部屋があったその場所で、
俺「うああああぁぁぁぁぁっ!!」
泣き崩れた。
涙が、優のために買った花の上に滴り落ちた。
俺「くそっ………」
妹(優さんが黙ってて言ったの…)
俺「くそっ………」
母(優ちゃんがあんたには黙っててってお願いしてきたのよ…)
俺「くそぉっ!!」
友(あ、あいつに黙っててって言われて…)
俺「何も知らなかったのは……俺だけだったのかよ…」
知っていた。その事実を。
俺「なんで…引き止めなかったんだよ……」
知らなかった。その事実が本当だということを。
俺「なんで……行っちまったんだよ…」
知っている。親の関係だということを。
俺「もしあの時…優を信じて引き止めたら…今お前はここにいてくれたのか…??」
知っているはずだ。それは否。こんな俺の言葉なんて聞いてくれない。
俺「でも…俺は………もっと一緒にいたかった…」



次の日も、その次の日も。学校は楽しくなかった。
理由は知ってる。
優がいない。
ただそれだけで、俺の楽しかった日々は何もないつまらない日々に変わっていった。

それから1週間たったある日の朝。
妹「お兄ちゃん、朝だよ…」
いつもなら優が起こしに来てたが、今は妹になっている。
俺「………………」
妹「あの…お兄ちゃん…??」
俺「………………」
妹「ずっと言いにくかったんだけど…優さんが、コレ…」
俺「…っ?!」
妹の手には、優に最後に会った時に返してもらい忘れた消しゴムだった。
妹「あのね…優さんが行っちゃったの……ホントは夜じゃなくて…朝なんだよ…」
俺「…うそ………だろ…??」
妹「お兄ちゃんが起きる2時間くらい前に…優さん、来たんだよ…お兄ちゃんの部屋に……」
俺は覚えている。
あの日、夢で優の声が聞こえたのを。
俺に、話しかけてたのを。
俺「夢……じゃなかった…??」
妹はいつのまにかいなくなっていた。
俺「くそっ!!」
俺は走りだした。
着替えもしないで。靴もはかないで。
優の家の前に。
遅かったのは知っている。
けど、行け。と俺の中の何かが言ってる気がした。
手には消しゴムが握られている。

俺「はぁ…はぁ……」
優の家の前には、何もなかった。
俺「…当たり前か……」
なぜか、まだ引っ越しのトラックの前に優が立って、俺を待ってる気がしてた。
俺「…ごめんな……俺…お前がいないと起きれないからさ…朝早くに行かれちゃどうしよいもないんだよ……」
俺「俺に気使ってさ、母さんや妹や友にあんなこと言って……朝も部屋まで来たのに起こさないでさ……」
俺「そおゆうの…優しすぎてウゼぇんだよ………」
俺「でも…そんな所も含めて………好きだからな……」
また、俺は泣いてしまった。
俺「ちくしょう……涙が止まらねぇじゃんか…バカやろう……」
………………
俺「うん…もう泣かねえ………お前の事も…………忘れるよ…」
俺は握っていた消しゴムを遠くへ、できるだけ遠くへ投げた。
俺「……じゃあな…」
優の家に背を向け、家に向かって静かに歩き出した。
俺「もう、振り向かないからな……」

俺「母さん、行ってくる!!」
優の家の前からまだ30分もたってない。
けどもう決意はした。今日からは新しい日々が始まる。優はいないけど、それも受け入れた新しい日々が。


俺「ただいまーっと……あら??誰もいないのか……」
そうか…そういや今日は皆出かけてるんだっけな…
俺「…マンガでも読むかな……」


「起きてーっ」
俺「……………」
「起きてよー」
俺「…………」
「遅刻しちゃうよー??」
俺「…ん………」
「私、行っちゃうよー??」
俺「………っ?!」

俺「優っ?!」
………………………
俺「…夢、か…??………はぁ…また…同じ夢を見ちまった……割り切れてないのか…??俺は………っ?!」
ふと、あたりを見回した時に、目に入った。
机の上に、今朝俺が投げたはずの、消しゴムが。
俺「優っ!!」
俺はまた走っていた。優の家に。今度は、ちゃんと間に合うように。

辺りはもう暗かった。
でも、いると信じてた。優がそこに、優の家の前にいると。
俺「信じてたから…」
「なにをー??」
俺「…なんでもない……久しぶり、優…」
優「うん、久しぶりーっ」
俺「あのS」
優「消しゴムは、投げちゃダメなんだよー??」
やっぱり、優は変わらない優だった。
優「今度は、間に合ったね…」
俺「あぁ……ごめんな…」
優「大丈夫…だって君はちゃんと間に合ったよ…??」
俺「じゃあ…言っていいかな…??」
優「うん…なに…??」
俺「もう、どこにも行かないでくれよ……」
優「…うん……」
俺「俺…お前がいないとダメなんだ…朝は起きれないし…消しゴムもやっぱり落としちゃうし………」
優「…うん……」
俺「だから…一生俺の傍に…一緒にいてくれ……」
優「…………うん……」
俺「ありがとう……」
優「男君…」
俺「…なに…??」
優「涙も…こぼしちゃダメだよ……??」
俺の頬を流れていた涙は、優の出したハンカチに拭き取られた。
一粒もこぼれ落ちることなく。


  • 夕方、道を歩いてると、子供の泣き声が聞こえた。
「?」
 声の方向に首を巡らす。
 『あすなろ学園』と書かれた門の先、建物の前の敷地につくられた園庭で、男の子が片膝を上げてうずくまって泣いている。
「保育園――じゃなくて孤児院か?」
 夕陽の強さに手をかざして、他に誰も居ないのか、と首を巡らす。探すまでもなく、男の子からいくらか離れた先に人影がもうひとつ。
 高校生くらいの女の影。
 優だった。強い夕陽の光を避けようともせず、玄関の前に立ったまま、男の子を見つめている。
「あいつ、なにやってんだ?」
 いたい、と男の子は叫んだ。どうやら転んで膝をすりむいたらしい。ここからでも、傷口の血の色がはっきり見える。
 運悪く尖った石ころでもあったのだろう。血がすねまでつたい落ちている。けっこう派手にやったな、と思った。
 そんな怪我なのに、優は介抱にいこうとしない。
「ゆうー、救急箱持ってきたー」
 そこまで考えたとき、玄関のドアが開く。女の子。男の子よりほんのちょっと年上といったくらい。
 優へ救急箱を渡す。そうか、救急箱が到着するのを待ってたのか? いや、でも普通は近寄って慰めたりするよな……?
「うん、ありがとうー」
 そうして、そのまま男の子のところへ―――
「おいおい」
 ―――いつまで経っても、駆け寄ろうとはしなかった。 

「ゆう……?」
 女の子の疑問の声。
「ここで待ってること」
「えー、でもー……」
「いいから、そこから動いちゃだめ!」
 強い調子の声、そんな声に反論することが出来ず、女の子は首をすくめながらその場に留まる。

 そして、誰も動かない。男の子の痛々しい泣き声だけが、園庭に響く。
「いつまで泣いてるの! もう遊ぶ時間はとっくに終わってるの、早く園に戻りなさい!」
 ちょwwwねーよwww
 優の厳しい声を聞いたのは初めてだった。俺の知ってる優からは考えられない言動。 
 目の前の彼女は、自分の中の優の像とはあまりにもかけ離れている。
 優がいじめなんてするはずがない。じゃあ、何でこんなことを?
 ぽかん、と呆けたまま彼女を見つめているしかなかった。

 優の叱咤が続く。本当に厳しい声。
 真剣に、厳しい声。
 やがて、男の子が、立ち上がる。地面を踏みしめて、ゆっくり、ゆっくり、傷ついた足で。
 知らず、息を呑んでその男の子に見入っていた。心の中で、がんばれ、と繰り返していた。
 そうして、一歩、足を踏みだす。園へ、優のところへ、歩いていく。
 自分を叱る、優のところへ歩いていく。

 いつしか、叱咤の声も、泣き声も聞こえなくなっていた。
「あ……」
 優へ目を移す。
 そこには、歯を食いしばって、歩いてくる男の子を、唇を噛んで、待ち続ける優が居た。
 まるで、助けにいきたいのを、必死でこらえているように。
「がんばれ」
 優の意図を、女の子も察知したらしい。
 男の子へ向かって声をかける。俺も一緒に、心の中で、叫んでいた。

がんばれ。
 もう少し。
 がんばれ。
 ほら、顔を上げて。
 がんばれ。
 前を向けばすぐそばに。
 あと10歩くらい。
 お姉ちゃん達が待ってる。
 がんばれ。
 あと3歩。
 がんばれ。
 優が男の子の目線までかがみ込む。
 あと2歩。
 がんばれ。
 男の子へ向かって腕を広げて。
 そうして、最後の、1歩。
 よしっ、と思わず手を握りしめて、俺は小さくガッツポーズしていた。

 優は男の子を抱きしめる。
 俺の中の優の像と一致する、いつもの笑顔で。

 優の胸で男の子がひとしきり泣きじゃくったあと、女の子が怪我の手当をする。
 優に手当の仕方を教えてもらいながら、つたない手つきで、でも真剣に、一生懸命に。
 手当を終えて、優に頭を撫でられた女の子は、嬉しそうに微笑んでいた。

 園に入っていく3人を見送る。夕陽に照らされている園庭が、まるで光に包まれているかのように綺麗に見えた。
 つまり心あたたまる良い光景を見せてもらった俺は、それくらいに清々しい気持ちになっているのだが。
「うはwwwなんか気まずいwww」
 結局最後まで覗き見してしまったのはなんだかなあ、と思ったりするのである。
 悪いことをしたわけではないけど、それでもあれは優だけのプライベートであって、やっぱりいくらか後ろめたいのだ。

 まあ、これはもうどうにもならん。
 せめて、いいもの見せてもらったお礼に、ジュースかなんかをおごるとかしてあげよう。
 恩着せがましくならないように、さりげなく、なんとか些細なことで、優にいいことしよう。
 他人から物を簡単に受け取る性格ではないだろうけれど、ああして、甘さとやさしさを他人を想って使い分けることができるあいつなら。

 俺の日頃の感謝を、きっと受け取ってくれるだろう。


  •  子猫の貰い手を共に捜し、お互い初めてのキスを交わして、数日後。
 優が風邪をこじらせた。
「……見舞い、行くべきだよなぁ……」
 あれから、男と優は気まずくて、上手く話せていない。会話と言えば、挨拶ぐらい。今でも一緒に帰っているが、二人とも下を向き顔を赤らめて何も話せていない。
「気まずいなぁ……」
 悶々としながら、優の家へ足を進める。
 途中、二人で猫の貰い手を捜した商店街を通った。
 ―――優、温かかったな……。
 優の温もりを思い出し、それに連鎖して初めてのキスを思い出し、男の顔が赤く染まる。
 いかんっ、平常心平常心。俺はこれから見舞いに行くだけだ。別にやましい思いなんて、ちょっとはあるけど……じゃなくて!
 悶々としていると、既に男は優の家の前まで来ていた。深呼吸をして、チャイムを押す。

 ぴんぽーん

 このチャイムを押してから人が出るまでが一番緊張するな……ああ、誰でも良いから早く出てくれ……。

「は、はーい……」
 弱々しい声で出てきたのは、パジャマ姿の優だった。
 ……誰でも良くなかった。、前言撤回。
「優!? 風邪ひいてるのに大丈夫なのか?」
「だ、いじょ……けほっ……」
 どう見ても、大丈夫な様には見えなかった。顔は赤いし、額には冷えピタ。足取りもおぼつかない。
「ったく、大丈夫じゃないだろ……」
「へへー……」
 いつもと同じように優は笑おうとしているが、その笑みもやはり弱々しかった。
「ほら、見舞いに来てやったぞ」
「ありがとー……入ってー」
「ん、お邪魔する」
 優に招かれ、男は家の中に入る。
「部屋何処だ?」
「こっち……あっ?」
 突然、優の体が前に傾いた。
「―――!?」
 慌てて優の体を男は支える。
「大丈夫か!?」
「あんまり、大丈夫じゃないかもー……」
「じゃ……ほらっ」
「ひゃっ……」

 男は両手で優の体を抱えた。いわゆる『お姫様抱っこ』の状態である。
「こんなの、初めて、されたよー……」
「俺も初めてやった」
 さっきより優の顔が赤いように思えるのは男の勘違いではないだろう。
 ――優、軽いな……
「ほら、部屋何処だ?」
「あ、そこ……」
 弱々しく、右前方のドアを指差す。
「了解……ごめん、ドア開けてくれるか?」
「いいよー」
 部屋の中に入り、敷かれていた布団の上に優をそっと下ろす。
「よ……っと」
「ごめんねー、迷惑かけちゃった……けほっ」
「いつも優しくしてもらってるからな、お返し。気にするな」
「……ありがとー」
「今日は見舞いに来たんだからな、なんかあったら言ってくれよ」
 申し訳なさそうにしながら、優は頷いた。
「あ、でもごめん、ね……眠くなって来ちゃった……」
「おう、寝とけ。病人は寝るのが一番だ」
「うん、じゃ、おやすみ……」
 ゆっくりと優は瞼を閉じた。すぐに優の寝息が聞こえ始める。
「今ので、体力使わせたか……ごめん、ゆっくり寝とけよ」

 優が寝息を立て始めて三十分後。
「ああ、寝顔可愛いな……ん?」
 優がもぞもぞと動き出した。体を丸めて、心なしか震えている。
「……寒いのか?」
 少し優のパジャマを触る。
 ――凄い汗だ……これは着替えさせないとまずい、か……。
「でも着替えなんて……」
 部屋の中を少し見渡すと、優の寝ている布団の横に、着替えが置いてあるのに気がついた。
「……そりゃ着替えぐらい置いとくよな……」
 しかし、自分は男で、優は女である。
「……これ以上風邪が悪化するよりマシか……すまん、優。脱がすぞ……」
 覚悟を決め、出来る限り見ないようにパジャマのボタンを外していく。そして、上半身は下着だけの状態になる。
 見ないように、と思いつつも見てしまうのは男の性。
「……下も脱がさなきゃ駄目なのか……」
 そう言い、ためらいつつもズボンを脱がす。これで完全に、優は下着だけの姿になった。
「……綺麗だな……」
 肌の色は白い。全体的に細く、かなり華奢な体型をしている。

 そして男は見とれると同時に、今日までの優を思い出した。
「こんな体で、いろいろ無茶してるんだな……」
 もしかしたら、今回の風邪は、蓄積された疲労によるものなのかもしれない。それの決定的な引き金は―――
「……もうちょっと早く行ってたら、風邪ひかさずに済んだかもしれないな……ごめん」
 男は、優の頭をそっと撫でた。
「……んっ」
「!?」
「……すぅー」
「……寝言か……あ」
 優の寝言で冷静さを取り戻した男は、今の優の姿を思い出した。
「服脱がしたままだった……すぐ着せるからな」
 また、出来る限り見ないように、服を着せる。
「今更か……? いや、でもやっぱり悪いよな……」
 完全に服を着せると、またやることが無くなったすることが無くなると、当然思考に走ってしまい、しばらく先程の優の体が何度も頭に思い浮かぶ。
「……何頭抱えてるのかなー?」
 結局、優が起きるまでずっと男は悶々としていた。

「おおぅ!? ……起きたか」
「うん、ちょっと楽になったよー」
 確かに、さっきよりも楽そうだ。
「一応熱測っといてくれるか?」
 男は、優に体温計を差し出した。
「うん……あれ?」
 そして、体温を測ろうと脇に体温計を挟もうとした所で、優は異変に気付く。
「パジャマが変わってるよー?」
「え、あ、はははは……」
「男くん着替えさせてくれたのー?」
 ただ、優は男に聞いてくる。優の口調から感情は読み取れない。
「えーあー、うん」
 まずい、これは覚悟しといた方がいいか……流石の優でもこれは……
「そう、ありがとー」
 ―――は?
「……は?」
 あまりに驚いて、口に出てしまった。

「だって私の為に変えてくれたんでしょ?」
「いや、まあそうだけど……」
 あまりにあっさりと流す優。
「いや、でも良いのか?」
「何が?」
「流石に下着は外してないけど……俺に裸を見られたんだぞ?」
「だーかーらーさー、私のためでしょー? やっぱり恥ずかしいけど……なら良いんだよー」
 優はさっきと同じ台詞を繰り返す。
「それに、ねー」
「ん?」
「男くんになら、良い、かなって」
 顔を少し赤く染め、そっぽを向きながら、本当に小さな声で。
「え、あ……それって―――」
「この前、わたしの、はじめて、あげたよ、ねー? ……本当は、あの時、言おうと、思ったんだー」
「でもね、あんまり、恥ずかしくて、すぐ、家にね、逃げちゃった」

「でも、今日は、ちゃんと、言うよ」
「……」

「わたしは―――」

 男は黙って、優の、次の言葉を待つ。



「わたしは、ずっと、男くんが好きでした」


「わたしと、付き合ってくれますか?」



 その言葉は淀みなく、男には、はっきりと聞こえた。
「は、あー……やっと、言えたよー……」
「……」
 緊張の糸が切れたのか、優の目には、涙が浮かんでいる。
「ずっと、ずぅっと言いたかったんだー、好きだって……でも、臆病だから、いつも逃げてて……」
「優……」
「おかしいね? 優しくする勇気はあるのに……でも、恋愛とかは、全然駄目なんだー……」

「うん、もう振られても悔いはないよー」
 今にも零れ落ちそうな涙を、パジャマの袖でぐしぐしと拭う。
「返事、聞かせてもらえるかなー?」
 ―――返事? そんなの、もう決まっている。


「―――喜んで」


「え……本当?」
「ああ、本当だ」
「嘘じゃないよね?」
「本当だって」
「信じても、良いんだね?」
「ああ、お前が好きだ」

「ひっ、ぐっ……よかった、よー……」
 袖で拭った涙が、また出てくる。
「あ、れ、止まらない、よー……」
 拭っても、拭っても。ぽろぽろと、大粒の涙が流れる。
「ほら、泣くな、笑え。せっかく両思いだってわかったのに」
「そんなこと、言われたって、出て来るんだよー!」
「そうか、じゃあ思う存分泣いて、落ち着いたら話そうか」
「う、んっ……」


 しばらく後。
「落ち着いたか?」
「うん、大分落ち着いたよー」
「……で、本当に俺で良いのか?」
 もう一度、確かめる。ただ、返ってくる言葉は男には分かっている。あくまで、確認。
「いいよー。って言うかねー」
「ん?」
「もう君じゃないと考えられない」
 顔に血が上っていくのが分かる。まずい、こいつもう動じてない……!
「本当に君が好きなんだー」
「……」
 あー、なんか言いたいけど、何言ったら良いかわかんねー。
「どうしたのー? 固まっちゃって……」
 でも、コレは言わなきゃいけないよなー。
「優」
「何ー?」
「俺も、本当にお前が好きだ」 

 男がそう言うと、優は動けない男に抱きついた。
「あーもう愛しいなー」
 そう言って、唇を重ねる。
「~~~~!?」
「さっきあれだけ泣いたから、もう私は恥ずかしがらないし、逃げないよー」
 完全に男は固まってしまった。
「でも、やっぱりまだキスは恥ずかしいなー……へへー」
 優は、男から体を離す。
「ずっと、一緒にいようねー。……聞いてる?」
 優の言葉で、ようやく男は動き出した。
「……ああ、聞いてる。動けなかっただけだ……ずっと一緒に、だろ?」
「へへー、うん。良いかな?」
「ああ、当たり前だ」
 それを聞くと、優はまた布団に横になった。
「あ、大丈夫か?」
「大丈夫だよー、ちょっと疲れただけだから……またちょっと眠るね」
「ああ……うわ、そろそろ帰んなきゃやばいな……」
 時計を見ると、既に午後七時になっていた。
「じゃ、俺帰るわ」
「あ、ちょっと待って!」
 慌てて、優が男を呼び止める。
「ん、どうした?」

「……わたしが眠るまで、手を握ってて欲しいなー……なんて」
 男の動きが止まる。
「駄目、かなー……?」
「駄目じゃない、ほら」
 男の手が、優の手を握る。
「へへー……おやすみ」
「ああ、おやすみ」


 男くんに手を握って貰って眠った後、わたしは久しぶりに夢を見た。
 この世界の全ての生き物が笑って、手を取り合い、一緒に生きている夢。
 そして、私の横にはみんなと同じように笑っている、わたしの―――恋人。

 いつか世界が、この夢のようになりますように―――。


  •  放課後、ふたりで道を歩いていた。
「あ……」
 ふと、優が何かを見とめて、立ち止まる。
 目線の先を追うと、ひとり、横断歩道で信号待ちをしている、杖をついた老人がみえた。
「どうかしたのか? あのひと」
「ううん……、なんでもない、けど……、ちょっと行ってくる、待ってて」
「お、おい」
 優の後を追いながら尋ねる。
「なんだよ、知り合いか?」
「そうじゃないけど、ちょっと気になって」
「気になって、って何がだよ。そりゃかなり歳いってる爺さんだけど、特に具合悪そうなわけでもないだろう」
 曖昧な物言いが、逆に気になってしかたがない。
「そんな深刻そうな言い方しないでよー、本当にたいしたことじゃないから」
 単なる敬老精神だっていうのなら、それでいいんだが。
「あっ」
 優が声を上げて立ち止まる。
 小学生くらいの女の子が、老人に近づいて、なにやら声をかけていた。
「孫かな?」
 孫にしては、老人を前にして、ずいぶん緊張しているようだが。
「……」
 俺の疑問の声に、優は相づちをうたず、ただ、その女の子と老人を見つめていた。
 信号が青に変わる。老人も女の子も、横断歩道を渡っていく。
 優は、未だ立ち止まったまま。
「いいのか? 追いかけなくて」
 なにか、あの老人に用があったのではないのか。
「ううん、もういいんだ」
「もういい?」
「うん、みて」
 指さす先。そこには。

 足の悪いお爺さんを、女の子が支えて連れて行ってあげている光景があった。
 ゆっくり、でも危なげなく、余裕を持って、信号が変わる前に横断歩道を渡りきる。
 そうして、渡りきったその先、ひとことふたこと、言葉を交わし合う。

 ありがとう、おじょうちゃん。
 どういたしまして、おじいさん。

 ばいばい、と手を振って、女の子と老人は別れていく。
 街の中の、人と人のやりとり。どこにでもあるようで、ちょっと珍しい、そんなやさしいひとコマ。

「……」
「……わたしねー」
「うん」
「たまにみかける、ああいう光景が大好きなんだ」
「うん」
「やさしいって、ああいうことだって思うんだ」
「うん」
「人からやさしいって誉められることもある。偽善ぶってるって蔑まされることもある。
 でも、ああいうのをみてると、そんなことどうでも良くなるよね」
「……そんなこと、どうでもよくなるのはさ」
「?」
「やっぱりお前が、本当にやさしいからだと思うよ」

 そう言ったら、優は笑った。花咲くような笑みだった。

  • 優「じゃあ、お別れだよ」

またこの場所に来ることになった。
忙しく響き渡る蒸気の吐き出される音。
夜遅くにも関わらず入り乱れる人達
優はもう出発だというのに鞄も何も持たず汽車に乗り込んでいる。

「それだけで、いいのか?」

「うん」

優、お前はとてもかよわい。
肌は白に近いし、ご飯もあまり食べない。暑さには弱いし、逆に寒すぎてもすぐに風邪を引く。
なのにそのか弱い体で積極的に人に優しくする。
そんな優を知っているから、断っていなければ山のような防犯用やら非常食やらの道具食材を
汽車が壊れてでも持って行かせてやりたいと思う。
でもそんなにあげたものを他のお客さんに譲って、すぐになくなるんだろうな。
だから、いらない、って言ったんだもんな。わかってるよ。
だけど、鞄の一つくらい

「優」

「なぁにー?」

何故、旅立つんだ。
何故、お前なんだ。
何故、こんなにもかよわいお前が。
何故、こんなにも愛しいお前が。
何故、俺の前から。
何故だ、何故に。
何故。

「笑って、だよな」

「うん!笑ってーだよ。」

笑えねぇよ
笑えてねぇ、絶対に。
頬つり上げて目だけ死んでる。
上手く電灯見ながらやってるけど、お前には輝いてみえるか?
汽笛が憤怒して旅人を急かしている。
私は行くよ、あなたも行きましょうよ。って。
優は慌てて乗り込む、そして入口から身を乗り出し手を振る。
じゃあねー、じゃねぇ
今までの日々全てにそれだけでいいのかよ。
普段なら、お前なら、もっと言うだろう。
なのに。

あぁ、行っちまった。なんで上に上がりやがる、汽車よ。
ポーッって。星空の中で小さくなりながらポーッって。
もう何も聞こえん。

これがお前の最後の言葉かよ。


「…ハハッ」


最後に、
笑えたよ。

ありがとう、優。

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最終更新:2006年08月26日 19:13