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2-5-1 「ジェンダーフリーの<理念>」の構築

 「バックラッシュ」の10年間の歴史は、「ジェンダーフリー」に対する定義づけの歴史でもある。ジェンダーフリーの「理念」については1章に記したとおりだが、保守派による定義づけでは、「反(アンチ)」として働く「運動」を高めるために様々な試みが行われていることがわかる。

 1999年8月13日の『日本時事評論』に掲載された「男らしく女らしく」というコラムでは、「ジェンダーフリー」について次のような定義付けが行われている。

(ジェンダーフリーとは)「女性が男性によって不当に支配、抑圧されている」との決め付けによるもので、社会を「二者対立」でしか見られない偏狭な価値観だ。これを左翼思想の日教組がするのは分かるが、数多くの地方自治体が熱心に取り組んでいるのだから驚く。例えば「結婚したら、世帯主は夫がなるのが当然」「女性は家庭のことをきちんとしてから仕事に出るべき」などを「はい」「いいえ」で答えさせ「はい」の数で評価するチェックシートを作り、「男らしく・女らしくにとらわれてはいけない」との考えの浸透を図っている。

 この記事に象徴されるように、「ジェンダーチェック」や家事、育児に対する価値付けを行いながら、批判対象に「マルクス主義」 や「左翼思想」、「日教組」のラベリングを行うことで、それらの思想に対する反発を持っている層へのクレイム対象指示を行うという言説実践が、初期から繰り返されて反復していることがわかる。以下、大まかな流れを記述しよう。

  • 2000年5月12日の『日本時事評論』「“共参”主義の押し付けはご免だ!!」では「冷戦によって完全に理論破綻を来した共産主義思想をそのまま受け継いだ共産主義の亜流ともいうべき『“共参(共同参画)”思想』はご免こうむりたい。もともと、『子どもを社会が育てればいい』という発想は、マルクス主義に端を発するもので、延長保育、休日保育、ゼロ歳児保育などの保育園の理想像はまさに共産主義国家を髣髴とさせる。その典型は、土、日曜日だけ家に帰させる北朝鮮だ。『女性は子どもを産みさえすればいい』との発想であり、人間性を念頭に置かない唯物主義の申し子ならではだ」と記述されている。「共参=共産」というフレーズは、この後も多くの媒体で見受けられるようになる。
  • 2000年7月に出版された渡部昇一、林道義、八木秀次『国を売る人々』(PHP研究所)にて、八木秀次が「フェミニズムの発想、具体的には『ジェンダーフリー』や『育児の社会化』の発想の淵源がどこにあるかというと、これは完全にマルクス主義です。(…)西洋の近代啓蒙思想というのは、とかく人間関係を力関係、支配・服従の関係として捉えます。その関係をひっくり返すのが近代デモクラシーなら、雇用関係を力関係と捉えてそれをひっくり返すのがマルクス主義です、そしてフェミニズムというのはマルクス主義の亜流で、家庭内の夫婦関係、一般の男女間の関係を力関係、上下関係と捉えて、それをひっくり返そうという思想です」と発言。
  • 2001年1月『諸君!』に掲載された八木秀次「『男女共同参画基本法』なんてカルトじゃないか」では、「『男女共同参画』とは端的に男女の区別や性別役割意識をなくすことをいい、これを和製英語で『ジェンダー・フリー』と呼んでいる。(…)今日、その実現が声高に叫ばれている『男女共同参画」』とは以上のように、フーリエが提唱し、マルクス、エンゲルスがそれを継承して、レーニンが現実に政策化したものの手痛い目に遭い、スターリンが撤回したところの一連の理念ないし政策のことであり、いわば形を変えた社会主義・共産主義である。フェミニストたちは『実験』の結果もたらされた『大惨事』に懲りることなく、いまさらながらその実現を夢見ている。『男女共同参画』とは以上のように思想的には、社会主義・共産主義に由来する、家族を敵視し、性別を嫌い、性の自由化を主張するカルト(擬似宗教)的な社会の実現を望む人々の特殊な考えである」と言及する。
  • 2001年10月、『日本の息吹』に掲載された総山孝雄「ジェンダー・フリーによる亡国を防ごう」には、「イギリスに較べると、スェーデンの実情はお粗末の限りであったのに、そこの女権論者はジェンダー・フリー(性差無視)などという新語を発明して先進国を気取り、日本のインテリ女性の一部を巻き込んで性の開放を謳歌し、処女を守るのは旧弊と揶揄しつつ日本の女性を洗脳し始めた。日本の女権論者はまだ数は少ないが、文化人として政府の要職や審議会に入りこんでいるので、政府はついにこれを動かされ、次々に性差無視の法律を作りはじめた。現在の日本では、道徳破壊と少子化が二大問題であるが、ジェンダー・フリーはこの両者を共に破滅の渕に追い込みつつある」と記されており、また『日本の息吹』2002年8月号の読者投稿欄「ジェンダー教育を勧めるこの国の将来が不安」にて「文部科学省は教育のあり方を是正しないばかりか、ジェンダー教育を推進しているという。生物学的な性別が「セックス」ならば、社会的・文化的に作られた性別が「ジェンダー」。その性差別から解放されることを「ジェンダーフリー」と言う。元々はヨーロッパの一部の女性運動家に持て囃された概念で今では下火になっているが、日本では内閣府の男女共同参画局や文部科学省の男女共同参画学習課などが音頭をとり、いつの間にかジェンダーフリーを公立小中高校の教育目標の一つに据えている」と言及。

 このほか、いくつかの定義パターンが試みられたが、やはり「マルクス主義」「共産主義」という定義が最も多く繰り返されることとなる。2002年頃から毎号のようにジェンダーフリーおよび男女共同参画の批判的記事を掲載する『正論』では、「革命」や「全体主義」、「マルクス主義」という名詞のついたタイトルが多く並び(年表参照) 、それらの左翼性を「暴く」という形式の論調が続く。また、「ジェンダーフリー」「男女共同参画」に関する様々な定義パターンが登場するが、それらはジェンダーフリー」「男女共同参画」が「マルクス主義」や「共産主義」を実現させるための一手法であるとして、例えば「同室着替えをさせ、羞恥心を失わせ、男女の性差を無くすことで“真の平等”を実現させようと目論んでいる」等、尤もらしい解説が「マルクス主義」等の言葉に還元される形で加えられていく。

 「マルクス主義」「共産主義」を指摘、批判するという言説パターンは、「憂国」的言説を享受するトライブにおいて浸透性が高く、ひとつの様式、作法になっている。『<癒し>のナショナリズム』(慶応義塾大学出版会、2003)において、「新しい教科書をつくる会」のエスノグラフィーを行った上野陽子は次のように述べる。

史の会の参加者たちを観察していて強く感じたのは、「価値観を共有している」ことを示すためにある特定のことばが繰り返し用いられているということだ。「朝日」「北朝鮮」「サヨク」という言葉は、非常に心地よいフレーズとなって参加者の耳に響いている。朝日新聞にもさまざまな記者がいるだろうし、記事も同じ論調で揃っていることはありえないが、史の会では「朝日」とひとくくりにしてしまうことにより、「アンチ朝日」としての共同体が創造される現象が起きている。「朝日」を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた。
史の会において、「異質な言葉」を話す人は存在しない。講師と参加者は、拠って立つ言葉(世界)がほぼ同じであることを前提としているため、緊張した議論というのはほとんど展開されることがない。
 逆に言えば「弱気な日本」を笑うことくらいしか、会員全員に共通しているコードはないのではないか。

 この指摘は、『正論』誌や日本会議会員などに象徴されるタイプの「保守」言説一般に当てはめることが出来るだろう。保守メディアを分析すると、教育や憲法改正の問題について語る際にも「左翼による●●崩壊/保守による●●再生」という図式化が反復されるが(●●には、日本、子ども、政治、外交、教育、教科書、メディアなど様々な言葉が代入される)、女性問題においても「背景には共産思想」「真の狙いは革命」という形で反復されることが非常に多い。このような図式化は、「夫婦別姓」批判のみならず、ジェンダーフリー批判にも継続されている。

 例えば『家族を蔑む人々』(PHP研究所、2005)、『誰が教育を滅ぼしたか 学校、家族を蝕む怪しき思想』(PHP研究所、2003)、『国を売る人びと 日本人を不幸にしているのは誰か』(PHP研究所、2000)、『新・国民の油断 「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす』(PHP研究所、2005)、『日本を貶める人々 「愛国の徒」を装う「売国の輩」を撃つ』(PHP研究所、2003)など、「反-ジェンダーフリー」の記述が含まれる著書 は、それまで反復されて生きた「反共(反-共産主義)」の言説上にジェンダーフリーを位置づけつつ、「現状が悪いのは、現状を悪くさせている<誰か>がいるからだ」「<誰か>を排除しさえすれば、よりよい社会が実現する」という思考パターンに基づき、その「敵=的」に固有名詞 を名指すことで、クレイム申し立ての対象を指示するという実践が行われている。

 例えば、『日本を貶める人々』に収められた八木秀次によるあとがき「『左翼』は体制のなかにいる」には、次のような記述がある。

本書でも言及したパトリック・J・ブキャナンの著書『西洋の死』(邦題『病むアメリカ、滅びゆく西洋』) は、「アメリカがアメリカでなくなっている」という危機意識から、「なぜそうなったのか」を改名している。ブキャナンによれば、それは「保守」が金儲けと冷戦の戦略談義に夢中になっているうちに、文化を「左翼」に乗っ取られてしまったからである。ここで言う「左翼」とは、暴力革命を志向する旧来の左翼ではない。体制派と対決するのではなく、逆に既存の体制のなかに巧みに忍び込み、白蟻が柱を食い散らして家を倒すように、国家の屋台骨を倒そうとする、新しいタイプの左翼である。ブキャナンはこれを「文化マルキスト」と呼んでいるが、たとえば、これを同胞の拉致を無視して飢える北朝鮮人民に同情する人々、ありもしなかった「戦争犯罪」を謝罪したがる人々、靖国神社の代替施設建設に躍起になる人々、ジェンダーフリーや非常識な性教育に異常なまでに熱心な人々、「ゆとり教育」の推進に恥じることのない人々などと重ね合わせてみるとき、これは決して“対岸の火事”ではないことが分かる。
(…)厄介なのは、これらの人々が決して反体制派の活動家ではないということである。逆に、権力の中枢にあり、政府や地方自治体の審議会に集う体制側の人々である。わが国の何よりの不幸は、このように体制側の人々が、日本を日本でなくすることに日々邁進している人々だということなのである。
(…)本書は、現在のわが国におけるさまざまな問題を取り上げ、多くの人々が気付かないところで、いかに「日本を貶める人々」が蠢いているかを明らかにしたものである。(…)本書を、わが国を少しでも「あるべき姿」に戻すことに貢献できれば幸いである。

 ここでは、「左翼」を「あるべき姿」の阻害要因として名指すというクレイム申し立ての反復が行われていることがわかるだろう。「あるべき姿」から疎外されている私達=運動主体が、あるべき姿の実現を阻害する人たちを排除=クレイム申し立てすることで「あるべき姿」の実現を果たすというパターンは、当然のことながらマルクスの疎外論的な思考パターンと共通性を持つばかりでなく「左翼」的な運動論一般と共通性を持つが、そのような方法論はまったく問われることはない。ここで問われるのは「反共」的な形式、身振りによって保たれる「ジェンダーフリー」批判の言説の効果(例えば「国民」の動員)のみだといえる。

 中川八洋は、『これがジェンダーフリーの正体だ 日本解体の「革命」が始まっている』(日本政策研究センター、2003)において次のように記述する。

 ソ連邦の崩壊によって追い詰められた共産主義者たちが新たに活路を見出した運動が、いわゆる女・子供を標的とし、またそれを手段とする運動だったのです。彼らはまずはフェミニズム運動で家族解体運動を始めました。マルクス主義も家族解体を主張していましたから、フェミニズムとマルクス主義は一緒になって家族解体運動を一九九二年からすぐに始めたわけです。この典型が夫婦別姓運動です。
 しかし、この家族解体運動に九〇年代後半になってジェンダー・フリーが加わってきました。それまでの日本のフェミニズムは、夫婦別姓などの家族解体運動と、セクハラとかドメスティック・バイオレンス(DV)という「男性に対する攻撃」運動が中心でしたが、そこに新たに「ジェンダー・フリー」という概念を導入することによって、「性別秩序の解体」を通して「日本社会全体の解体」を志向するという超過激な運動へとシフトしたのです。
(…)しかし、ここで注意しなければならないのは、この新種の革命運動はレーニン革命よりも遥かに恐ろしいということです。なぜなら、レーニンの革命は共産革命を実現することによって、その体制下で人間の人格をロボットのような「共産主義的人間」に改造しようというものでした。ところが、ジェンダー・フリー運動は、学校教育などを通して一気に人格改造を行って、社会そのものを「消す」のが目的だからです。
革命を起こし強制的に共産主義思想に染まった日本人を増やすというのではなく、自分が男なのか女なのかも分からないという自己の人格の認識もできない日本人、家族をどう作っていくのかも分からない日本人に改造して、最終的には日本に日本人そのものがいなくなってしまうシナリオを遂行する革命方法です。つまり、「共産主義体制の日本」ではなく、「日本人の一人もいない日本列島」が、ジェンダー・フリー革命運動の目標です。数千年間の文明の人類史上初めての、きわめて異常な革命運動が、一九九五年から日本で始まったのです。

 また、『新・国民の油断』のあとがきにおいて、当時「つくる会」の名誉会長であった西尾幹二は次のように記述している。

(「ジェンダーフリーの行き過ぎた性教育」は)規模といい、巧妙な計画性といい、根が深く、決してただごとではない。特定の政治勢力が背後にあって、しかも、それがいままでのような反体制・反政府ではなく、「男女共同参画社会」というよく分からない美名の下に、政治権力の内部にもぐりこんで、知らぬ間にお上の立場から全国津々浦々に指令を発するという、敵ながらあっぱれ、まことにしたたかな戦術で、日本の国家と国民を破壊する意図を秘め、しかもその意図は遠く七〇年代の全共闘、連合赤軍、過激派左派の亡霊がさながら姿を変えて、自民党政府を取り込んで新しい形で現れた、にわかには誰にも信じられない、おどろおどろしい話なのである。
(…)「ジェンダーフリー」の名において実働部隊によって行われていることは、あまりにもはなはだしい反自然的人間誤解に基づく、思いもかけない文化破壊である。諸外国には例を見ない異常事、少子化で悩むこの国をさらに少子化に追い込み国家をなくしてしまう所業、日本発の新しいファシズムである。
(…)皆さん、腹を抱えて笑うようなとてもおかしなことが、巨額の税金を使って大規模に、急速に展開されていますよ。黴菌のような勢力がこれを動かし、あなたの町に、ムラに伝染病のように広がって、常識を壊し、家族を墓石、子供の未来を危うくしていますよ。
どうも政府自民党に思想がないということに、最大の問題がある。ただ田舎の小金持ちをかき集めて「保守だ」と称している、バックボーンのない日本の保守――最近の中央財界人も似たようなもの――には、私はほとほと呆れているが、私は彼らとは違い、国家の屋台骨が白アリに食い荒らされているような現下のこの事態を、黙って看過してしまうというわけにはどうしてもいかない。

 さらに、林道義は「男女平等に隠された革命戦略」(『正論』02年08月)にて、次のように述べている。

この十年ほどのフェミニストたちの動きを見ていると、全国一斉に同じ方針を出し、全国一斉に同じことを言う。作戦や運動のプログラムも、どこかで決定済みであり、表面に出てくるときには誰もが当然のこととして、その方針の下で忠実に働いている。いかに整然とした全国組織とその指導部が背後に出来上がっているかが想像できる。フェミニズム運動は、革命勢力が背後にいて、綿密に戦略を立て、組織化し、オルグや指導をしているのである。きわめてしたたかで執拗な精神力を持ち、徹底した理論武装をほどこされ、整然と組織だった動きをする、一種の軍団だと認識する必要がある。

 「憂国」、「反共」のコミュニケーションは、かようにしてジェンダーフリーに関する「新しい歴史」を構築しつつ、プロットとストーリーを練り上げていくことでリアリティの合理化をはかっている。また、「修飾語のポリティクス」とも言うべき徹底化されたラベリングによって、不安を煽りつつ鼓舞することで、「歴史観」の共有へと誘導を行っていることがわかる。ここでは「左翼」を過剰に「評価」した後に攻撃するという形式を採用することによって、言説の推進力が担保されている。「マルクス主義」や「日教組」などの「左翼」的な記号は、「憂国」コミュニケーションにおいて重要な機能を果たしており、いわば「ギョーカイ」の成員同士が行う意思確認の挨拶のようなものになっている。

 「左翼」は既に「体制側」 あるいは「この世界をダメにしている大いなる主体」であり、「油断」した保守は「反体制」側に疎外されているため、「本来あるべき姿に回帰しなくてはならない」と主張される際の、文字通り「否認」されるべき「中心」の役割を担わされることで、コミュニケーションを駆動するフックとして機能する。「左」の強さや逸脱を強調しつつ、「保守」にとって憂うべき現状を列挙することで、読者に訴えかける。頻繁に聞かれた「男女共同参画予算は9兆(10兆)円/対して国防費は5兆円」 というようなフレーズも、このような手法をトレースしている。このような言説のパターンは、「保守」(右翼)言説が、歴史的に「左翼」に対する「反(アンチ)」の言説として存在してきたことと無縁ではないだろう。浅羽通明は『右翼と左翼』(幻冬舎新書、2006)において、フランス革命以後の右翼と左翼の歴史に関する通時的な整理を行った後、次のように述べる。

 思えば、「右」は(…)フランス革命後、絶対王政という抑圧へのリアクションとして生じた革命的な「左」に対する、さらなるリアクションとして発生したのでした。
その根拠は「伝統」だったはずですが、当初の「王党派」ならともかく、その後の「右翼」が「反共」を闘うため、依拠しようとしたナショナリズムや資本主義は、ほとんど近代の革命が生み出した新しい電灯、創られた伝統でしかなかったのです。「王党派」が生まれず、ナショナリズムや対外拡張を掲げた日本の「右」ならばなおさらです。
(…)「右」「右翼」は、「左」「左翼」へのリアクション、カウンターパンチとして、その思想を築き上げた。彼らの根拠たる「伝統」もまたしかりです。彼らの根拠たる「伝統」もまたしかりです。「自由」「平等」「友愛」また啓蒙思想の無神論的「理性」主義をフレンス革命が掲げたから、フランスの「右翼」はブルボン王家と貴族制とカトリックを護れと結集した。「階級闘争」「インターナショナル」を社会主義者が掲げたから、十九世紀の「右翼」は、「ナショナリズム」へ結集した、自由主義「左翼」が「天皇機関説」を、共産主義者が天皇制廃止を唱えたから、戦前日本の「右翼」は天皇制の神話を絶対視した。戦後日本では、社共の両党や進歩的知識人などの「左翼」が親ソ親支邦だったから、「右翼」は親米となった……。
 つまり、敵の出方によって、護るべき「伝統」は変わってきたというあんまり腰が据わらない相対的なものでありました。
 結局、「左翼」は、いまここにある抑圧や差別、「右翼」はそんな「左翼」の台頭という「敵」があるから自らの存在理由も生まれるという「敵」依存の生き方ではないでしょうか。
 敵を前提として、その敵と闘っている自分たちを正義とする「左」「左翼」、「右」「右翼」の思想どちらも、その「敵」に打ち勝って、平和が実現した後、何が世の中を統べる正義なのかを示すのが困難です。

 ここでは思想史的な考察に踏み込むことはしないが、「保守」言説が「左」へのカウンターとしてその正当性を強調することが動機付けになるのであれば、「左」の強大さをアピールすることでその存在意義を喧伝しうるという構図は分かりやすい方法論である 。評論家で共同体主義者(コミュニタリアン)を自称する宮崎哲弥は、「進む保守思想の空疎化 「新たな敵」求めて散乱 現実主義すら失調」(『朝日新聞』2006年5月10日)において次のように述べる。

 この十年は戦後保守の最盛期だった。保守的な言説が広範に浸透し、日本の政治基軸は確実に右にシフトした。だが、皮相な盛況の影で、思想内容の空疎化が進んでいるのではないか。九〇年代末辺りから保守陣営内で囁かれはじめた危惧が、いま現実の危機として露呈しつつある。
(…)他方で左派、革新勢力の衰退によって、保守陣営は「つくる会」に代表される草の根的な運動の足場を獲得した。しかし、自律的な指導理念を欠いたその運動性は、インターネットという感情の増幅を特質とするメディアの普及とも相俟って、「新しい敵=新しい規定」を求めて散乱していった。
 中国や韓国、ジェンダーフリー教育、マイノリティ運動、女系天皇論、媚中派など、「敵」を見いだしては、その都度、対象に逆規定されるような思想実践では、やがて細分化と惰性化とを避け得ないであろう。
 (…)近年のジェンダーフリー・バッシングに伴う、性教育に対する一部保守派の攻撃の様子をみれば、もはや保守の美点の一つであった現実主義すら失調しているのではないかとすら思える。
 適切な性教育が、性病の蔓延や妊娠中絶の増加を食い止め、性交の初体験年齢を上げる効果があるとしても、彼らはほとんど聞く耳を持たない。純潔を教えさえすれば、純潔が実現すると信じているかのような彼らの態度は、平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論者の姿勢と瓜二つだ。
 そこに自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応----それもしばしば激越に走る-----しか看取できないとすれば、それはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない。

 この言説には多分に批判的なニュアンスが含まれているものの 、「敵」を名指すことで運動の動機を確保すること、および「敵」に関する情報を出来る限り平易な形で共有するという手法に対する分析自体は浅羽のものと共通している。浅羽や小熊英二の研究 などを参照にする限り、「『敵』を見いだしては、その都度、対象に逆規定されるような思想実践」は歴史的なものということになるが、「王党派」や「伝統」などの正当化のロジックを持たず、理念の共有が困難な状態におかれた「現代」では、「保守の美点の一つであった現実主義」を規定するロジックが構築困難なため、「敵」を大きく作り出してはバッシング(コミュニケーション)を行い続けることこそが、コミュニケーション継続のためのほとんど唯一の方法だったのかもしれない。

 例えば雑誌『正論』は、その表紙は毎号昭和の時代に活躍した女性歌手や女優の写真が掲載されることが象徴するように、「日本の昨今」を憂いつつ「自分達の時代」を回顧、あるいは夢想するためのカウンターカルチャー誌といえるが、誌上に掲載される「ジェンダーフリー」批判の論文の間には、「ジェンダーフリー」理解において相互に大きな矛盾や齟齬があるものの、引用の身振りこそあれ相互批判は全くといっていいほど観察できない。例えばジェンダーフリーの起源が「マルクス、エンゲルス」であるとする説や「ジョン・マネー」とする説、「フランクフルト学派」とする説など、相互に矛盾する説がさまざまに存在するにもかかわらず、である。むしろそのような破綻さえ、「破綻した論理に頼る左翼のオカシサ」として回収されるほどだ。

 批判対象から「マルクス主義らしさ」「左翼らしさ」を――仮に事実でなかったとしても――見出せさえすれば、細部に誤りがあろうと十分な機能を持ち、左を忌避、嘲笑、罵倒するという身振り=形式によってコミュニケーションを継続することができる。「マルクス主義」等のフレーズは、そのためのマジックワードになっている。この傾向は、例えばジェンダーフリーは「隠れマルクス主義」であるフランクフルト学派の実践であるといった、新たな「敵」の定義づけを行う際にも反復されていく 。また、新たな「マルクス」を共有するために、「同性愛こそ正常だというのがフーコーの主張で、セクシュアリティという言葉を使うことによって、人間をレズやゲイ、あるいはバイに改造しようという意図が見え見え」「耳慣れない言葉かもしれませんが、ポスト・モダン思想とは、ごく簡単に言えば、極端なニヒリズムと極端な相対主義が合体した思想で、人間の人格を解体し、それによって社会解体を実現することを目的」「『善悪の彼岸』を書いたニーチェのように、真理ですら相対主義の闇に葬り去り、正常な思考を展開する機軸を持ち得なくなります」 等、NGワード=クレイム対象を名指す言説実践も行われていく。「反共」という身振りが「保守」コミュニケーションにおいて一定の支持を得られている状態において、クレイムメイカーのオピニオンリーダーによるこれらの言説実践は一定の波及効果を持っていった。