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2-5-2 「ジェンダーフリー=男女同室着替え」の構築

 フェミニズムバッシングにおいて、「男女の差異を一切無くす思想」「女を男並にする試み」「女尊男卑の運動」「モテナイ女のルサンチマン」という批判パターンは「バックラッシュ」以前から繰り返されているが、ジェンダーフリー批判において特に顕著なのは、「ジェンダーフリー推進の一環として、実際に同室着替えが行われている」というクレイム申し立ての定義パターンが繰り返されたことだ。クレイム後に文部科学省が行った調査では「ジェンダーフリーに基づく男女同室着替え」は確認されておらず、「ジェンダーフリーの推進側」としてしきりにクレイムメイカーに拠って繰り返し批判されている日教組でさえ、更衣室の実態調査「更衣室の絶対的不足」を訴え、文部科学省に整備拡充を申し入えるなど、「ジェンダーに敏感な視点」から改善を訴えている。つまり、この定義パターンは端的に流言飛語であった。

 「ジェンダーフリーは同室着替えを目論む」という定義パターンは、「ジェンダーフリーは生物学的性差を否定する」という定義パターンに沿った言説である。まずはその構築過程を見てみよう。まず、八木秀次は『反「人権」宣言』(ちくま新書、2001.6)において、次のように記述している。

 「男女共同参画」とは「ジェンダー・フリー」のことである。
 ここにわかりやすい例がある。千葉市の男女共同参画課が発行する広報誌「ハーモニーちば」平成十二年(二〇〇〇)八月号に、カタツムリがインク瓶に登っているイラストとともに次のような文章が添えられている。
 「カタツムリは、雌雄同体。“結婚”すると、両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持も雌の気持も良く分かるなんて、ちょっぴりうらやましいような・・・」
 つまり「ジェンダー・フリー」とは雌雄同体、雌雄の区別がつかないカタツムリのような生き物に人間をしてしまおうという発想なのである。そして従来の男女の性別意識を取り払い、世の中を改変してしまおうという発想なのである。

 同様の記述は『諸君!』(2001年1月号)「『男女共同参画法』なんてカルトじゃないか」、およびその原稿を収録した『誰が教育を滅ぼしたか 学校、家族を蝕む怪しき思想』(PHP研究所、2001.5)などにも見受けられる(この頃の八木は、同じ原稿を様々な媒体で使いまわしていた)。以後、「ハーモニーちば」という千葉市男女共同参画課のパンフレットを例に「男女共同参画はカタツムリが理想」だと批判する定義パターンが頻出していく。但し、この時点では「男女同室着替え」という定義パターンは加えられていない。

 2001年6月8日、『日本時事評論』に「“男女共同参画”的トイレ」が掲載。「男女の区別さえいけないという共同参画派の人々は、雌雄一体のカタツムリが『うらやましい』存在らしく、案外、助成らしさ放棄の一環に『立ったままの用足し』も推進運動の柱に掲げられるかもしれない」と、ジェンダーフリーの理屈ならトイレも男女共同にするのかもしれないと揶揄。この際は、「案外~かもしれない」とあるように、「ネタ」として書かれていた程度であった。

 ところが、2002年9月に行われた「つくる会品川区部」による八木秀次講演会「教育再興 in 品川 2nd」 では、八木秀次が次のように言及する。

 とんでもない教育の顕著な例としてジェンダーフリー教育をとりあげます。最近、産経新聞さんが気付いてくれてジェンダーフリー教育の危険性を折に触れて指摘されていますので、認識が変わってきたと思いますが、今でも全国各地で男女共同参画条例がつくられています。今、千葉県と千葉市が一生懸命つくろうとしてます。とんでもない内容のようです。
(…)これは象徴的な例ですが、(チラシをだしながら)千葉市の男女共同参画の広報紙なのですが、ここに4文字で「男女共同」とあってその下にイラストがあります。インク瓶にカタツムリが登っているところです。実はカタツムリというのが男女共同参画のシンボルなのです。あちこちで使われているのです。なぜか。ここにこう書いてあります「カタツムリは雌雄同体。結婚すると両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持ちも雌の気持ちもよくわかるなんて、ちょっぴり羨ましいような・・・」カタツムリが羨ましいと言うのです。何故か。これはいわば氷山の一角で、あちこちでカタツムリが出現するのです。場所によっては地方自治体の男女共同参画審議会のマスコットネームに「まいまいくらぶ」と言っているところがあります。「まいまい=カタツムリ」ですね・・・・カタツムリが理想だと言っているのです。男女の性差や性別役割を完全否定して雌雄同体がいいんですよ、という発想ですね。この路線にしたがっていろんなことが今、展開されていっているわけです。
 (…)教育の世界では男女混合名簿からジェンダーフリー教育は始まっています。「男の子に「くん」付け、女の子に「さん」付けをやめましょう、みんな「さん」付けでいい」というのから始まって、もう馬鹿馬鹿しいことの連続です。小学校6年生の修学旅行はいま、男女混合で同じ部屋に泊まるところがあります、公立の学校では(会場からエッー?!の声)。思春期ですよ、第二性徴期ですよ、そういう時期をねらってそういうことをやるのです。
 国立市の小学校では運動会の騎馬戦は男女混合です。男チーム、女チームでやっているんじゃなくて、まさに男女混合でやっているわけです。で、お互いに殴り合う。実際、今、男女共同参画、ジェンダーフリーという名のもとに若いカップルで殴り合うカップルがいるんだそうです。男も女も殴り合う、ジェンダーフリーだから。
 福岡県の県立高校では、体育の時の着替えは男女同じ教室で着替えるのだそうです。男女共用のトイレがいま開発されているそうです。足立区ではすでに実践がありますけれど、いわゆるオカマの人を呼んできて子供たちに体験談を聞かせるのだそうです。その前にジェンダーチェックというのをさせて、子供たちのなかにある男らしさ/女らしさの意識を払拭していくというのです。そのあとオカマが登場するのです。なぜオカマなのかというと・・・カタツムリだから。「カタツムリがちょっぴり羨ましいような」というのですから、オカマの人も羨ましい存在と位置づけるのです。こんなふうにおかしな話が次々と展開されていっています。

 ここでは、「ちょっぴりうらやましいような・・・」と書かれたカタツムリのイラストが、「わかりやすい例」から、還元されるべき象徴へと微妙に定義を変更しているのが読み取れる。そのうえで、ジェンダーフリーは「カタツムリだから」、着替えは男女同室、「オカマ」が羨ましいと主張する思想なのだと説明付けがなされる。「ネタ」(冗談)が「ベタ」(流言飛語、都市伝説)に変わったというわけだ。

 「カタツムリ」および「同室着替え」の言説実践=流言飛語は、「混合名簿」をめぐるクレイムのパターンを反復しているといえるだろう。男女混合名簿の運動は80年代から行われていたが、それに対し「身体検査も同室でやるのか」「更衣も区別しないのか」という揶揄が繰り返し行われていた。但し、「実例がある」ということを論拠に反論するケースまでとなると、混合名簿批判においてはほとんど例がないだろう。

 ところがジェンダーフリー批判では、「同室着替え」はクレイム申し立ての主要な実践パターンとなっている。元々は「男女同室で着替えさせるのか」という揶揄であったものが、クレイム申し立ての過程で具象を与えられ一人歩きしていく。「カタツムリ」同様、元々揶揄であった言説が、実体であるかのように広がっていくのだ。もちろん、もともと「同室着替え」は多く存在したが、ジェンダーフリーの方針として「同室着替え」を掲げた書籍や、実践の一環として行われたいたというケースは報告されていない 。そのこともあってか、クレイム申し立ての中では、「ジェンダーフリー批判」の文脈で「男女同室着替えもある」とアナウンスするだけで、名言を避けつつ、聞き手が「ジェンダーフリー=男女同室着替え」と結びつける効果を狙ったものも多い。

 「同室着替え」にまつわる言説実践は2002年ごろから急速に広がっていく。バッシングがメディアで大きく取り上げられるようになってくるにつれて拡大し、ジェンダーフリーバッシング言説の中心的な争点のひとつになった。おそらく2001年~2002年の間に、保守系のコミュニティ間の言説交換において共有された、あるいは論者の誰かが誇張気味に主張したのが「論拠」となり、拡大していったと予想される。
そんななか、最も大きな影響をもった言説実践のひとつに『週刊新潮』のものがあげられる。『週刊新潮』は2003年1月30日号において、「高校生にも男女同室で着替えさせる「ジェンダーフリー教育」の元凶」とい記事を掲載する。

 福岡県の県立大牟田北高校を訪れた人は、ギョッとするような光景を目にすることになる。この高校では体育の授業や部活動の前に、男女が同じ教室で着替えをしているのだ。「勿論、女性とは素っ裸で着替えているわけではなく、あらかじめスパッツを穿いたり、Tシャツを着たままで着替えたりしています。あるいはタオルで上手い具合に隠したり。要は、もう慣れているのです。別に学校側が教室で着替えと支持しているのではありません。部室などで着替えてもよいのですが、部室や更衣室が狭いとか、遠いとかいう理由もあって、彼らはそうしているのです」と話すのは同校の教頭。
 以前は奇異に感じた新任教師などが、「やめろ」と注意したこともあったようだが、すでに生徒側にそれを気にしない感覚が備わっているのだという。一体、どういうことなのか。
 「彼らは、小学校の頃から『ジェンダーフリー』という考え方に基づいた教育を受けているんです。(…)ジェンダーフリーの考えが浸透していて、もはや軌道修正が利かないというのが実情です」(同)
 (…)ジェンダーフリーを推進する自治体は、多くがパンフレットにカタツムリのイラストなどを使っている。「カタツムリには性差がないから」(同 )というのがその理由だ。
 (…)危険に気づいた米国が「基本に返れ」と求めたのは70年代後半。それから約半世紀も経ってから、日本の教育現場には知らない間に危険なイデオロギーが浸透し、子供たちをカタツムリにしようとしていているのだ。

 同記事のキャプションに「いま、学校で恐るべき事態が進行している。高校生男女が同じ教室で着替えをし、中学生にはピルの使用を勧める冊子を配り、果ては小学生にまで「ペニス」「ヴァギナ」という言葉を教えているのだ。どれも背筋がうそ寒くなるような話だが、これ全て「ジェンダーフリー」なる考えに基づく「男女平等教育」を強引に推し進めた結果なのだ」と書かれているように、内容自体は「ジェンダーフリー教育を受けた世代は、恥じらいがなくなって同室着替えをも気にしなくなってしまった」というものであり、「ジェンダーフリーは男女同室着替えを実践として取り入れている」と主張しているわけではない。しかし、「高校生にも男女同室で着替えさせる「ジェンダーフリー教育」の元凶」というミスリーダブルなタイトルによってか、この頃より「ジェンダーフリー=同室着替え」という定義パターンが一気に広がっていった。この影響により、例えば2003年7月、鹿児島県議会において「高校で体育の時間など男女が一緒の更衣室で着替えさせられた」「修学旅行で男女が一緒の部屋で宿泊させられた」などの「極端な例」 を元に、ジェンダーフリー教育をしないようにもとめる「陳情」 が採択されるなど、「同室着替え」が政治的な効果を担うようになっていく。

 この後、同室着替えのほかに「同室宿泊」「男女混合騎馬戦」 などのトピックスが加えられ、『世界日報』や『産経新聞』 が同室宿泊の「実例」などを報道していく一方、「ジェンダーフリー=カタツムリ=性差否定」のイメージもさらに膨らんでいく。中川八洋、渡部昇一『教育を救う保守の哲学』(徳間書店・2003.3)にて、中川八洋が「日本人の子供たちから、「男らしさ」「女らしさ」を抹殺し、両性具有のカタツムリに改造しようとしているのがジェンダー・フリー教育の狙いです。千葉市の男女共同参画課は、実際にそのパンフレットにカタツムリの絵を描き、「人間の理想」だと書いています(1999年)」と言及するなど、男女共同参画のパンフレットのイラストが「人間の理想」の位置まで拡大される。

 『南日本新聞』が2003年8月5日に検証記事を掲載、同室着替えとジェンダーフリーは無関係ではないかという提起を行うと、『世界日報』は2003年8月23日付け記事「ジェンダーフリー教育の賛否問い、南日本新聞がネット投票 反対派が圧勝-「反論」記事も説得力欠く」で、「本紙の取材で、川崎市の神奈川県立S高校は七日、「男女の更衣室を設けてそこで着替えるよう指導しているが、そこに行くのが面倒とかで教室で着替え、男女が同室で着替えている現象はある。そういう生徒まであえて更衣室で着替えるよう指導はしていない」(同校教頭)としており、男女同室着替えの実態があることが明らかになっている」と反応。「同室着替えの実態があるかないか」に焦点をずらし、それがジェンダーフリーによるものか否かは言及しないことで批判を回避。その後も、「着替え」がジェンダーフリーによるか否かを明示する、しないに関わらず、ジェンダーフリー批判の文脈にからめて「同室着替え」について発言するなどの言説実践が繰り返される 。

 2003年9月25日発行の『わしズム bol.8』(幻冬舎)に掲載された「日本が消滅しようとしている」において、八木秀次は「教育現場におけるジェンダーフリーの導入は男女混合名簿に始まる。それから男女をともに『さん』付けで呼び、体操服、制服の共用、運動会のかけっこや騎馬戦の男女混合へと進む。男女混合の健康診断が嫌で不登校気味になった女子小学生の母親が学校にクレームを付けたら、逆にその考えは古いと非難されるようになっている。小学校の修学旅行や林間学校で男女が同室に寝、福岡県の県立高校では体育の着替えが男女同室で行われている」と述べている。

 また、『新・国民の油断』において八木秀次は、「「男女分け」撤廃のはなはだしい例としては、男女を同じ部屋で寝かせたケースがあります。(…)市内二十五の小学校のうち、十六校がその時点で実施済みで、そのうち九校が男女混合で宿泊をさせていた、というものです。しかも、これまでも恒常的に行われていたといいます」「『南日本新聞』が取材した結果、男女同室着替えの実態がなかったことがわかったとの話は」デタラメです。川崎市の県立高校は『南日本新聞』の取材では否定しながら、『世界日報』の取材ではこれを肯定しています。「証拠はない」のではなく、あるのです。証拠どころか、全国のあちこちの高校で、男女同室着替えはされています。しかも、生徒達が自発的に。長年のジェンダーフリー教育の結果、生徒達が「自己決定」するようになって同室で着替えているのです。あまりに日常の光景になって問題視さえされなくなっています」と言及。2005年12月に行われた鼎談「この世の嫌われモノをどうする!」 では、「当人達は知的活動と思っていても、その実態は野蛮なことだらけで、特に教育現場はひどい。先日も山形市で五校、鶴岡市で二校の市立小学校が、今年の五年生の郊外学習で、男女をどう祝させたことが明るみに出ました。過去にも沼津、仙台、盛岡など全国で同様の事例がありました。さらには男女が同じ部屋で体育服を着替える中学・高校、男女遺書に身体検査を行う小学校も複数報告されています。教師は「ジェンダーフリーという知的な流れに乗っている」と信じて疑わないから、親から講義があっても、「お母さんの考えは古い」と逆に叱りつけるぐらいの勢いです」と述べている。

 また、2006年1月6日付け『南日本新聞』の記事 に対して、八木秀次は「書きっ放しは許されない」と題した反論コラムを『正論』(2006年3月号)に掲載。「この記事の中で「二件」というのは男女同室着替えのことで、福岡県立大牟田北高校の教頭は『週刊新潮』の取材ではその事実を認め、『南日本新聞』の取材では否定、川崎のS高校も『南日本新聞』では否定、『世界日報』では肯定ということで、私は豊島氏に「これでは真相は闇の中」と述べた。そして「同室着替えはどこにでも」ということの根拠として、自民党の「過激な性教育/ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」が昨年十月にまとめた事例集を見せた。事実、内閣府男女共同参画局も最近、男女同室着替えがあったことを認めている。(…)豊島氏はその事実を認め、「自分も問題だと思う」と述べたものの、「それはジェンダーフリーとは関係ない。単なる田舎工事に過ぎない」と繰り返しジェンダーフリーを擁護しようとした」と記述。ここでも「男女同室着替えがあるかないか」へと論点をずらすことにより、「(ジェンダーフリーに基づく)男女同室着替えはあった」と主張する定義パターンを保つことで、最も注目を集めやすいフレーズの推進力を確保しようとしている。また、対抗クレイムを受けた後、2006年3月1日付けの『世界日報』記事は「男女混合身体測定、同色トイレ 「目標」とした組合、一部行政も ジェンダーフリー思想の帰結」において、「さて「男女同室着替えなど信じがたい」と報じた南日本新聞が本社を置く鹿児島県では平成十五年秋、公立小中学校で五・六年の50%、中学生の8%が同室で着替えている事実が明らかになり、南日本新聞もこれを伝えている。男女同室着替えは授業の遅延や着換え部屋の確保の影響もあろうが、男女混合授業、密着体育が行われている現場で容認・黙認している実態があるのではないか」と記述するなど、断定から憶測に転換する言説も時折見受けられたが、その後も「ジェンダーフリー=男女同室着替え」という定義は反復されていく。

 2005年11月、山谷えり子の国会答弁などを受ける形で、文部科学省が同室着替えなどの全国調査を行う。産経新聞は11月11日付け記事にて「ジェンダーフリー蔓延度」 文科省 初の実態調査通達」と言及。
男らしさや女らしさなど性差を否定したり、伝統文化を否定するジェンダーフリー教育が学校に持ち込まれている問題で、文部科学省は都道府県教委と政令市の教育委員会に文書を通知、全国の公立学校と幼稚園の実態調査に乗り出した。ジェンダーフリー教育をめぐっては過激な性教育とともに同省が設置した「教育御意見箱」に苦情や通報があり、自民党による調査でも全国から約三千五百件の保護者の苦情や告発が相次いでいる。具体的な「ジェンダーフリー蔓延(まんえん)度」を初めて調べるもので十二月半ばまでの回答を求めている。
今回の調査対象はすでに行われている性教育の実態調査は含まれておらず、学校における男女の取り扱いが中心。(1)小中高校などの調査項目では静岡や山形、宮城県などで明るみに出た「キャンプや林間学校、修学旅行などのさいの男女同室の宿泊」の実態(2)川崎市の高校で判明した「体育の授業や身体測定のさいの男女同室での着替え」の状況などを全国規模で調べる。

文部科学省が2006年6月に公表した「学校における男女の扱い等に関する調査」 では、「同室着替え」「同室宿泊」の例自体は多く報告された一方、「ジェンダーフリーに基づく」ものは一件も報告されなかった。「ジェンダーフリーに基づく同室着替え」は、社会問題としてしか存在しなかったのだ。それでも『産経新聞』は、7月1日付けの記事で「思春期を迎える小学5、6年から中学生が通う学校の16校に1校が、体育時の着替えを男女一緒に同室で行っていることが30日、文部科学省が初めて実施した平成17年度の「男女の扱い等に関する調査」で分かった。小4では5校に1校の割合に達している。男・女らしさを否定するジェンダーフリー教育が批判を集めるなか、男女の性差に対する配慮不足が浮き彫りになった。文科省は事態を憂慮。男女同室の宿泊や着替え、男女混合の騎馬戦などについて「児童生徒に羞恥(しゅうち)心や戸惑いを感じさせるおそれも大きい」と指摘して改善を求める通知を同日付で出した」と報道。『世界日報』も同日「この男女ごちゃ混ぜ教育は身体的性別の違いより社会的性別(ジェンダー)の解消を目指す男女共同参画の理念から生じている」と報道。かように、批判記事のみならず、関連記事の細部において同室着替えとジェンダーフリーを結びつけて報道するケースも多くみられた。

 では、これらの言説実践が、流言飛語として広がっていったのはなぜか。「男女混合名簿」やこれまでのフェミニズム運動に対しては揶揄的に「同室着替えも行うのか」という言説は飛び交ったが、かように流言飛語として拡大することはなかったにも関わらず。端的に言えば、それはかような言説に一定のニーズがあったからだといえるだろう。

 G・W・オルポートとL・ポストマン『デマの心理学』によれば、「流言の量は問題の重要性と状況のあいまいさの積に比例する」[R(流言 Rumor)=i(重要さ importance)×a(曖昧さ ambiguity)]。ウワサやデマの流通は、その重要さと曖昧さの積によって決まるので、流言が重要なものでないか、はっきりとした情報が得られている場合には広がらないとされる。但し、情報の「重要さ」や「曖昧さ」というのは、情報の性質それ自体で成立するものではなく、各人のリテラシーの期待値、文脈、および「社会問題」の共有水準などによって左右される。つまり、この場合の重要さと曖昧さとは、「当事者」および「コミュニケーション」のリアリティにとっての重要さと曖昧さであると捉えられる。

 そのため、仮に「正しい」情報が提示されていたとしても、その情報が個人にとって望ましいもの(重要なもの)でなければ、個人は流言の方を「正しい」情報として飛びつく場合もある(集団分極化現象がそのよい例となるだろう)。例えばジェンダーフリーが男女同室着替えをさせるものではないというアナウンスは繰り返し行われていた。『南日本新聞』のほか、例えば2003年には『ジェンダーフリー・性教育バッシング ここが知りたい50のQ&A』が出版されており、「正しい」情報は存在していたが、これらの実践はジェンダーフリーバッシングを止めるだけの効力はもたらさなかった。それは、これら「正しい」情報の喧伝が、言説として批判を受けるような内容であることやその方法論に問題があることに限らず、そもそもそのような言説は、「バックラッシュ」というコミュニケーションで求められていなかったのである。

 逆に、あるコミュニケーションの形式にとって重要でなければ、個人にとって望ましいものであったとしても、流言が広がらないこともある 。「ジェンダーフリー」に関する情報は、多くの人にとって曖昧な言葉であったが、それだけでは流言飛語は広がらない。コミュニケーションにおける「重要さ」がそこにあると考えられなければならない。では、その「重要さ」(ニーズ)とは何か。

 「重要さ」の理由として、「不安」(特に男性エスタブリッシュメントによるもの)を指摘する論は少なくない 。しかし、ここではより詳細な説明と区別が必要になるだろう。「不安」を指摘する論の場合、「バックラッシャー」(バックラッシュに加担する人)の「動機」の多様性を説明できない。例えば「バックラッシュ」言説がかように広がった背景には、非意図的な批判言説の伝達者が圧倒的に存在するからである。ネットコミュニケーションや口コミでは、ただ単に「コピペ」(コピー&ペースト。聞いたまま誰かに伝えること)を行っているに過ぎない場合が非常に多いだろう。また、女性やトランスジェンダー、同性愛者などの「バックラッシャー」も多く存在するし、「昔ながらの運動」コミュニケーションを行っている層も多く含まれている。

 また、「不安」というもの(とその発露)はアプリオリに存在するものではなく、「何を不安と思うのか」という社会的な認知フレームと常に対をなす。確かに「不安」や「恐怖」などの欲望が社会的に広がっている一方で、それらを満たす語彙や情報が存在しない場合、そのリアリティの希求を満たすような流言飛語が加工されることはある。しかし、それでは「個人的な不安の発露がなぜジェンダーフリーに向けられたのか」という説明は不可能だろう。社会不安それ自体は常にあるし、ジェンダーやセクシュアリティに関する不満をかかえている人もまた常にいるだろう。一方でバッシング言説を伝達する人々の多くは、そもそも「ジェンダーフリー」や「フェミニズム」に対して実質的、直接的に脅かされているわけではなく、性に関して保守的な認識を持っているかどうかも不明だ。

 さらにここで重要なのは、それは単に「現在特定のトピックスに対して不安が生じているから=そのトピックスに関して信じたい情報があるから」と思う人が多く存在する、個人の認知と現実の間に不協和が生じた場合(認知不協和)に、多くの人がたまたま特定の言説に飛びついていくという問題ではすまされないことだ。先も述べたように、「運動」に積極的にコミットする人以外にも支持されない限り流言飛語が広がらないということは、ジェンダーフリーや男女共同参画の問題で直接的に不安に陥っているという人以外にも訴えかけなければならない。

 『デマの心理学』においてオルポートとポストマンは、デマが果たす二重の目的として、「感情的な強制」と「知的な強制」の2つをあげている。デマが広がるためには、個人のリアリティにとって重要であること(感情的な強制)のほかに、コミュニケーション空間のリアリティにとって重要であること(知的な強制)が必要となる。『デマの心理学』の場合、「心理」の視点から「知的」な言説を希求するという内発的な「動機」に着目しているが、ここではその図式を反転させ、特定の言説を知的=合理的だと思わせるような「動機」が共有されていることが必要、と言い換えてみよう。さらには、そこに「感情的な強制」と「知的な強制」は必ずしも一致せず、それぞれ乖離しているのだと付け加えられるだろう。

 「感情的な強制」自体を明らかにすることは、おそらくトライブによって中央値が大きく変わるので困難であろう。一方、「知的な強制」に関しては、その社会問題へと誘導するような「社会問題の認知」が構築されていたからだと答えられる。すなわち、社会問題として「重要」であるという認識自体が構築された、あるいはそれを構築するための社会認識のフレーム自体が構築されていたからだというわけだ。

 特定の言説が合理的な説明であると納得するためには、その言説が類型化された語彙(C・W・ミルズの「動機の語彙」)として共有されていることが重要となる。また、その説明を希求するような「問い」の共有が重要になる。すなわち、「社会不安=社会問題」として言説上で構成されたうえで、類型化された答えが用意されていることが必要だということだ。

 例えば、ここでは「同室着替え」がトピックスにあがっているが、「同室着替えはなぜ起こっているのか/どのようにすれば改善できるのか」という問いを立てた上で「ジェンダーフリー」を理由に挙げているわけではない。「ジェンダーフリーの行き過ぎた例として何を挙げられるか」という問いに「同室着替え」が選択されているのみである。「ジェンダーフリーのおかしさ」や「男女共同参画によってもたらされる新たな局面/男女共同参画などをもたらす<新たな局面>の性質」という問い自体が共有され、一方でその問いの構築過程に対して異論が挟まれなかったこと(フェミニズムからの応答は、2005年頃までほとんど顕在化しなかったし、いくつかのレスポンスは機能しなかった。その理由の一旦として、端的にそれらの説明が求められていなかったこと、およびフェミニズムコミュニケーションの不透明性が高まっていること=コミュニケーションがある程度「成熟」していることをあげられる。詳しくは4章参照)、また、ジェンダーフリーに関して言えば、トピックスの曖昧さ、解釈可能性の広範さが流言飛語、社会問題の構築のフックとして機能している。

「ジェンダーフリー」の社会問題としての重要さは、クレイム申し立てによってのみ構築されたわけではない。内閣府が公表した「男女共同参画基本計画策定に当たっての基本的な考え方」においては、「女性も男性もすべての個人が、互いにその人権を尊重し、喜びも責任も分かち合いつつ、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の実現は、21世紀の我が国社会にとっての最重要課題である」と位置づけられている。社会問題としての重要性を与えられる一方で、「男女共同参画社会」と「ジェンダーフリー」いう言葉が互いに不透明=曖昧であり、しばしば両者が等号で結ばれる状態にあったことから、「ジェンダーフリー=同室着替え」という「分かりやすい=叩きやすい」説明に波及力を与えられたと考えられる。