※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



1-7 ジェンダーフリーの「誤配」

 東京女性財団の意図では、「ジェンダーフリー」という言葉に対して内面の啓発に主眼が置かれていた。ただし、言葉が広がるにつれ、報告書の「意図」とは異なり様々な文脈、用法で使われていく場面も見受けられるようになる。無論、言葉が広がっていく中で、文脈やトライブによって用法が変わり、「本来の意味」を組み替え、様々なコノテーションをつけていくことはどの語にも起こる。「ジェンダー・フリー」もまた「・」の取れた「ジェンダーフリー」として、波及の中心点(起源なき起源)が喪失されていく中、内面の自己啓発という意味のほかに「性別に関するバリアフリー」や「男女不問の環境」あるいは「性嗜好の自由」や「形式を問わない性愛」といった形で使用されていく。

 例えば、「ジェンダーフリー」を経営者の企業開発手法や経営スタンスの表明のための言葉として用いる手段が見受けられる。経団連くりっぷ No.143 (2001年3月8日)の中で、資生堂による報告書では、現在の企業には「共生社会(ノーマライゼーション)、 男女平等社会(ジェンダーフリー)、 障害のない社会(バリアフリー)、循環型社会(エコロジー)、 を柱とするユニバーサル環境の構築が求められる」と報告されている。また、職場研修用ビデオ「ジェンダー・フリーの職場づくり(全3巻)」(日本経済新聞社、2001)などが発行されたり、「セクハラ対策」「雇用機会、環境対策」の一環として、女性の人材を有効活用するためにはジェンダーフリーな職場環境づくりが必要である、とするワークショップが各所で展開される。「ジェンダーフリー」のかような「誤配」は、「男女共同参画」が経済的な希求に下支えされていたことを考えれば、当然といえることかもしれない。

 また、次第にセクシャルマイノリティの間に広がっていくパターンも見受けられるようになる。藤原和博は、宮台真司との共著『ルール』(筑摩書房、1999)の中で、なだいなだ『クワルテット 第一楽章 性転換手術』(筑摩書房、1997)のアフターエピソードを創作している。読者である「あなた」が、1969年「ブルーボーイ事件」を元に作られたフィクションの主人公、秋元かおる(ニューハーフ)と30年後にばったり出会った際、かおるが次のように問いかけるというものだ(なお、同書は『よのなかのルール』(ちくま)として2006年に文庫化された際、この記述部分から「そういうの、ジェンダーフリーっていうんだって。」というフレーズが削除された)。

「わたしの性転換のこともね、あの裁判からずうーっと考えてきたの。
ほら、最近『性同一性障害』って名前がきちっとついて、人間が生まれながらにもつ"障害"の一つのタイプだなんていわれるようになったでしょ。むかしはただ"変態!!"って指さされて辛かっただけだけど。
でも、好むと好まざるとにかかわらず、もって生まれた生物学的な性によってだけ、そのあとの人生を決められてしまうのは乱暴じゃないかって気がする。男か女かの二つの分類に社会的な役割を押し込めちゃうでしょ。
"個人の尊重”っていってる憲法にも違反するんじゃないかしら。そういう呪縛から解放されて、お互いが”自分らしく生きる”ことをもっと尊重し合うほうがわたしは大事だと思う。そういうの、ジェンダーフリーっていうんだって。
生物学的な性の役割の押し付けから解放されて、自由に社会的役割を担うことね。最近実地された雇用法の精神にも繋がるんじゃないかしら。
だったら、性同一性障害も、大事にしなければならない"個性"の一つだって考えられるでしょ。
ところで……
あなたは、性同一性障害であるわたしの個性を、受け入れてくださいますか?」

 この話は創作であるが、このエピソードの挿入に象徴されるように、一部セクシャルマイノリティの間には「ジェンダー・フリー」という言葉は(賛同も意見も含んだ)独特の意味をもって広がった。そこでは「ジェンダーフリー」は男女の差別意識を取り払うという視点に限定されず、ジェンダーに関する差別意識への問いかけを意味する言葉として受け入れられた 。これは、授業の現場において、TGの当事者を招致した授業が行われるということも無縁ではないだろう。

 例えばweb上では、「○○バトン」や「○○に100の質問」と名づけられた、webで質問事項をリレーをしていく企画がある。「サイト運営者に100の質問」や「ミュージックバトン」「映画バトン」など、その種類は豊富だ。その人のプロフィールや趣味嗜好を淡々と記述していくことでコミュニケーションを発展させるためのツールとなるため、様々なシリーズが次々に作られていく。2004年頃につくられ、同性愛者のネットコミュニティやブロガー達の間で流行した「同性愛者に100の質問」もそのひとつで、このバトンには製作者による公式ページがあり、質問に答えた人はこのページに報告することで「繋がる」ことが可能になっている。もちろん報告しない利用者も多いが、その場合は友人等がそのバトンを引き継ぎ、SNSやBLOGを中心に口コミで広がっている。

 その91番目の質問が「「ジェンダーフリー」について語って下さい」というものであった。この質問に答えた「当事者」の人数は少なくとも100名を超えるが、言葉を知らないと答えた者が半数いる一方で、もう半数のうちのほとんどは、「差別が無いのは大事だと思う」「みんな自分に自信を持つんだ!!」「男性、女性の他にも、はっきりと分類されない性が存在するのだから、何でもはっきりと分けてしまうのはやめたほうがいいと思います。」「好きになったもんはしかたがねーべ。」「男らしくって何なんだ!」など、肯定的なものが多く並んでいた。「mixi」などのSNS(ソーシャルネットサービス)でも、この語について肯定的にかたる「当事者」などが一時期多く見受けられた。翻って、活字化されないオフライン上のコミュニケーションの場においても、緩やかな言説交換が行われていたと予想される。

 独特の意味を持って受け入れられたのは、必ずしも肯定的な意味に限らない。当然ながら、セクシャルマイノリティは一枚岩ではなくい。同語が、ジェンダーに関する差別意識への問いかけを意味する言葉として受け入れられたとしても、その反応は差別の種類やアイデンティティポリティクスの選択などによって大きくかわっていた。

 伏見憲明は「セクシュアルマイノリティの「連帯」とは」 において、次のように述べる。

  産経新聞の主張を見ていても、そりゃそうだろうなという主張もあるんですよ。たとえば行き過ぎたジェンダーフリー教育の内容を見てると、そう思う。みんなが楽しく、自分のやりたいようにやれる社会がいいと思うんですが、それを可能にするような思想や社会構想を、ぼくらの側もまだ練れていない。
  たとえばジェンダーフリー教育の中で「くん」「さん」を分けるのでなく「さん」で統一しなさいというのがあったりしますけど、「いいじゃん、別に分けたって」と思う。分けることがいけないというのは、男女の二元制的な捉え方を強調するからだ、というのが論拠になっているわけです。
  (…)男女二元制がいけないものだとすると、ゲイであることもいけない、レズビアンであることもいけない、あるいは性同一性障害という在りよう自体もいけないんだという話になる。

 伏見はジェンダーフリーという考え方には批判的であるというスタンスを表明しているが、このような立場をとる者は少なくない。Web上で「ジェンダー・フリー」を熱心に批判しているセクシャルマイノリティも少なからずいる。その背景には、論者と「男女二元論」との距離関係によって大きく変わっていることを表明している。

 現役高校教師でTGである宮崎留美子は、自HPで次のように書いている 。

 ジェンダーフリーを肯定していくことは、ひょっとしたらトランスジェンダー指向と矛盾することになるのではないかという、何か喉に小骨がささったようなもどかしさを感じていました。トランスジェンダーの人たちの世界では、「ジェンダーフリー」という概念は、実はあまり評判がいいものではなく、逆に、「男と女はちがうのだ、『男らしさ』『女らしさ』というはっきりした区別があり、トランスとは、一方から他方へと越境することだ」と、はっきりと主張する見解にも、けっこう、かなりの支持があるという現実もありました。
  ジェンダーフリーを主張するのは、ある意味では「肩身が狭い」ところさえあったわけです。

 また、ジェンダー研究者でTGである佐倉智美は「ジェンダーフリーということ」 という文章において、次のように述べる。

 『女性のほうに属したい』欲求としての、「女になりたい」気持ち。これはたしかに自分の中にあるのだが、これはある程度の“男らしさ・女らしさ”の枠組みがあった上での、その“女らしい”ほうに所属したい、そういう気持ちである。
  そういう意味では、“男らしさ・女らしさ”の消滅した完全なジェンダーフリー社会が来ては困るというのも、私としては、あながち偽った気持ちではない。
  しかし一方で、今まで女性の心で男性社会を生きてきて、そして今回こうして属するジェンダーを転換してきた中で、こうした「らしさ」に基づく性別役割のオカシさ、非合理さなどが、いっそうはっきり見えてきて、それらを改めたいと強く願っているのもたしかである。
(…)結局、『ジェンダー・フリー』には、ふたつの意味があるのではないだろうか。
 ひとつは、男から女へ、女から男へ、誰もが自分の心の性別に応じて、ジェンダー、つまり社会的・文化的性別を転換することが、ごく自然なこととして、世間から認められること。もちろん“性転換”とまでいかなくても、行動・趣味・交友関係・考え方などの面での、ちょっとした越境も含んでよい。
  もうひとつは、ひとりひとりの人間を過剰な“男らしさ・女らしさ”に基づく性役割から解放し、それに縛られていた旧来の男女関係を見直し、よりよい男女のパートナーシップを新しく構築することである。これは、現在お役所レベルで推進されつつある『男女共同参画社会』づくりの中心テーマともつながるものだ。
  この両者の折り合いをつけながら、両方の実現を図っていく。おそらくそれが、めざすべきジェンダーフリー社会への道だろう。
  とにもかくにも、単純な男女二分法では、もはや世の中は割り切れないのだから。

ここで「ジェンダーフリー」という言葉は、「男女平等」とは異なる新たな自由、平等概念の希求に対して議論の契機を与える機能を持つと共に、同時に「男女二元論」との距離について議論する際の媒体としての機能を持っている。また、これらの「誤配」は、「ジェンダーフリー」をめぐる騒動が単なる「誤解」や「攻撃」として片付けられるものではなく、「ジェンダー主流化」および「ジェンダー史観」の主流化の流れと密接に関わっていることの証左になるだろう。