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2-4 批判言説のパターン構築

 以上、「バックラッシュ」を観察する上で特に重要と思われる発言などを簡単にまとめてみた。もちろんこれらは「ジェンダーフリー」や「男女共同参画」への批判実践全体からみればごく一部にすぎないが、この年表から、2000年以前からローカルな保守メディアで行われていたジェンダーフリー批判、あるいは個別に行われていたクレイム申し立て実践が、2002年頃から徐々にマスメディア上で拡大再生産されつつ、多くの論者よって共有されると共に、地方行政や国会などに議題設定が伝達されていく過程がうかがえるだろう。その後、メディア上におけるジェンダーフリー批判の度重なる反復は、「ジェンダーフリーはマルクス主義の焼き直しである」「フェミニストは男女脳などの身体的性差を無視している」「男女共同参画は男女同室で着替えをさせる・男女同室で宿泊をさせる」「過激な性教育を行っている」「ジョン・マネーの「双子の症例」実験に基づいている」「上野千鶴子と大沢真理が教祖的役割を果たしている」「伝統文化を否定する」「ジェンダーフリーに国家予算が10兆円使われている」などの定義パターンを、様々な論者に共有させることとなる。

 バッシング言説を行っている資料を収集してみると、2002年頃から広がっていく定義パターンは、その多くが2002年以前に既に行われていた定義の反復であることが分かる。日本時事評論社が2002年10月に出版した『湧泉』は、それまで『日本時事評論』にて掲載されていた「男女共同参画」「ジェンダーフリー」批判記事をまとめたものだ。2002年までの『日本時事評論』には、既に後に繰り返されることになる「ジェンダーフリー=デルフィ起源節」「生物学的性差の無視」「共産主義」「マルクス主義」「フリーセックス」「家族解体」などの定義パターンが繰り返し行われている。

 また、『日本時事評論』を分析して興味深かったのは、2001年ごろまでは「夫婦別姓」批判が前面に出ており、その定義づけとして「恋愛至上主義(フリーセックス)「専業主婦の排斥」「徳育の放棄」などが行われていたが、これらの定義づけがそのまま「ジェンダーフリー」「男女共同参画」批判において再利用されていることだ。『日本時事評論』などの保守言説は、「夫婦別姓」や「DV」を、家族を解体させる思想であると繰り返し批判しつつ、「共産主義」の亜流として位置づけることで、「反共」的な興味を喚起し、言説の推進力を担保してきていた。それらの手法が、そのまま「ジェンダーフリー」に用いられているというわけだ。例えば『日本時事評論』はジェンダーフリー批判に焦点をあてつつも、2001年8月24日に「共同参画は別姓導入の戦術」という記事を掲載するなど、それまで行ってきた「夫婦別姓」へのクレイム申し立てからジェンダーフリーへのクレイム申し立てを段階的に導入している様子も伺える。

 バッシングがメディアで取り上げられバックラッシュとして表面化していく2002年以降は、「男女共同参画」「ジェンダーフリー」批判として新たにいくつかの定義パターンが加えられていく。中心的なものとして、「過激な性教育」「10兆円の国家予算」「同室着替え、同室宿泊」「ジェンダーフリーの<起源>」「『ブレンダと呼ばれた少年』による論理破綻」などが挙げられる。また、その言説の詳細を追うと、「ジェンダー」や「男女共同参画」に関する価値付けを行うタイプの言説交換から、どちらかといえば「極端な事例」によって危険性を煽るタイプの言説交換へと重点がシフトしていることが分かる。この、「[左翼批判言説]…→「夫婦別姓」批判→ジェンダーフリー批判…→流言飛語部分の増大」という流れの中で、批判対象である「夫婦別姓」や「ジェンダーフリー」を「左翼(の隠れ蓑)」に回収するという流れが、批判言説史を模倣、投影するような形で合理化、組織化されていった。

 詳しくみてみよう。例えば2001年5月18日『日本時事評論』には、次のようなイラストが掲載されている。



 このイラストは、レトリックの内容こそ反転させたものではあるものの、争われている内容そのものは『未来を育てる基本のき』 や「ジェンダーチェック」など、「ジェンダーフリー」の推進を謳うものと共有されている点が多い。特徴的なのは、後に反復されることとなる「同室着替え」や「過激な性教育」等の定義パターンが含まれていない点だろう。

 しかし約一年後、2002年6月1日の『日本時事評論』に掲載されたイラストでは、「男女共同参画」が共同トイレ、同室着替えの他、混浴の推奨などを提唱するものであるかのようにミスリードするような内容になっている。



 この二つのイラストの差異は象徴的だが、2002年ごろより、よりカリカチュアライズされた「ジェンダーフリー」像が構築され、スキャンダル的な言説が共有されていく。

 もちろん2002年以後も、2002年以前までに築かれてきた定義パターンは繰り返されているし、現在の「ジェンダー」の形(現在の性別役割分担の形)こそが最も「自然」な形であり男女の分業こそ人間の叡智の結果であるという主張や、急激な改革は多くの国民に支持を得られないばかりか混乱を招くといった、「ジェンダーフリー」の実践に対する「保守の理屈」に基づいた「正当な」批判や吟味も展開されていた。また、2002年以前にも、カリカチュアライズされた「ジェンダーフリー」像、あるいは「夫婦別姓」像は反復されていた。

 ここで重要なのは、メディア上でバッシングが広がっていく過程において、男女共同参画やジェンダーフリーに関する言及数が増えるにつれ、流言飛語の出現も相関的に増していくということだ。この点、「夫婦別姓」の問題と異なり、「ジェンダーフリー」「男女共同参画」という一般には不透明な内容の語彙に、流言飛語的な、分かりやすくより多くの人の不安を煽れるような解釈を加えることで、それまでこの語を知らないばかりでなく、トピックスに関心を持たなかった層にも広がっていったと言う事が出来るだろう。過剰な例や批判言説を流通させることで、アジェンダ設定を行うことに成功したというわけだ。

 以下、ジェンダーフリーへのバッシングが、主に流言飛語や「過剰な言説」をフックに「バックラッシュ」として広がっていく様子を、代表的ないくつかの論点の構築過程を追うことで観察してみたい。