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1-3 「ジェンダーフリー」の広がり

 このようにして「誕生」した「ジェンダー・フリー」という用語に関は、主に行政関係と教育分野を中心に啓蒙活動が進んでいった。同時に、いくつかの新聞で大きく取り上げられたこともあり、男女共同参画の啓発活動の一端として「ジェンダー・チェック」を取り入れて行く自治体も見受けられた。その間、「起源」を離れ、和製英語として使用されていく中で、「ジェンダーフリー」の間の「・」が取れた表記が多く見られるようになる。

 ジェンダーフリーという言葉は95年頃から、教職員団体や自治体の啓発活動のなかで使われていく。97年頃から地方の自治体が啓発活動の一環として、「ジェンダー・チェック」のバージョンを様々に変えてパンフレットやワークショップなどで配布される機会が増えていく。例えば98年には青森県ほかで、99年には高知県や岐阜県、山口県ほか、多くの自治体で配布されるなど、ジェンダーフリーという言葉と「ジェンダー・チェック」は行政の関係者と教育関係者の間で広がっていっていき、「ジェンダー・チェック」は少なくとも数十の自治体で採用された。

 1999年に男女共同参画基本法が制定された後は、啓発の手段やスローガンとして同語を使用する自治体も目立つようになる。熊本、埼玉、宮崎、徳島など、「男女共同参画計画」などで「ジェンダーフリー」という言葉を盛り込んだり、議会や啓発用資料などで言及する自治体も登場。それは、具体策がほとんど提案されない状態で、パンフレットやフレーズによる啓発という低コストのパフォーマンスであるがため、選択が容易であったことが理由と考えられる 。その他HPなどのコンテンツとしても多くのバージョンが各自治体によって作られた。

 一方で、「ジェンダーフリー」という言葉を用いずとも、東京女性財団の形式を模倣したものが多く、「ジェンダー」という言葉は多用されていた。北京会議の影響もあってか、90年代から出版物などでも「ジェンダー」という用語が用いられる機会が激増していたが 、パンフレットや「ジェンダー・チェック」においては主に否定的なニュアンスの元に「ジェンダー=見直されるべき内面」として語られることが多い 。その手法に対しては後に多くの反発を招くことになる 。

 90年代後半の教育分野においては、次のような展開がみられた。ジェンダーフリーというタームを、既存の社会学や経済学、教育学、および女性学の枠組みにひきつけて論じはじめる者が現れた(それら論者の中には、「バックラッシュ」以後に「ジェンダーフリー」概念を積極的に擁護するパフォーマンスを選択する者も現れる)。具体的には、以下のような著作が出版された。

  • 小川真知子、森陽子編『実践ジェンダーフリー教育』(明石書店、1998)
  • 『ジェンダー・フリー社会をめざす若者セミナー報告書』(若い世代と築く男女協動社会・実行委員会、1998)
  • 伊田広行『シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ』(世界思想社、1998)
  • 国立婦人教育会館女性学ジェンダー研究会『女性学教育・学習ハンドブック―ジェンダー・フリーな社会をめざして』(有斐閣、1999)
  • 百瀬靖子『ジェンダーフリーの時代へ―家政学原論・生活経営学』(創成社、1999)
  • 亀田温子、舘かおる『学校をジェンダー・フリーに』(明石書店、2000)
  • 村瀬幸浩、高橋由為子『ジェンダーフリーの絵本(1)こんなのへんかな?』(大月書店、2001)
  • 橋本紀子、高橋由為子『ジェンダーフリーの絵本(2)生きるってすてき』(大月書店、2001)
  • 朴木佳緒留、もりお勇『ジェンダーフリーの絵本(3)働くってたのしい』(大月書店、2001)
  • 中嶋みさき、もりお勇『ジェンダーフリーの絵本(4)女と男 これまで、これから』(大月書店、2001)
  • 伊田広行、堀口悦子、石橋富士子『ジェンダーフリーの絵本(5)いろんな国、いろんな生き方』(大月書店、2001)
  • 田代美江子(編)『ジェンダー・フリーの絵本(6) 学びのガイド』(大月書店、2001)
  • 金井景子『ジェンダー・フリー教材の試み―国語にできること 早稲田大学教育総合研究所叢書』(学文社、2001)
  • 学びを行動にうつす女たちの会『ジェンダーフリーを共同で学ぶ―「実践」につなぐ講座の記録 シリーズ「女性問題をまなぶ」』(新水社、2001)
  • 草谷桂子『ジェンダー・フリーで楽しむこどもと大人の絵本の時間』(学陽書房、2002)
  • 草谷桂子, 鈴木まもる『ぼくはよわむし? ジェンダー・フリーってなあに』(大月書店、2003)
  • 草谷桂子, 鈴木まもる『おきゃくさんはいませんか? ジェンダー・フリーってなあに(2)』(大月書店、2003)
  • 草谷桂子, 鈴木まもる『プレゼントはたからもの ジェンダー・フリーってなあに(3)』(大月書店、2003)
  • 山梨県立女子短大ジェンダー研究プロジェクト『0歳からのジェンダー・フリー―男女共同参画・山梨からの発信 私らしく、あなたらしく*やまなし』(生活思想社、2003)
  • 伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2004)

 「ジェンダーフリー」という用語を用いた刊行物の概ねの特徴は、(1)「ジェンダーフリー」を実現させるための方法、環境などを模索する議論のテーブルへと読者を誘致しようとするもの、(2)多様な性差のあり方について読者を啓発するもの、(3)多様な性差のあり方を、授業中に簡単なワークショップを行うなどによって学習させていくための方法案を提示するもの、の3つの類型に大きく区分できよう。内容は、科目で言えば道徳学習や社会科のそれに近いといえる。

 ジェンダーフリーというタームに対し、フェミニズム理論によって肉付けを行っていく学者があらわれる中、そこで構築される歴史観は、「(1)学校教育を対象に(2)制度面ではなく態度・意識面の問題として(3)それまでの女性運動の歴史を捨象しながら(4)啓蒙的に扱う」という『Gender Free』の特徴を反復する。例えば「ジェンダーフリー」を積極的に擁護する、日本女性学会幹事である伊田広行は『はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2006)にて次のように述べる。

 私が使う「シングル」という言葉は 、独身ということではありません。前近代、あるいは近代社会において皆が信じていた「男とはこういうもの、こうすべきもの、女とはこういうもの、こうすべきもの」というイメージ、役割、アイデンティティ(つまりジェンダー)から離脱した、自立した人のことをいいます。そしてこれからの社会は、そうした人が社会の基本単位とするようなシステムを作るのが合理的だという主張をしているわけです。だから「シングル」という言葉には、「独身」や「単なる個人」という意味合いが入ることもありますが、私の主張の中では基本的には「ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーという新しい感覚を持った個人」という意味です。(…)不断にできるだけその再生産に加担しないように意識し続けるスタイルです。  
 (…)可変的で、大幅に男女で重なり合う部分が大きいにもかかわらず、身体的・肉体的・生物学的差異に過剰な意味づけをして、それが『自然で不変』とし、性別でキレイに二分化してしまう『思考の偏り』『思考の癖』を見直そうというのが、ジェンダーの視点なわけです。その観点に立って、現実の性差別/人権侵害を減らしていく具体策を考え、実行していくのがジェンダー(ジェンダー・フリー)の立場なのです。

 伊田のかような定義は「ジェンダーフリー」に対する定義の中でも独特のものだが 、「人として」の「スタイル=生き方」や「感覚」についての啓発を、「ジェンダーフリー」という言葉をフックにすることによって行うこと、それを学者が肉付けして補強することで、「(5)行政の主導する啓発」に直接的・間接的にコミットしたということを意味する。

 「ジェンダーフリー」に基づく「啓発」内容の検討は、主に学校教育を対象として展開された。学校教育運動であるジェンダーフリー教育の具体的な実践として、男女を制度的、あるいは評価的に区別せず、そのうえで多様な選択肢を受け入れる制度設計および情操教育を行うというものだ。制度、環境に関しては、男子も家庭科を必修にする、男女を根拠に行う衣服・教材の区別を縮減する、両性とも「さん」付けに統一する、男女混合名簿の導入など、「隠れたカリキュラム」の是正をするというもの。評価面においては、生活指導や進路指導の場面において不必要な性差区別の導入を行わないこと、固定的な役割分担を定めないこと(常に男子が学級委員、女子が副委員、書記等と固定化をしない、運動部のマネージャーを女子のみに限定しない)など、「性差に捉われず個々の個性に基づいた評価・進路指導を行う」例がいくつかあげられる。制度・慣行に存在する性差に基づいたバイアスについて検討しつつ、その制度・慣行によって学習されるバイアスの形成、内面化を行わないようにすることが共通の特徴だといえるだろう。

 これらの実践の多くは、「ジェンダーフリー」という概念が用いられる以前から検討、実践されていたものを多く含むが、「ジェンダーフリー」の元に語られる機会も増えていく。このほか、「ジェンダーフリー」の実践的な試みの中に、TG(トランスジェンダー)当事者を招致して授業を行ったり、性教育との関連について論じるものなどの例もいくつか含まれる。

 こうして、現場での教育において「ジェンダーフリー教育」を取り入れていく団体や教師も増えていく。日本教職員組合(日教組)は、「ジェンダーフリー教育」「ジェンダー平等」のための取り組みとして、「小学校を中心に男女ともに『さん付け』で呼ぶとか、整列の仕方の混合、教室の座席の混合、運動会の混合徒競走、靴箱の混合、ロッカーの混合、入学式や卒業式での座席や呼び名順、男女で赤と黒などの色分けをしない、健康診断で視力や歯科などでは男女を分けない、などの取り組み」 を行っていく。

 また、数冊の教科書には「ジェンダーフリーという考え方もある」などの記述が行われた。開隆堂の家庭科教科書『家庭総合』(2004)には、次のような記述がある。

【セクシュアリティ】
 人間のセクシュアリティ(性意識や性行動)のあらわれ方は、男女によって、また個人によって、その差は非常に大きく、また多様であり、自分が他の人と違っていても、不思議ではない。
 人間には、両性の中間的な性の人や、身体的性と心理的性、社会的性が異なる(性同一性障害)人もいる。
 また、同性カップルの存在に対する社会的な理解も広がりつつある。

【ジェンダーに気づく】
 自分の将来の生活や進路、仕事を思い描くとき、自分のしたいことが.これまで耳にしていた「女らしさ」「男らしさ」と一致しないと感じたことはないだろうか。
 人間はもって生まれた性別(sex)の上に、育てられる過程で、「女らしさ」「男らしさ」を周囲から期待され、それを意識する・しないにかかわらず、社会的・文化的につくられた性差や性別意識を身につけていく。これをジェンダー(gender)という。たとえば「男なら泣くな」と言われて感情を抑えたり、個人差や得意・不得意にかかわらず、「男なら力仕事」「女なら家事」などと強制されたりするのがこれに当たる。
 しかし、自分とは何かを真剣に考えるとき、こうした固定的なジェンダーの枠組みに疑問をもったり不白由を感じたりするのは、ごく自然なことである。固定的なジェンダー(ジェンダー・バイアス)にとらわれず、そこから白由(ジェンダー・フリー)になる生き方について考えてみよう。

 また、一ツ橋出版の家庭科教科書『これからの家庭基礎』(2004)には、次のように記述されている。

 私たちは高校生になったばかり、将来にどんな夢を描いているのでしょう。「こんなことをやりたい」「何になりたいか」を考えるとき、どこかに男だから、女だからという意識がひそんでいないでしょうか。
 私たちの周りでは、赤ちゃんが生まれたとき、女の子には擾しくかわいらしい名前とピンクの洋服を、男の子には元気な雄々しい名前とブルーの洋服が用意されていることから始まって、「女だから当然」「男だからあたりまえ」というように、役割や行動様式が無意識のうちに決められ、期待されて育てられていないでしょうか。幼い頃感動し、今も心に残っている物語や絵本のなかには、女らしさや男らしさが描かれ、その主人公に共感を覚えて育つ。このことは、人生の最初にジェンダー意識を再生産する役割を果たすようです。
 ある生徒は、このようなジェンダーにとらわれない幼児に育ってほしいと、だれもが知っている『桃太郎』のお話を『ももからうまれたももこちゃん』と改題してジェンダーフリー(1)な絵本を創り、保育所の子どもたちに読んでもらったそうです。それは幼児の心のなかにどんな響きを与えたでしょうか。また、絵本づくりのなかで、強い桃太郎、鬼の暴カなどに葛藤した生徒は、周囲のジェンダーバイヤス(2)をどう感じるようになったでしょうか。
 (1) 女だから、男だからという理由で、人間の生き方や可能性が制限されない状態。
 (2) 性による偏見。

 このように、ジェンダーフリーという言葉に関する議論は、90年代後半から主に教育分野の関係者の間で行われていた。一方、2000年前後に差し掛かると、「男女共同参画」という言葉の登場と共に、行政分野でも用いられる機会が増え、同語を巡る情況も大きく変化していくこととなる。