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2-6 「バックラッシュ」の「成果」とはなにかの

 以上、2006年までの間に行われた「バックラッシュ」言説の構築プロセスを簡単に追ってきた。では、かようなクレイム実践は、具体的にはどのような政治的効果を持ったのだろうか。

 「過剰」な言説によって、普段はそのコミュニケーションに関心を持たない層をある単純化した枠組みの中に瞬間的に回収する「バックラッシュ」言説は、特定のトピックスを政治的課題として構築する「運動体」によって解釈、利用される。かような実践の効果として、地方議会や国会答弁などにも見受けられるように、「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」を「社会問題」にすることで、保守派側から争点化しやすくなった点はあげられるだろう(議題設定効果:McCombs & Shaw 1972 )。その結果、男女共同参画基本計画に否定的な注釈がつけられた他、「ジェンダーフリー」という文言が使いにくくなるなどの効果を生んだ。また、地方でも「男女共同参画条例」の争点化が観測されるようになる。

 具体的には、例えば市川市の例が分かりやすい。市川市では2006年まで積極的格差是正措置(ポジティブアクション)などを掲げるなど「先進的」と見なされていた条例を保有していたが、「過剰なジェンダーフリーを是正する」ことを理由に次のように変更された。

  • 「この条例において、男女共同参画社会とは、男女がその特性を生かし、必要に応じて適切に役割分担しつつ、互いが対等の立場で協力し、補完し合って、家庭、地域、職場、学校その他の社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保されることにより、個性と能力を最大限に発揮することのできる社会をいう」と定義づけ
  • 「男女が性別により直接的又は間接的に差別されることなく、その人権が尊重される社会」が「男女が性別により差別されることなく、その人権が尊重される社会」に
  • 「男女が自立した個人として、多様な生き方を選択することができる社会」→「男女が男らしさ、女らしさを否定することなく、互いにその特性を認め合い尊厳を重んじる社会」
  • 「「男は仕事・女は家庭」という固定的性別役割分業意識に縛られることなく、家事、子育て、介護等の家庭の営みに家族全員が関わり、その責任を共に分かち合える家庭」→「専業主婦を否定することなく、現実に家庭を支えている主婦を、家族が互いに協力し、支援する家庭」
  • 「家族一人一人がジェンダーに捕らわれることなく、それぞれの個性を大切にする家庭」→「家族一人一人が家庭尊重の精神に基づいた相互の理解と協力の下、それぞれの個性を大切にする家庭」
  • 「子を産むという女性のみに与えられた母性を尊重するとともに、育児における父性と母性の役割を大切にし、心身共に健康で安心して暮らせる家庭」が追加
  • 「妊娠期、出産期、更年期等の女性の生涯の各段階に応じて、適切な健康管理が行われる職場」→「妊娠期、出産期、育児期、更年期等の女性の生涯の各段階に応じて、適切な健康管理が行われ、母性及び子の最善の利益が尊重される職場」
  • 「男女が制度、慣習又はジェンダーに捕らわれることなく、平等に地域の活動に参画し、その意思決定ができる地域」→「男女がその特性をいかしつつ、平等に地域の活動に参画し、互いに協力していくことができる地域」
  • 「女性の積極的な社会参画により、女性の多様なリーダーシップが発揮される地域」→「男女の積極的な社会参画により、多様な能力が発揮される活力ある地域」
  • 「ジェンダーに捕らわれない、男女それぞれの人権を大切にする教育」→「男女が互いにその特性を尊重しつつ、それぞれの人権を大切にする教育」
  • 「性別に捕らわれない名簿を採用した教育」→「必要に応じて適切に名簿の作成が行われる等、区別と差別を混同すること」
  • 「性別に捕らわれない係、当番等の役割分担が行われる教育」→「男女別実施による運動種目の設定、男女別室での着替えなど、思春期の性別に配慮した教育」
  • 「セクシャル・ハラスメントのない教育」→「心と体のバランスや生命の尊厳に配慮し、発達段階に応じて適切に行われる性教育」

 この条例に象徴されるように、言説実践の反復は各「陣地戦」において一定の成果を得たかのように見える。いくつかの自治体は、「ジェンダーフリー」という文言について触れないとわざわざ明記しているが、これも「成果」に加えられるだろう。

 その背景には、「過剰なジェンダーフリー」が社会問題化され、広範に共有されているという実態が関わっていることは確かだ。浜井浩一は『犯罪不安社会』(光文社新書、2006)において、報道によっていかに実態とかけ離れた「治安低下」というリアリティが作られたかを以下のように述べる。

 現実の犯罪発生に関係なく、特異な事件をきっかけに人々のあいだで犯罪が増加し、治安が悪化しているという印象が広まり、犯罪不安が急速に高まっていくような現象は「モラル・パニック」と呼ばれている。
 社会学者マーシャ・ジョーンズ(2000)によると、モラル・パニックは社会の保守的な階層の中での、「社会が蝕まれている、社会的な秩序やモラルが崩壊しつつある。このまま放っておくととんでもないことになる。今すぐに手を打たなくては……」という危機感の高まりによって発生し、マスメディアの報道によってそれが市民に浸透していく。
(…)しかし、犯罪不安が、集中砲火のような報道による一時的なパニックであれば、それはモラル・パニックであり、気まぐれなマスコミの関心が移れば、騒ぎも次第に沈静化に向かうことが多い。昔、大騒ぎになったにもかかわらず、大きな事件を忘れている人も多いと思う。つまり、マスコミが不安を煽ることである種のパニックは発生するが、パニックに実態がともなっていない場合には、時間経過とともに沈静化し、忘れられるのが常態なのである。
(…)ところが、パニックに行政が対応して制度変更を行うと、パニックの原因となった問題は恒常的な問題と認識され、行政的な手当ての対象となるため、社会問題そのものが固定化していくことになる。
 ジョエル・ベストは、マスコミ報道によってつくられたモラル・パニックが、市民運動家(支援者等の「アドボケイト」と呼ばれる人々)行政・政治家、専門家の参加に拠って、一過性のパニックとして終わらずに、新たな社会問題として制度に組み込まれ、恒久的な社会問題として定着していく過程を分析している。
 彼は、これを「鉄の四重奏」(直訳すると鉄の四角形)と呼んでいる。
 マスコミが問題を探し出して報道し、市民運動家が社会運動の中でこの問題を取り上げ、政府に対策を求め、行政・政治家がこれに対応して法律等を制定し、医学・法学・心理学などの分野の専門家が、学問的な権威としてこの問題を解釈するという一連の作業が、パニックを超えた恒久的な社会問題を作り出すとベストは指摘している。

 この分析は犯罪を対象にしたものだが、ジェンダーフリーの問題や「教育問題」など、過剰な「不安」をフックにすることで動員をはかる社会問題一般に当てはまるだろう。「過激な性教育や行き過ぎたジェンダーフリーが蔓延している」というパニックを利用し、マスコミが報道する過程で一般には流言飛語の部分が拡大され、それを元に社会運動や条例化が行われる。各地条例が争点されているのは、他でもなくそれが「争点」として構築されているからだ。

 社会問題の構築は、実際にその問題があるかないかとは異なり、何が係争の対象になるかには必然性はない恣意的なものであるといえる。例えば「男女同室着替え」自体は70年代頃から既に多数存在していることが確認されており、「教育予算の不足」などが指摘されるほか、そもそも公立学校に男女別の更衣室を設置すべしとする建設基準が設けられていないなど、元々現象としては存在していたものであり、慣習として浸透しさえしていたように思われる。それが「行き過ぎたジェンダーフリーの実例」として社会問題として突如構築されるわけだが、あくまで「行き過ぎたジェンダーフリー」の例として係争化されたためか、その後に保守団体が更衣室を設けることを請願する社会運動にコミットしたという話は聞かない。

 かように社会問題として争点化されることで、各地条例に対する運動が盛り上がった面は「効果」として挙げられるだろう。しかし例えば、男女共同参画基本計画の第二次案も、各自治体の条例による「抵抗」も、「基本計画の根本的な見直し」からは程遠く、むしろ曖昧な表現を避けさせることで議論の精緻化に加担したと部分さえあると言える。国政では、再三のクレイム申し立てによっても基本法の見直しは行われず、安倍が首相になってからも大きな方向転換は観測されない。仮に「ジェンダー」の文言が法文から削除されていたとしても、あるいはさらに「区別を差別と見誤ることなく」「専業主婦を否定することなく」「父性や母性の重要性」などの文言が条例に加えられたとしても、「雇用機会」や「雇用環境」「女性の再就職」に関する政策から撤退する、あるいはあからさまな区分けを正当化することは出来なかった(出来ない)だろう。

 また、実際にこれらの条例に、例えば「景観法」や「迷惑防止条例」「路上禁煙条例」「淫行条例」「青少年育成条例」など、具体的な規制が明記されている条例ほどの拘束力を、各個人や各世帯のライフスタイル、教育方法ほかに対して与えることは困難だろう。仮に拘束力を持たせるとしても、「法律の範囲内において制定される」(憲法94条 および地方自治法第14条第1項 )という性質を持つ条例は、国法よりも下位に位置付けられるという法的な形式的効力の観点から 、基本計画の方針は遵守されるからだ。それどころか、どれほどの「抵抗」を示したとしても、結局は「男女共同参画基本条例」という名の条例は策定されるのであり、条例そのものを作らないという「抵抗」はさほど観測されないのである。そもそも同条例は、それ自体としては自治体運営の指針表明以上の効果を(個別の議論において主張の準拠点として持ち出される場合などを除き)持ち得ないと思われる。その意味で条例の変更や否定的注釈などは、「先進的」な状態から、「出来うる限りスローモーな漸進」へと変更された程度であり、結果として「男女共同参画行政」のコミュニケーションそのものを進めることに加担しているといえよう。

 「バックラッシュ」を起こすことで、保守運動はどのような効果をあげたのだろうか。市川市の条例や基本計画の否定的注釈などについて、保守派は「勝利」と位置づけているが 、それは「象徴のレベルでの失地回復」 によって「運動」を継続するための(今後のクレイム申し立ての準拠点にすることを含んだ)動機を確保する以上の「効果」が得られるかどうかは疑わしい。条例の文言が異なっていたとしても、行われる政策などに大きな差異がなければほとんど意味がないからだ。「専業主婦を否定することなく」と書かれていようと、「ジェンダーに捕らわれることなく」ではなく「男女がその特性をいかしつつ」が書かれていようと、例えば保育所の導入などに関して具体的な方法論に大きな違いが出てくるわけではないし、そもそも予算がほとんど付かなければ何も行われないという点で差異がない。あるいは逆に、国が策定した基本方針に忠実で「急進的」な条例を作ったとしても、結局は各地元のニーズをめぐった別の「運動」が行われなければならない点で変わりはないだろう(「理解ある」条例が作られた後に、ほとんど予算が付かず具体案に手が付かなかったり、具体案に「合計特殊出生率の目標値」を掲げるなどの地域もある)。

 また、「男女がその特性をいかしつつ」というような文言を評価する保守派も、「差別的な文化は当然なくしていかなくてはならない」「専業主婦も働く女性も同等に認めよと言っているのがわれわれである」と述べ、行政による「一方的な価値観を強制」 することに反対とするスタンスを一応はとっている。あるいは、「男女平等に反対するわけではない」と前置きをしながら「真の男女平等」を主張するように、仮に「対抗」のために持ち出された便宜的な語彙であったとしても、制度的な格差を肯定したり、完全分業の法的実行を主張することまでは踏み込めない情況のままだ。

 つまり、過剰なケースを構築することで「男女共同参画」が擬似的な形で社会問題化され、議会などで係争の対象として設定されたとしても、「男女平等を(制度的に)いかに実現するか」というアジェンダに基づいたコミュニケーションは継続されているということだ。フェミニストが各定義に対して対抗クレイムを発していくことが既に批判対象の設定したアジェンダに乗っているという面はあるが、既に保守派は「男女平等」をめぐるコミュニケーションのプレイヤーとして位置づけられ、そのコミュニケーションを根本的に否定することは出来ないでいる 。保守派は「ジェンダーフリー」を否定することで「男女平等」の内容に関する定義づけを優位に進めようとしたが、そのことは既に保守派にとっても「男女平等」が重要な課題であることを示唆すると同時に、「男女平等」を係争のポイントにすることでそのプライオリティの向上に加担している。バックラッシュが生じても、アジェンダが残り続ける以上は、対象となったコミュニケーションはそのまま継続する。しかも、その現象を直ちに歴史化したうえで、さらに精緻なものと化したうえで、である。

 各地条例をめぐる「運動」について考えてみよう。保守派は「日本全国にジェンダーフリーや男女共同参画の過激な実例がある」という動機付けの元に、クレイム実践を行っている。それは同時にフェミニズム運動にも「バックラッシュ派と闘う」という動機を与えることで、コミュニケーションの継続に加担する。それらの言説は、元々「運動」にコミットしていない層を「過剰に」動員するほどの効果は挙げていない。例えば徳島県議会に提出された「『男女共同参画社会基本法』及び『同基本計画』の改廃を求める請願」など、各地で展開された条例案をめぐっての抗議や応援のFAX、メール、郵便などは互いに数十~数百ずつで、双方のメーリングリストや掲示板でのやりとりを観察するに 、「運動体」によるものがほとんどであることが分かる。春日市議会あてに、「男女共同参画を推進する条例」の早期制定を求め3団体が請願書と署名約2万2600人分を提出するというケースと比較しても、「署名」のようなイージーな形で巻き込むことはあっても、敷居の高い「抗議」まで行う層はさほど拡大していないと思われる。実質的には、バックラッシュを経た後も、一部の運動体同士の陣取り合戦以上に発展していないとさえいえるだろう。

 各地で起こっている「バックラッシュ」と呼ばれている騒動はどうか。フェミニストである上野千鶴子が講演会を拒まれた国分寺市の事件や、フェミニストの書籍が図書室から排除された福井県の事件は、フェミニズムにとって「バックラッシュ」の象徴的な例として語られる 。しかしこれは、果たしてどこまでがバックラッシュの効果だといえるだろうか。ある派閥が自らの規範にとって望ましくない思想の排除を目論む小さな小競り合い自体は、バックラッシュと無縁に起こっており、これらの事件には「過剰な人々を瞬間的に巻き込む」という要素が見当たらない。

 もちろん一方で、社会問題化されることによって「運動体」の関心をひきつけることには貢献しただろう。元々保守政治に関心のあった「運動体」が、ジェンダーフリーなどを争点として認知することで、各地で係争化していくという点においてである。例えば市川市のケースは、日本政策研究センターから講師を迎え、市川市の保守系4会派が1年半の非公開勉強会を行い、保守系4会派の代表が提出した同条例案を採択したという流れがある。これ自体は極めて個別的な係争の結果だといえるだろう。社会問題化することで、「反フェミニズム」のコミュニケーションを回路づけるという意味においてが効果を持ち、一時的な世論の表出の向きを形作ることは出来るが、潜在的なプレイヤーそのものを増加させること、あるいはコミュニケーション自体を止めることにはさほど貢献しないといえるのではないだろうか。

 バックラッシュは、単純化を伴った社会問題の構築(擬似問題化)によって、集団を瞬間的に対抗コミュニケーションの動機として動員する。但し、瞬間的に動員された集団は、その後継続的にコミュニケーションに参画し続けるわけではない。




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