※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。


1-4 「男女共同参画」の誕生

 まずは「男女共同参画」という言葉の誕生の経緯を記そう。世界の女性政策を考えるメルクマールになる「国際婦人年」(1975年)の4年後の1979年12月18日、第34回国連総会にて「女性差別撤廃条約」 が採択された。これは「女子に対する差別が依然として広範に存在している」現状を是正するべく「女子に対するすべての差別を禁止」し、「男女の平等の原則の実際的な実現を法律その他の適当な手段により確保する」というもの。この条約への締約国は、条約の実施状況について、条約を批准してから1年以内に第1次報告を、その後は少なくとも4年ごとに報告を提出しなければならなかった。

 日本は1980年7月17日、政府代表が同条約に署名し、1985年6月に正式に批准することとなり、その翌年(1986年)の4月に男女雇用機会均等法が施行。その後も「男女の完全な平等の達成」のために、適当な措置をとる必要が日本に生じた。批准まで5年がかかった理由はいくつかあるが、主要な理由を二つあげよう。ひとつは同条約と当時の日本で標準的なモデルとされていたライフコース(個人が一生の間にたどる道筋)とのギャップが大きかったこと。当時の日本は高度成長期から消費社会、バブル経済に差し掛かる時期で、70年代後半から80年代前半にかけて専業主婦の割合が最も多い時期となり、「男は仕事、女は家事と育児(あるいはコピーとお茶汲み)」という性別による差異化がまだ自明視されていた時代だった。もうひとつは、労働や教育、国籍などについて触れた男女平等に関する法律がなかったこと。そのため、同条約を批准するためには国際結婚で父親が日本人でなければ子どもは日本国籍をとれないという父兄血統主義の国籍法や、教育における男女別課程(具体的には家庭科・技術科)の見直しや、男女の雇用差別をなくすための具体的な法規の制定などの国内法の整備を共に考えておかなければならなかった。国籍法・戸籍法は1984年に改正され、家庭科共修は1986年の教育課程審議会で、小中高で男女共修にする方針がようやく示され、雇用上の差別をなくす法規は「男女雇用機会均等法」として1985年に可決されることとなった。

 行政が大きな動きをみせたのは90年代半ば頃。1995年9月、北京にて開催された国連会議、「第4回世界女性会議」(北京会議)において「北京宣言及び行動綱領」が採択され、1996年7月には男女共同参画審議会が答申した「男女共同参画ビジョン」が公表。そこでは「男女共同参画社会の実現を促進するための基本的な法律についてすみやかに検討を進める」とされており、政府はこのころから「男女共同参画」という用語を中心的に用いだす。同年12月に男女共同参画推進本部は、「男女共同参画2000年プラン-男女共同参画社会の形成の促進に関する平成12年(西暦2000年)度までの国内行動計画-」を策定した。当時の与党は橋本政権であり、自民党は社民党(党首は土井たか子)と新党さきがけ(党首は堂本暁子)と連立与党を組んでいた。3党の合意事項には男女共同参画を推進することが盛り込まれており、基本法の制定を目標として掲げていた。

 1998年2月、男女共同参画審議会基本問題部会基本法検討小委員会が設置。同委員会は6月に「男女共同参画社会基本法の論点整理」を報告。7月末までに全国から約4000件の意見が寄せられるなど大きな注目を集めた。この意見をまとめた答申を元に、政府は1999年4月に基本法案を提案、6月に男女共同参画社会基本法が公布・施行されることとなる。2001年には行政改革は橋本内閣から小渕内閣へ引き継がれ、省庁が22から12になる際、新たに内閣府が誕生し、男女共同参画局が設置され、この中に国内本部機構「男女共同参画会議」がつくられた。

 1999年6月に生まれた男女共同参画基本法は、女性差別撤廃条約の第2条に規定されている「男女の平等の原則が自国の憲法その他の適当な法令に組み入れられていない場合にはこれを定め、かつ、男女の平等の原則の実際的な実現を法律その他の適当な手段により確保すること」という条文に応じるものである。2000年には男女共同参画基本計画が策定され、以降、各自治体で男女共同参画の促進に関する立法が相次ぐこととなる。それと並んで、「男女共同参画」という言葉もメディア上に登場する頻度が増えていった。