第8回

アオウオ

 火曜日の夜にそれは起こった。

 その日、ハルカはなんとか元気を回復したものの、ほとんどベッドの中で勉強をして過ごした。

 これまで、できるだけ考えないようにしてきたが、中学三年の夏休みともなると、そろそろ学校の補習に塾の夏期講習など、いろいろ忙しくなってくるのだ。

 いまでは明らかに娘に不審の目を向けている両親の心証を、少しでもよくするためもあった。

 メギ曜日に夢中となっていたここ数ヶ月の間に、すっかり頭が錆びついているようで、なかなか調子が戻らない。だがそれが、今のハルカにはかえってありがたかった。

 あの恐怖を少しでも紛らわせようと、普段は嫌々の数学に没頭した。

 「二等辺三角形の両角は等しい」という、よくわからん証明をようやく片付けると、すでに11時を回っている。ハルカはノートを放り出すと、ベッドに倒れこみ、お気に入りのタオルケットにくるまった。

 外は雨だった。夏らしくない、じっとりとしめった嫌な雨だ。

 湿気のせいか、体の節々がまだ痛む。雨が窓をたたく音が、いつまでもうつろに響いていた。

 それを、最初は夢かと思った。

 しかし突然そうでないことに気付いた。

 ぎょっとした。

 あの感覚があった。

 メギ曜日で感じていた、あの独特の違和感だ。

 だが今日はまだ火曜日だ。メギ曜日が来るはずはない。

 しかし、ハルカの全身の感覚は、周囲の異常を強く告げていた。

 起き上がって様子を確かめようとして、ハルカはさらに気付いた。

 体が動かなかった。

 目は開いている、耳も聞こえているようだ。しかし体はピクリともしない。

 これは何だ。全身の毛が逆立った。

 あたりは闇に閉ざされている。おそらく夜中過ぎなのだろう。空気はじっとりと湿って、水の中にいるように不快だった。菫色の薄明がないのだけが、いつもとは違っていた。

 (なぜだ、今日は日曜ではない)

 (メギ曜日が来るはずはない)

 疑問が駆け巡った。

 窓の外が、一瞬青白く光った。その色に見覚えがあった。

 光はすぐに消え、また闇が戻ってきた。

 恐怖に凍り付いて、ハルカは全身の感覚を研ぎ澄ました。

 しばらくして玄関の方で、物音がした。

 カリカリと金属をこすり合わせるような嫌な音だ。

 ハルカはいまや確信していた。間違いない。あれだ。

 音はしばらく続き、突然にやんだ。

 部屋の空気が急速にじっとりと湿ってきた。

 すでに家の中まで入ってきたのだろうか。音はなく、ただ気配だけが重苦しくのしかかって来るようだった。

 今度はずっと近くで音がした。ドアのすぐ外のようだった。動かない顔のかわりに、眼球を必死でドアのほうに捻じ曲げると、ドアを突き抜けて入ってくる、何かが見えた。

 液体のように表面に波紋を浮かべ、大きくたわんだドアの、その中央から、黒くて鋭いものが、ぬるりと突き出されてきた。濡れたように光っている。

 どっと湿気が流れ込んできた。部屋の中は、もうまるで水中のようだ。

 巨大な何かが、錐で穴を押し広げるようにドアを突き抜けて、部屋の中に入り込んできた。

 あの「目」が見えた。

 「アオウオ」がそこにいた。

 それは、ハルカの部屋一杯の、それ以上の大きさがあった。ベッドの傍ら、ハルカの真横に、砲弾のような巨体が浮かんでいる。体の端は、壁を突き抜けて、部屋からはみ出していた。

 あまりの大きさに全体像が掴めない。

 ハルカは恐怖に凍りつきながらも、その細部をつぶさに観察していた。

 黒くて鋭い先端部は、鳥のクチバシのようだ。獲物に穴をあけて内容物を吸い出すためのもののようだった。なめらかな表面は、モルフォ蝶の鱗翅を思わせる、金属光沢を備えた羽毛のようなもので覆われていた。目も覚めるような青一色だった。光線の加減で、コバルトから藍、セルリアンブルー、スカイブルーと、あらゆる青に変化した。

 全身から、かすかに霧を噴出しているように見え、それによって絶えず周囲に湿気を満たしているように見えた。

 巨大な一つの目が、生物としてはまったくありえない場所についており、それはやはり平面的な模様のようで、生物的器官とは思えなかった。

 その虚ろなまなざしは、「死んでいて生きている」という、説明のつかない強烈な印象を与えた。

 アオウオは、鋭い先端部をしきりと小刻みに振り回すだけで、獲物であるはずのハルカに襲いかかろうとはしない。まるで何かを探しているかのようだった。

 突然、あの脳を焦がすような思考が、自分の中から湧き上がってくるのを感じた。

 いまこそハルカは理解した。これは奴の攻撃の手段なのだ。アオウオは、人間の思考に、外から入ってきて操るのだ。

 (体を動かしたい)

 (体を動かしたい)

 (体を動かして動くのだ。)

 今ここに少年はいない。ハルカはこの思考攻撃に、自分が抵抗できないことを知っていた。そしてすぐにそんな考えすら消し去られた。

 (体を動かしたい)

 (体を動かしたい)

 (体を動かして動くのだ。)

 (そうしたらどんなに素敵だろう)

 (自分から体を動かしさえすれば、なにもかもうまくいくのだ。)

 ハルカは、心の底から、それこそ全身全霊の力で体を動かそうとした、しかし果たせなかった。体はまるで自分のものではないようで、相変わらずピクリとも動かないのだ。もどかしくてたまらなかった。心があの冷たく青い感覚様の到来に舌なめずりをしているのが痛いほど理解できて、悔しくてならなかった。

 (早く動くのだ。)

 (体を動かして動くのだ。)

 (体を動かして動くのだ。)

 ハルカは、体一つ満足に動かせない自分のふがいなさに、ただ泣いた。生まれてから今に至るまで、こんなに悲しく、悔しいことはなかった。

 体を動かして動きさえすれば、すべてはうまく行くと言うのに!


カンバス9

 どれくらい続いたろう。

 ハルカはボロ雑巾のようにくたくたになって、水曜の朝に目覚めた。

 アオウオの姿はなかった。

 雨はすでに止んで、強烈な7月の太陽が、窓から差し込んでいた。

 顔は、一晩中流した涙と鼻水でズルズルになっていた。

 ほんのついさっきまで、自分が心からアオウオの命令に従いたかったこと、それが果たせないのが本気で悔しかったことが、まざまざと思い出された。

 それどころか、今も心のどこかで、あの怪物をまるで恋人のように懐かしく、慕わしく思っている自分に気付いて、ハルカは改めて戦慄した。

 部屋中にまだ湿気が残っている。布団やパジャマはじっとりと濡れて、肌にまとわりついていた。

 ハルカは、恐怖から逃れるようにベッドから転がり出ると、床の上に小さくしゃがみこんで震えた。

 床のカーペットには、巨大な砲弾型の跡が、黒く湿って残っていた。洋服ダンスや机は、夏だと言うのに一面にびっしりと結露している。

 窓ガラスには、濡れたカーテンが一面に張り付いていた。

 夢だと思いたかったが、夢ではなかった。

 アオウオが追って来たのだ。

 震えながら思った。

 (金縛りでよかった)

 (動けなくて本当によかった)

 もし動けたら、たちどころにあれの命じるままになっていたろう。そうしたら、こうやって無事に朝を迎えられなかったに違いない。

 そこまで考えて、ぎょっとした。

 メギ曜日ならどうなる?

 今度、メギ曜日に目覚めたら、そのときこそ終わりではないのか。しかもそれは、わずか5日後のことでしかない。

 いや、メギ曜日まで無事でいられる保証すらない。

 現に今日はまだ水曜日ではないか。

 震えが止まらなくなった。

 なんとかしなければ!

 台所から母の呼ぶ声が聞こえた。

 ハルカは、なんとか考えをまとめると、のろのろと立ち上がった。

 こんなところで震えていても仕方がない。

 また変に怪しまれて、部屋で寝ているよう言われたり、病院に連れて行かれたりするのは避けなければならなかった。

 そんな時間はない。

 ハルカは震える手で窓を一杯に開け放ち、湿気と恐怖とを七月の太陽で追い払った。

 父母の前でなんとか元気を装い、真っ青な顔はまだ癒えないケガのせいにして、味のしない朝食を胃袋に流し込み、ハルカは郷土博物館に向かった。

 「0犬」の名前が共通していたのであれば、あの「アオウオ」も、ひょっとして伸吉の記録にあるのではないか、そう思ったのだ。

 あの恐るべき怪物に備えるための、何かの手がかりがあるかもしれない。

 いや、ないと困る。

 頬に大きなシップを貼ったハルカの姿に驚く野村さんに、土曜のことを手早く詫びると、何かこれまでに見落としていた情報がないかどうか、あらためて信吉文書を徹底的に調べなおしていった。

 これまであまり気に留めていなかった、文書全体を包んでいた麻の袋にも注意してみると、文書が保管されていた際のものと思われるマジックの書き込みを見つけることができた。

 「寄贈」 「後藤濱代」

 他にも住所のようなものもあったが、こちらは滲んでよく読めない。

 これが、おそらく文書を保管していたという信吉の姉の名なのだろう。これはこれで新発見だが、今はあまり役に立ちそうになかった。

 ハルカは焦りつつ、これまでカビのせいであまり解読の進んでいなかったノート5、8、カンバス7、9、そしてスケッチブックなどに手をつけることにした。

 真っ黒なカビに覆い尽くされたカンバスやノートは、相変わらずほとんど判読不能だったが、手がかりも多少あった。

 「0犬」の描かれたのはカンバス8。そしてサイズからしてカンバス8と9は連作のように見えたことを思い出したのだ。

 筆箱から定規を取り出した。よくある短いプラスチック製だ。

 ハルカは野村さんの目を盗むようにして、カンバス9の表面を覆うカビの層を、その定規で強引にこそぎ落とした。

 美術品には許されないことかもしれないが、こっちは命がけだ。

 定規の角に削られて、カビに侵された絵の具の表面がみるみる剥がれ落ちた。絵が台無しだ。冷や汗が出た。だが、少なくとも描かれた何かの全体像は、ぼんやりと明らかになっていった。

 全体の四分の一ほどを傷だらけにした時点で。ハルカの手は止まった。

 あの「目」が、そこに描かれていた。

 相変わらずの稚拙な絵だったが、見間違いようもなかった。

 画面端にエンピツで書かれた字にも気付いた。

 「青青魚魚(アヲウヲ)」

 それは、未知の深海の生物か、あるいは何か熱帯植物の種子のように見えた。優美な曲線を描く、砲弾のような体があり、その先端近くに、あの「目」とクチバシがついている。

 昨夜はっきりと見ることの出来なかった、その異様な全体像は、ハルカを戦慄させるに十分だった。

 ハルカは必死になって、絵の周囲をさらに削っていった。何か弱点は? 撃退法が書いてありはしないか?

 だが、この乱暴な処置は諸刃の剣だ。エンピツの字は他にもあったが、ともすれば絵の具の層とともに剥がれてしまう。

 ・・・水中ニ潜・・・・・精神的・・・電気・・・・・断片的にそんな単語が読み取れた。

 (もっとだ)

 (カビだけ薄くそぎとれないか?)

 焦れば焦るほど画面の傷はひどくなる。

 「ちょっと君!」

 野村さんの怒声が部屋に響いた。



あと五日

 ハルカは郷土博物館そばのコンビニで、駐輪場にへたりこみ、買ったはいいが食べる気にもならないアイスキャンデーを咥えながら絶望していた。

 博物館を叩き出されたのだ。

 精いっぱい謝ってみせたが、あれだけの狼藉をしでかしては、もう二度と伸吉文書に近づけてはもらえないだろう。家や学校に連絡されなかっただけでも幸運に思わなければならなかった。

 (どうしよう)

 (どうしたらいい)

 周囲は腹立たしいまでに、さわやかな夏の陽の中にあって、口の中に広がる甘ったるいオレンジ味が神経を逆なでした。

 (今日も夜が来る)

 (青青魚魚が来る)

 (今日来なくても五日後にはメギ曜日が来る)

 (明日から夏期講習も始まる。)

 まとまりのつかない混乱した思考が、ぐるぐると頭の中を駆け巡った。寒くもないのに足が震えるのはこういう時かと思った。

 (どうしよう)

 (どうしたらいい)

 (どうもこうもない)

 (それしかない)

 ハルカは立ち上がり、アイスキャンデーを噛み砕いた。

 こうなったら、あの少年を探し出すしかない

 名前さえ知らない、あの黄色の騎士を。

 あの少年をなんとしても見つけ出して、助けを請うしかない。

 あと五日。

 夏期講習の会場は賑やかだった。

 JR蒲田駅前、塾の真新しいビルの一室は、エアコンがよく効いて心地よい。

 普段会わない他校の生徒とも顔をあわせるためか、ハルカたちはおたがい緊張の反面、興奮して、あちこちで他愛のない話題に盛り上がっていた。

 昨日のテレビドラマに、サッカー、プロ野球、そして他校の誰かの恋の行方。

 ハルカは、現在自分の直面している危機的状況と、周囲の能天気さとの、あんまりなコントラストに頭がくらくらした。

 「あんた大丈夫?」

 隣のクラスメイトが、ハルカの顔を覗き込んで心配そうに言った。一緒に郷土博物館に行った彼女だ、やはり一緒に夏期講習に参加していた。

 「顔どしたの、なんか怖いよ?」

 多分そうなのだろう。頬のシップもそうだが、緊張で目が釣りあがっているのが自分でもわかっていた。ハルカは苦労して顔に笑みを浮かべ、できるだけ気軽そうに話した。

 といってもうまい話題など思いつかない。つくわけがない。とっさに、このあたりで自転車に乗った全身黄色の男の子とか見たことがない、とか聞いてみた。当てになるとも思えないが、この状態で無理にアイドルの話をするよりはマシだ。

 「あるよ。服も帽子も黄色いんでしょ」

 あっさりとそう返されて、ハルカは拍子抜けした。

 「あれ男の子なの? 『イエローおばさん』って、有名だけど」

 ハルカは驚愕して彼女の肩を揺さぶり、さらに情報を聞き出した。

 「いやー、自分じゃ見たことないから、詳しくは知らないけど。確かおばさんだって聞いたよ。大井町をフラフラしてるって」

 さらに意外だった。大井町というのは蒲田からJR京浜東北線で二駅、品川のとなりの街だ。前回二人が出会った「ガス橋」を起点に考えると、かなり遠い。自転車なら、ぎりぎりで行動半径と言えなくはないが。

 突然考え込んだハルカを、彼女は心配そうに見守っていた。さぞかし変に思われていることだろう。だが今はそれどころではない。

 それに、おばさんとは?

 背格好からすれば、たしかに少年もそう見えるかもしれないが、別人ではないのか。しかし、あんな変な格好をした人間が、そう何人もいるだろうか。

 ハルカは、講義もそっちのけで自分の考えに没頭した。まだ頬に大きなシップを貼り付けたままの、見るからに普通でない様子のハルカを、講師があえて注意しないのが助かった。

 ハルカは、休み時間の合間に、さらに周囲の話を聞いて回った。

 こういう時は、他校からも生徒が集まっているのがありがたい。

 しかし、「黄色い服と自転車」というキーワードでは、同じような話しか聞くことはできなかった。やはり「イエローおばさん」の印象が強烈なのだろう。

 新たに得られた情報では、

 大井町駅の西口商店街あたりに、夕方出没するらしいこと。

 自転車も服も全身まっ黄色であること。

 スカートではなく、作業着のようなものを着ているので断言できないが、多分小柄なおばさんらしいこと。

 ハルカは迷った。まず信じてよいものか。信じるとしても、さてどうするか。

 しかし講義が終わって、結局ハルカは大井町に行ってみることにした。

 手がかりが他に得られない以上、まずはそれを確認してみようと考えたのだ。

 どうせここは駅前だ。往復の運賃300円を払うのはちょっと痛いが、電車なら10分もかからずに行ける距離だった。



イエローおばさん

 大田区のどこに行っても流れてくる、五時を告げる「夕焼け小焼け」のチャイムを聞きながら、ハルカは大井町駅に降り立った。

 大井町は、品川に近いためか、蒲田より少し駅ビルが立派だ。しかしやはりまだ下町の範疇であることに変わりはない。

 「イエローおばさん」が出没するという西口商店街は、特にまだ再開発が進まず、寂れた個人商店が建ち並んでいた。

 一時間経った。

 歩けば十五分ほどで端まで行けてしまう小さな商店街を何往復もして、ハルカは次第に焦り始めた。「イエローおばさん」は影も形も見せなかった。

 考えて見れば、いつもここに現れるという保証はないのだ。

 七時前には帰宅しないと、また親に怪しまれる。六時半がぎりぎりのタイムリミットだった。

 あたりは、惣菜を買い求める主婦や、ゲームセンターの前にたむろする中高生でごったがえしている。なにも変わらない、いつも通りの日常がそこにあった。

 誰も信じないであろう危機に、ただ一人脅え、全身黄色の変質者が現れるのを、ひたすらに待ちわびている自分が、まるで阿呆のように思われてきた。

 夏の陽が、少しづつ地平線に近づいていた。六時十五分になった。

 あと十五分ここで待つか、それとも移動しようかと、考えを巡らせているハルカの視界の隅に、ふと、それは飛び込んできた。

 いた!

 黄色い自転車、黄色い服。

 100メートルほど向こうの角を曲がって現れつつあった。

 ハルカは、走り出しそうになるのをこらえながら、早足で「イエローおばさん」に向かって行った。

 期待はすぐに落胆へと変わった。

 自転車が違う。

 見間違えるはずのない、あの改造車ではなかった。ごく普通の、古びた買い物用自転車が、黄色のペンキで汚く塗りつぶされていた。ハンドルの前カゴに、潰した空き缶のようなものが一杯に詰められているのが不気味だった。

 乗っているのも、やはり男性ではなさそうだった。ずんぐりした体形は中年女性に特有のものだ。

 黄色い作業着に、黄色い軍手、黄色い靴下、黄色いサンダル。衣服はどれも、薄汚れ、くたびれていた。

 顔はよく見えない。行商のおばさんがするような、覆いのついた、黄色い帽子をすっぽりと被っていた。ハルカは思わず立ち止まり、出しかけた足を引っ込めた。

 (この人は、おかしい)

 直感でそう思った。

 自転車にまたがったまま、漕ぐのでなく、片足をペダルに、もう片足で地面を蹴るようにして、ふらふらと危なっかしく進んでくる。店の一つ一つに立ち止まっては、頭を小刻みに動かして中を覗きこんでいる。いかにも不審だったが、周囲の店員も客も、慣れた様子で、さして気にも留めていない様子だった。

 呆然として見守るハルカの方に、どんどん近づきつつあった。

 (どうしよう)

 さっきまで、あれだけ待ち焦がれていたはずなのに、いざ目にした「イエローおばさん」はあまりにも異様で、とても気軽に声をかけられそうにはなかった。

 とうとう目の前に来た。

 洋菓子屋のショーウインドーを覗き込んでいる。なにかひっきりなしにぶつぶつと言っているのが聞こえてくる。もうすぐ六時半だ、このまま帰るわけにはいかない。

 ハルカは目の前を通り過ぎようとする「イエローおばさん」に、思い切って声をかけた。

 「あの」

 反応はない。

 「あのっ、すいません。」

 少し大きな声を出すと、頭をすっぽり覆っていた黄色い帽子が、ゆっくりとこっちを向いた。

 はじめて顔が見えた。

 老婆だった。

 いや、年齢は判然としない。顔中に深い皺が刻まれていたが、肌はバラ色で、妙なつやがあった。強い光をたたえた小さな目が、落ち着きなく瞬いている。ハルカの方を見ているようで、実はどこも見てはいない。もちろんあの少年ではない。似ても似つかなかった。まるで、何か強い恐怖や、悲しみといったものに漂白されたような、不幸で、不吉な顔だった。

 その口が素早く開いた。

 「インチキさん?」

 「え?」

 「ダイトのインチキさん?」

 意味がわからない。

 ぼんやりとした、定まらない視線のまま「イエローおばさん」は、なおも早口で言った。

 「19ダイなの?」

 19台? それとも19代なのだろうか?

 そんなことを一瞬考えて、泣きたくなった。とても会話などできそうにない。しかし、ここまで来て、何の成果もなく帰るわけにもいかなかった。

 「あの、すいません、お子さんとかで…」

 「クミのひと?」

 「黄色の服を来た・・・お子さんじゃなくてもいいんです、あの。」

 「ラケシ? ラケシなの?」

 やはり会話にならない。

 ふと、あることに思い至った。

 それは恐ろしい考えだったが、ハルカは思わず震えながら、ゆっくりと「イエローおばさん」の耳元に近づいた

 囁いた。

 「ゼロイヌ」

 「イエローおばさん」の落ち着かない視線が、急に止まった。信じられないと言う目でハルカを凝視して、小さく震えだした。

 ハルカは慎重に言葉を選ぶようにして、さらに言った。

 「アオウオ」

 「見た?目、目、あの青い目」

 その瞬間、「イエローおばさん」の目が、ぎょっとするほど丸く剥き出された。

 続いて、しぼり出すような絶叫が、商店街に響きわたった。

 「イイイイイイイイイイイイイ!」

 敷石の上に転がり、「く」の字型に折れ曲がって「イエローおばさん」は吠えた。

 自転車が倒れ、カゴに積まれた空き缶が、耳障りな音を立てて路上にばらまかれた。

 ハルカは、その音に縛り付けられるように動けなくなった。

 洋菓子屋のおばさんが、あわててこちらに駆け寄ってくる。「イエローおばさん」を抱え起こし、ハルカの方をきつい目でにらみつけた。

 「あなた、どこの学校? この人、見たらわかるでしょう! 恥ずかしくないの?」

 足が震えて、何も言えなかった。あたりに人が集まっている。

 ようやく足の裏を地面からひっぺがすと、ハルカは後も見ずに、その場から逃げ出した。

 「…を、…るよう!」

 幼児のように泣き喚く「イエローおばさん」の声が、背後に響き、いつまでも耳にこびりついて残った。

 駅までの道を走りながら、ハルカの頭の中ではおそろしい考えが渦を巻いていた。

 偶然かもしれない、しかしあれは、

 犠牲者

 ではないのか?

 発車寸前の京浜東北線に飛び乗り、ハルカはようやく蒲田駅まで帰って来た。

 駅前の大時計は、もう七時近くを指している。

 空は、ばら色の夕闇に覆われつつあった。

 また夜が来る。

 次のメギ曜日までは、あと四日しかなかった。

第9回へ続く(7月17日公開予定)

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最終更新:2010年10月17日 20:02