第6回
0犬
0犬は四匹。
いや、なんと数えるべきかはわからない。
それは熊ほどもある巨大な塊で、伸吉の絵にあった通りの、生物かどうかも判然としない奇怪な物体だった。
あの絵が抽象画などではなく、この想像を絶する何かを、伸吉ができるだけ正確に描き残そうとしたものであったことを、ハルカは今はっきりと理解した。
全体の濁った茶色も、密集した椰子の葉のような左右対称の細部も、絵そのままだった。
距離は、ハルカの後方50メートルほど。いましがた渡ってきた多摩川大橋の上空に、5メートルほどの間隔を空けて、横一列に、整然と浮かんでいた。
羽ばたいたり、なにか空中に留まるための努力をしている様子は見えない。そもそも手や足や目といった、生物的な要素が何も見当たらなかった。それはいかにも唐突に、ただそこにあった。
地上からの高さは8メートルほどだろうか。
いつからこんなものが後ろにいたのだろう。まったく音がしなかった。
ハルカは、しばらくの間呆然として、橋の上に浮かんでいる四匹の0犬を眺めていた。
だが、それらが突然動き出したのを見て、ハルカは我に返った。
一匹が、空中を滑るように一定距離を進んで止まり、それを待って次の一匹がまた動く。四匹全部が動き終わると、ハルカとの距離を少し縮める形で、再び横一列に並んでいた。チェスの駒か、訓練された兵士を思わせる動きだった。
ハルカは本能的に危険を感じた。それはまるで、獲物を狩りたてる猟犬の動きのようにも見えたからだ。
見ると、しばらくの静止状態の後、また一匹がハルカの方に動きだして止まった。急ぐ様子はなく、むしろのろのろとした動きだ。しかしあの四匹が、ただそこに浮かんでいるのではなく、何かの意思を持ってハルカの後を追い、少しづつ距離を詰めてきているのはもはや明らかだった。
ハルカは思わず足を速めた。
0犬はまた動いた。
早足で前に進みながら、心の奥で警報が鳴った。
このまま進めば、家からはどんどん遠ざかってしまう。しかし四匹の0犬は橋の上にいて、ハルカの戻る道を完全に塞いでいた。
国道一号線は、神奈川県側に達すると1キロほどは一本道で、横道はほとんどない。追ってくる0犬から距離を取ろうとすれば、前に進むしかなかった。
ハルカはできるだけ何気ないそぶりで、さらに足を速め、大股で歩いた、しゃにむに歩いた。
走って逃げなかったのは、0犬がそれに反応して、急に襲いかかって来るかもしれないと考えたからだ。今のところ、どうやら急ぎ足にするだけで、0犬は追いつけないらしかった。
歩きながらハルカは必死に考えていた。
(この先に交差点がある)
(そこで左に曲がれば、下流の六郷橋まで回り道ができるだろう。)
(そこから東京側に渡れば、たぶん時間はギリギリになるが、あいつらを避けてなんとか家に帰れるはずだ。)
(大丈夫だ。落ち着け。あれが何か知らないが、隙を見せなければ平気だ。)
4匹の0犬は、相変わらず一定距離を保ってハルカを追ってきていた。
交差点がずっと先に見えて、なかなか近づいてこないのがじれったかった。
200メートル、150メートル。マラソンランナーの気分だ。それまでの探検気分はとうに消えうせて、ハルカの心の中には、すでに不安と恐怖しかなくなっていた。
ようやく交差点の近くまで来ると、ハルカは後ろの様子をうかがってから、0犬たちが静止した瞬間を見計らって一気に駆け出し、角のコンビニを左に曲がった。
それによって彼らを出し抜けるかと思ったのだ。
しかし角の向こうで、ハルカはまたも硬直した。
コンビニの看板に隠れるようにして、目の前に3匹の0犬がいた。
これは罠だった。
六車線
ほとんどパニック状態になった。
交差点は、車残像の合流点だ。右には、これまで並行して歩いてきた国道一号線。前方には、それに直交する409号線の流れがあった。二つの流れはハルカの目の前でぶつかり合い、混ざり合って、複雑な模様を描いている。それは透明な死の壁だった。
後ろと左には合計7匹の0犬だ。逃げ場はなかった。
まるで白昼夢だった。ここは自宅から3キロと離れていない国道一号線で、すぐ隣にはコンビニがある。ファミリーマートだ。以前に店先でアイスを食べたことがある。
ここはただの、神奈川県川崎市なのだ!
しかし菫色の太陽の下で、いまやハルカはおそるべき危機にあった。
振り返ると、後ろの4匹は、さらにハルカとの距離を音もなく詰めていた。待ち伏せをしていた新たな3匹とは、すでにほとんど距離がない。
思考はほとんど停止状態で、「電気・水道料金振込みサービス」「宅急便」など、コンビニの看板に書かれた文字がやけに鮮やかに見えた。視界の端にあるのは、東芝科学館の看板だ。そして7匹の0犬。
一匹が、飛び出してきた。
反射的に後ずさりをした。
そのまま国道一号線に巻き込まれた。
絶叫した。
痛いなんてものではない。いきなり熱湯の激流に突っ込んだようなものだった。路面のアスファルトの上で何度も転がり、ひじやひざは大きくすりむけた。とても立ってはいられない。体は恐ろしい勢いで、 どんどん神奈川方向に流されていった。
ハルカは必死になって横に転がった。
先ほど知った、タイヤの間に生じる流れの空隙を思い出して、そこに逃れようとしたのだ。
何度も失敗した。
車の大きさによってタイヤの位置には差があり、通行する車は、いつもきちんと車線中央を走るわけではない。激痛に襲われながら、全身を隠せるだけの空隙を残像の中に見つけるのは、かなりの苦労だった。
手足を棒のように一直線に伸ばし、車線中央にへばりつくようにすることで、ハルカはようやく空隙の中に潜りこむことができた。
流れの底から外をうかがった。プリズムを思わせる不思議な光線の屈折の向こうに、角にいた3匹が、すでにハルカを追って迫りつつあるのが見えた。
肘と膝のするどい痛みが、ハルカの思考力をよみがえらせた。
ぐずぐずしてはいられない。0犬が残像の中にまで入ってきたらおしまいだった。
その前に、とにかくこの流れを横断するしかない。
ハルカは残像の中を、車線の空隙を目指して次々に駆けた。呼吸を整えながら、まるで塹壕の兵士のように。
国道一号線は、上りと下りで各三車線、合計六車線もある。車線を移るたびに、さらに流された。まさに必死だった。
200メートルは流されたところで、ようやく下りの三車線分を横断するところまで来た。
流された分、0犬との距離はかなり離れた。しかしここからは上り車線だ。今度は逆方向に流されることになる。つまり0犬の待ち構える方に。
走り抜けるしかなかった。
中央分離帯の空隙に身を潜ませたまま、ハルカはよろよろと、ぶざまに腰を持ち上げた。運動会でやった、あの要領だ。クラウチングスタートとか言ったっけ。
そのまま一気に飛び出すと、ハルカは上り車線に飛び込んだ。
全力で走った。
今度は流れに逆らわず、むしろ流れに乗るようにして、斜めに進んだ。さっきは避難所だった空隙に、今度は足を取られないよう走りながら飛んだ。まるでハードル走だった。途中で転ばないことしか頭になかった。
流れに運ばれ、ハルカはたちまちに100メートルほどを駆け抜けた。二車線を越えた。
その思い切った前進は、退路を塞いでいた3匹を、一気に出し抜くことに成功した。
しかし、前にはさらに4匹がいる。みるみる距離をつめて、間近に迫ってきていた。
ハルカは恐怖と戦いながら足を動かし続けた。
足を止めるわけにはいかなかった。止めれば転ぶ、転んだらもうおしまいだ。
なんとかあの4匹より先に、さっきの交差点までたどり着くしかなかった。そうすれば、反対側の横道に抜け出せる。
ハルカは数秒の間、迫り来る0犬と真正面に向き合い、これまでになくはっきりと見た。
間近で見る0犬は、物質であることすら疑わしい、ぼんやりとした異様な質感で覆われていた。
しいて表現すれば、手入れのよい髪の毛のような茶色い繊維質。そこにもう一種、鼈甲のような光沢部分があり、二つが絡みあって、まるで椰子の葉のように見えていたのだ。
見たこともない曲線によって構成された複雑な細部は、それが何かの生物的器官なのか、それとも機械的構造の一部分なのかすら、ハルカにはわからなかった。
0犬もまたハルカを見ていた。
目はなかったが、ハルカははっきりをそれを感じた。
それは、人間が何ら意思の疎通を期待することのできない、まったく異質で、攻撃的な存在だった。
その距離が20メートルを切ったあたりで、ハルカはとうとう、0犬より先に交差点までたどり着き、歩道へと抜け出した。
ついに国道一号線を横断したのだ。
逃避行(1)
おそらく全部で一分にも満たない間の出来事だったろう。
アスファルトの路面にへたりこみ、荒い呼吸の中で振り返ると、0犬はあわてる様子も見せず、空中で一カ所に合流していた。
まるでハルカがこちらに気付くのを待っていたかのように、大きく半円を描くようにして隊列を展開し、再びハルカに迫りはじめた。
(まだだ、もっと逃げなきゃ。)
ハルカは気力をしぼり出すようにして、なんとか立ち上がり、交差点を曲がり、さらに走った。ここからは409号線だ。
全身が火傷のように赤く腫れ、痛んだ。疲労もひどい。足がもつれて、走ることが難しかった。さっきの横断が、やはりなにか大きなダメージを体に与えているようだ。
ハルカは足を引きずるようにして、必死に409号線を進んだ。
この道から家に引き返そうと思えば、上流にある「ガス橋」まで回って、多摩川を渡るしかない。
下流の「六郷橋」を経由するよりも、かなり遠回りだ。メギ曜日の終わりまでに、家に帰れるかわからなかったが、もうそれしかなかった。
7匹の0犬は、いまや悠々としてハルカを追っていた。
動きのパターンが変化している。
ハルカを囲む半円形から、まず中央の一匹が大きく突出する。続いて左右の三匹が内側から順にそれを追う形で、楔形となった。そして今度は、左右の三匹が外側からさらに前方に進んで、再び元の半円形に戻るというものだ。そうした一連の動作を、5秒ほどの間隔で繰り返していた。
自分の状況さえ考えなければ、それは美しいとさえいえる整然とした動きだった。
動きの意味はよくわからない。中央の一匹が、より正確にハルカの方向を目指すようになってきたところを見ると、獲物を追い詰めるためのパターンなのかもしれない。
最初の全力疾走で、50メートルほど稼いだ距離も、少しづつ詰められてきていた。ハルカはあえぎながら、必死で前に進んだ。
今度追いつかれたら終わりだと確信していた。走れずとも歩いた。足を引きずりながら、とにかく歩いた。
信号やバス停、郵便ポスト、ガムの包み紙、アルミの空き缶。
視界に入っては通り過ぎていくものは、どれも見慣れた日常の一部だった。自分にとっては必死の逃避行にも関わらず、それはひどく間が抜けて見え、ハルカはわけもない悔しさで涙をあふれさせた。
前方に歩道橋が見えてきた。「スクールゾーン」と大きく書かれた垂れ幕が下がっている。あれなら危険な車残像を横断せずとも、先に進めそうだ。
一気に駆け出そうと顔を戻して、ハルカは小さく声を上げた。
歩道橋の陰から、あらたな0犬が空中に姿を現したのだ。
さらに5匹。やはり整然と横一列に並んでいた。
ハルカはその場にへたり込んだ。
逃避行(2)
あわせて12匹の0犬は、挟み打ちをする形で、ゆっくりとハルカに迫ってきた。
ハルカは、かたわらの壁にもたれかかるようにして、顔を覆った。
30秒か、一分か、どれくらいそこで止まっていただろう。
ふと、自分がまだ無事なことに気付いた。
おそるおそる顔を上げた。
0犬の群れは、ハルカを中心に、半径50メートルほどの円陣を組んでいた。しかしなぜかそれ以上近づこうとはしないのだった。
見上げて気付いた。
必死のあまり目に入らなかった。大きな黄色い看板があった。紫色の世界の中で、やけに浮き上がって見える黄色。 「圓團圖門」や塔と同じ色調だ。
ハルカが背にしたコンクリの壁も、同じ鮮やかな黄色だった。
「シミズデンキ 川崎店」
派手な書体で、あちこちに書かれていた。
郊外のあちこちにある、家電の量販店だ。
車の客にも目立つようにするためか、建物全体が黄色く塗られていた。
(まさか)
ハルカが壁から離れると、0犬は敏感に反応した。
あわてて壁にくっつくと、また動きが止まる。
ゆっくり10数えて見たが、やはり0犬は止まったままだった。
間違いない。理由はさっぱりわからないが、この独特な黄色のせいで0犬は近づかないのだ。ハルカは放心したように、再びその場にへたりこみ、黄色い壁を背に、ひざを抱えて座り込んだ。
12匹の0犬は、まるで時計の文字盤のような正確な角度で、ハルカと電気店を取り囲む円陣を保っている。やはり近づく気配はない。
この黄色がそばにある限りは、どうやら安全と言えそうだった。
しかし、不安は去らないどころか、ますます大きくなっていた。
このままでは身動きがとれない。「163分」というメギ曜日の終わりまで、もうそんなに時間はないはずだった。
ここでメギ曜日が終わればどうなるか見当もつかない。同じマンションの三階と四階であれだ。この距離を引っ張り戻されれば、たぶん即死ではないだろうか。
気ばかりが焦った。
肌がますますヒリヒリする。もうちょっと雲母粉を念入りに塗ればよかった。
さもなければ、こんなジョギング姿でなく、服をもっと選べばよかったかも。
服を。
ふと考えが浮かんだ。
脱出(1)
ハルカは「シミズデンキ」の自動ドアを一気に通過して店内に転がり込んだ。
店内は、冷たく静まりかえっていた。
安っぽいエアコンやテレビ、洗濯機や冷蔵庫といった家電製品が、「大特価」「激安」などと書かれたポップとともに、賑やかにディスプレイされている。
郊外からの客で混みあうのだろう、通路はその残像で濃い。
0犬は、やはり追ってこない。ハルカはまっしぐらにレジを目指した。机を乗り越え、レジ下の引出しを引っかき回した。
ゼムクリップ、はさみ、ステープラー、伝票、領収書。
やはりあった。
看板や壁と同じ黄色の、ビニールの買い物袋が、束になって出てきた。
ラッピングの要領で、手に巻きつけた。取っ手の部分が、結びつけるヒモのかわりだ。それは、ハルカのひじから手首までを、あの黄色で覆った。
(いける!)
ハルカは必死の勢いで、全身に黄色い袋をまきつけにかかった。
ドアが重かったのと逆に、軽いビニール袋はおそろしく軽く、もろく感じられた。うっかり触ると、水に塗らしたティッシュペーパーのように破けた。一度に5枚ほど重ねなければ、巻きつける最中にビリビリに破けてしまう。
ハルカは、工作にあまり自信がなかった。自分の手先と、やたらに破けてしまうビニール袋を呪った。仕上がりはいかにもみっともなかったが、それどころではない。二重、三重、ひたすらに黄色い袋を巻き付けていった
袋に大小があるのを利用して、大きな袋は胴体や太ももに使った。
最後に三枚ほど束ねた袋を頭からすっぽりかぶり、目と口に指で穴をあけると、それは完成した。
百枚近いビニール袋でできた、世にも奇妙な黄色い防護服だ。
体のあちこちに「シミズデンキ」のロゴがちりばめられて、まるで仮装大会だった。
だが今は、そんなことに構ってはいられない。
ハルカは、裏口の自動ドアから飛び出した。フェイントのつもりだ。
ドアのガラスを通過するとき、即席防護服の表面は派手に裂け、ちぎれ飛んだビニールが黄色い羽毛のように一面に飛び散った。
それが威嚇となったのか、0犬は一瞬、一斉に後ずさりをするように見えた。
(今だ)
ハルカは走った。
円陣の隙間を目指し、全力疾走で包囲を破った。
駐車場を必死に駆けた。出入りする車の残像に接触して、ビニールの切れはしがさらに激しく舞った。
行き先は多摩川だ。
249号線に戻らず、このまま横道を通って、とにかく多摩川の土手まで出るのだ。見晴らしのいい土手の上に出れば、あの待ち伏せもできないとハルカは考えた。
狭い細道の、残像の中をもろに突っ切るコースになったが、ハルカは走った。しゃにむに走った。
車、自転車、歩行者の残像に何度も激しく接触した。そのたびに防護服はどんどんボロボロになり、肌が露出しはじめたが、気にしていられない。
目の前の道が急になくなり、雑草に覆われた坂が見えた。土手だ。
土手の上まで一気に登りつめて、はじめてハルカは後ろを振り返った。
0犬は20匹近くに増えていた。