第35話

涙は前に残る足跡。哀しみはいつだって後悔に先立つ辛さと暗さ。
涙は決して、足元を照らしたりはしない。



第35話 死守とミッドナイト・ラン



希望はあった。
ハッピーエンドを知る者ですら、考えだにしていなかった希望がついに語られた。
だが語られた場所は、真に希望を必要とする者たちが戦っている場所とは遠く離れた場所。
それでこそ真実が本当に必要な場所で転がるなんてまずないのがこの世界、だとしても辛い現実。理想に立ちふさがってこその現実。しかし、理想を追わずして何が現実か。
ヴィクトリアが津村斗貴子に伝えた希望は、まだ微かに燻ぶる光であり、その熱はまだ届く距離に限りがある。だがしかしでもそれでもけれども。 ようやく物語は戦争の色を帯びる。

それでは死は止まらない。


仲間と別れて一人で戦うということは、仲間と合流するまでは一人で戦い続ける必要を意味する。そこには、会うはずのない出会いなどは存在せず、全てが後付けられて必然と語られる戦場。人を殺すのは油断や慢心だけではない。絶望こそが人を殺す。その者が強ければ強いほどに、絶望は人の心を深く突き刺して、殺すのである。
「オイ、桜花…。前、前に…」
急転直下。それでも立ち尽くすしか、できなかった人の愛が呼ぶ弱さ。まるで自身の死を目の前にした人が、そうするように闇が視界を殺す。
御前様の目の前に桜花の死が立っていたが故の驚愕。母殺しの果てに流した涙を拭ってようやくたどり着いた真の死。俯く桜花を照らした冷たい光。桜花が果たす、致命的な再会。その存在は、いつの間に“昇っていた”のだろうか。母を殺すのに必死で気がつかなかった。
企みの舞台裏全てにはいつだって、必然性が伴う。というのに、肝心の観点から目をそむけていた。ただの嫌がらせの為に、わざわざ早坂真由美をホムンクルス化して大量配備する必要はない事など、わかりきっていたことなのに! これは突然ではなく当然の結果。死は不意に訪れてこそ、絶望に同一視される!!
「前…。桜花、前を見ろッッッ!!!」
その御前様の絶叫はまさに死を目前にした響き。その響きに耳を傾ける影が、“まずは”ひとつ。それは満足そうにポーズを決めていた、顔無しの月!
片手にピストルを持たずとも人は殺せる!心に花束などなくとも死は彩れる!唇に火の酒などなくても絶望を味わい酔える!背中に人生など無用、ただ乱月が人を殺す死の絶望を見下せればそれでいい!!!
「むーん、儚き哉、人生!」
…お前がッ、お前が言うな!!

業が心に楔を刺す。
あたかも禊を求めるかのように影を縛るのが絶望。


物語の全てにはいつだって必然性が伴う。考えればわかったことだ。当然、ムーンフェイスと遭遇する可能性を桜花も考慮には入れていたに違いない。だが、目の前にいるはずのない母という惨事が、子供たちから冷静さを奪っていた。月の企みは現実と合致する。
木を隠すなら森、ホムンクルス(化物)を隠すなら、人間(化物)。ならば月は雲隠れる闇空は、語るまでもなく夜。今宵描かれた死景にムーンフェイス新月が一体、壊れた早坂真由美の残骸の中から静かに昇っていた。
錬金術の闇の世界は、そうそうたやすく断ち切れるモノではない。断ち切れない絆、育ての親との再会はよりにもよって、親殺しの後に実現することとなる。だが、桜花は膝をつき俯いていたために、目の前の絶望景色が更に惨状を地獄色に染め上がっていたことに気付くことができなかった。その桜花に代わって、それでも驚くしかできなかったのが御前様である。桜花は膝を突き、そして折れかけた心を支えるのに必死であった。その痛々しさに比例するかのように、御前様が慟哭を越えた叫びを絞る。桜花も、心では動かなければいけないことを理解している。だからこそ御前様は必死に桜花を急かしているのだ。御前様はあくまで桜花の写し鏡。御前様の絶叫は桜花の絶叫、そのものである。
だが、母殺しという業が桜花の心に楔を刺す。あたかも禊を求めるかのように影を縛るのが絶望!絶望と絶望。死ねば楽になれると惑わせてこそ、絶望!!
「桜花桜花桜花桜花桜花!!!」
今の桜花には御前の声すらも届かない。腕を上げれば矢は放たれるのに!なぜならそれがエンゼル御前の特性だから!だが、それができない、腕が重い。重い思い想い!
それは虚ろ。目の前に死が立ちふさがったとき特有の無力感、虚無感、絶望感。戦わないと、この事態を秋水クン達に伝えないと、なんとかこの場を凌がないといけないのに!!
頭ばかりがぐるぐる回る。なのにどうしてこの躯は動いてくれないのか。ああ、なぜなぜ。 ッなぜ!

いつだって月は気づいたときには既に昇っている。月が昇るとはつまり、夜の始まり、死者の時間。死ぬのは誰か、錬金の戦士か無力なる子供か。通常であれば、黒幕とは最深部にこそいるべきものかもしれない。それが突入する者の先入観として存在していることは否定できないだろう。セオリーとはそういうものだ。だがセオリーとは、破られるためにある。
こうして、オバケ工場の扉は月によって塞がれた。お帰りいただくわけには、まだまだ参りませぬ。

ムーンフェイスの狙いは明らかだった。それはつまり各個撃破。早坂の母も、剣持真希士も、全てはただ戦力を分散させるための存在。オバケ工場とはつまり、オバケを量産する死舞台。ひとつでも確実に多くの核鉄を奪うためのアトラクション、アミューズメントパーク。笑えないその施設の目玉は月という偶像(アイドル)と、剣持真希士という虚構(マスコット)。そんな二つの障害を乗り越えるためには、この早坂の世界に多くの人員は避けない、それは言わば当然の前提条件である。
母の形をしたホムンクルス有象無象に配備できるのは多くて二人というムーンフェイスは読んだ。思い描いたその未来願図通りに、目の前にいるのは早坂桜花ただ一人という今が現状。
核鉄ひとつは、ムーンフェイスにとってそれすなわち30に等しい。ムーンフェイスはただひたすらに核鉄を求める、錬金術師。
「そうだね、ここは人間スタイルでいこうか」
いつだったかのパピヨンのように、ホムンクルス特有の歪みがムーンフェイスの笑顔に顕れる。桜花のできなかったあの瞳が、ムーンフェイスの眼にも灯る。ムーンフェイスが、新月が一人。そして、無音無動作での発動、展開。桜花の目の前に並ぶ死の月が30。方や閉ざされた桜花。何も見えない聞こえない、暗闇と絶望の世界。
見えるのは滅びの月だけ。凶星堕ちるまで、あと刹那。
「い、た、だ、き、ま、す」
「桜花!動け桜花、立て桜花!!桜花ッ桜花ッ桜花ッッッ!!」
喉を精一杯張り裂いて、御前様がわめく。
その時だった。
「・・・ッ」
「むうん?!」
五月蝿くわめく御前様ではない声がした。伏兵の気配を感じ、微動だに手を止めたムーンフェイス。
零れたのは桜花の声でもない。そしてムーンフェイスに向けて発せられた声でもない声。
この場に今いるのは誰?早坂桜花。御前様。ムーンフェイス。そして、もう一人。 そう、確かに、いたもうひとつの存在。
「……桜、花…」
愛に満ちた優しい声がまどろみ、死を描くための戦場が違う空気で覆われていく。
「桜花、この声…。まさか。」
その優しい声に後押しされたのか、気がつくと桜花は立ち上がっていた。少女の名を呼ぶ声が涙を照らす。その瞳に映るのは月ではない。
愛しい母の姿によって、早坂の扉は、今、本当の意味で壊される。


「逃げ・・ナ・さい・・・、桜花。・・・ココは、危ない・わ」



死者の声は、確かに辺りに響いていた。薔薇薔薇に散らばる母の欠片、母なる大地が鳴動する愛の歌。それはあの日、消え往くドクトル・バタフライが見せた最後の言葉のように幻聴ではなく、はっきりと謳われた贈る言葉。
母は化け物かもしれない。人間に戻ることなどできるはずのない姿をしているかもしれない。だがそれでも、母の愛は母性本能は奇跡として、バケモノの欲望を乗り越える。
母は、どこまで逝っても母だった。母はいつだって、子供のために自身の体を犠牲にする。―――あのひとはたしかに、そんなおかあさん、だった!!!
「ッ桜花―――ッ!!」
その叫びは、御前様と重なり、少女の心に太陽色の火を灯す!!

桜花は涙も拭かず、ただ立ち上がっていた。やるべきことを確信に変えて。
覚悟の意味を真に理解した桜花は、強い意志で最もつらい選択を選ぶ。これぞたった一つの冴えたやり方、おやすみを告げる離別の決意。
「わたし、いくね。…ゴメン、御前様。ここは、…お願い。」
そう呟くと、桜花は自身の左腕に装着された弓を武装解除することなく取り外した。
足元に横たわる母の死体から、墓標のように伸ばされたその掌を右手で掴む。冷たく温かい母の掌に、静かに背を向けた。
「いってきます、おかあさん」
直後。ムーンフェイスが、桜花の死を目指し降り注いだ。



希望はあった。
ハッピーエンドを知る者ですら、考えだにしていなかった希望は既に語られた。
だが語られた場所は、真に希望を必要とする者たちが戦っている場所とは遠く離れた場所。
それでこそ真実が本当に必要な場所で転がるなんてまずないのがこの世界、だとしても辛い現実。理想に立ちふさがってこその現実。しかし、理想を追わずして何が現実か。
ヴィクトリアが津村斗貴子に伝えた希望は、まだ微かに燻ぶる光であり、その熱はまだ届く距離に限りがある。
ニュートンアップル女学院で語られた希望は、オバケ工場を救う魔除けにはならない。
だがホムンクルスの食人衝動が欲望に過ぎない以上、母の愛が自身の欲を凌駕するなど世界中のどこにだって転がっている自然の摂理!!
戦いは未だ終わらない。救いをもたらすのは真実を知る者ではない。救いとはいつだって、戦っている者に与えられる、形を変えた栄光という言葉。
未来は覚悟と決意によって支えられるが、照らすのはあくまで勇気や希望なのだから。


砕け散る躯から伸ばされた母の腕に、エンゼル御前の弓を装着させて御前様が矢をただ、がむしゃらに放つ。
その矢を放っているのは母の想い。
その矢を放っていたのは娘の想い。
30の月の行進を止めることはできない。ただ悪戯に時間を稼ぐだけの愚行かもしれない。だが。それでも戦いとは打算のみで勝てるような黒く熱く甘いものではないのである。
桜花は最も辛い選択をしていた。それが全てに背を向けた上での、逃走だった。核鉄を捨てて、母から背を向けて、御前様に別れを告げて。桜花はそれがどのような意味を持つのかも当然、理解している。ムーンフェイスにひとつ核鉄を与えるだけで、この戦いが確実に追い詰められてしまうことも理解している。エンゼル御前は、弓の位置で核鉄に戻る武装。御前様はヤバくなったら自動で解除されるからこそ、絶対に核鉄がひとつ、ムーンフェイスが手に渡ることになる。
それでも桜花はその道を選択した。生きて戦う道を選んだ!
「ここを通れるものなら通って見やがれ、ムーンフェイス!!」
御前様が桜花の代わりに叫ぶ。御前様が笑い叫ぶ。笑わなければ殺っていられない!!
「早坂の扉の頑丈さ、みせてやるぜ!!」


桜花はただ、ひたすら仲間の元を目指して走った。今、誰かホムンクルスと出会えば確実に殺される。それでも、彼女にできることは今、走ることだけ。仲間に何が起きたのかを、伝える。ただ、それだけだ。
ならば駆け抜けろ、この戦場を駆け抜けて魅せよ。この月下、夜が舞う空の下で、何度でも走れ。涙はきっと風が拭ってくれるから。
桜花と御前様の耳に確かに届いた返事。“いってらっしゃい、桜花”。家族とは血の繋がりを越えてこそ、絆を描く。
「…大丈夫、私はまだ、戦える」
そう呟いた時、桜花の右篭手が弾ぜた。そこがまさにデッドライン、御前様がオートで武装解除されたことを示す岐路である。
それでも構わず、桜花は丸腰で駆ける。傍らにあるべき御前の姿もなく、ただひたすら一人駆ける。絶望を仲間に伝えるために。予期していた最悪が音連れて訪れてしまったことに。
駆けることしかできない自分が嫌で、それでも駆けるしかできなくて。
ただ思い出すだけでも哀しい、母殺しの後に起きた絶望を思い出すしかできなくて。


こうして迫りくるムーンフェイスとの決戦、だがその前に。
剣持真希士の問題に、決着をつけるときがやってきた。その顛末をもって、終わりを始めたいと思う。タイムリミットはそう。月が駆ける彼女に追いつくまで。

無作法に物語へ挟み込まれた希望はニュートンアップル女学院で語られた希望は、オバケ工場を救う魔除けにはならない。それでも希望をまず語ったのには理由がある。
もちろん、更なる絶望の連なりを語るためだ。

戦いは未だ終わらない。救いをもたらすのは真実を知る者ではない。
もしかすれば、救いが与えられるのはいつだって、絶望を抱えて走る者だけかもしれない。

ただひたすら夜明けを目指して。
もう一度、物語が少しさかのぼる事を、どうか許してもらいたい。








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最終更新:2009年12月13日 16:38
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