492 名前:林檎 投稿日:2009/07/12(日) 16:47:04 Mxo3ffaZ
――それは、少し冷たい風の吹くある日のこと。

街中の空気がいつもとはぜんぜん違うな、と杉乃歩は感じた。
何人かで集まり頬を染め、小さな紙袋を抱えてひそひそと話す女の子たち。
それをまったく気にしていないように振舞いつつも、やはりとても気になるらしい男の子たち。

(可愛いなぁ)、と内心微笑む。

2月14日。と、言って、何の日かわからない人はきっといないだろう。
今日は、乙女の決戦日・バレンタインデーなのだ。

そんな浮足立って落ち着きのない、しかし、くすぐったくて甘酸っぱいような街の中を、メイド服の少女は進んでいく。昔は、すれ違う人たちから好奇の目で見られるのが恥ずかしくて、メイド姿で外に出るのは嫌だったのだが、今ではすっかり慣れてしまった。
慣れって怖いな…、と少女は改めて思う。
彼女は、ポケットから小さなメモを取り出し、両手に抱えた紙袋の中を覗き込んだ。
「…よし、透華お嬢様から頼まれた買い物も終わりましたし…」帰りますか、とため息交じりに呟く。
正直言うと、このバレンタインデーの甘い空気は、微笑ましく思う反面、少し煩わしくもあった。なぜか。それは、

――彼女にも、好きな人がいるからだ。

誰よりも男らしくて、かっこよくて、優しくて、笑顔の素敵な人。

しかし、
(あの人は女性であり、そして、私の主である透華お嬢様の御友人…。)

まさに、叶わぬ恋、というやつである。
だから、チョコを片手に好きな男の子に想いを伝えられる乙女たちが、うらやましくて仕方ないのだ。
そうして、本日何度目か分からないため息をついた.

その時、

「おーい、歩さーん」

背後から、名前を呼ばれた。

心臓が大きく跳ねる。
(げ、幻聴、でしょうか・・・)

そろりと、後ろを振り向く。
そこに立っていたのは紛れもなく・・・

「井上さんッ」

私の想い人だった。
「“純”でいいって言ったろ?」
「いえ、そういうわけには……。あの、井上さんはどうしてここに…?」
「歩さんに会いに来た」

その言葉に、頬が急激に熱くなる。
「え、いや、あの、えっ…!?」
混乱のあまり、何を言ったらいいのか分からなくなる。
酸欠の金魚のように口をパクパクさせる私を見て、井上さんはくすり、と笑う。

「可愛いなぁ、歩さんは」
「い、いえ、その……」

「歩さん。今日はオレに、渡すものがあるんじゃない?」
「!!」

単刀直入な物言いが、井上さんらしい。彼女の目が意地悪く光っているのが見えた。
思わず、そっぽを向く。

「井上さんはモテるんですから、バレンタインのチョコなら他の女性にたくさんもらったでしょう」
「ん~、まぁ、その通りだけど……でもさ、本命の子からはまだもらってない」
「…ほ…んめ…い?」
思わず、ぽかんとする。

それから数秒後、その意味に気がつき、今度は顔から火が出そうになる。

「ちょーだい、歩さん」
そう言って、彼女は両手を前に出す。

「………もう、しょうがないですねぇ。」
私は、ポケットの奥の奥にいれておいた小箱を、その両手に置いた。
それも受け取った彼女は、嬉しそうに目を細める。
「ありがとね、歩さん♪」
「お嬢様には内緒ですよ、」
「もちろん。ねぇ、歩さん。お礼あげるから、目つぶって」
(…?何でしょう…?)
言われたとおりに目をつぶる。
次の瞬間。唇に、柔らかい感触。
「!!?」
キスだった。しかも、こんな人通りの多い街中で。
「ちょっ…、井上さん…ッ」
「ホワイトデーは、もっと良いものあげるから。じゃあなっ」

そう言って、彼女は人混みの中へ走って行った。

(私の…ファーストキス……)
歩は、そっと自分の唇に触れる。

「ホワイトデー……来月かぁ…」

無意識にそんなことを呟き、彼女はひとり気恥ずかしくなるのだった。



END




 

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最終更新:2009年07月14日 20:02