『あなたが花開く場所 #1』


 気づいたときには、深い暗闇の底にいた。
 何かを掴もうと咲は必死になって手を伸ばす。周りに人の気配は感じられない。歩いても歩いても何にも行き当たらず、ただ一面の黒が続くだけ。
「誰もいないの……?」
 発した声は暗闇の中に溶けて消えた。孤独が圧倒的な重力を伴って身体を押し潰そうとしてくる。足が震え、抑えようのない寂しさが涙となって溢れ出す。
「怖いよ……一人はいやだよ。お姉ちゃん、優希ちゃん、京ちゃん、――原村さん」
 思い浮かんだ人たちの名前を手当たり次第に呼ぶと、次の瞬間、視界の先に小さな光が生まれた。咲は全速力で光に向かって走りはじめる。こんなところはいやだ。早くみんなのいる場所に戻りたい!と心中で叫び声を上げる。
 光の奥に、桃色の髪をした少女の後ろ姿が見えた。
 咲はその少女に抱きつこうとさらに足の速度を速める。
「原村さん!」
 半ばぶつかるような形で咲は少女の腰に手を回した。少女の長いツインテールがふわりと揺れ、ほのかに赤らんだ顔がこちらを向く。すっかり安堵しきった表情で咲は少女を見上げた。
「よかった、原村さんに会えて……わた、」
 台詞途中で咲は思わず言葉を失った。
 唐突に近づいてきた少女の唇が、自分の唇を塞いだからだ。
 頭の中まで周囲の光と同じく真っ白になりながら、咲はただただ呆然とするしかなかった。何が起こっているのかまったく把握できないまま、少女の吐息を間近で浴び続ける。思考がとろけはじめる。胸の奥深くから言いようのないむず痒い感情が湧き上がってくる。
「ん……」
 気がつけば咲は自ら少女の腰を引いていた。自分じゃないもう一人の自分に支配されているような感覚。触れた唇から伝わる体温に意識も理性も根こそぎ失いそうになったとき、
 ジリリリ――
 けたたましい目覚まし時計の音が鳴って、咲は目を覚ました。


 季節が晩春を迎えてから一週間近くが経つ。桜はとうに花を散らせて、夏の匂いを含んだ風が早くも吹きはじめようとしている。
 そんな季節の変わり目に彩られた通学路を歩きつつ、和は一人考え事をしていた。いつもと違って足取りもゆっくりしたものになっている。
 毎日が毎日同じことを繰り返す。そんなことはもちろんあるはずがないのだが、確率的に考えると起きて然るべき出来事が今日はまだ起きていなかった。登校時間を変えたわけでも、歩く道を変えたわけでもない。なのに今日はまだ、来ない。
(どうしたのかしら、宮永さん)
 普段ならそろそろ後ろから声がかかってもいいはずだった。「原村さーんっ!」という元気な声が。
 遅刻ぎりぎりまでスピードを落として様子を窺ってみる。何度か振り返りそうになったがそこはプライドが邪魔をした。それでも意識は進行方向とは正反対のほうに偏ってしまっている。
 もしかして、今日は休みなのだろうか。不意にそんな可能性が頭をよぎった。彼女が休みならこれだけ速度を落としているにも拘わらず会えない理由が説明できる。季節の変わり目は風邪を引きやすいっていうし。そうだ。きっとそうに違いない。そう考えると急に自分のしていることが滑稽に思えてきて、和は足を速めることにした。
 ああ、私ってば朝から一体何をしているのだろう。恥ずかしさに身もだえしながら学校への道を突っ切っていく。
 昇降口に到着すると、上履きを履く優希とちょうど鉢合わせした。
「おはようございます、優希」
「あ、のどちゃん。おはようだじぇ」
 並んで靴を履き替える。優希が首を傾げてこちらを見つめていた。
「今日は咲ちゃん、一緒じゃないのかー?」
 下駄箱の戸を閉じながら平静な声で答える。
「ええ。今日は休みかもしれません」
「珍しいじぇ、咲ちゃんが学校休むなんて。後で教室覗いてみるんだじょ!」
 張り切った調子で宣言する優希に和は半眼を向けた。
「どうせ部室で会えるんですから、わざわざそんなことする必要はありません」
「でも気になるじぇ。のどちゃんは気にならないのかー?」
 問いかけられて思わず口をつぐんだ。気にならない、と言えばそれは嘘になるけれど。
「とにかく私は行きませんよ。行くなら優希一人で行ってください」
「えー」
 不満げな優希を置いて、和は昇降口を後にした。横を通り過ぎる学生たちの波にさもすれば視線を巡らせたくなる。その衝動をどうにか堪えつつ、教室までの道のりを進んでいく。
 確認するのが怖かった。もし教室で宮永さんの姿を見つけたときに、自分がどんな反応をしてしまうか想像がつかなかった。


 どこか浮ついた気持ちを抱きながら放課後を迎えた。優希は結局確認には行かなかった。
 HRが伸びたせいで少し遅れて部室に赴くと、そこには雀卓の準備を始める部長の姿がすでにあった。和たちの存在に気づくと顔を上げて、
「あら、遅かったわね」
 にこやかにそう言ってくる。須賀君を発見した優希が早速彼の背中に飛びついていくのが見えた。和は部室内をきょろきょろと見回して溜め息をつく。
「宮永さんは……来てないんですね」
 いつも通り喧嘩を始めた優希と須賀君に横目を向けながら呟くと、部長から予想外の答えが返ってきた。
「咲なら少し前に来たけど」
「え?」
 無意識に声を漏らす。ソファで本を読んでいた染谷先輩が、部長に代わって話を繋げた。
「お前さんたちが来る本当に少し前だったかのう。今日は部活休みますって、律儀に報告しに来たけん」
「そんな……」
 手から鞄が滑り落ちそうになった。須賀君とじゃれ合っていた優希も動きを止めてこちらの会話に耳を傾けている。
 今朝から嫌な予感はしていた。虫の知らせという非現実的な要素が言い知れない不安を運んできていた。いつもならそんなオカルト有り得ないと弾き返していたところだったが、なぜだか今日はそれができなかった。
(どうして)
 重たい息を吐き出すように心中でこぼす。
(どうして顔を見せてくれないの、宮永さん……)
 場の空気がおかしいことを悟ったのか、部長が頬を掻いて苦笑した。
「えーと……何かあったのかしら?」
「実は今日、のどちゃんが、」
「優希」
 短い一言で優希を制すると、和は部室に足を踏み入れた。周りの視線が集まる中、できるだけ平然を装って雀卓に腰を下ろす。これ以上この空気が続いたら色々と考えてしまいそうだった。だからわざと作り笑いを浮かべて、
「別に何もありませんよ。さ、早く打ちましょう」
 この空気を薄れさせようと振る舞う。きっと麻雀を打っている間なら忘れられる、その可能性に賭けるしかなかった。
 染谷先輩が首を捻りながらも渋々雀卓につく。優希と須賀君も集まってきて、自然と麻雀が始まった。部長は最後まで和の様子を窺っていたが、しばらくするとしたり顔でベランダまで出て行ってしまった。何か勘づかれたのかもしれないが部長のああいう顔はいつものことだから大して気にはしていない。
 牌を乗せる音が部室内に響く。
 宮永さんのいない部室はずいぶん久しぶりで、なんだか少し活気がないように思えた。ちょっと前まではこの光景が当たり前だったのに、今となっては宮永さんなしだと物足りないとまで感じてしまう自分がいた。宮永さんと麻雀ができないことに対してではなく、純粋に彼女がそこにいないということに対して。
 宮永さんの温もりを傍で感じられないとすぐ胸が疼く。咲き誇る花のような彼女の笑顔が見られないと、一日を生きたという実感がしない。不思議なものだ。部長や優希がいなかったとしても、きっとこんな気持ちにはならなかっただろうに。
「ロンだじょ!」
 優希の声に和は我に返る。犬歯を光らせて笑う優希の視線が、真っ直ぐこちらに向けられていた。
 慌てて捨牌を見ると――どういうわけか、残しておくはずだったドラの雀頭が切られている。いや、もちろん自分で切ったのだろうが、困ったことにまったく記憶がなかった。この深い巡りでドラ切りなど不用意にもほどがある。
「リーチ、役牌、一盃口、ドラ2。和、こりゃ割と痛い振り込みじゃのう」
「ええと、はい」
 振り込んだことよりも無意識に麻雀を打っていたことが自分自身許せなくて、つい曖昧な答えになってしまった。諸手を挙げて喜ぶ優希を須賀君がげんなりした目で見やっている。南二局という珍しく遅い局面で優希がトップに立った。
「和は調子悪そうだから、みんな日頃の恨みを晴らすチャンスかもね」
 ベランダから帰ってきた部長が冗談混じりにそう告げる。調子が悪い? 私が?
 そうなのかもしれなかった。
 宮永さんがいないというだけでこんなにも集中力が途切れるなら、たぶんそうなのだろう。
 なんとか巻き返すため残りは大きな役を狙いに行ったが、終始テンパイにするのがやっとで十分な戦いをすることができなかった。まさかの優希優勝という前代未聞の展開で、その日の半荘戦は幕を閉じることになった。


 正直うまく行ったとは言いがたい部活を終えて帰宅の路に就く。廊下を歩きながら優希は自らの勇姿を延々と自慢していた。
「今日はわたしの絶好調タコスぢからが、のどちゃんをこれでもかと蹂躙してやったじぇ!」
「二位は蹂躙したとは言いません」
「おっぱいイカサマのないのどちゃんなんてもう怖くないじょ!」
「してませんって何度言えば解るんですか」
 胸でイカサマってどうやってやればいいのだろう。突っ込みを入れながら半分本気で考える。いや、もちろんするつもりなんてないけれども。
「今日は咲がいなかったから、和の圧勝だと思ったんだけどな。……こいつが余計なパワーを出したせいで」
「余計とは何だこのイヌ! タコスぢからを馬鹿にする奴はタコスぢからに泣くんだじぇ!」
 場所を問わず繰り広げられる口喧嘩を苦笑しながら見守る。優希たちと一緒に昇降口まで降りると、想定外の人物と出くわした。
 思わず驚愕の声が漏れる。
「み、宮永さん……」
 短い髪が揺れ、つぶらな瞳がこちらを向く。
 手に数冊の本を抱えた宮永さんが、明らかに焦った面持ちで口を開いた。
「はっ、原村さん!?」
「……どうして」
 自分でも意識せずに辛辣な態度になる。
「どうして部活を休んだんですか。見たところどこも悪そうには思えませんけど」
「え、えっとね。ちょっと用事があって」
 用事? 部活より大切な用事があったというのか。そのせいで今日一日宮永さんは……。
 一体何の用事なんですか。そう追及したい気持ちをぐっと抑えて、和は自分の下駄箱に歩み寄った。宮永さんが気まずそうにこちらを眺めていたが無視を決め込む。変に意固地になっている心を感じて軽い頭痛がした。
 なぜ、仕方ないですねと笑えなかったのだろう。誰にだって大切な用事の一つや二つあるはずなのに。心の狭さを実感させられた気がして自分自身に嫌気が差した。
(今からでも遅くない……せっかく会えたんだから、きちんと話をしないと)
 意気込みを新たにして振り返った、そのときだった。
「じ、じゃあ私、今日は急いでるから。バイバイ」
 小さく手を振ったかと思うと、宮永さんはそそくさと昇降口を飛び出していってしまった。逃げるように身を翻した宮永さんの身体が、映画のスローモーションのようにゆっくりとした動作で和の瞳に映る。
 スカートをなびかせて宮永さんはあっという間に校門を抜け、夕陽の中に消えていった。呆然としながら和はその一部始終を見送るしかなかった。
 優希が心配そうな様子で顔を覗き込んでくる。
「のどちゃん……」
 曇る表情を隠しきれず、和は唇をきゅっと噛み締めた。避けられた――そう理解するのに長い時間は必要なかった。


#1 完

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年09月01日 21:52