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ニュートラル

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私が常々心がけているのは、自分を如何にニュートラルに保つか、如何に静寂を保つか、ということ。普段が静寂であればあるほど、躍動との落差は高まるだろう。味わいもより深くなるだろう。感覚を研ぐ為の静寂。

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例えば「何かが在る」という知覚

  • あなたがパソコンの画面を見ている。そこに画面がある。机があり、椅子がある。マウスがあり、マウスに触れている。

此の様な事がどうやって我々に知覚されるのか。神経組織は身体の外までは伸びていないというのに。


伸びてないからどうだって?神経→知覚という流れを考えれば、我々が直接的に知り得るのは(神経が届いている)自分の身体の中だけのはずだってこと。ということは、身体の外にあるものを認識するというのは実際には、外に在るものが私たちの身体に影響を及ぼして、私たちの身体の状態が変化する。その自分自身の変化を我々は認識する、ということになる。

  • 静寂時から、刺激を受けた後への身体の変化、その落差を我々は感覚として知覚する。

我々が知るのは、自分の身体の変化だけだ。自分の身体を通して世界を知る。初めから自分の身体の中にない種類のものは感知できない。我々の知り得る「世界」は自分たちの身体の中にある。


知覚を測る単位

我々が感じる「自分自身の」変化であるが、それは変位⊿Dか、速度 v か、それとも加速度 a=lim(⊿t→0)⊿v か?力積Ftか?一体何だろう。


「無限の快楽」によれば、存在の根源的なありさまは、運動なのだと言う。まず、モノがあって、それが運動するのではない。だから「アキレスはゼノンのカメを追い越せる」と。音楽で言えば、どんなにナイスな音楽でも、ある時刻でぶつ切りにしてしまったら何の音もしないってこと。だから「ある時刻」という点をいくら密に並べてもナイスな音楽はもう聴けないのだ。だから音楽が流れるのと同じ原理でアキレスは走り、確実にカメを追い越す。


運動があるから、そこにモノが現れる。他の現れ方もするかもしれない。最初に言ったように、ものの在り様を規定するのは我々の身体なのだ。我々の身体を通した場合には「モノ」として感知される、と云うだけの事かも知れないのだ。存在の影には運動が在り、存在が本質的に量子的である、として、我々が感じているのは落差は変化の v か a か 運動量 mv かあるいは?


運動が根源的な存在様式であるのなら、我々もまた運動だってことになる。モノだろうが事象だろうが、運動を量子的な形式のまま直接的に把握していると考えるべきであろう。光の場合を考えてみよう。それが「波か粒子か」なんて大問題(だった)を僕等の身体は気にせず「あ、光だ」と知覚する。一種の共振であろうか。我々はそれを測る単位を欠いている。


私と運動のカンケイ

  • 運動を身体が知るのか、知ることもまた運動なのか?

運動を波に置き換えて合成することを考えてみると、すべてが重ね合わさって、この世は1つの波動となる。もうそこに自他の区別はない。すべてで一つだ。


あれ、ニュートラルな時に自分がどれだけ静寂であるかが大事、って話だったんだけどな。 ま、それはまた別の頁で。


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