朝食後、紅茶を入れる準備をしているとマスターが声をかけてきた。
マ「おっ、蒼星石紅茶を飲むの?たまには僕も入れてみたいな~。」
蒼「・・・マスター、紅茶の入れ方も結構難しいんですよ?お湯の温度ひとつでさえ味も香りも台無しになりかねませんし。
たとえば紅茶を入れるときのお湯の最適な温度をご存じですか?」
マ「うっ!知らない・・・。」
蒼「約95度です。他にもいろいろな数字をしっかり守らないと美味しい紅茶は入れられませんよ。
せめてゴールデンルールくらいは知っておかないと。」
マ「はい・・・。」
蒼「でしたらマスターはあちらに座っていてください。そんなことをなさらなくても僕がちゃんと入れられますから。」
マ「分かりました・・・。」
蒼「マスター、紅茶が入りましたよ。」
しかし返事は無い。
蒼「・・・マスター?」
おかしい、今日は休みのはずだし出かける予定も聞いてはいない。
家の中を探し回ってみたが、どこにもいない。よく見ると靴が無くなっていた。
どうやらどこかに出かけたようだ。
蒼「マスター、黙ってどこに・・・もしかして、僕が怒らせちゃったのかな・・・。」
先ほどの自分の言動を顧みると確かにマスターの気分を損ねても仕方が無い気がする。
・・・きっと、マスターは僕のことを自分を得意気に馬鹿にしては悦に入る嫌なやつだと思ったに違いない。
そんなつもりじゃあ・・・ただマスターに美味しい紅茶を飲んでほしかっただけなのに・・・。
こんなとき・・・いつもは翠星石がいささか荒っぽくもフォローを入れてくれてたんだな・・・
『人間、蒼星石がわざわざお前ごときのためにうまい紅茶を入れようとしてるです、お前は引っ込んでろですぅ!』
とか言って・・・。
蒼「だめだなあ、僕は・・・彼女に訣別を切り出したのは自分の方だってのに・・・。」
こうしてマスターからも、翠星石からも切り離されてしまうと今更ながらに自分の無力さが痛感される。
僕は自分の本心や真意をうまく表現することができない。それでいつも自分の愚かさを後悔することになってしまうんだ・・・。
冷めてしまってもなんなので、ソファに腰掛けて一人で紅茶を飲むことにした。
蒼「紅茶がこんなにあっても・・・一人じゃとても飲みきれないや・・・。」
紅茶は余るほどあるのに、一番それを飲んでほしい人が今ここにはいない。
僕は紅茶の入れ方は知っていても、もっと大事なものが分かっていなかったようだ。
蒼「味は・・・まあまあ良かったのにな・・・。」
こうしていても所在無いので飲みかけの紅茶を置いて家の中の整理でもすることにした。
普段はあまり使わない食器棚の奥の方を整理していると緑茶の袋が出てきた。
それも番茶からほうじ茶、煎茶に玉露までいろいろな種類がそろっていた。
それに湯飲みやら急須やらの緑茶用の食器と思しきものもたくさん置かれている。
蒼「そっか、マスターは緑茶のほうが好きだったんだ・・・。」
それなのに、自分はマスターに自分の好みを押し付けては偉そうに能書きを垂れていた訳だ。
さぞかし滑稽で、腹立たしかったろうな・・・。
食器棚を片付けると、不意に感じ始めた気だるさにまかせてソファにもたれかかる。
僕は・・・契約したマスターの役に立ちたいと、マスターの求めている存在になりたいと思っている。
いっそのこと、求められているものが『道具』としての存在だったらどんなにか楽だったろう。
ひたすら自分の心を押し込めて、マスターの言う通りに動くだけで良かったのなら。
でも、マスターが求めているものがそれとは違っていることくらいは僕にも分かる。
マスターが求めているのは・・・・・・
紅茶の良い香りに鼻をくすぐられ、意識が覚醒する。
マ「やあ、お目覚め?」
目の前にマスターがいた。どうやらうたた寝してしまった間に帰ってきてくれたようだ。
蒼「あ、マスター、お見苦しいところをすみません。」
マ「相変わらず堅っ苦しいなー。まあ、いつも働き者だから疲れてるんだよ、紅茶でもどう?」
ポットを手にしたマスターが言う。
蒼「でももう冷めてしまったんじゃないかと・・・入れなおしますね。」
マ「いいよ、僕が今入れたから。」
蒼「え、でも・・・。」
今度こそ・・・マスターに飲んでもらうためにに美味しい紅茶を入れたかったのに・・・。
それを口に出して伝えることは僕にはできなかったが。
マ「大丈夫、大丈夫。ちゃんと図書館で紅茶について勉強してきたから。もうバッチリよ!」
蒼「いえ、マスターの入れ方に不安を覚えたわけではありませんけど・・・。
ところで、図書館に行かれてたんですね。それでしたら出かける前に一言おっしゃっていただければ・・・。」
マ「だって、どうせならいきなり入れられるようになってびっくりさせたいじゃない。」
マスターがいたずらを思いついた子供のような表情をしてそう言ったが、むしろ狙いとは別のところで驚かされてしまった気がする。
蒼「先程はすみませんでした。生意気な態度をとってしまって・・・。」
マ「そんなことはいいからさ、試しに飲んでみてよ。他人の率直な感想も聞きたいし。」
そう言うと用意してあったカップに紅茶を注いでくれた。
蒼「いただきます・・・。」
差し出された紅茶を口に含む。味も香りも申し分なくしっかりと出ている。それになんだかぽかぽかとして心地よい。
使ったお茶の葉自体は同じはずなのに、さっき自分で入れた紅茶を飲んだときとはぜんぜん違う。
蒼「とても美味しいです。それに・・・あたたかくて、やさしい味がして・・・。」
マ「おおー、嬉しいこと言ってくれるねえ。にわかではあるけど猛勉強した甲斐があったってもんだよ。」
蒼「あれ、そう言えばここに残っていた紅茶は・・・。」
マ「ああ、あれね。せっかく僕の分も注いでくれてあったみたいなのに、捨てるのはもったいないからいただいちゃったよ。」
蒼「え、あれは僕の飲んだ残りですよ!?」
マ「別に冷めてても美味しかったよ。やっぱ入れ方が上手いのかね。」
蒼「そ、そうじゃなくって・・・あれは・・・僕が口をつけて・・・。」
マ「もしかして・・・あのカップの紅茶が蒼星石の飲みかけだったってこと?」
無言でこくりと頷く。
マ「・・・どうすれば許していただけますでしょうか?」
マスターが平身低頭して謝ってくる。
蒼「マスターがそんな風に謝らないでください。僕が片付けておかないのがいけなかったんですから。」
マ「でも自分の不注意で蒼星石が嫌な気分になったんじゃないかと思うと・・・。」
そんなことをいちいち大真面目に気にするのがなんとなくマスターらしい。
蒼「マスターが特に不快に感じないのでしたら僕は別に構わないんですけどね。」
マ「だけど・・・それじゃあ僕の気がすまないというか・・・。」
蒼「それでは・・・緑茶の入れ方を教えていただけますか?マスターは緑茶のほうがお好みなんですよね?」
マ「そんなことでいいの?それじゃあ、喜んで。」
さっそくマスターに見てもらいながら緑茶を入れてみることにした。
まずはいつも紅茶を入れるときしているように、急須にお茶の葉を入れる。
マ「そうだね、お茶っ葉の量はそのくらいで大丈夫だよ。」
蒼「はい!」
そしていつものようにお湯を注ぎ・・・
マ「ちょっとお湯の量が多すぎるかな、それに温度も高すぎだね。」
蒼「はい。」
あらためて湯呑みに移して少し冷ましたお湯を急須に入れ、しっかりと蒸らし・・・
マ「そんなに放っておいたらお茶っ葉が開いちゃうよ。紅茶とは違うんだから。」
蒼「・・・はい。」
均等な濃さになるように湯呑みに順番に注いでゆき、最後の一滴まで搾り出す。
一回出したお茶の葉はもう出ないので捨てて・・・
マ「あっ、もったいないからお茶っ葉は一回出しただけで捨てちゃ駄目!緑茶は二番煎じまでは十分飲めるから!」
蒼「確かに・・・これはカチンと来ますよね。」
マ「言い方が癇に触ったかな?ごめんね、つい焦っちゃって。」
蒼「いえ、そういう意味ではなく、かえすがえすも朝はマスターに失礼なことを言ってしまっていたと・・・。」
いざ自分がやってみると、知っていることと似たようで、だけどぜんぜん勝手が違うことをやるのはかえって大変だ。
それなのにそんなことも理解せぬままマスターにひどいことを言ってしまっていた自分を省みた発言のつもりだったのだが・・・。
どうやらまたマスターにいらぬ気を使わせて、不快にさせてしまったようだ。つくづく自分の不器用さが嫌になってくる。
蒼「・・・本当にすみませんでした。マスターのお手間を取らせるようなことをしでかしてしまって。」
マ「手間?いったい何のこと?」
蒼「僕があんな挑発的とも取れる言い方をしてしまったからマスターは好きでもない紅茶の入れ方を勉強したんですよね。」
マ「いくらなんでもそこまで狭量じゃないから!それにあれってどうせなら美味しい紅茶を飲ませてくれようとしたんでしょ?
だからぜんぜん気にしてなんていないってば。」
蒼「はい、そのつもりでしたが・・・よくお分かりいただけましたね。」
マ「普段の蒼星石の様子から大体なら分かるさ。もちろん、心が読めるわけじゃあないから誤解しちゃうこともあるかもしれないし、
あれこれと詮索しちゃうこともあるかもしれないけどね。 」
蒼「いえ、むしろそうしていろいろと聞いていただけるとありがたいです。
僕のほうこそマスターが緑茶を好きだということにずっと気づかずにすみませんでした。」
マ「いや、確かに緑茶は好きだけど、蒼星石のおかげで紅茶も好きになったしさ。
やっぱり誰かが自分のために入れてくれたものにはまた違った美味しさがあると思うんだ。
今朝も蒼星石にもそういった喜びを味わってもらえたら、と思ってさ。まあ、実際はあまりにも勉強不足だった訳だけどね。」
蒼「そんなことのためにわざわざ・・・すみませんでした。」
マ「そんなことなんかじゃないって!蒼星石が喜んでくれて僕も嬉しいし、これで紅茶の入れ方も覚えられたわけだしね。
それにどうせなら謝るんじゃなくてお礼を言ってほしいな。」
蒼「はい、すみません。・・・お心遣いありがとうございます。」
マ「まだまだガチガチだなあ・・・。これからも長いこと一緒にやってくんだからもっと気楽に構えてくれていいのに・・・。」
蒼「いえ、あくまでもマスターはマスターですからそういうわけにも・・・。」
マ「まあ、いいけどね。それが蒼星石らしいってことかもしれないし、無理せずにやりたいようにやってくれれば。」
マスターが僕に求めているもの、それは多分、対等な立場で語り合える、生きるうえでのパートナーとでも言うべき存在。
自分ではそんな存在になるのは無理だと思って最初から諦めていた。
僕は自分を伝えることができないから、あくまでもドールとしての立場を貫いて下に控えているよりほかにないと。
振り返ってみれば、今までだっていつも似たようにして自分自身が本当に求めているものを周囲にひた隠しにしてきた気がする。
でも・・・この人とならそんな自分をも変えていけるかもしれない。
この人は僕と同じ目線で考えようと努力してくれるし、拙い僕の自己主張も一所懸命に読み取ろうとしてくれる。
そして、そうやって感じ取った僕の考えを可能な限り尊重しようとしてくれている。
だから、僕もそれに最大限応えたい・・・。
蒼「・・・マスター、さっきの紅茶のお返しに今度は僕が美味しい緑茶を入れてみせますからね。」
マ「うん、ありがとう。期待しているよ。」
僕の言葉に対し、マスターが笑顔で答えてくれた。
今はまだ、こんな風にしか伝えることはできないけれど、いつかはきっと・・・。
[付録] お茶の入れ方
┌──┐
i二ニニ二i
i´ノノノヽ)))
Wリ゚ -゚ノリ これであなたも美味しいお茶が飲める! ・・・かも
/つ旦O―‐-.、
(´ 旦 )
[i=======i]
〈紅茶・ゴールデンルール〉
1. やかんに汲みたての水を入れて沸騰させます。5円玉くらいの泡がボコボコ出ている状態が目安です。
2. 紅茶を入れる前に、まずポットとカップにお湯を注ぎ、全体を温めておきましょう。
温めたポットに、ティースプーン1杯(2~3g)を1人分として、人数分の茶葉を入れます。
細かい茶葉は中盛、大きい茶葉は大盛にするのが目安です。
3. 沸騰したてのお湯を人数分注ぎ、すぐにフタをして蒸らして下さい。
この時、沸騰したお湯を勢いよく注ぐのがコツです。(1杯分150~160mlが目安)
4. 蒸らす時間は、細かい茶葉は2分半~3分、大きい茶葉は3~4分が目安です。(ミルクティーのときは、やや長めに)
その間ポットにティーコジーやティーマットを使うとさらに保温効果が上がります。
おいしい紅茶を入れるには、温度を下げないことがポイントです。
5. ポットの中を、スプーンで軽くひとまぜします。
6. 茶こしで茶ガラをこしながら、濃さが均一になるように廻し注ぎしましょう。
"ベスト・ドロップ"と呼ばれる最後の一滴まで注いでください。
※ただしダージリンは、「緑茶」に近いので85℃程度で入れましょう。
〈煎茶〉 70 ~90℃ 5人分で10g(大さじ2杯) 2~3人分の場合は1人分3g(ティースプーン1杯)
湯量:1人分あたり60~90cc(高級なものほど少なめに)
1. 人数分の茶碗にお湯を8分目ほど入れ、お湯を冷まします。
2. 急須にお茶の葉を入れ、茶碗でさましたお湯を注いで約1分(2煎目は約20秒)待ちます。
3. 茶碗に均等に廻しつぎし、お湯が残らないよう搾りきります。
〈玉露〉 50 ~60℃ 3人分で10g(大さじ2杯)
湯量:1人分あたり約20cc(茶碗は玉露用の小さめのものを)
1. 急須にお湯を入れ、お湯を冷まします。
2. 急須のお湯を茶碗に7分目ほど入れ、残ったお湯は捨てます。
3. お茶の葉を急須に入れ、茶碗のお湯を急須にあけて約2分(2煎目は30秒)待ちます。
4. 茶碗に均等に廻しつぎし、お湯が残らないよう搾りきります。
〈番茶・ほうじ茶〉 熱湯(95~98℃) 5人分で15g(大さじ2~3杯)
湯量:1人分あたり約130cc
1. 急須にお茶の葉を入れて熱湯を注ぎ、30秒(2煎目はひと呼吸、お湯を入れてすぐ茶碗についでも可)待ちます。
2. 茶碗に均等に廻しつぎし、お湯が残らないよう搾りきります。
最終更新:2006年09月17日 00:18