「はぁっ・・・はぁっ・・・。何がどうなってる?」
俺は体力が限界に達していても走っている。走らないと死ぬかもしれなかったからだ。
「わからない・・。でも逃げなくちゃ・・・」
と、傍らで一緒に走り逃げていた蒼星石が律儀に俺の質問に答えを返す。俺の家から逃げ始めてからもう1時間も経ったかのような錯覚に襲われる。腕時計に目をやるとまだ4,5分ほどしか経っていなかった。
 俺たちは近所にある公園でまず考えを整理することにする。現状を説明すると、空は地獄のような紫煙で覆われていて、光は差し込まず真夜中のように暗かった。道にある街灯という街灯も点灯されずに沈黙を守っている。
ここまでくるのにたくさんの逃げ惑う人々を目の当たりにした。俺は逃げ遅れた人が背後から迫ってくる黒い霧のようなものに飲み込まれ、それ以降ずっと出てこない現象も垣間見た。
今、公園の周りには人の影さえも見当たらない。いや、光がないのだから影も存在はしない。俺と蒼星石はベンチにペタリと座り、手にもっていた蒼星石の鞄を傍らに置いた。
「どうなっちゃうんだろ、マスター・・・」
「さあ・・・。でもあの霧につかまっちゃいけない。それだけはわかるんだが。」
「・・・」
最後には恐怖のため、単語さえも頭の中に浮かんでこなかったので会話が成立しなくなった。
ほんの数分前まではいつもの日常があった。それだけは確信を持てる。俺の思考は現実を見つめようとはせず、数分前の日常ばかりを振り返っていた。
が、そのときだった。
「!  マスター、霧が!」
蒼星石が声をあげる。その視線の先には幾多の人々を飲み込んだ黒い霧が立ち込めていた。
「まずい・・・!逃げるぞ!」
と、俺が蒼星石にアイコンタクトで逃げるよう促す。しかし蒼星石は動かなかった。
「マスター・・・あれ・・・」
そういうと蒼星石は指を空中に向ける。その先にはまたも黒い霧。俺は周りを見渡す。すると公園のすべての出入り口に黒い霧
が居座っており、脱出不可能となっていた。
「万事休すか・・・」
俺はふう、と大きなため息をつく。しかしそのとき俺はあることに気がつく。
そう、出入り口は霧に防がれているものの空中の空間はぱっかりと空いている。あそこなら何とかして出れるかもしれない。
「蒼星石」
「・・・?」
「あの、霧の上から出れると思うか?」
「・・わからない、でもやれることはやっておこうよマスター。」
「決まりだな。」
俺と蒼星石はもっとも霧の高さが低いところを探し出し、その前に立つ。さきほどまで活発に動き人を飲み込んでいた霧がこのときは妙に静かだった。
霧の高さは俺と同じぐらい、大体175cmってところだ。飛び越えるにはかなりきつい。棒高跳びができれば楽に越えられそうだが・・・。
 しかし、ここで予想外のことがおきてしまった。いきなり霧が活発に活動をはじめたのだ。俺と蒼星石は慌てて霧からの距離を一定に保つ。
そうして後ずさりしているうちに公園の真ん中へ誘導された。周りを眺めると見事な、そして高々と黒い霧の壁が築かれていた。高さはざっとみて3,4mあるだろうか。そして今も霧は成長しており、どんどんと高くなっている。
俺たちが立っている地面も、霧がどんどん削っていく。この状況下で人間の俺が生き残ることは不可能だった。
「・・・蒼星石、鞄に乗って1人で逃げろ。」
「・・!?でも、マスターは・・」
「わかるだろ?もう俺が脱出できる領域じゃあないんだってこと。」
「でも・・・・でもっ・・!」
蒼星石の感情がボーダーラインを越え、目から大粒の涙がこぼれ始める。そんな蒼星石を俺は見ていられなかった。
俺は蒼星石を鞄に乗せ、それをわずかに開いている霧の穴へ手で持ち上げる。
「早く!2人が死ぬことはないんだ。どちらかが生き残ればいい・・・」
「じゃあマスターが・・・」
「生き残ればいいといっても、生き残る可能性が高いほうに生き残るチャンスがあるんだ。それが蒼星石、お前だ」
「・・・」
もう蒼星石は口を開かなかった。そしていよいよ霧が空間を狭まらせる。俺が呼吸していられる限界ギリギリだ。
するとようやく鞄が俺の手から浮き、少しずつ上昇してゆく。しかし鞄が途中で止まる。
「マスターが、マスターが居ないなら僕も一緒に逝くよ、お願いマスター・・・」
「駄目だ!あと3秒とどまってたらレバーとホウレンソウ抜きだぞ、わかったか?」
俺こそ涙声になりつつ、蒼星石を餌付けした野良犬を追っ払うように言う。
2秒後、蒼星石は発言内容ではなく、俺の本当の気持ちを理解したのだろう、鞄の上から顔をひょこりと突き出して俺に何かを話した。それは涙声で、空気を震わす力もなく、俺に話し掛けた。それは確かに"さ"、"よ"、"う"、"な"、"ら"、と言っていた。
それを告げた後、蒼星石はじょじょに鞄を上昇させ、霧の外へ脱出していった。それとほぼ同時に霧の壁が俺を押しつぶす。
 色が消え、音が消え、思考が消えた。すべてが吹っ飛んだ。

 蒼星石はその後、霧を掻い潜り元マスターだった彼の家へ帰った。
その夜、蒼星石は疲れているはずなのにあえて彼のふとんで寝た。途中で螺子が切れるようなギシギシといった音が間接から発せられた。しかし蒼星石はそれを気にはしなかった。
 朝。世界が外れたかと思われるような夜の翌日。蒼星石は今日の正午がせいぜい自分の最大活動時間だと感じていた。
しかし蒼星石の間接は油をさした歯車のように、なめらかに動いていた。ふと、昨夜の間接の不調和感がよみがえった。螺子は切れかけていたはずなのに。
 これまでない倦怠感で布団からは出ようとしなかった。いや、むしろ出たくはなかったのだろうと蒼星石は確信していた。
蒼星石はまた泣き出しそうになったのでもう一度、布団を頭から被った。
 眠っていたはずの蒼星石は、脳髄にノイズらしきものを感じた。夢。自分のは見れなくとも他人のは見ることのできた夢だった。
その夢の中に、蒼星石のマスターだった彼が居た。
「よ、蒼星石。人間ってのは不思議なもんだな。こうしてなんとか精神体は空中に漂って居られるんだ」
蒼星石は何が起きたのかを理解することができず、ただ黙っていた。
「どうせお前だったら俺のことを心配して変な気を起こすだろうと思ってな。心中とか。
 だから俺はお前の記憶から消えさせてもらう。」
「そ・・そんな、マスター・・?」
「これが最善なんだ。すまないな。」
「嫌・・だ・・。マスターはいつも他人の幸せばっかりで、自分の身をあんじていない・・・
 いつも自分を犠牲にして最善の手を尽くすなんて・・・」
「・・ごめん・・ごめんな」
「マスターはずるいよ・・・今までの思い出を白紙に戻して何が最善だよ!僕は・・・」
「もう・・・いいんだよ・・・蒼星石
 わかってくれないか?それが俺にもお前にも一番いいことなんだ。」
「・・・だったら、だったら最後ぐらいは抱きしめてよ・・。マスター・・・」
「そう・・だな・・・。じゃあ、こっちへ来てくれ蒼星石・・」
「マスター・・・暖かい・・マスター・・」
「すまない、本当にすまない。もう、時間切れだ」
「マスター?マスター!!」
蒼星石の体を抱きしめていた彼の体がいきなり太陽も見劣りするような強い光を出し、数秒後には蒼星石の夢も消滅した。

「・・・僕は」
蒼星石は布団から頭を出し、上体を起こす。そして傍らに置いてあった帽子を手に取り被る。
「ここは・・・どこだろう」
蒼星石は布団から出て、廊下、居間、台所と建物の中を歩き回る。偶然、居間で蒼星石が一週間前に元マスターであった人間に渡した手紙が額縁に入れられ、飾ってあるのを見つけた。
「これは僕の字だ。でも・・・マスターって誰だろう・・・」
家の探索を終えた蒼星石は鞄に乗り込み、玄関から出て行った。新たなマスターを探すために。
 居間の机の上にはさきほど蒼星石が書いた、彼女自身記憶には存在しないマスターに宛てた手紙が置かれていた。
"今までありがとう マスター"