映画館から出ても泣き止もうとはしない蒼星石を、俺はあやそうと試みる。
しかし何を言ってもなかなか泣き止んでくれない。子どもに気に入られないパパさんの気持ちが多少わかった気がした。
「どんなに悲しいことがあっても、いつまでも引きずらず、前を向くんだ。そうしないとレバー(肉)はお預けな。」
「うっ・・・なら・・・泣き止むよ。・・・でもどうしても涙が止まらないんだ。」
と、手で顔を拭うがなかなか涙は止まらない。このままでは大粒涙洪水警報が発令されるな。そう思った俺はポケットから
ハンカチを取り出して、蒼星石に手渡した。蒼星石はそれを受け取ると、四つに折りたたまれていたハンカチを開き、顔に
ぐっと押し付けた。しばらく経つと蒼星石はハンカチを顔から離し、再び四つに折ってから俺に返した。ハンカチは水の張った
バケツに突っ込んだんじゃないかってぐらい濡れていた。
「うん・・・。これで大丈夫だよ・・。マスター、レバー買ってね。」
と潤んでいるおかげでより透き通って見える瞳が俺を凝視する。もちろん、買うさ。約束する。
 ようやく泣き止んでいつものように戻った蒼星石と俺は、車の独壇場となっている道路の前で止まる。信号は赤く光っていた。
すると割と近くで、
「ひったくりよぉ!誰か捕まえて!」
と低くしわがれた声が俺と、その周りにいた人々の鼓膜を振動させた。それから1秒ほどで、そのひったくり犯らしき人間が
俺と蒼星石の前に走ってやってきた。俺は意識していないが、どうやらそいつの進路を塞いでいる様だ。人間とは醜い動物だ。
思考が混乱状態に陥ると、本能で行動するようになる。そしてそいつも本能がするべきことを割り出したんだろう。そいつは
俺よりはるかに小さい蒼星石の方へ走り、蒼星石を手で押しのけた。不意を着かれた蒼星石は例によって車が独占している道路へ
倒れる。ひったくりは蒼星石を押しのけたことによって得た活路を、そのまま突き進んでいった。
 俺は無意識に道路へ飛び込んでいた。蒼星石を抱き上げ、もとの歩道へ放った。そして自分も逃げようとしたとき、1台の軽自動車
が俺に襲い掛かった。そのあとは・・・よく覚えていない。


 ここはとある県立病院。先ほど、自分を助けようとして車に跳ねられてしまった我が主を、扉越しに待っている蒼星石が
居た。手術室の扉の上にあるランプが消え、中から医者が出てくる。蒼星石は無我夢中で手術室の中へ入ろうとしたが、医者により
止められた。医者によると、ベッドに寝かせるから少々待てと言うことだった。
 蒼星石はマスターの部屋を教えてもらい、部屋へ行くことにした。命は助かったというのに医者はなぜか暗い顔をしていた。
マスターの命が無事だったという思いだけで満たされていた、蒼星石の心はそんなことなどこれっぽっちも考えていなかった。
 扉を静かに開け、蒼星石はマスターの居るベッドへ近づいていった。マスターは額と両腕に包帯を巻いていた。蒼星石はそれを
見て心が痛んだが、それより先に、再び涙が目からほとばしり、包帯を体中に巻いたマスターに優しく抱きついた。
マスターは、
「君は・・・誰だ?」
とだけ言った。
「誰って・・・マスター、覚えてないの?僕だよ・・・蒼星石だよ?」
「わからない・・・なんで俺がここに居るかもよく知らないんだ・・・。
 君は俺がここに居る理由を知ってるかい?」
彼は命こそ助かったものの、打ち所の悪さで記憶をすべて失ってしまったのだった。
「そんな・・・。マスター、思い出してよ!さっきまで二人で映画を見てたじゃないか!
 なのに・・・ない・・こんなことってないよ!?」
蒼星石はマスターのいたずらだと信じ、彼の体を小さな体で思いっきり揺さぶる。マスターは揺さぶられた衝撃で頭を
両手で抱える。
「うっ・・ぐ・・・。思い出せない・・・思い出せない・・・!」
うめくマスターの声を聞きつけたのか、医者が看護士を連れてドアを思いっきり開けて入ってくる。
蒼星石はついに、最愛のマスターから離されてしまった。
頭を苦しそうに抱える彼を目の当たりにし、蒼星石は自分のせいでマスターを苦しめてしまったと思い、部屋から走って
出て行った。そのまま病院をも抜け、海を見渡せる海岸までやってきた。
 ついさきほど枯れてしまったと思われていた涙が再びこんこんと湧き出てくる。それをいくら袖で拭おうと、いっそ枯らそうと
涙をこぼしながら立ち尽くしていても、涙は止まることは無かった。蒼星石は、海岸にある小さな石の上に腰を降ろし、夜を過ごした。

翌日。マスターが事故で記憶を失った次の日。彼は出された朝食を食べる前に看護士に質問をした。
「あの・・・昨日俺に泣きついていた子はどうしましたか?」
「さあ、私は知らないけどねぇ。」
「そうですか・・・」
彼は見ず知らずの蒼星石を新しい記憶の上に刻み込んでいた。なぜか泣き顔が忘れられないという。
 一方、蒼星石は例の海岸で考えていた。
「どうしよう・・・もう一度マスターに会いたいけど僕を覚えていない・・・。会ったらマスターに
 負担をかけてしまうかも・・・」
そう悩んでいた蒼星石は、不意に目の前に現れた人物に心底驚かされた。
「マスター?」
「昨日、俺が悪いことしたなら謝る。でも本当に君を覚えていないんだ。すまん・・・!」
そういって頭を包帯に包み、入院服を身にまとった彼は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「それと、俺の脳が君に言っておきたい言葉を確かに記憶してたんだ。それは
 "どんなに悲しいことがあっても、いつまでも引きずらず、前を向くんだ。そうしないとレバー(肉)はお預けな。"」
その言葉を聞くと、蒼星石はまだ枯れていない涙でべちょべちょに濡らした顔をマスターに向けた。
それは確かに彼が言った言葉だった。泣いている蒼星石に対して放った言葉だ。
 しかしそれでもやはり泣き止むことができない蒼星石を見かねて彼がハンカチを差し出した。あの時とは別のハンカチだったが
蒼星石はそれを震える手で受け取ると、顔に押し付けた。しばらくすると顔からハンカチを離し、折りたたまずに彼に渡した。
蒼星石はただ一言、「ありがとうマスター。そして・・・さようなら。」と言い、彼の前から去っていった。彼は何かよく
わからない面持ちだったが、直に理解していった。
「ハンカチ・・・べちゃべちゃだな。」



 それから1年後。彼はすでに我が家と定義づけられた家へと帰っていた。そこには彼が最後に出かける前のまま、保存されていた。
唯一存在しないものは、異様に大きな鞄ととあるドールだけだった。
 蒼星石は双子の姉である翠星石とそのマスターの家に居候していた。今は誰とも契約をしていない。そしてこれからも彼女は
契約をすることは無いだろう。たとえ過酷なアリスゲームが始まっても。

 元蒼星石のマスターである彼は、朝起きた時に1年かかってようやく忘却の彼方に放られていたあるひとつの単語を口にした。
「――蒼星石。」
しかし彼にはそれが何なのかを忘却の彼方から引きずり出すことはできず、ただどこか懐かしいその単語を口にするのみであった。