第四話(2) Ave Maris Stella

俺は背中に百足が走り回るような嫌悪感に思わず目を覚ました。

「マスター……ごめんなさい…」

背中からわき上がり全身を駆けめぐる百足の嫌悪感に、俺は自分の身体を掻きむしることに必死になりながらも、
起きあがった目と鼻の先に帽子を両手で抱え、子ウサギのように怯えた様子の蒼星石を見落とすことはなかった。
蒼星石の姿を見つけると全身の百足どもが燃え上がり、俺の皮膚は焼けただれたように赤く滲み、
興奮する気持ちに合わせて、その焼けただれた皮膚がジリジリと痛む感覚に、何が起こったのかを強制的に自覚させられた。

「蒼星石……俺をこれ以上イライラさせるな。その態度が気に入らない」
「ごめんなさい…」
「謝るな…謝ることで俺に詰られることに対して予防線を張ろうという小賢しさが気にくわない」
「……ごめん…なさい……」

声こそは落ち着いていたものの、怒号を秘めた俺の女々しいセリフには、蒼星石を追いつめるだけの迫力があった。
蒼星石は謝る態度をみせるばかりで俺に対して何も弁明しようとすらしなかった。

「もはや…俺たちは仲を違えたのか」

俺は身体を走り回っていた百足どもが焼き尽くされつつあることを感じていた。
百足どものすすまみれになっている自分の姿を想像すると、うすら悲しくなってきた。

「いいえ…マスター……僕はあなたの……あなただけの人形。決して仲を違えたりはしない」
「ならば、なぜ俺の恐怖を力で踏みにじった?」
「それは…」
「俺には力はない。両手にあるのは憎しみの暴力だけ。蒼星石、お前は俺の最後の自尊心であるその暴力を力で蹂躙したんだ。」
「だけど…止めなければマスターが壊れてしまっていたから…」
「壊れる……?」
「僕は……夢の庭師。あなたの心の姿を誰よりも正確に分かっている。あの時のあなたの心は、暴力に犯されていた翠星石以上に危なかった。」
「笑わせるな。」
「僕は…愚弄するようなことを言っているつもりはない。」

蒼星石はオドオドとした姿を脱ぎ捨て、冷え切った表情を露わにした。
この蒼星石は久しぶりだ。俺が彼女に母性を求めてから、ずっと隠れてしまっていた姿だ。
冷静で気高く、そして理知的である、優しさ以上に輝く彼女の彼女らしさに違いない。
俺は彼女のこの反応に全身が透析されるようなカタルシスを感じていた。
彼女は気付いていなかったかもしれないが、俺が彼女を目覚めさせたときに感じた彼女に対する深遠な恐怖。
それが今俺を海中深く引きずり込み、百足のすすを払い落としつつある。
彼女のオッドアイが暗く深く澄んでいく…。初めてであったときは思わず目をそらしてしまったが、
俺も年を重ね荒んでしまったからだろうか、彼女の瞳に恐怖こそすれ、目をそらすということを忘れてしまった。

「あなたの心は恐怖に潰されるところだったんだ…」
「それは……お前の姉妹に対する怒りだ。」
「物は言い様です。あなたは結局僕の姉妹に僕を奪われることが怖かったんだ。」

蒼星石が暗くしたオッドアイで俺を真っ直ぐ見つめる。俺はその瞳をまっすぐ受け止める。
彼女のセリフに対して強がることもできる。しかし、返すべき言葉はもう決まっていた。

「蒼星石は……俺のドールだ。」
「ありがとうマスター。」

彼女の瞳を見つめ返した。
俺は初めて彼女をドールと呼んだ。
「ドール」という言葉の持つ冷たい響きに俺の理性は明瞭さを取り戻しつつあった。
足かけ三年間失っていた「俺」自身の理性が、冷たい響きに呼び起されつつあった。

「蒼星石、正直に言え。俺を心配して俺を止めたのも事実だろうが、それ以上に翠星石をかばったんだろう?」
「はい、マスター。彼女は僕自身だから。僕は彼女であり、彼女は僕だから。彼女を傷つけるあなたに恐怖したのは他でもない僕だから。」
「素っ気ない言い方だな」
「マスターこそ」
「怒っているのか」
「ドールに傷をつけることは、例えお父様であっても僕は許さない。」
「そうか…嫌われてしまったな」
「でも…」

蒼星石の瞳の奥に一瞬だけ動揺が見え隠れしたことを俺は見落とさない。

「嫌いになれない…か。愛されたものだな。俺も」
「……僕は最低だ。翠星石が……僕の唯一の味方だった彼女が傷つけられるようとしたあのときに、
マスターが僕を守ろうとしたことが、思わず契約の指輪を介して伝わってきてしまったから、
翠星石を傷つける前にマスターを制止することが出来なかった。
正直…僕は嬉しかったんだ。マスターにこれほど守られていることが…。
でも、汚い。とても汚い。翠星石を生け贄にして、マスターの情を確認しようとしたにすぎない。
自分がドールとして愛されていたいから。翠星石の代用品でないと確かめたかったから。
だから、あの一瞬僕は空白になってしまった。マスターの凶行を止める前に怯んでしまった…。
とても…狡い。僕は…あなたのドールになれないほどに、歪んで不完全…」

蒼星石は自虐的になるほど冗舌になる。自虐的な言葉を羅列し、暗く沈む蒼星石はある意味でとても女性的であった。
俺は彼女の愚痴などまるで聞く気はなかった。ただ、彼女の自虐的な冗舌に恍惚としていた。
従って、彼女にかけるべき言葉ももうすでに決まっていた。避けては通れないあのことだ。

「蒼星石…俺と今すぐここで決別するか、俺の母になるか決めるんだ。」
「……マスター……」
「前者は、俺をアリスゲームに巻き込まないかわりに俺を見捨てることだ。
後者は俺をゲームに参加させるかわりに、お前は不満に時間を使うことになる。好きな方を選べばいい…」

意地の悪い質問であるのは重々承知している。そして、彼女に逃げ道がないことも。
あとから思えばこの質問が破滅への扉を開く鍵であった。
俺の心はすでに蒼星石なしでは自立できない状態にあった。しかし、その自覚はなかった。
蒼星石は俺の心の状態に非常に敏感だった。従って彼女が選ぶ道は一つしかなかった。

「わかった…マスター」
「決めたか?」
「僕は……あなたと一緒にいたい。だから……アリスになる。あなたの心を守れるのは僕だけだから。」
「俺にゲームの招待状を押しつけるわけだな」
「僕はあなただけのドールだから。あなた以外の力はいらない。」
「アリスゲームを始めるのだな」
「はい」
「勝てるのか?」
「勝ちます。」
「負けたら俺はすべてを失うのだぞ?随分無責任な返答だな。」
「僕は…負けない」

蒼星石の心の扉が閉じたような気がした。重々しい低音とともに彼女の心の扉が閉ざされた。
これ以上俺が何を言ってももはや彼女の心に踏み込めないことは明らかであった。

そしてゲームが始まった。
0か100か。これ以上ないくらいにわかりやすい単純なゲーム。
少女の姿をした姉妹たちにふさわしい、単純明快で子供だましな、寓話めいた一度きりのゲームが。

「蒼星石」
「なんですか…?マスター」
「ゾクゾクするほど、綺麗だな」
「ありがとう」

蒼星石の影に憎悪の闘志が揺らめき、俺はその火影に思わず愛を語らずには居られなかった。

続く。