【バルカン三国縦断記】
第5話)トンネル博物館

《バルカン三国旅行記|セルビア|ボスニア・ヘルツェゴビナ|クロアチア|》

ボスニアの首都サラエヴォは四方を山に囲まれた美しい街である。

観光の中心であるバシチャルシァ地区はイスラム色が強いゾーンで、ここがヨーロッパであることを忘れてしまう。それでいて300メートルばかり東に進むと、荘厳なカテドラルのそびえるキリスト教エリアが出現する。旅行者にとっては、様々な宗教・文化が同居する不思議な魅力にあふれる街だ。

バルカン三国旅行記|バシチャルシァ地区はイスラム色が強いゾーン
サラエヴォは様々な宗教・文化が同居する不思議な魅力にあふれる街
バルカン三国旅行記|カテドラルのそびえるキリスト教エリア

昔から他民族が共存していたサラエヴォであったか、1992年から始まった旧ユーゴスラビア解体の際に民族間の軋轢が噴出し、悲惨な内戦に見舞われてしまった。旧ユーゴ連邦を支配していたセルビアのミロシェビッチ政権は、連邦各国が独立の動きを見せると軍事力でそれを阻止しようとした。

バルカン三国旅行記|銃弾の跡も生々しいトンネル博物館
銃弾の跡も生々しいトンネル博物館

 「この家の壁を見てください」

ガイドは、博物館となっている民家の壁に残された銃弾の跡を指差した。サラエヴォ滞在2日目、僕は、ボスニア紛争時の爪跡を後世に残すトンネル博物館のツアーに参加していた。

当時セルビアの軍事力は圧倒的で、ボスニアの10倍以上の武器と人員を要していた。首都サラエヴォは1992年から約3年半の間、セルビア軍に包囲された。

 「一日平均300発の砲弾が打ち込まれました。」

当時のニュース映像を前にガイドが説明を加える。映像とはいえ、本物の戦闘の凄まじさの前に声が出ない。

そんなサラエヴォであったが空港だけは国連管理地域として唯一砲撃を免れることができた。

 「これが当時のサラエヴォです。」

ガイドがパネルを前に、紛争当時のサラエヴォの地図を示す。当時のボスニアの勢力図はジグソーハスルの凸型ピースのようであった。先端の突起部がサラエヴォにあたり、突起部と土台を繋ぐ接点が国際空港、そして土台部分がボスニア解放区となっていた。

バルカン三国旅行記|紛争当時のサラエヴォの勢力図
紛争当時のサラエヴォの勢力図
バルカン三国旅行記|紛争当時のサラエヴォの勢力図


 「解放区から人や物質をサラエヴォに運ぶため、空港の下にトンネルを掘ったのです。」

空港近くに掘られた当時のトンネル跡が、今は博物館となって残されているのだった。

一日平均300発の砲撃を受け、人口30万の都市で1万人以上の市民が亡くなった。それでも首都を守るため、解放区から人と物資が供給された。

「このトンネルは軍隊が管理していました。市内に人や物を供給するために作られたもので、市内から人を脱出させるものではありません。」

しかし一部の軍とつながりのある特権階級や金持ちたちはこのトンネルを使って脱出することができたという。

バルカン三国旅行記|解放区から人や物質をサラエヴォに運ぶため、空港の下に掘られたトンネル
解放区から人や物質をサラエヴォに運ぶため、空港の下に掘られたトンネル

元サッカー日本代表監督イビチャ・オシム。彼はサラエヴォ出身だ。オシムが息子とベオグラードに出かけている間にサラエヴォ包囲作戦が始まった。そして彼は紛争が終わるまで、サラエヴォに戻れなくなり、残された妻アシマと家族はその後毎日砲弾に怯える生活を強いられた。

オシムほどの有名人であれぱ裏ルートを使って家族をトンネルから脱出させることも可能であっただろう。

 「皆が苦しんでるのに私たちだけ脱出することはできません。」

そう言ってアシマは留まり続けたという話を思い出した。

もし自分が十分なカネとコネを持っていたら、ここぞとばかりにそれを利用して脱出を図ったはずだ。本物の戦争のすさまじい爆撃映像を見せられた後で、改めてアシマ・オシムの言動を思うと、それがどれほど勇気のいる事であったのかを、驚きをもって再認識したのであった。

(続く)


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最終更新:2016年11月06日 21:38