尾張大隅

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  • 熱田神宮
    ...申の乱で功績をあげた尾張大隅が、尾張宿禰姓を賜り、熱田神宮大宮司となる。    11世紀になり、子孫である尾張員職(かずとも)は夢告により当時の尾張目代だった    藤原季兼(すえかね)を婿養子に迎え、生まれた子供である藤原季範に1114年(永久二年)、    大宮司を継がせる。    さらにその長男が藤原範信で、その娘由良御前が源義家の妻となり、    源頼朝を産んだという。 柳田國男は『一目小僧その他』所収「橋姫」の中で、「名古屋市史」を引いて、    熱田神宮では「楊貴妃」の謡を決してうたわなかったといい、    その理由は「以前この境内を蓬莱宮と称し、唐の楊貴妃の墳があるという    妙な話があったため」と説明している。 (zsphereコメント:既に『妄想かもしれなかった日本の歴史』で読んで知っていたトンデモ話だけど、             ...
  • 713年
    和銅六年    重大事件    政権 諸国に対して『風土記』の選進が命ぜられる。    外交    生誕    死去    宗教界    学術    文学・芸術    市井    地方 大隅国成立    伝説など(史実かどうか疑わしいもの)    その他
  • 地下式横穴墓
    南九州、特に宮崎県南部から鹿児島県東部にかけて分布する特徴的な墓制。 地下に竪穴を掘り、そこから更に横穴を掘って造られた玄室で被葬者を葬る。    墳丘や標示物の類が地面にまったく無いのが特徴。 大隅隼人の残した墓ではないか、とする説もある。       参考文献 『日本神話の考古学』森浩一 日本神話の考古学 (朝日文庫)
  • 断夫山古墳
    だんぷさんこふん。全長151メートル。6世紀初頭頃の造営とされる。 愛知県名古屋市熱田区旗屋町、熱田神宮境内の熱田神宮公園内に所在。 愛知県内最大の前方後円墳 長らく、ヤマトタケルノミコトの妃であるミヤズヒメの陵墓とされてきたが、    近年は六世紀頃の尾張国の統治者、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の陵墓とする見解が    優勢となってきた、とのこと。 (バジラな神々 第8柱・第9柱―7)
  • アユ
    日本の国魚。ただし中国では雑魚扱いの魚だとか。 水苔を食べるため、独特の香りを持つ。故に中国名を「香魚」という。 『日本書紀』によれば、神功皇后が三韓征伐の際、肥前国松浦県玉島郡の小川で    腰の衣裳の糸と針、飯粒で釣りをし、「もし事成るなら川の魚よ餌にかかれ」と言ったところ、    かかったのが細鱗魚=アユだったという。    この時皇后が「めづらしき物なり」と言った事から、その地を「めづらの国」と    言うようになり、のち転訛して「松浦」となったという。 「鮎」の字は、中国ではナマズを指す。 江戸時代、既に「鮎」をアユにあてる誤りは知られていたが、それでもこの字を使う理由として    『本朝食鑑』は「神宮皇后が占いに用いた魚であるからこの字をあてねばならない」としている。 『日本書紀』に、天智天皇が崩御した時に流行した時に流行した童謡を載せる。     ...
  • 小子部連鉏鈎
    ちいさこべのむらじさいち 尾張国司守(みこともちのかみ)。 小子部栖軽の子孫。 壬申の乱の際に2万の兵を連れて大海人皇子=天武天皇方につき、勝敗に大きな影響を与えた。       参考文献 『日本神話の考古学』森浩一 日本神話の考古学 (朝日文庫)
  • 徳川綱吉
    1646年(正保三年)に生まれる。徳川家光の四男 尾張藩主徳川義直が建てた孔子廟を湯島に移し、   合わせて学問所を併設した。大学頭に林信篤を任じる。   また綱吉自ら『論語』『易経』などを講じた。       参考文献 『要説日本歴史』 『江戸の教養』大石学編 要説 日本歴史 シリーズ江戸学 江戸の教養 遊びと学び (角川ソフィア文庫)
  • 妖刀村正
    徳川氏の創業史『改定三河後風土記』によると、   天文四年(1535年)尾張・守山の陣中で徳川家康の祖父、松平清康が   家臣の阿部弥七郎に惨殺された事件   天文十四年(1545年)岡崎城内(愛知県岡崎市)で、家康の父、広忠が   家臣の岩松八弥に股を突かれた事件   天正七年(1579年)家康の長子、徳川信康切腹の際の介錯   以上すべて、妖刀村正が使われたという。 (『魔界と妖界の日本史』上島敏昭) 魔界と妖界の日本史
  • 小子部栖軽
    『日本書紀』「雄略紀」、また『日本霊異記』に、小子部栖軽が天皇に命じられ雷神を捕らえる話が載る。 『日本霊異記』では、雄略天皇より雷を捕らえて来いと命じられ、緋の蔓を額につけ、赤い幡桙を捧げ、馬上して阿部の山田の前の道と、豊浦寺の前の道とから走りかかりついに雷を捉えたという。雷の描写はない。これを輿籠に入れて持ち帰り天皇に報告したが、まさに雷光を放ち明々と輝いたので、天皇恐れてこれを還し放ったという。 一方、『日本書紀』「雄略紀」では、天皇が「三諸岳(みもろおか)の神の形を」見たいと言う(注釈に、此の山の神おば大物主神という、或いは云はく菟田(うだ)の墨坂神なりといふ、とある)。栖軽は三諸の山へのぼり大蛇をとらえて天皇に見せたが、「天皇が斎戒せずに見ようとしたところ雷鳴雷光ともにひらめきとどろき、ついに天皇はこれを見ることができなかった」という。 (馬場あき子『鬼の研究』) ...
  • 亀と改元
    文武天皇の代、瑞祥として様々なものが現れた最後に霊亀が現れた。    左京人大初位下高田首久比麻呂が献じたもので、    長さ七寸、広さ六寸、左目白く右目赤く首に三公、背に七星をあらわし、    前脚に離の卦、後ろ脚に一爻あり、腹下には赤白二点あり。    この亀の献上により、間もなく元正天皇即位されると「霊亀」と改元された。 養老七年十月十一日、左京人紀朝臣家が白亀を献上。    長さ一寸半、広さ一寸、両目とも赤く、これをもって    元正天皇は翌年聖武天皇に譲位し、同時に「神亀」と改元した。 神亀六年六月二十日、河内国古市郡の賀茂子虫により長さ五寸三分、    広さ四寸五分、背に「天王貴平知百年」の文ある亀を発見、    同八月五日に天皇より「天平」と改元する詔発せられる。    子虫はこれにより従六位上、子虫に瑞亀の献上を示唆した唐僧道栄も    従五...
  • 草薙剣
    『日本書紀』天智天皇七年(668年)に、「沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰る」    という記事がある。    この道行という人物は記紀には他に見えないが、愛知県知多市にある法海寺は道行の開基としており、    『法海寺略由緒』では、熱田の宝剣を盗んで逃げようとしたが発覚し、星崎の浦にある土牢に囚われたが、    後に高僧であることが認められ、天智天皇の病に加持祈祷を行って平癒させたので、薬師如来を本尊とする法海寺が建立されたと伝える。 道行の一件からしばらく、草薙剣は宮中に留め置かれたようで、それから18年後の686年(天武天皇朱鳥元年)、    天武天皇の病が重くなり、占うと草薙剣が祟っていると出たので、尾張国熱田神宮に送り届けられたという。 壇ノ浦の戦いで、海底に没し失われる。 『愚管抄』は草薙剣が失われた件について...
  • 纒向遺跡
    奈良県の大和平野に所在。 1971年、炭鉱離職者向けアパートの建築計画を機に本格的に調査が始まる。 遺構の東側から発見された溝周辺で、鍛冶滓や羽口が少量出土した。   これは大和平野の中では最古の鍛冶遺構であり、   纒向遺跡に鍛冶関連の工人がいたことを示すと見られる。 同遺跡には前方後円墳のほか、従来型の方形周溝墓もある。   摂津や河内地方で多く見られる組み合わせ式の木棺墓や、   瀬戸内から山陰にかけての大型の土器棺墓も発見されている。  (それだけ広範囲から人が流れてきた事を示すか) 同遺跡辻地区の土坑4より、尾張地区、伊勢地区の土器などと共に、    大量の籾殻(もみがら)が出土。さらに同じ場所に、    黒漆と赤漆による花柄文様の描かれた大型高坏、    さらに機織り具、鳥船型木製品などの儀礼用具が発見されている。    これを、新嘗に相当する...
  • 織田信長
       織田信長関連年表    →D:織田信長と比叡山    →D:織田信長の宗教観    →安土城    →本能寺 「信長公記」によれば、信長は父織田信秀の葬儀の際、    異装で現れ、抹香をつかんで仏前へ向けて投げつけた、とのこと。 基本的に、信長は籠城策を一度としてとったことがない、とのこと。 宣教師ルイス・フロイスが本国に送った書簡に、    「信長が1582年(天正十年)、安土山の寺院(摠見寺)の高所に自分の化身として     ボンサン(盆山)という石を置き、万人に拝させようとした」という記述がある。    いわゆる信長の自己神格化。    ただし、日本側の文献などにはこうした内容の記事は一切見られない。 また、フロイスはこの記述のあと、「デウスはこのような信長を十九日しか    生かしておかなかった」とあり、宗教的観点から記述が客観的...
  • 延暦寺年表
         →延暦寺 785年(延暦四年) 最澄、比叡山に草庵を結ぶ。 788年(延暦七年) 最澄、比叡山に比叡山寺を創建。                  のちの根本中堂にあたる根本薬師堂、経蔵、文殊堂の一乗止観院が建てられた。 822年(弘仁十三年) 六月四日、最澄死去                それから七日後の6月十一日、比叡山寺の大乗戒壇に勅許が降りる。 823年(弘仁十四年) それまでの寺号「比叡山寺」を改め、延暦寺の寺号が許される。 824年(天長元年) 最澄の弟子義真、初代の天台座主に就任。 912年(延喜十二年) 良源、近江国浅井郡に生まれる。 935年(承平五年) 延暦寺に火災が発生し、根本中堂を含む多くの伽藍が焼失。 939年~940年 天台座主尊意、平将門調伏の祈祷を行う。                 940年二月二十四...
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