仁徳天皇

私的伝奇関係データベース @ ウィキ内検索 / 「仁徳天皇」で検索した結果

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  • 石之日売
    いわのひめ。 仁徳天皇の皇后。 葛城曾都毗古の娘。 『古事記』下巻に、紀伊国に酒宴のための御綱柏を獲りに行った留守中、    八田若郎女(やたのわきいらつめ)を寵愛したため、これに怒り宮居へ戻らず、    難波から故郷の大和葛城へ戻り、天皇の再三の懇願にも応じなかった、とする記事が見える。 また、『万葉集』巻二相聞部に、石之日売の天皇をしのぶ歌四首が載る。    いずれも純粋に夫を恋慕する内容となっている云々。       参考文献 『日本伝奇伝説大事典』
  • ハヤブサ
    ...登場する。    仁徳天皇(本名が大鷦鷯(オオサザキ))の庶弟にあたり、仁徳帝が女鳥(めとり)の皇女に    求婚するための仲人を務めたが、逆に女鳥の皇女と通じたために帝の怒りを買い    女鳥の皇女と共に殺害されたとされる。 ちなみに、九州南部の隼人が大和朝廷に服属したのも仁徳帝の頃であると云々 また、ハヤブサが獲物に近づく際に、ベルヌーイの螺旋(対数螺旋)の形に飛びながら近づく事が知られている。    獲物に対して常に同じ角度を保とうとするため、自然とそのような飛び方になるという。    →螺旋       参考文献 『世界大博物図鑑 鳥類』荒俣宏 読書猿 http //readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-619.html 鳥類(世界大博物図鑑(4))
  • タカ
    ... 『日本書紀』仁徳天皇四十三年九月の条に、日本最初の鷹狩の記事が載る。 江戸時代成立の『禰津家鷹秘書』に、はぐれてしまった鷹を招き寄せる秘伝が掲載されている。    いわく、その鷹の尾を三つに折って紙に包み、その紙に「アビラウンケンソワカ」と12回唱え、    臼を伏せてその下に置き、東へ向いて「南無八幡大菩薩」と100回唱えるという。    すると三日のうちに戻ってくると云々。       参考文献 『変身物語(下)』オウィディウス 『世界大博物図鑑 鳥類』荒俣宏 『新編日本古典文学全集 神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』 オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫) 鳥類(世界大博物図鑑(4)) 新編 日本古典文学全集42・神楽歌/催馬楽/梁塵秘抄/閑吟集
  • 安徳天皇
    1178年(治承二年)旧暦十一月十二日に生まれる。 諱は言仁親王。 父は高倉天皇、母は平徳子(建礼門院)。 『平家物語』巻第三「公卿揃」の段に、安徳天皇が生まれた際、男児であれば南側に甑を落とすところ、    誤って北側に落とし、のちに慌てて南側に落とし直したという記述があり。    こうした記述から、安徳天皇女性説などが出て来たのではないかと云々。 『平家物語』巻十一、覚一本「剣」の段に、    ある博士(陰陽博士)の話として、安徳天皇はヤマタノオロチの生まれ変わりで、    スサノオノミコトに奪われた霊剣(天叢雲剣)を惜しんで、    人王八十代の後、八歳の帝となって剣と共に海に還ったのだ、とする憶説を載せる。 一方『愚管抄』では、安徳天皇が、平清盛が厳島明神に祈りださせた子であり、    厳島が竜王の娘神である事から、安徳天皇も海に還ったのだ、と論評して...
  • 文章抜き書き(知識編)
    ...若宮社。応神天皇の子仁徳天皇を祀る。    「若王子」「子守御前」は、熊野十二所権現の若宮、子守宮。    「山王十禅師」は日吉大社の摂社、樹下(このした)神社。    「片岡」は賀茂神社の摂社、片山御子神社) 「関より東の軍神(いくさがみ) 鹿島香取諏訪の宮  また比良の明神 安房の洲 滝(たい)の口や小鷹明神  熱田に八剣 伊勢には多度の宮」 (関東の軍神を挙げる歌。    「比良の明神」は滋賀県高島郡高島町にある白髭神社(滋賀県)、    「安房の洲」は千葉県館山市の洲宮神社    「小鷹明神」は千葉県安房郡白浜町(旧長尾村滝の口)にある小鷹神社、    「八剣」は熱田神宮内の別宮、八剣宮(やつるぎのみや)。) 「関より西なる軍神 一品中山 安芸なる厳島    備中なる吉備津宮 播磨に広峰 惣三所    淡路の岩屋には住吉西宮」 (...
  • 天皇
    安閑天皇 天武天皇 文武天皇 聖武天皇 桓武天皇 平城天皇 嵯峨天皇 淳和天皇 仁明天皇 清和天皇 宇多天皇 一条天皇 二条天皇 安徳天皇 後嵯峨天皇 正親町天皇 光格天皇
  • 後嵯峨天皇
    土佐へ流された土御門上皇の皇子、那仁王(くにひとおう)が即位した天皇。  もともと、急死した四条天皇に子がなかったため、  順徳上皇の皇子忠成王(ただなりおう)と共に皇位の候補者となったが、  順徳上皇が承久の乱の際、討幕に積極的だったため、幕府の反対が入り那仁王の即位となった。  →土御門天皇・順徳天皇 この後嵯峨の皇子がのちの後深草天皇、亀山天皇であり、  後嵯峨が後任の「治天の君(=政治の実権を握る上皇)」の選定を幕府に一任したことから  後深草系の持明院統、亀山系の大覚寺統の対立が生み出された。 (『要説日本歴史』) 要説 日本歴史
  • 建礼門院徳子
    平 徳子(たいら の とくこ/とくし/のりこ[1]、久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日(1214年1月25日))は、平安時代末期の高倉天皇の中宮、女院。安徳天皇の国母。平清盛の次女で、母は正室の平時子(二位尼)。異母兄に重盛、同母兄弟に宗盛、知盛、重衡など。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。建礼門院德子と呼ばれる。 父清盛の意思で、高倉天皇に入内して皇子を産む。子の安徳天皇の即位後は国母と呼ばれるが、栄華は短く、やがて清盛は病死し、源氏の攻撃に追われて平氏一門は都落ちし、海上を流浪する。壇ノ浦の戦いで平氏一門は滅亡し、母の二位尼(時子)や安徳天皇は入水。徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。 軍記物語『平家物語』のヒロイン的存在で全巻の幕引き役となっている。 『平家物語』灌頂巻、説話集『閑居友(か...
  • 壇ノ浦の戦い
    安徳天皇の座乗船は唐船で、『平家物語』でも城楼のように大きかったとあり、     他の海戦用の舟が源平両軍とも漁舟(いさりぶね)だった中で     異彩を放っていたとか。 源通親『高倉院厳島御幸記』治承四年条に    平清盛が唐船に乗って来るくだりがあり。    清盛が船員ごと唐から購入したものだという。    安徳天皇座乗船もこれと同じものだった可能性がある    (とすれば船員はやはり唐(宋)人だったか)。 (『街道をゆく 9』司馬遼太郎) 街道をゆく (9) (朝日文芸文庫)
  • 1198年
    建久九年    重大事件    政権    外交    生誕    死去    宗教界    市井    地方    伝説など(史実かどうか疑わしいもの) 源頼朝、相模川橋供養の帰りに安徳天皇などの亡霊と遭遇(『保暦間記』)    その他
  • 1178年
    治承二年      重大事件      政権      外交      生誕 十一月十二日、安徳天皇誕生。      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他 正月七日、天に彗星が見られた(『百錬抄』『玉葉』『山槐記』など)    『平家物語』巻第三「祓文」の段では、これを蚩尤旗としている。
  • 1180年
    治承四年    重大事件 安徳天皇践祚。 十二月二十八日、東大寺および興福寺、平家によって攻められ炎上。    政権    外交    生誕    死去    宗教界 由比郷鶴岡に所在していた鶴岡八幡宮、源頼朝の手で小林郷北山に移される。    学術    文学・芸術    市井    地方    伝説など(史実かどうか疑わしいもの)    その他
  • 硫黄島
    鹿児島県に所在。 安徳天皇がこの硫黄島に落ちのびてきたという伝説がある。    この島で櫛笥局(くしげのつぼね)という女性と結婚、若宮を設けて六十六歳まで、天寿を全うしたという。 『平家物語』で俊寛らが流された鬼界ヶ島に関して、    島内の山常に火が燃え、硫黄というものが落ちていることから「硫黄が島」とも名づける、    という記述があり、このことから同作中の鬼界ヶ島を硫黄島に比定する説もある。       参考文献 『平家物語(二)』 『日本伝奇伝説大事典』 平家物語(二) (講談社学術文庫)
  • 神代三陵
    神武天皇の東征以前、ニニギノミコト、ウガヤフキアエズノミコト、ヒコホホデミノミコト(→海幸彦・山幸彦)の陵墓。 日向国に作られた旨の記事が『日本書紀』にある。 考古学者の森浩一は、神武東征以降の大和の天皇たちについて、神代三陵に使者を派遣したり、陵の修理や管理についての記事が    『日本書紀』にまったく見られない点について注意を促している。 また、『延喜式』において、通常陵墓は所在地、陵墓の範囲・広さ、管理者の名前が記されているが、    神代三陵については所在地は国名のみで郡名がなく、また広さと管理者の記述も見られないという。    (こうした事から、現に日向国に該当する古墳があった可能性は低いと森浩一は論じている)。 『延喜式』では、この神代三陵を祀る場所として、山城国葛野郡(現・京都府上京区)の    田邑陵(たむらりょう、文徳天皇陵)の南原を定めている。 ...
  • 源頼朝
    1159年(平治元年)十月、従五位下、右兵衛権佐に任じられる。 諸書では、頼朝は病没だったとしているが、『保暦間記』では、平家の怨霊にとり殺されたとする。  建久九年(1198年)、相模川の橋供養に出かけた帰り、源義広、源義経、源行家、  そして最後に安徳天皇の亡霊に出会ったという。  頼朝は鎌倉へ帰還したが、まもなく病床につき、そのまま亡くなったという。 正史である『吾妻鏡』建暦二年(1212年)二月二十八日条に、相模川橋修繕の記事があり、  この橋は橋供養の帰路に頼朝が落馬してまもなく、死亡し、橋を寄進した稲毛重成も政争の果てに誅された  不吉な橋である、という記事がある。 『吾妻鏡』には、頼朝の死について記載されているはずの、建久十年一月の部分がなぜか欠落しており、  公式上の死因が明らかでない。       参考文献 『平家物語(八)』 上...
  • 安閑天皇
    531年(継体天皇二十五年)、66歳で即位し、わずか4年後に崩御したとされる。 『日本書紀』では、諱(いみな)を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)、    和風諡号(しごう)を広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのみこと)とする。 畿内各地に、安閑天皇を祭神とする神社が散在する。 林道春が「宣化天皇3年、和州金峯山に明神出現し、安閑天皇の霊と称す」という記述を残しており、    おそらく江戸時代以前から、安閑天皇が金峯山の蔵王権現のもとに神として化現したという伝承が    存在したものと思われる。 (ISIS本座『バジラな神々』第8柱―3)
  • 桓武天皇
    781年即位。 天智天皇系。父は光仁天皇。母は高野新笠。  天武天皇の血統を全く持たない。
  • 光格天皇
    119代天皇。後次が途絶え、一時欣子内親王(よしこないしんのう)が  即位する事になっていたが、天明の大飢饉が発生したことで辞退、  代わりに、将来欣子内親王と結婚する事を条件に、養子となった事にして  急遽即位した天皇、在位1779年~1817年。  本来天皇になる家系ではなく、即位はしたものの天皇の仕事について  知識が及んでいない事を自覚し、諸国の学者を集めて  ”天皇とは何か”を研究させた。  それが勤皇思想を高め、後に王政復古につながっていく。 (以上、ISIS本座「バジラな神々」)
  • 宇多天皇
    光孝天皇の第七皇子。一時、源氏を賜姓され臣籍降下し源定省(さだみ)と称したが、    関白藤原基経の推挙により、光孝天皇崩御の日仁和三年(887年)八月二十六日に    立太子、ついで践祚、即位した。 毎朝の神拝、一代一度の大神宝使の発遣、賀茂臨時祭、伊勢公卿勅使の発遣などの    新しい神道祭祀制を創始したとされる。 889年(寛平元年)より大学博士善淵愛成を師として    『周易』を学ばれ、同三年(891年)六月に業を了えられたという。    京都東山御文庫には天皇宸筆の『周易抄』(『周易』の経注より必要な字句を抽出したメモ)が残る。 897年(寛平九年)譲位。    譲位後に住んだ屋敷の名から、亭子院と呼ばれた。また、寛平法皇と呼称される場合もある。 また、『大和物語』巻上に、宇多天皇が譲位の際、歌人の伊勢と歌の贈答があったという記事が載る。 『...
  • 正親町天皇
    諱(いみな)は方仁(みちひと) 1517年(永正十四年)生まれ。1557年(弘治三年)践祚。 即位礼は毛利元就の献金による。 (『信長と天皇』今谷明) 信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)
  • 文武天皇
    この文武天皇の御代に、大宝律令が成立する。
  • 聖武天皇
    天平二十一年四月、陸奥国より黄金の貢上を得たにより    天平咸宝と改元。しかし同年聖体不予のため    天平勝宝元年孝謙天皇に譲位し、「一年に二度の改元」、    「四文字の元号」の新例を作った。 (『日本陰陽道史総説』村山修一) 日本陰陽道史総説
  • 清和天皇
    865年(貞観七年)、東宮から内裏へ移る際に、    陰陽寮の進言で、歴代天皇で初めて方違を行っている。   (ただし、方違という語は平安中期以降で、この時は使われていない)。 (『日本陰陽道史総説』村山修一) 日本陰陽道史総説
  • 一条天皇
    第六十六代天皇 在位中に藤原道長が摂政の座に就くなど、藤原氏による摂関政治の全盛期にあたる。 また、在位中に清少納言、和泉式部、紫式部をはじめ、様々な文人や傑出した賢臣が多く輩出した時期にあたる。    そのため、大江匡房『続本朝往生伝』では、一条帝の在位期間を「聖朝」と記述している。 『続本朝往生伝』巻一、『古事談』巻三などに、一条帝が一度崩御した後に蘇生した話が載る。    いちど崩御したのち、慶円らによる不動火界呪によって蘇生し、自ら百万遍念仏を行って登霞したと云々。       参考文献 『日本伝奇伝説大事典』
  • 光明皇后
    光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月23日))は、奈良時代の人。聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。 なお、「光明皇后」というのは諡号や追号の類ではなく通称で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后という。 幼い頃より聡明であったと伝えられ、たとえば『延暦僧録』には、唐より伝わったばかりの尺(ものさし)の使い方を市井に広めたとある。 『元亨釈書』では、その容姿が麗しく光り輝くようであったため光明子と呼ばれたとする。 伝説的な(実在の疑われる)仁徳皇后磐姫を除けば、前例のない臣下からの立后となる。この出来事が、藤原氏の天皇の外戚として権力を振るう形の端緒となった。 仏教への信仰が篤く...
  • 天武天皇
    天武朝においては、盛んに赤色の瑞が強調されたといわれる。   壬申の乱の際、漢の高祖が火徳=赤色の国と称したのにちなみ、   味方の軍の旗印を赤としたほか、   白雉より朱鳥の瑞を上瑞と評価しているなど。 天武朝に、占星台が設けられたという。   以降、日蝕・彗星や流星などの天文の異変の記録が増える。 また、壬申の乱ののち、天武朝に陰陽寮も設けられている。 『平家物語』巻四「競」の段に、以仁王が女装して追っ手を逃れた記述に続いて、    「清見原の天皇の、いまだ東宮の御時、賊徒におそはれさせ給ひて、吉野山へいらせ給ひけるにこそ、     をとめのすがたをば、からせ給ひけるなれ」とあり、大海人皇子が賊徒に襲われて吉野に入ったとする記事を載せる。    この件は平家物語以外の文献には見られないとか。    なお、『平家物語』流布本では、賊徒ではなく大友皇子に追われ...
  • 平城天皇
    807年(大同ニ年)九月二十八日、    「このごろ陰陽師、いつわりの説をとなえ卜占を乱用」するので、    「今後は暦注を除き聖賢の格言によるべし」との詔を出している(陰陽道への不信を示す記事?) (『日本陰陽道史総説』村山修一) 日本陰陽道史総説
  • 嵯峨天皇
    大唐文化への傾倒深く、    宮城の正殿を、北極星座の紫微星からとって    紫宸殿と名づけ、また都の左京を洛陽城、右京を長安城と称し、    各条坊にも唐名を付したという。 (『日本陰陽道史総説』村山修一) 日本陰陽道史総説
  • 淳和天皇
    840年(承和七年)五月六日、淳和上皇命じて    「予聞く、人歿して精魂天に帰す。而して空しく冢墓(ちょうぼ)を存す。     鬼物焉に憑る。終に及ち崇を為し、長く後累を残す。     今宜しく骨を砕き粉と為し、之を山中に散ずべし」と これにより、死後、御骨を砕き、大原野西山嶺上に散じ奉ったという。 (『日本陰陽道史総説』村山修一) 日本陰陽道史総説
  • 仁明天皇
    紫宸殿(内裏正殿)の梅を桜に植え替えさせたという。 (『要説日本歴史』) 要説 日本歴史
  • 二条天皇
    1165年(永万元年)崩御。 葬送の際、諸寺念仏群衆において、興福寺の僧が延暦寺の額板を打ち破る「額打論」事件が起きている。    この事件の報復として、山門衆徒が興福寺末寺の清水寺を焼き討ちしている。       参考文献 『平家物語 巻一』 平家物語(一) (講談社学術文庫)
  • 日本人名総索引
       あ行 青木昆陽 悪路王 足利義教 足利義満 安倍晴明 安倍泰親 新井白石 有馬晴信 在原業平 安閑天皇 石川五右衛門 石田三成 和泉式部 伊勢義盛 壹演 一条天皇 井氷鹿 今川義元 石之日売 上杉謙信 宇多天皇 役小角 大江匡房 正親町天皇 太田道灌 大伴旅人 大伴家持 大彦命 緒方惟栄 小田野直武 織田信長 織田信秀 小野篁    か行 貝原益軒 賀川玄悦 荷田春満 桂川甫三 桂川甫周 桂川甫筑 鎌倉景政 蒲生君平 韓国連広足 桓武天皇 観勒 鬼一法眼 祇園女御 吉備真備 木村蒹葭堂 空海 国友一貫斎 契沖 玄昉 建礼門院徳子 光格天皇 光明皇后 後嵯峨天皇    さ行 西光 嵯峨天皇 佐倉惣五郎 佐藤泰然 真田昌幸 早良親王 山東京伝 朱舜水 守随彦太郎 俊寛 淳和天皇 聖徳太子 菖蒲御前 聖武天皇 神功皇后 杉田玄白 須原屋市兵衛 清少納言 清和...
  • 神社行幸
    天皇が神社に参詣すること。 ただし、天皇は神前から離れた常設の建物、もしくは仮の御殿に御籠りし、    神域の中に入らないという不文の法が存在した。 (これは、天皇が皇祖アマテラスの祭り主であり、    諸神社の神々を親祭する立場にないため、と解される)    諸神社へは、遣使による代行祭祀、もしくは委託・委任などの間接的祭祀が行われた。 天皇を退位し上皇となった場合には、神前に参拝する事が許された。 文献上の神社行幸初見は、942年(天慶五年)四月、    承平・天慶の乱鎮定の報賽のための、朱雀天皇による賀茂行幸。 後三条天皇までに、天皇代始の十社行幸が確立するが、    後醍醐天皇の1334年(建武元年)九月の石清水、賀茂行幸を最後に中断する。    孝明天皇の1863年(文久三年)、三月十一日に賀茂行幸、    同年四月十一日に石清水行幸が再興された。...
  • 竹生島
    滋賀県の琵琶湖北部にある、面積0.19平方キロメートル、標高198mの花崗岩質の小島。 地主神浅井比咩命を祀る都久夫須麻神社、本地弁財天を祀る弁天堂がある。 また、千手観音を安置する宝厳寺があり、これは西国三十三所第三十番札所。 『本朝神社考』に、「竹生島ハ、江洲ノ湖中ニ在リ、其ノ巌石水精宝珠多シ、本朝五奇異ノ一ナリ」    「水精輪山有リ、即チ天女ノ住ム所ナリ、是大弁才功徳天女ト曰フ」とある。    水精輪山は、水晶で成り立っている山の意。    『平家物語』巻第七「竹生島詣」の段には、「或経の中に」として、    「閻浮提のうちに湖あり、其中に金輪際よりおひ出でたる水精輪の山あり、天女住む所」という一文を引いている。    が、現在のところこの「或経」が何を指すのかは未詳であると云々。 同じ『平家物語』(覚一本)「竹生島詣」の段に、平経正が竹生島にて琵琶の秘曲「上...
  • 小子部栖軽
    『日本書紀』「雄略紀」、また『日本霊異記』に、小子部栖軽が天皇に命じられ雷神を捕らえる話が載る。 『日本霊異記』では、雄略天皇より雷を捕らえて来いと命じられ、緋の蔓を額につけ、赤い幡桙を捧げ、馬上して阿部の山田の前の道と、豊浦寺の前の道とから走りかかりついに雷を捉えたという。雷の描写はない。これを輿籠に入れて持ち帰り天皇に報告したが、まさに雷光を放ち明々と輝いたので、天皇恐れてこれを還し放ったという。 一方、『日本書紀』「雄略紀」では、天皇が「三諸岳(みもろおか)の神の形を」見たいと言う(注釈に、此の山の神おば大物主神という、或いは云はく菟田(うだ)の墨坂神なりといふ、とある)。栖軽は三諸の山へのぼり大蛇をとらえて天皇に見せたが、「天皇が斎戒せずに見ようとしたところ雷鳴雷光ともにひらめきとどろき、ついに天皇はこれを見ることができなかった」という。 (馬場あき子『鬼の研究』) ...
  • 神道関連年表
    689年(持統天皇三年)八月二日条 「神祇官」の名称の初見。 771年(宝亀二年)十二月 光仁天皇による御体御卜。                    御体御卜の史料上の初見(現在は散逸した大伴家持署名太政官符) 798年(延暦十七年) 神宮司・神主の終身制を改め、六年任期制を導入。 856年(斉衡三年)四月 三位以上の名神の神主・禰宜・祝に把笏が許される(『文徳実録』) 942年(天慶五年)四月 天皇による神社行幸の文献上初見。                  朱雀天皇による、承平・天慶の乱鎮定の報賽のための賀茂行幸。 1585年(天正十三年)十月 伊勢神宮内宮、123年ぶりの正遷宮。 1665年(寛文五年)七月 江戸幕府、「諸宗寺院法度」および「諸社禰宜神主等法度(神社条目)」発布。 1687年(貞享四年) 東山天皇の御代...
  • 後宮十二司
    『養老律令』後宮職員令は、皇后を除く天皇のキサキおよび天皇側近の十二の女性官司の規定よりなる。    律令制の下では天皇の統治を補佐する中央地方の官僚は男性に限られており、    女性職は天皇の居住空間である後宮において、天皇の日常生活の奉仕のみに限られた。    官位令の規定からも除外されている(ただし、俸禄支給のため准位という位階があり、    准位で男性と同じ位階を持つ者は同じ待遇を受ける事は出来たと云々)。 内侍司に代表されるように、これは女性が政治から完全に疎外されていた事を意味するわけではないと思われる。 内侍司 蔵司 采女       参考文献 『史料にみる日本女性のあゆみ』総合女性史研究会 史料にみる日本女性のあゆみ
  • D:織田信長と比叡山
    1570年(元亀元年)、志賀の陣。                朝倉義景・浅井長政軍は比叡山の峰々に陣を張る。                →信長は思うように責められず、正親町天皇に和平交渉の折衝を申請。 志賀の陣に対する信長側の提示した和睦案に、唯一承知せず、    交渉を長引かせたのが延暦寺だったと。 1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち。事前に琵琶湖南の城をいくつか攻略したあと、                 九月十一日、坂本に入り町に火を放つ。日吉大社にも放火。                 そのまま山上に登って殺戮・放火を続けたと    (ただし、近年の発掘調査では、山上にはあまり焼かれた形跡は見られず、      焼き討ちは坂本の堂舎、殺戮も八王子山が中心だったらしいとのこと)     これら放火は十五日まで続いた。    十三日午...
  • 亀と改元
    文武天皇の代、瑞祥として様々なものが現れた最後に霊亀が現れた。    左京人大初位下高田首久比麻呂が献じたもので、    長さ七寸、広さ六寸、左目白く右目赤く首に三公、背に七星をあらわし、    前脚に離の卦、後ろ脚に一爻あり、腹下には赤白二点あり。    この亀の献上により、間もなく元正天皇即位されると「霊亀」と改元された。 養老七年十月十一日、左京人紀朝臣家が白亀を献上。    長さ一寸半、広さ一寸、両目とも赤く、これをもって    元正天皇は翌年聖武天皇に譲位し、同時に「神亀」と改元した。 神亀六年六月二十日、河内国古市郡の賀茂子虫により長さ五寸三分、    広さ四寸五分、背に「天王貴平知百年」の文ある亀を発見、    同八月五日に天皇より「天平」と改元する詔発せられる。    子虫はこれにより従六位上、子虫に瑞亀の献上を示唆した唐僧道栄も    従五...
  • 日乗
    朝山日乗。日蓮宗の僧侶。 元は出雲の尼子晴久に仕え、のち毛利元就の元へ。    毛利の書簡を持って松永久秀の元へ向かう途中で捕縛されたが、    正親町天皇の勅命で釈放された。 そののち、天皇と織田信長の間を周施往来した。 1568年(永禄十一年)の撰銭令では信長の奉行人として、    明智光秀らと並んで署名している。 ルイス・フロイスらが信長から京都市中への居住許可・安全確保の朱印状を得た際、    キリシタン排斥運動を展開し、一時は天皇のキリシタン禁制綸旨を引き出している。    そうした活動から、キリシタンらに「悪魔の直属」などと呼ばれたりした。 (『信長と天皇』今谷明) 信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)
  • 竹取物語
    →天の羽衣(竹取物語) 富士浅間の御社に伝わる竹取物語の異説に、かぐや姫は聖徳太子の祖母であるという話があるとか…… (『海南小記』柳田國男) かぐや姫に求婚した五人の貴公子のモデルとされる、    丹比真人島、藤原不比等、阿倍御主人、大友御行、石上麻呂が生きた時代の天皇は、    天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇の四人。    このうち持統、元明は女帝なので、帝のモデルは天武か文武が考えられる。    梅田秀幸は、「五人の貴公子」が活躍した時代には天武は老齢だったため、    帝のモデルは、25歳で夭折した文武であった可能性が高いと主張する。    (ただし、逆に文武の時代には、「五人の貴公子」が老齢になってしまうため、     逆に天武こそモデルと主張する論者もいる) (『かぐや姫の光と影』梅山秀幸) かぐや姫の光と影―物...
  • 吉田兼見
    吉田兼倶の孫、吉田兼右の子。 当初は名を吉田兼和といったが、1586年(天正十四年)に兼見に改称した。 本能寺の変のあと、正親町天皇の内意により明智光秀のもとへ、    京都の治安を万全にするよう伝えるべく足を運んでいる。    この時、天皇が正式の伝奏や女官を送らなかったのは、状況の不確定な中、    明智光秀に何かあった場合でも天皇に責任追及がおよばないようするためとみられる。 兼見の日記『兼見卿記』によれば、この時光秀は「今度謀反の存分」を雑談したという。    しかし、その具体的内容は記されていない。 また、賤ヶ岳の戦いでの戦勝に対し、朝廷が長浜城に遣わした勅使も兼見だった。    この時、権大納言勧修寺晴豊からの贈り物を携えて行っており、    それに対する秀吉の礼状が安土城考古博物館に所蔵されている。       参考 『信長と天皇』今谷...
  • 年表(日本)
    471年 513年(継体天皇七年) 516年(継体天皇十年) 571年(欽明天皇三十二年) 577年(敏達天皇六年) 588年(崇峻天皇元年) 590年(崇峻天皇三年) 600年(推古天皇八年) 601年(推古天皇九年) 602年(推古天皇十年) 603年(推古天皇十一年) 冠位十二階制定 604年(推古天皇十二年) 十七条憲法制定 607年 608年 610年 614年 628年 643年(皇極天皇ニ年) 645年(皇極天皇四年) 乙巳の変 647年(大化三年) 660年(斉明天皇六年) 662年(天智天皇元年) 663年(天智天皇二年) 白村江の戦い 668年(天智天皇七年) 670年(天智天皇九年) 671年(天智天皇十年) 672年         壬申の乱 686年(天武天皇朱鳥元年) 694年(持統天皇八年) 藤原京遷都 701年(大宝元年) 大宝律令制定 702年(大宝ニ年)...
  • 聖蹟桜ヶ丘
    京王線沿線。 「聖蹟」という言葉は、「明治天皇の事蹟」を意味する。  かつての南多摩郡多摩村(現・多摩市)連光寺の丘陵地に、1884年明治天皇が兎狩りと鮎猟の天覧に訪れ、  以降その周辺が天皇や皇族たちの狩猟場に指定された。  昭和5年に政治家などが中心となって「多摩聖蹟記念館」が作られ、そこから「聖蹟」の名前を拝借したもの。
  • 織田信秀
    織田信長の父親。 1552年(天文二十一年)三月没(他に天文十八年説、二十年説もある) (『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広) 1541年(天文十年)、伊勢外宮仮殿造替費を独力で捻出、    その朝賞として後奈良天皇より三河守に任ぜられる。 1543年(天文十二年)、土御門内裏の修理費として四千貫の銭貨を献上。    戦国諸侯から天皇への献金の中では、未曽有の最高額という。 (『信長と天皇』今谷明) 信秀の経済力は、当時の伊勢湾舟運の湊の一つである津島を    支配下においていたためと見られる。    この津島には津島神社があり、かつては牛頭天王社だった。 その後、信秀は居城を古渡城(ふるわたりじょう)に移しているが、    そのすぐ近くに伊勢湾舟運のもう一つの大きな湊である熱田湊があった。 (『信長 徹底分析十...
  • 足利義満
    早くから、義堂周信の影響を受けて『孟子』に親しみ、  易姓革命の思想に共鳴していた、ともいう。 天皇に対して実質的な王権の簒奪を画策、  将軍職を足利義持に譲渡、太政大臣を辞し、  1395年(応永二年)出家して律令官位の軌範から抜け出すと、後円融上皇の没後、  上皇の権限を後小松天皇に渡さず、自ら継承しようとした。 その一環として、毎月七日七夜の顕密祈祷と陰陽道祭をそれぞれ  北山第と土御門家に定例化、国家の祭祀権を天皇から室町殿に移す事に成功した。 1402年(応永九年)、明の建文帝より「日本国王」に冊封される。  義満は翌年の明帝あての表文でみずから「臣」と称している。 没後、朝廷は太上天皇の尊号を追贈するが、足利義持と  幕府宿老の斯波義将はこれを返上。義満による皇位簒奪の意図を否定する姿勢を貫いた。  以降、義満の専制路線の反動から、合議制...
  • 竹内式部
    崎門派儒学、垂加神道を学び、京都で儒学を講じていた儒者。 十八世紀後半より中小公家に共鳴者を得、門弟一党は言動際立ち、    武術稽古をする事もあったという。 時の天皇、桃園天皇に式部門人が『日本書紀』などを講じ、    若い天皇も君主意識に目覚め喜んだというが、    幕府からの嫌疑を恐れた関白近衛内前らにより    張本人の式部を京都所司代へ告発する事になった(宝暦事件) (『要説日本歴史』) 要説 日本歴史
  • 源融
    左大臣に就任したのは貞観十四年(872年)。在任期間は二十年を超えるが、これといった実績はないと言われる。 『大鏡』では、陽成天皇譲位の折、自ら帝位を望んだという逸話が残されている。が、当時気鋭の太政大臣だった藤原基経に「源氏の姓氏を賜って仕えた身分ゆえに不可」と退けられる。 ちなみに、その後宇多天皇の即位時もまだ左大臣であったが、宇多天皇は同じく臣籍に降っていたにも関わらず、立太子ののち即位することとなった。 『宇治拾遺物語』などに、宇多院の前に源融の霊鬼が現れた逸話を載せる。 →河原院 (『鬼の研究』馬場あき子)
  • 大江匡房
    後三条天皇の代、長らく続いた藤原氏による摂関政治が途切れる。  そこで始まった新天皇による親政の際、その政治顧問を務めた。 (『要説日本歴史』) 大江家家学の紀伝道を修め朝廷に仕える。後三条天皇、白河天皇、堀川天皇の三天皇の侍読を勤める。  漢詩、和歌、有職故実などに通じ多くの著作を残した。  代表作に儀式書『江家次第(ごうけしだい)』、日記『江記(ごうき)』、藤原実兼に筆録させた『江談抄』、世相を記した『傀儡子記(くぐつき)』、『洛陽田楽記』『遊女記』、往生人の伝記を集めた『続本朝往生伝』ほか多数。 詩文に関する自伝『暮年記』にて、「予四歳のときに始めて書を読み、八歳のときに史漢に通ひ、十一のときに詩を賦して、世、神童と謂へり」と記す。 そうした背景から、博覧強記ぶりを伝える逸話が多く残る。 『古事談』第五。藤原頼通が平等院を造るにあたって、地形の都合で...
  • 宇佐八幡宮
    大分県宇佐市宇佐町に所在。 豊前国一宮。 祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、比売神、大帯姫命(おおたらしひめのみこと、神功皇后) 『延喜式』神名帳に「宇佐郡三座 八幡大菩薩宇佐宮、比売神社、大帯姫廟神社」とある。 『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、571年(欽明天皇三十二年)、宇佐郡小倉山の麓に    鍛冶翁として現れ、大神比義の祈請に対して「辛国の城に八流の幡を天降らせ日本の神となれり(中略)    我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂也」と名乗ったという。       参考文献 『日本伝奇伝説大事典』
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