- 二条古城(徳川家光がのちに造営した二条城とは別)の造営に対して、
ルイス・フロイスの書簡に「用うる石なきを以て多数の石像を倒し、
頸に縄を付けて工事場に引かしめ」などとあり、また
ジャン・クラッセ『日本西教史』にも
同様の記載があり。
日本側の文献にはこうした記述のない事から疑問視されていたが、
1974年(昭和四十九年)の発掘調査でその石垣の一部と見られる遺構が見つかり、
石材として石仏、板碑、五輪塔など仏教関係の遺物が転用されており、
石地蔵・石仏のほとんどが腹部で真っ二つに断ち割られていたことが確認された。
(もっとも、廃れた石仏のこうした石材利用は当時さほど珍しくなかった、という指摘もある)
『日本西教史』にはこの後、「釈徒」がこの件を議するため「凡千五百人程集会せり」とあり、
おそらく
延暦寺による衆議があったものと思われる。
- 『兼見卿記』に見える、吉田兼和(吉田兼見)と信長との会話
信長:先日亡くなられた足下の父上(
吉田兼右)は、文学に達し
惜しむべき人であったが、南都が滅亡する時は北嶺も破滅しようと
言われたそうだが、そうならば王城の災になるということになる。
慥かにさようの言を述べられたのか、承りたい。
兼和:父の申しましたのは、南都北嶺倶に、あい果てましたならば、
「王城の祟」がありましょうということです。
但し書物に書き遺したのではなく、左様な典拠もございませぬ。
信長:尤も奇特である
→兼和は、この問答によって、信長の洛中放火が決まったと記している。
(zsphereコメント:「王城に祟りがある」ではなく「王城の祟」?
何か重要なやりとりだとは思うのだが、イマイチ意図がうまく汲めない……)
のち戦勝の御礼として築かれた塀が「信長塀」として今日も残っているとか
(zsphereコメント:要出典)
- 『信長公記』によると、1582年(天正十年)正月、伊勢の内宮・外宮の造営に
三千貫文を寄進した記事が見られる。しかもその文脈から、
一千貫文が必要と言われたのに対して三千貫文を拠出した事が察せられ、
さらに天正八年(
1580年)にも
石清水八幡宮の造営に
信長が資金を出していた事が読み取れる。
(zsphereコメント:これ、どちらも皇室守護の神だよね……たぶん。
単純に信長の信仰と考えるべきかどうかは留保が必要な気がする)
(『信長 徹底分析十七章』小和田哲男)
- 1582年(天正十年)正月、伊勢両宮神主らの求めに応じて銭三千貫を寄進している。
(『信長と天皇』今谷明)
「信長が
1582年(天正十年)、安土山の寺院(
摠見寺)の高所に自分の化身として
ボンサン(盆山)という石を置き、万人に拝させようとした」という記述がある。
いわゆる信長の自己神格化。
ただし、日本側の文献などにはこうした内容の記事は一切見られない。
- また、フロイスはこの記述のあと、「デウスはこのような信長を十九日しか
生かしておかなかった」とあり、宗教的観点から記述が客観的でない
可能性は否定できない由。
(『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広)
- なお直接の関係があるかは留保するが、2017年1月、
岐阜県金華山山頂にある信長の居館の入り口付近の発掘調査により、
入り口付近に直径1mほどの巨石五つが配されていたことが判明している。
入口を入ると巨石に突き当たり、そこを左に折れる形で中へ入る事ができたとか。
参考文献
朝日新聞デジタル 2017年2月2日記事
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最終更新:2017年03月10日 23:37