朝倉義景・浅井長政軍は比叡山の峰々に陣を張る。
→信長は思うように責められず、正親町天皇に和平交渉の折衝を申請。
- 志賀の陣に対する信長側の提示した和睦案に、唯一承知せず、
交渉を長引かせたのが延暦寺だったと。
- 1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち。事前に琵琶湖南の城をいくつか攻略したあと、
九月十一日、坂本に入り町に火を放つ。日吉大社にも放火。
そのまま山上に登って殺戮・放火を続けたと
(ただし、近年の発掘調査では、山上にはあまり焼かれた形跡は見られず、
焼き討ちは坂本の堂舎、殺戮も八王子山が中心だったらしいとのこと)
これら放火は十五日まで続いた。
十三日午前、信長は一足先に入洛、王城の鎮守を焼き払ったことにもなり、
恐縮の姿勢で天皇の勅使の訪問を受けたが、天皇側から特に抗議があった形跡はない由。
(『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広)
- 信長の直轄地となっていた湖南地方は延暦寺領が多数散在しており、
織田家臣と山門との所領をめぐる紛議が頻発していた。
1659年(永禄十二年)十月、三千院(梶井)門跡
応胤親王が参内し、
山門領地を信長家臣が返還しなかったため、三塔の僉議を行い、
嗷訴をしかける動きがあること、大事に至らないうちに綸旨を信長に下すよう取次ぎを依頼している。
結局天皇側は綸旨の手続きを進めず、その十日後、
三塔大衆より朝廷に善処を要望する牒状を持って応胤が再度参内、
やむなく天皇は綸旨を発行し、十一月に入って信長は
綸旨の実施を約束する書状を天皇に送っている。
(『信長と天皇』今谷明)
- 1570年(元亀元年)九月二十四日、いわゆる叡山焼き討ちの一年前に、
信長は下坂本に陣を置き、小規模ながら谷々の寺を焼いている。
信長の中立申し入れを無視した事に対する報復か。
(『信長 徹底分析十七条』小和田哲男)
最終更新:2011年08月28日 10:45