良源


945年(天暦三年)八月より横川にて藤原忠平追善のための三百日の護摩。
                この祈りの後、忠平の子藤原師輔の娘安子が皇子憲平親王を出産し、
                良源が師輔の信頼を得る契機となる。


970年(天禄元年)七月、「二十六箇条起請」と呼ばれる延暦寺内の寺院法を制定。


  • 藤原師輔の息子、尋禅を弟子にしている。

  • 『山家要記浅略』という史料に、良源が僧兵創始者であるという伝説が見える。
   曰く、良源が「文武相兼ねて天下を治む」と文武両道を説き、
   増加しつつある僧侶集団の中から「愚鈍無才の僧侶」を選抜し
   「武門一行の衆徒」に仕立て上げたと。
   ただし『山家要記浅略』は応永十六年(1409年)成立で、信頼性には疑問が残る。

   「千手院経蔵や観音院、一乗寺への放火、そして余慶・穆算(もくさん)ら五人の殺害に
    関する風聞があり、それが良源のしわざであるらしい。極めて遺憾なことだ」
   という記事がある(ただし、良源は否定、その後具体的な処罰が行われた形跡はない)

  • 『平家物語』覚一本巻六に、慈心坊尊恵が閻魔王から以下のような話を聞いた記事が載る。即ち、
   「清盛入道はただの人ではない。慈恵僧正(良源)の化身であり、
    天台仏法を護持するために日本に再び誕生したのである。だから私は毎日三度、
    清盛を礼賛する文を読んでいる。これを彼に捧げよ。
    敬礼慈恵大僧正
    天台仏法擁護者
    示現最勝将軍身
    悪業衆生同利益」
   慈恵がこれを現世の清盛に伝えると、彼はこの上なく喜んで
   慈恵を僧綱(律師)に昇進させたと云々。
   (zsphereコメント:よく分からない話。ていうか同じ平家物語の巻一で、
             延暦寺強訴の日吉神社の神輿に矢をあてちゃったのは
             清盛の軍勢じゃなかったっけw)

(『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁)

  • 上記、清盛が良源の生まれ変わりとする話は、おおもとの出典は尊恵自身の筆になる
   『冥途蘇生記』に拠っている由。
   (zsphereコメント:季刊怪のこの記事の筆者も書いてるけど、
               結局尊恵が清盛を喜ばせて昇進しているという話なので、
               尊恵自身が清盛の喜びそうな話でもって自分を暗に売り込んだのでは、
               というのは当然考えられる推測ではある。
               それにしても、なんで良源を持ってきたのやら)

(『季刊 怪』No.34)


最終更新:2011年12月18日 10:35