徳川家康の江戸遷都

  • 徳川家康の江戸への正式な入場は天正十八年(1590年)の八月一日。
 この八月一日を「八朔」と言い、徳川氏の創立記念日のようなものなので、以降幕府の重要な祭日のひとつとなる。

  • 関東が家康の領地になったのは、豊臣秀吉の策略であったともいわれる。
 すなわち、家康と信頼を結んできた駿河などの土地をとりあげ、かわりに、滅ぼした後北条氏と縁の深い関東を与え
 家康の力をけん制しようという意図があった、という話。さらに関東周辺に秀吉の息のかかったものたちを配した。

  • また江戸自体も当時は広大な湿地帯であった。関東には他にそこそこ街の発展していた場所として
 小田原や鎌倉があったが、家康は江戸に入る。
『落穂集』によれば、秀吉につれ小便を誘われ、そこで江戸を勧められたとも。

  • 家康が江戸を選んだ理由の一つは、江戸が陰陽道で言う四神相応の地であったから、とも言われる。
 天台僧として天文、遁甲、方術などの知識を持った天海僧正を登用したのは、
 家康が幕府を開いて江戸入りしたのと同じ慶長八年(1603年)。



参考文献
『江戸の陰陽師』
最終更新:2009年08月31日 04:29