源頼朝

  • 1159年(平治元年)十月、従五位下、右兵衛権佐に任じられる。


  • 諸書では、頼朝は病没だったとしているが、『保暦間記』では、平家の怨霊にとり殺されたとする。
 建久九年(1198年)、相模川の橋供養に出かけた帰り、源義広、源義経、源行家、
 そして最後に安徳天皇の亡霊に出会ったという。
 頼朝は鎌倉へ帰還したが、まもなく病床につき、そのまま亡くなったという。

  • 正史である『吾妻鏡』建暦二年(1212年)二月二十八日条に、相模川橋修繕の記事があり、
 この橋は橋供養の帰路に頼朝が落馬してまもなく、死亡し、橋を寄進した稲毛重成も政争の果てに誅された
 不吉な橋である、という記事がある。

  • 『吾妻鏡』には、頼朝の死について記載されているはずの、建久十年一月の部分がなぜか欠落しており、
 公式上の死因が明らかでない。


      参考文献
『平家物語(八)』
上島敏昭『魔界と妖界の日本史』


最終更新:2014年09月19日 16:57