【ウエストコーストの旅(カンボジアのだけど...)】
第6話)プノンペン・シティツアー
《カンボジア旅行記|ココン|コンポンソム|シアヌークヴィル|プノンペン》
ビーチリゾートのコンポンソムを後にして、バスで首都プノンペンへと向かった。この街は、まだまだ治安が回復しきっていないという。何せ100ドルで拳銃が買えちゃう国なのだ。普段なら狭い路地にも好んで入っていく僕だが、ここでは後ろを見回し不審な者がいないか恐る恐るの街歩きとなった。まずは慎重に地図をチラッと見ながら有名なC旅行社に出向いて翌日のワンディ・シティツアーに申し込んだ。
ツアーは午前中にポルポト時代の処刑場や刑務所を回り、午後は王宮やモニュメントを訪れるお約束のパターンで、まずは郊外の処刑場跡に向かうのだが、この道、途中からものすごい悪路になって座っちゃいられない。ガツンゴツン。痛テテテテ~。
「雨季には片道1時間かかりま~す」
とガイドがのたまう。乾季の今でさえこんな調子である。僕はこの道を勝手にダンシングロードと命名した。
牛が昼寝する長閑な田園の中に、妙な窪地が転々としていた。それが処刑場、いわゆるキリングフィールドだった。ポルポト時代の4年間に抹殺された犠牲者のシャレコウベがモニュメントの中に累々と。
「このような処刑場がカンボジア全土に300以上ありました」
「………」
全く言葉を失ってしまう、、、
処刑場に送られる前、犠牲者たちは刑務所に送られた。ツアーはその一つだったツールスーレン刑務所に向かう。
元高校だったその刑務所には、少しでも疑いをかけられたら最後、壮絶な拷問が待っていた。自白を強要され家族もろとも処刑場に送られたという。
「ポルポト時代、3人以上で話し合ったら罪になりました。歌を歌っても罪になりました。
ポルポトにとって必要な国民とは考えることをしない労働力だけでした。」
「………」
校舎の中は犠牲者たちの顔写真で埋め尽くされていた。写真を取られるとき犠牲者たちは恐怖のあまり震えが止まらない。そのため顔を押さえつける器具まであったという。狂気の犠牲になった人たちの顔・顔・顔。老人から赤ん坊まで容赦はない。
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午前中はちょっとダウンな気分になってしまったが、午後はトンレサップ湖畔の美しい王宮を訪れた。しかしこの財宝で埋まる王宮も、ポルポト時代の4年間は放置され開放されたときには埃が3メートルも積もっていたのだそうだ。
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悲惨な過去を背負ったプノンペンの街だが、セントラルマーケットを中心に発展したこの街は、街路樹が整備されちょこっとおフランスの香りがしないでもない。
昨日の夕方はトンレッサップ河岸沿いのレストランが立ち並ぶ一角で食事をした。このあたりはなかなか洒落た雰囲気で、さしずめカンボジアのセーヌ河岸といったところか。豪勢に海鮮料理を食べたつもりでもわずか6ドルぐらいで済んでしまう。オープンエアのテーブルに吹き抜ける河の風が心地よい。
やがてあたりは日が落ち暗くなってきた。おや!目の前の通りをオープンカーが通り抜けるぞ。わお、カンボジア人の金持ち一家が外車で夕涼みだ。見せつけてくれるじゃん。
ふっ、と僕は目線をレストランの入り口に向けた。
あわわ、
なんだこれは!
手や足のない物乞いたちが何人も待機しているではないか。松葉杖をついた片足の者もいれば、手漕ぎの自転車に座った両足のない者もいる。地雷で手足を失った彼らは、レストランからツーリストが出てくるの今か今かととじっと待っている。そして差し伸べられる物乞いの手・手・手、、、
外車を乗り回す金持ちがいる一方で、未だに救いの手が十分回らない人たちが大勢いる。これがカンボジアの現実だった。
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最終更新:2016年08月27日 18:14