第10回
サンライズカマタの戦い(2)
一瞬の逡巡の後に、ハルカは決断した。
(この雨は)
(利用できるはずだ!)
さらに足を速めた。
助走。
ハルカは踏み切りの手前で跳躍した。
残像で液状化した空気の中で、その頂点は5メートル近くに達したろう。
手足をぶざまに回転させながらも、ハルカは池上線の残像を、一気に飛び越した。
その放物線の頂点、見下ろす前方に、濃密な雨の層を透かして、かすかに金色の光が見えた。
向かい合った二匹の鳳凰。サンライズカマタだ。
たどり着いたのだ。
ブリキとアクリルで作られた安っぽいデコレーションが、青黒い闇の中に浮かび上がって、まるで古代の神殿を飾る像のように神々しく見えた。
そしてハルカは気付いた。
無数の青い光がアーケードの周囲にまとわりつき、乱舞するように旋回しているのを。それを迎え撃つように、黄色い別の光が幾筋も、アーケードの中から閃くのを。
かすかな破裂音が響いてきた。
戦闘だ。
あれは、砦なのだ。
入り口付近に小さな人影が見えた。二人。
こちらに向かって何か必死に手を振り回している。カナタたちだろうか。
瞬間、背後に衝撃を感じた。
爆風にあおられたように、ハルカは数歩つんのめり、路面のアスファルトでひざを擦った。転倒しそうになるのを、道路わきの街路樹につかまってなんとか防いだ。
見るまいと思ったが、反射的に振り向いてしまった。
見た。
いた。
青青魚魚が。
一匹ではなかった。
瞬間見て取っただけで三匹。
その一匹が、池上線の残像に、まともに突入していた。
ハルカでは飛び越えるしかなかった残像の流れを、青青魚魚はこともなげに突き破り、ギラギラと輝く透明な破片を、衝撃波のように撒き散らしながら、こちらに突進しつつあった。
砲弾型の青青魚魚の断面形に沿って、ねじ曲げられ、引きちぎられるように破片と化す池上線の車両は、ゼリーに撃ち込まれる銃弾のスローモーション映像のように見えた。
あいまいな残像だった破片一つ一つの表面が、速度を失うにつれ、次第に本来の電車のディティールを浮かび上がらせ、一度は乗客の姿さえ見えたような気がした。
青青魚魚は、こちらを見ていた。
青青魚魚の、あの「目」は、以前に観察した限りでは体の側面にあったはずだ。正面からでは巨体の陰になって、ほとんど見えるはずがない。それがなぜか、変わらぬ角度で真正面に見えた。
ピカソの絵か、古代エジプトの絵画のようだ。説明のつかないその立体だ。そこだけ空間が歪んでいるような異様な感覚があった。
時間にすればほんの一瞬だったろう。背後から何か叫ぶ声が、ひどく遠くに聞こえた。
ハルカは、必死に目をそらし、二匹の鳳凰を目指して再び駆けた。
(あそこまで行けば、助かる)
しかし、本当にそうだろうか?
あの青い光、サンライズカマタは、すでに多くの青青魚魚に包囲されているに違いなかった。あの恐るべき怪物に立ち向かう術などあるのだろうか?
金の鳳凰が近づいてきた。その足元にいるのは、やはりカナタとフトシだ。ようやくはっきりと視界に入ったアーケードの中は、かすかな燐光に包まれた洞穴のようだ。
フトシは狂ったように手を振っており、張り詰めた表情のカナタの顔が、遠くからもやけにはっきりと、青ざめて見えた。
その背後に、別の人影が見えた。
(まだ、誰かいる!)
カナタを先頭に、横一列に陣を組んだ一団がいた。
4、5人か。全員が狙撃手のように、路面に片ひざを立て、何か構えている。
「ねらえ!」
カナタの号令で、その先端が一斉にこちらを向いた。
あの吹き矢だ。しかし今度はさらに大きい。細部はよく見えないが、ライフル銃を思わせる、背丈ほどもありそうな長大なものだ。
「引き付ける!」
「ゴーン!」
カナタの叫びをかき消すような大音響が空気を振るわせた。周囲は真昼のように青白く照らし出され、二匹の鳳凰のあちこちから、激しく火花が噴き出した。
おそらく、すぐ背後のはずだ。
(追いつかれてしまう)
(追いつかれてしまう)
(急げ)
(間に合わせなければ)
(間に合わせなければ)
(間に合うことなんかどうでもいい。)
(間に合うことよりも、後ろだ)
(立ち止まって振り返って)
(立ち止まって振り返って目を見るのだ)
(立ち止まって振り返って目を見るのだ)
思考攻撃!
脳が焼ききれるような、あの特有の感覚が来た。
目がくらんだ
(足を止めなければ。)
(振り返らなければ。)
(いや、だまされるな。これは私の思考ではない)
(振り返ってはだめだ。)
(いや、だまされるな。これはハルカの思考ではない)
(振り返って目を見なければだめだ。)
(目を振り返って目目目目目目目目)
絶叫しながら、ハルカは頭からアーケードに飛び込んだ。
乾燥した空気を、自分を抱きとめるカナタの力強い手の力を感じた。入れ違いに叫ぶカナタの声があった。
「メギ!」
黄色い閃光とともに、矢が飛んだ。
弾といったほうがいいかもしれない。
0犬を仕留めたものより、さらにずっと大型の弾体が、青黒い闇を貫いて、青青魚魚に殺到した。
「ド・ド・ドーン!」
鼓膜も破れそうな雷鳴が、アーケード全体に反響しながら轟いた。
濡れて肌に貼りついていたハルカの衣服の端々が、水滴を散らせながら激しくはためき、屋根を支える鉄骨が、きしんで音を立てた。
しかし、無数の矢に貫かれながら青青魚魚は、スピードを緩めることもなく、そのままアーケードに突進してくる。
さらに次々と矢は飛ぶ。
青青魚魚はものともしない、いまやまさに眼前に迫った
矢が突き刺さるたび、その体表の青が妖しく変化して、美しくさえあった。
(ヒイヒイヒ化ヒ化ヒ化ヒ化)
ハルカは、頭の中に鳴り響く異様な声を聞いた。
(ヒ化ヒ化ヒ化ヒ化匕化七化)
青青魚魚の思考だった。思考攻撃の途切れたその一瞬、逆流してくる青青魚魚自身の思考を、ハルカは感じていたのだ。それは複雑で、残忍な、別種の知性だった。
そのとき、それは起こった。
何が起こったのか、最初は理解できなかった。アーケード内に鼻先を突っ込もうとした青青魚魚が、突然、空中の見えない壁に激突したのだ。
アーケード全体が、激しく光り輝いた。
すさまじい光だった。
電球、ネオン管、広告灯、アーケードを彩る電飾のすべてが、通路奥に向かって次々と電光のリレーを発し、さながらサンライズカマタ全体が、一本の稲妻と化したようだった。
次の瞬間、ハルカの頭上で、巨大な青青魚魚はアーケードの入り口から弾き飛ばされ、背後のビルに激突した。
「ヌキタ眼科医院」と看板のある小さなビルが、音も立てず、青青魚魚の胴体の形にぐにゃりと歪んだ。キラキラとした青いものが周囲に舞い散った。青青魚魚の体表を覆っていたものだろうか。
ハルカは幻を見るように、青白い腹を見せて悶絶する青青魚魚を見ていた。驚いたことに、どのように体の向きを変化させても、その目だけは変わらずこちらを凝視しているように見えた。
巨体をくねらせながら青青魚魚が横に逃れ、そのまま視界から消えるのを、ハルカは床に倒れこんだまま呆然と見守った。
激突の瞬間にすばやく体をかわしたのか、他の二匹の姿もなくなっていた。
「キクコだ!キクコはきた!ショウタ様のお言葉の通りだ!」
サンライズカマタの戦い(3)
異様にかん高い声でフトシの叫びは続いた。
「さかのぼること、昭和四十三年八月十八日、御(おん)ショウタ様、御(おん)キクコ様、大田区に来ませり。我ら大田区メギの組を率い、救いたまえり。」
青白い顔、釣りあがった目。なにか奇怪な祈祷文のようなものを天に向かって叫ぶフトシは、まるで神がかりの預言者のように見えた。
「ダイトーウア、インチキさん。そのみしるしを継ぎ、我ら大田区27代メギの組を、『とおくのまち』に導かん。そのとき、『すべてのすくい』はもたらされるなり!」
吹き矢を構えていた周囲の一団が、一斉にひざまずき、それに唱和した。
見ると、みなフトシと同じくらいの子供だ、小学生だった。
吹き矢を振りかざし、カナタも叫んだ。
「そうだ! キクコ様は来た! オレたちは勝てるぞ!」
その声に、アーケードのあちこちから喚声が返ってきた。
他にもいるのだ。このサンライズカマタを守っている者たちが。
倒れたままのハルカを抱き起こしながら、耳元でカナタがささやいた。
「今日だけでいい、キクコ様ってことにしといてくれ。立ってるだけでいいから」
有無を言わさぬ迫力があった。
カナタに連れられ、ハルカはアーケードの中央あたりに案内された。
そこには、模造紙をセロテープで張り合わせ、クレヨンや色鉛筆で描かれた、2メートル四方ほどの地図か軍旗のようなものが、それを囲む一団がいた。
まるで作戦司令部だ。
後にフトシから聞いたところでは、この日サンライズカマタに集まったのは、ハルカを除いて36人。これがフトシの言う「大田区メギの組」の全容だった。
地図の端、司令官の位置らしい場所に立ったカナタは再び叫んだ。
「いいか! 今日で全滅させる。一匹でも逃したら終わりだ。数は !?」
「…12」
カナタのそばに立つ少年から声が返ってきた。
「左4に5…左5に1、右1に4、右3に1、右5に1」
度の強い眼鏡をかけた目を固く閉じ、小刻みに震えながら、手をアンテナか何かのように左右に広げている。これで周囲の様子がわかるのだろうか。
その疑問に答えるように、いつのまにかぴったりハルカの傍らにくっついたフトシが言った。
「サトルは、目です。あいつらはサトルに目を付けたけど、それでこっちもあいつらのことが見えます」
再びフトシはしゃべり始めた。口調も声音も、さっきとは違う、女の子の声のようだ。
ハルカにしゃべっているというより、頭の中に溜め込まれた情報を、そのまま吐き出しているように見えた。
「アオウオ、アオウオは、ゼロイヌと違って、黄色をあまり怖がりません。アオウオは雨の日にやってきます。目を付けた相手のにおいを追ってきます。昭和三十二年三月十日よりこれまでに61、61人がやられました。ひとりがやられると、脳を読まれて、ほかの仲間のにおいも知られてしまうからです。においを知られた時には『アーケードまもり』をします」
「服を持って来い」と言われた理由が、何となくわかったような気がした。
「アーケードまもり、アーケードまもりを発見したのは、大森第5小学校五年一組のヤマモト、ヤマモトカズヒコさんです。昭和四十二年二月四日。大森東口商店街。アオウオは電気的な理由で大森東口商店街の中に入れませんでした」
「新たに左4に3!来ました!」
サトルが叫んだ。
「メギ!」
吹き矢を抱えた一団が、とたんにアーケードの奥に走る。
参謀らしい少年の一人が、カナタに叫んだ。
「15! もう全部です! やりましょう!」
「まだだ。呑川の奴がいる。あれを仕留めそこなったせいで、カワカミさんがやられたのを忘れるな」
カナタが冷静に答えた。その姿は、まるで本当の司令官のように頼もしく見えた。
呑川というのは多摩川の支流、というかドブ川だ。かなり埋め立てられて、ほとんど地下水路となっている。あんなところにも青青魚魚がいるらしい。どうやらカナタたちは、近隣のあらゆる川から、全ての青青魚魚を呼び集めるつもりに違いなかった。
だが、あの青青魚魚の大軍を、どうやって全滅させるというのか。メギ曜日はあと2時間もないはずだ。
アーケードのあちこちから、黄色い閃光が何度もかがやき、そのたび雷鳴のような青青魚魚の悲鳴が轟いた。
他の開口部を守る、「メギの組」の子供たちが、それぞれに戦っているのに違いなかった。
アーケードの天井に阻まれて、外の様子は見えない。
だがサトルを経由してカナタのもとに寄せられる情報では、青青魚魚は今や大群をなしてアーケードを包囲しているらしかった。開口部から盛んにクチバシを突き入れては、中を守る我々に思考攻撃を加え、引きずり出そうとしているようだ。
その攻撃には、どこか余裕のようなものが感じられた。まるで獲物をじっくりともてあそぶカラスか、ハイエナの群れのようだ。
アーケード内に入れないことを理解していると同時に、こちらの武器に決定的な威力がなく、このまま包囲を続ければ、逃げ場のないままハルカたちが自滅するしかないことも理解しているようだった。
フトシは「電気的な理由」と言っていたが、青青魚魚がアーケードの中に入ってこられない理由はよくわからない。
たしかに商店街ともなれば、電飾の配線なども多いかもしれないが、それだけならハルカのマンションや電柱、まして高圧電流で動く電車などには近寄れないだろう。
電気だけでなく、たとえばアーケード天井の構造、その中に充満した人々の雑多な脳波、騒音など、想像するしかないが、いずれ何か他にも理由があるように思われた。
突然、素の声に戻ったフトシが叫んだ。
「7200!あと2576!」
よく見ると、貧乏ゆすりのように絶えず膝を小刻みに動かしている。
どうやらこのフトシは、生きた時報でもあるらしかった。メギ曜日ではかなり便利な能力だろう。
口をきつく結び、模造紙とクレヨンの作戦指揮図を凝視するカナタの表情に、焦りが見えた。
「用意しますか?」
参謀らしき少年がまた言った。声が震えていた。
無言のカナタに、参謀は繰り返した。
「23発あります。今日は逃がしても…」
「左1より2…3!来ました!」
サトルが絶叫した。参謀の声がかき消された。
「呑川のです!」
サンライズカマタの戦い(4)
カナタが、目を見開いた。
「『グーメン弾』、用意!」
復唱が飛び交い。喚声が上がった。
カナタは、黄色いジャンパーのポケットから小さなビニール袋を取り出すと、慎重な手つきでその中身をつかんだ。
銀色の手だった。人差し指の先ほどの大きさだ。
もちろん人間のものではない、むしろなにか玩具というか、人形の手袋のように見えた。
おそらく雲母だろう、袋の中でキラキラした粉末にまみれていた。
弾というからには、なにか恐ろしげなものを想像していたハルカはちょっと拍子抜けした。
むしろゆっくりとした動作で、カナタは「グーメン弾」を、複雑な構造の吹き矢に装填していった。じっくり見ると、カナタたちの吹き矢は、銃身に至るまでの部分が幾重にも折りたたまれた管楽器のようで、吹き込んだ息を圧搾して飛ばす、一種の空気銃だった。普通の空気銃と違って、わざわざ息を吹きこむのは、一度肺を通すことで空気を残像化させない工夫ではないかと、なんとなく想像できた。
素材こそホームセンターで売っているような塩ビ製のパイプや灯油ポンプ、ペットボトルなど身の回りの品々を利用しているが、こんな複雑な構造のものを、子供たちがどうやって作ったのだろうか。
膝小僧を揺らしながら、フトシがまた、誰に言うでもなくぺらぺらと話しだした。
「グーメン弾、グーメン弾は、東矢口第一学校六年、ハッセベマサシさんによって発見されました。昭和五十六年二月四日。通常の黄色1号弾、3号弾より強力です。物語爆弾以外で…」
吹き矢を肩にかついだカナタが、さえぎるようにハルカに言った。
「ここにいろ」
一瞬、まともに目が合った。
賢そうな、そしてすこし悲しそうな、あの目だった。
言葉が出なかった。
「手順どおりだ、一度に全部やる、絶対に逃がすな!」
皆のほうに向き直ったカナタは、そう叫ぶと、蒲田方向の入り口に走っていった。
参謀たちもそれに続いた。
カナタについていくかと思われたサトルとフトシは、ハルカのそばを動かない。
司令部に残っているのはハルカたち三人だけとなった。
サトルは青青魚魚の位置らしい数字を小さくつぶやき、フトシが膝を揺らしながらそれを復唱していた。どうやらサトルは、これも青青魚魚のように、自分の思考をアーケードを守っている子供たち全員に伝達できるようだった。フトシはそれを逐一記憶しているのだ。
「左1、カナタが着いた。あと40、右4がまだだ」
「復唱、左1、カナタが着いた。あと40、右4がまだだ」
「左2、呑川の3匹を確認、群れに混じって、左に回っている」
「復唱、呑川の3匹を確認、群れに混じって、左に回っている」
急に静寂が戻ってきたように感じられた。雨音の残像らしい、うなるような低い音だけがアーケード内に響いた。緊張が解けてきたせいか、濡れた体が震えてきた。寒い。
むきだしの両肩を、手でもむようにして温めながら、ハルカは二人のつぶやきから戦況を知った。ラジオの中継を聞くようだ。
いまやメギの組は一丸となって、反撃の体勢をとっているようだった。
ひんぱんに出てくる「左1」や「右1」というのは、目の前の指揮図から判断するに、どうやらサンライズカマタに合計12ヶ所ある開口部を、蒲田側から見ての左右で番号を振っているらしい。
ハルカが飛び込んできたのは、「右6」になるようだ。
丁寧に色紙や絵の具で装飾された指揮図は、中央にサンライズカマタの地図と、それを挟んで一対の少年と少女が、まるで守護聖人のように大きく描かれ、脇に墨汁と筆でその名が記されていた。
「しょうた様」
「きくこ様」
いかにも子供の手になるものらしい稚拙な、だがある種宗教的情熱を感じさせる二人の周囲には、さらに小さな人物像が数多く描かれ、しかしその多くは名前とともに、やはり墨汁で黒く塗りつぶされていた。
その意味を、塗りつぶされた子供達がどうなったかを思い、ハルカはぞっとした。
カナタは、開口部に配置した射手のタイミングを合わせ、18匹の青青魚魚を「グーメン弾」で一気に全滅させるつもりのようだった。
一匹でも撃ちもらすと、何か恐ろしい事態になるらしいことが、これまでの会話からうかがえた。だが、さっきの参謀の言葉では、「グーメン弾」はどうやら23発しかないという。
彼らの見事な射撃の腕はすでに目にしていたが、全滅となると、はたして5発の余裕で大丈夫なのか、そこが気になった。
「あと21、右5、一人左5に移れ、そっちに固まっている」
「左2、出過ぎるな、青青魚魚に見られるぞ」
雨音に紛れて、つぶやきの声は時に聞き取りづらくなる。
ハルカは二人の間に割り込むようにして耳を近づけ、必死に聞きもらすまいとしていた。
声の数は増し、しだいに早口になった。
「あと16 足並みそろった」
「あと10、かまえ」
「9」
「8、右2、そっちが多い、注意しろ」
「7」
「6、左3、ひきつけろ」
「5、左3、ひきつけろと…」
カウントはそこで止まった。
アーケードの奥、「左3」と思われるあたりで破裂音が響き、それはやがて周囲に広がっていった。
かん高い悲鳴が、怒号が響いた。
何かがあったに違いなかった。
池上側の奥から、一人の子供が狂ったように笑いながらこちらに駆け抜け、そのままアーケードの外に走り去ってしまうのが見えた。
一番近くの「右2」の開口部から、グーメン弾を喰らったらしい一匹の青青魚魚が、ゆっくりと墜落し、100メートルほど離れたパチンコ屋の看板に激突し、四散するのが見えた。
サトルが突然、棒のように突っ立ったまま、頭から後ろに倒れた。石の床に、肉と骨がぶつかる嫌な音がした。
フトシとともにあわてて助け起こすと、サトルは全身をけいれんさせ、口から泡を吹き出していた。意識を失いつつも必死に何かをしゃべっている
まるで混線した電話のように、さまざまな声が飛びかってよく聞き取れない。
ただその合間に、サトルは同じ言葉を狂ったように繰り返し叫んだ。
「アオウオオウ!」
「アオウオオウ!」
ハルカは、それが「青青魚魚王王」という字を書くのだと瞬間的に理解した。
なぜか。
それを伝える何かを感じたからだ。
そのとき、アーケードの天井が紙のように裂け、巨大なその姿の一部が見えた。
サンライズカマタ全体よりまだ大きい、青く青い、真っ青な塊が、暗い蒲田の空に浮かんでいた。
それは、青青魚魚の王だった。
青青魚魚王王(アオウオオウ)
大混乱になった。
アーケードの中に殺到してきた青青魚魚の群れに、パニック状態となった子供たちが、てんでにデタラメな射撃をはじめたのだ。
天井が破れてしまったためか、それとも青青魚魚王王の力なのか、「アーケードまもり」の効力は消えてしまっていた。
狙いを外したグーメン弾の一発が、100円ショップをビルごと吹き飛ばした。
「亀屋百貨店」のネオンに突っ込んだ青青魚魚の一匹が、そこで5発のグーメン弾を一度に浴びて大爆発を起こした。
思考攻撃を受け、仲間を撃とうとしたらしい子供を、他の数人が押さえつけ、顔がゆがむほどに殴りつけている様子が遠くに見えた。
ハルカは逃げることもできず、泡を吹くサトルと、呆然としたフトシを両脇に抱き、ただその場に座り込んで震えていた。
目の前の模造紙が、そこに描かれた稚拙な地図や人物図が、みるみる汚く踏み荒らされ、破けていくのをぼんやりと見ていた。
一匹の青青魚魚が、その上に滑り込んできた。
青青魚魚は、笑っていた。
そのうつろな目でハルカを、人間たちをあざ笑っていた。
ゆっくりと青い感覚様が、自分の心を満たしていくのをハルカは感じた。
その真っ黒なクチバシは、なんと魅力的なのだろうと思った。
ハルカはそこに接吻したかった。口にくわえ、しゃぶりつきたかった。
それが粉々に吹き飛んだ。
目の前に、吹き矢を構えたカナタが仁王立ちになっていた。
カナタの額からは血が流れ、それがハルカの足元に、模造紙や石の床に、次々に赤黒い点を作った。
「来い!」
ハルカはカナタに手を引かれ、フトシやサトルとともにアーケードの中を逃げまどった。
ハルカはフトシの手を握り、サトルはカナタが背負った。
メギの組の敗北だった。
グーメン弾を撃ちつくし、泣きわめきながら青青魚魚に取り囲まれる子供たちを見た。
あの参謀をクチバシでくわえ、オモチャのように宙に放り上げて遊ぶ青青魚魚を見た。
破壊された100円ショップの影に、ようやく身を潜めると、カナタはハルカに言った。
「フトシと逃げろ」
君は、と言いかけたハルカを、カナタはさえぎった。
「いいか、おれたちは、『大田区メギの組』だ。
おれたちは、秘密の歴史を伝えられてきた。もう何年も、何十年も、昔から伝えられてきた歴史だ。
この大田区で、毎年何人か、日曜日と月曜日の間に目覚めてしまう子供が出てくる。
どうしてなのかわからない。他所ではどうなのかも。
ほとんどの奴は、目覚めるとすぐあいつらに襲われて、死ぬかバカになってしまうからだ」
カナタの言葉は続いた。
「昭和のころに、『インチキさん』という人があらわれた。
『インチキさん』は、目覚めた子供がそうならないための方法を考えた。
目覚めた者のために『メギの組』を作り、いろいろな術を伝えた。
そして、それを仲間に伝え続け、お互いで助けあうようにと言い残して、8月15日に『とおくのまち』へ行ってしまった。
おれは、27代目の『メギの長』だ。
『インチキさん』のおしえと、わざとを守り、大森第六小学校25代、カワカミノブヒコさん、蒲田中学校26代、イノウエダイチさんの跡目を継ぐ者だ。
ダイトーアの男児として、仲間を助け、いつの日か、メギの組のみんなをとおくのまちへみちびくものだ」
インチキさん!
謎が解けたような気がした。
それは、長い間、口伝えにされるうちに変化してしまった「伸吉さん」のことではないか。
いまこそ、なぜカナタたちが、自分と同じ「メギ」や「ゼロイヌ」の名を知っているのか理解できた。
後藤伸吉の遺志は、そのほとんどが、ゆがんだり、失われたりしながら、メギ曜日に目覚めた者の間の、言い伝えとなって、いまだ保たれていたのだ。
ダイトーアとは伸吉文書の「大東亜」ではないのか。8月15日とは終戦記念日ではなかったか。
それは、60年以上にわたって、大田区の子供たちの記憶の中に伝えられてきた、奇怪な秘密組織と、その教義だった。
「ダイチさんは、ゼロイヌからおれを助けてくれた。そのせいで、おかしくなって死んでしまった。それが『メギの長』の役目だ。だからおれも、お前たちを守る。ダイチさんのように!」
自分に言い聞かせるように、カナタは言った。その膝が小刻みに震えているのを、ハルカは見逃さなかった。
「おまえはフトシと、『とおくのまち』に行け!あの塔へ!
御ショウタ様、御キクコ様、そこに行けば、すべての救いはもたらされるなり!」
「ゴーン」
上空を飛び回る青青魚魚たちが、突然あの雷鳴のような声を轟かせた。
何匹かがこちらに向き直り、近づいてきた。気付かれたのだ。
カナタは、動揺しているハルカの肩をつかみ、フトシとともにアーケードの外に押し出した。
「走れ!ここから離れろ!できるだけ!」
こちらの意図に気付いたように集まってくる青青魚魚の群れに、カナタは手に吹き矢を構えて向き直った。
「早く!」
一匹が、バラバラに吹き飛んだ。
グーメン弾だ。最後に一発隠し持っていたのだ。だがそれで終わりだった。
残りの矢で必死に応戦しようとするカナタを、青青魚魚の群れはあざ笑うかのように取り囲み、クチバシで引き裂きにかかった。
ハルカは走った。フトシの手を引き、大声で泣きながら走った。がれきと化した100円ショップからサンライズカマタを飛び出し、駅前の横道を全速で駆けた。
地響きのような律動音がした。
振り返ると、アーケード頭上の青青魚魚王王が、ハルカとフトシの方にゆっくりと動き出すのが見えた。
はじめて見えたその全体像は、優美とも言える流線型の組み合わせで、まるで巨大な宇宙船のようだった。その表面に、旅客機の窓のように無数の目が踊っていた。
そしてその足もとで、青青魚魚に包囲されたカナタが、何かを懐から取り出すのが、小さく見えた。
野球ボールほどの黒い塊。
しかし物体というより、それはなにか、まるで画数の多い漢字のように見えた。
「物語爆弾!」
フトシが叫んだ
そしてそれは、炸裂した。