第9回


下丸子

 その夜、ハルカは悪夢に悩まされた。

 それがまた青青魚魚による攻撃なのか、それとも、恐怖に怯える自分の心が見た幻なのかはわからない。

 青青魚魚の、うつろなあの「目」と、「イエローおばさん」の、不幸に破壊されつくした皺だらけの顔が、頭から離れなかった。

 目が覚めたとき、それが普通に木曜日の朝であることに、ハルカは心底ほっとした。

 今日も憎らしいほどにいい天気だ。

 ベッドの中で天井を凝視しながら、ハルカは考えを固めた。

 「イエローおばさん」は、だめだ。残された手がかりは、別れたときの状況しかない。

 少年が走り去っていった方向と、分かれた時の「500」を思い出した。

 多摩川大橋からガス橋方向に、自転車で500数える以内でたどり着ける範囲。そこに彼の住処があるはずなのだ。漠然と世田谷方面とだけ考えていたが、その条件に当てはまる地域はどこだろう。

 あの自転車は、かなりのスピードが出るようだった。残像に乗ることによる加速もあったろうが、メギ曜日の中にあっても、とばせば時速30キロは出るだろう。

 「500」をざっくり10分弱と考えると、その間に、ざっと5キロ。

 以前に酒屋のくれた、広告入りの蒲田周辺地図を取り出し、ハルカは多摩川大橋のたもと、東京側を中心に、コンパスでその半径の円を描いた。

 これではまだ面積的に広いが、さらに範囲を絞り込めるはずだ。

 円内の東側の約半分、多摩川大橋から下流の範囲は、確実に無視できる。

 少年があえてガス橋を目指した以上、その住居も上流方向にあるはずだからだ。

 南半分、川崎側も無視できるはずだ。少年とハルカが出会ったとき、すでにメギ曜日は終わりかけていた。彼が帰宅の途中でハルカを発見したであろうことは間違いないだろう。

 これで円の四分の三が消える。

 残されたのは、北西方向の四分の一、やはり大田区の下丸子、矢口、南久が原といったあたりだ。面積にして、ほぼ2キロ四方。少年の自転車がさらに速いと、世田谷区にまで達している可能性もあったが、残り四日間で調べられるのは、せいぜいこの程度だろう。

 間が悪いことに土曜までは夏期講習だ。丸一日使えるのは日曜しかない。

 できれば、講習をサボってでも探しに行きたいところだが、いまや両親はあきらかにハルカの行動を不審がり、目を光らせている。バレて外出禁止にでもなったら万事休すだ。

 ここは表面上だけでも、おとなしく見せておく必要があった。

 後は時間の許す限り、この地域をしらみ潰しに調べてみるしかない。

 ハルカは講習が終わると、そのまま自転車でダッシュして、ガス橋に向かった。

 今日も門限まではせいぜい一時間半しかない。下丸子方面を回れればいいところだ。

 調べてすぐにわかったことに、この地域は「キヤノン」の本社をはじめとして、「三菱自工」や「日本精工」など、オフィスや工場が固まっており、住宅地の割合はわりと少ない。歩き回る範囲がさらに狭まったのは幸運といえた。

 もうひとつわかったことは、こうした聞き込みが、刑事ドラマのようにうまくいくものでは全くない、ということだ。

 一応ノートなどを抱え、学校の課題風を装ってはいたが、「黄色い自転車に乗った男の子を見かけませんか?」などという質問はいかにも怪しかった。街の住人の対応はそっけなく、せいぜいまた「イエローおばさん」の話を繰り返されるだけだ。期待していた近所の小中学生などは、誰も

 「知らねー」

 の一点張りだ。

 思い詰めたような目つきをして、頬に大きな湿布を貼った中学生に、道端で突然こんな質問をされたら、自分だって相手にするとは思えない。

 一時間半はあっという間だった。ひょっとして、また通りかかるのではないかとガス 橋のたもとで、20分ほど待ってみたが、これも無駄だ。

 虫の声がかすかに響く、夕闇の多摩川土手を、ハルカは空しく引き返した。

 あと三日。

 金曜日は、ほとんど調査にならなかった。六時から家族で外食だったからだ。

 別に特別な何かがある日ではなかったが、思うに娘の様子がよほど心配なのだろう。

 やたらと優しい両親が、むしろ気の毒でならなかったが、やはり気が焦って仕方がなかった。

 だがこの日、講習の間にも聞き込みを続けていたハルカは、調査とは直接関係しないものの、興味深い話を聞くことができた。

 蓮沼中学の男子によると、「イエローおばさん」のような話は、大井町に限らず、実は日本中によくあるものだという。

 「ピンクおばさん」「青おばさん」など、噂も半ば入り混じって、様々なバリエーションが存在するのだと教えてくれた。彼は言った。

 「半分はただの変わった趣味だと思うけどね。林家ペーとか。でも残りの、言ってみると本気の人たちは、たぶん色によって、何かから身を守っているつもりなんじゃないかと思うな」

 そうとも。ハルカは思った。

 本当に守っていた人がいたに違いない。そして守りきれなかったのだ。日本中で。

 ハルカは、その可能性にぞっとした。

 自分も、あるいはそうなる。こんな話はよくあるのかもしれない。

 あと二日。


カナタとフトシ

 土曜日になった。

 ようやく頬の湿布を取ることができ、体の調子も回復してきたが、気分は晴れるどころか、ますます鬱々として、焦りばかりがつのっていた。

 今日明日で見つけられなければ最後だ。

 しかしどうしたらいいのだろう。「イエローおばさん」の線が消え、聞き込みによる調査も、ほとんど効果がないことはもう明らかだった。

 一つ方法として、エビの類を一切口にせず、日曜から月曜まで、完全に眠ってしまえば、メギ曜日に目覚めることなく済むのでは、と思ったのだが、火曜日のことを思うと、青青魚魚にその手が通用するか、自信はなかった。

 最終日の講習が終わると、ハルカはあてどなく自転車を走らせていた。時間は一秒でも惜しいのに、あの少年を探し出す元気が起こらなかった。

 (どうせ無駄だ)

 (うまくいきっこない)

 (しかしどうしたら)

 答えの出ない問いを、頭の中で果てしなく繰り返した。

 六時すぎになって、ハルカはいつしか自転車を学校に向けていた、

 空は早くも見事な黄金色の夕焼けだ。雲の流れが速い。また雨が降るのかもしれない。

 校門の方に顔を戻して、ハルカはぽかんと口を開けた。

 あの少年が立っていた。

 見間違えるはずのない、あの顔だ。

 この辺りではあまり見かけない、藍色の制服に身を包んでいた。確かちょっと有名な私立校ではなかったろうか。襟に銀色で「I」とあった。

 それは裕福そうで、賢そうで、そして少し悲しそうな目をした少年だった。

 「遅かったな。もう帰ろうかと思った」

 呆然としているハルカに、一歩進みだして少年が言った。

 「五日間待った。フトシがどうしてもって言わなきゃ、とっくにやめてる。感謝しろよな」

 その傍らから別の声がした。

 「でもやっぱりきた! やっぱりだ!」

 見ると、少年の影にもう一人子供がいた。丸々太った坊主頭の小学生だ。

 「どうして」

 ここが、と言おうとして先を続けられなかった。あれだけ探した相手を見つけられた安堵よりも、驚愕の方が強かった。

 「この前」

 少年は、例によってぶっきらぼうな口調で話した。

 「家を聞いたとき、東矢口と言ったろう。

 東矢口には、中学は二つしかない。第一と第二。

 第一の方が、多摩川大橋から遠い。学区は住所で決まってるから、おまえが第一の生徒なら、あれから500で家に帰れない。もう死ぬか、狂ってるはずだ。

 ひょっとしたら私立の生徒かもしれないし、オレはもうムダだと思ったけど、フトシがうるさいから、ここで月曜から待ってみた」

 「でもやっぱりきた! やっぱりだ!」 

 うれしそうに坊主頭が繰り返した。してみると、この子がフトシなのだろう。

 考えてみれば、しごく単純明快な推理だった。だが今は夏休みだ。来るかどうかも定かではないハルカを、ここで5日も待ってくれていたのかと思うと、思わず胸に熱いものがこみ上げた。

 だが、涙ぐむハルカを、少年の次の一言が我に返らせた。

 「週末は雨だ。アオウオが来る」

 ハルカは震えながらうなずいた。

 「もう来たの、火曜日の夜。家の中まで入ってきた」

 少年は少し驚いた様子だった。

 「食われなかったのか」

 「体が動かなかったから」

 ようやく合点がいったという風だ。

 「ケド第二曜日か。素人で良かったな。普通に第一曜日だったら食われてた」

 声に少しだけ嘲りがあった。

 こんなものに素人も玄人もあるというのか! ハルカは思わずむっとした。

 口も挟ませず、少年はぴしゃりと言い放った。

 「いいか、もう時間がない。良く聞け。

 週末は雨だ。あいつがまた川から上がってくる。

 あいつは、目をつけた相手を引きずり寄せることができる。徹夜したり、睡眠薬とかでやり過ごそうとしても無駄だ」

 火曜日のことをまざまざと思い出した。

 「メギ曜日、目が覚めてまだ無事だったら、サンライズカマタまで来い。走って。つかまる前に」

 「駅前の?」

 サンライズカマタは、JR蒲田駅前にある商店街だ。いきなり出てきた妙な名前に、ハルカは呆気にとられた。

 「そうだ。それと、先週着てた服を必ず持って来い。袋かなんかに入れて」

 少年の言葉はいちいち突拍子もなかった。

 「服を? なんで」

 「このまま食われたくなかったら言う通りにしろ。

 いいか、先週着ていた服を持って、サンライズカマタまで来い。じゃあな!」

 「でもくるよ! この人はキクコだ! きっとくるよ!」

 坊主頭のフトシが、合いの手を入れて歌うように言った。

 言うだけ言って、二人はさっさと立ち去ろうとする。

 「ちょっと!」

 ハルカは急に不安になって駆け寄った。

 少年は止まりもしない。ハルカは早足でなんとか少年に追いすがりながら言った。並んでみるとハルカより少し背が低い。

 「また会ってくれる?明日とか?」

 「ダメだ。本当はこっちもそれどころじゃないんだ。おまえのせいですっかり時間を食った」

 「でもくるよ! この人はキクコだ! きっとくるよ!」

 かたわらのフトシがうれしそうに繰り返す。誰がキクコだと思った。

 どうにも能天気すぎるその顔を見つつ、このフトシは少し頭が弱いのではないかと思った。 

 「自転車はどうしたの。あの黄色い」

 「何にも知らないやつだな。普段乗ってたら溶けるだろ?」

 残像のことを言っているのだろうか。言われてみれば確かにその通りだ。残像にしない方法が何かあるらしいことのほうが、むしろ不思議なのだが。

 「ねえ、君、名前は?」

 「カナタ」

 ちょっと考えるようにして少年はそれだけ答えると、そのままハルカを振り切るように突然駆け出した。

 足が速い。何かスポーツでもやっているのだろうか。フトシが必死でその後を追う。弾む肉団子のように見えた。

 二人はみるみる遠ざかって、夕闇の中に消えていった。

 カナタにフトシ。どんな字を書くのだろう。名字は何と言うのだろう。

 やっぱり謎だらけの相手だ。しかし、やはり彼らだけが頼りの綱なのだ。

 明日はもう日曜日だった。


そして日曜日

 ついに日曜日が来た。

 ハルカは早々に起き出すと、朝食をかきこんで家を飛び出した。

 サンライズカマタだ。

 いったいなぜあんな場所が、青青魚魚を迎え撃つための場所なのだろう。それを確かめるためだった。

 自転車のペダルを漕ぎながら、ハルカは体の調子を確かめた。成長期のおかげだろう、怪我も疲労も、一週間のうちにすっかり治まって、気力体力はともに十分だった。

 雲が低い。空は一面にどんよりと曇って、蒸し暑い一日になりそうだった。天気予報は、やはり夕方から雨だ。蒲田の街をのんびりと走る東急池上線の踏切を越え、道順を確かめるように、ハルカは蒲田駅前を目指した。

 サンライズカマタは、その名の通りJR蒲田駅前の商店街だ。ハルカの家からは、多摩川同様に自転車で10分とかからない。

 100円ショップに洋服のサカゼン。家具の亀屋百貨店にイトーヨーカドー。日本中どこにでもある駅前のアーケードだ。

 全長は約800メートル。東急目黒線、池上線に平行し、終日買い物客で賑わっている。

 家からは、その出口、池上方向から近づくことになる。ハルカは出口に建ったイトーヨーカ堂の前で自転車を止め、アーケードの屋根を見上げた。

 「サンライズカマタ」

 野暮ったい字体で、黄色く書かれたロゴマークが浮き出している。ロゴの下にあるのは、二匹の向かい合った鳳凰らしいが、図案がどうにも下手で、みすぼらしく見えた。 羽毛の部分をめくれ上がらせて、電飾で隙間から光るようにしてあるのだが、それがよけいにまずかった。これも黄色だ。

 ひょっとして、この黄色を利用するのかもしれない。しかしそれにしては、黄色の部分が足りないように思えた。これならシミズ電気の方がましだ。ハルカはますますわからなくなって、自転車を押してアーケードの中に入った。

 まだ昼前だったが、早くも週末の買い物客で、かなりの賑わいを見せている。これではメギ曜日にはかなり残像が濃くなりそうだ。 たいていはどこもそうだが、アーケード内はトンネルのような完全な密閉型でなく、途中三箇所ほど、横道に通じる部分の穴が空いている。途中で屈曲しているため、全体を一望こそできないものの、サンライズカマタ自体は5分も歩けば終わりだ。

拍子抜けした。

 退避壕のつもりなのかもしれないが、それにしては穴だらけのように見えた。

 例の黄色い鳳凰が描いてあるのは出口だけで、入り口の方は、太陽を模したらしい趣味の悪いオブジェで飾られているが、これは赤に紫だ。

 これではどこからでも侵入を許してしまうように見えてならなかった。

 ひょっとして、昨日別れたカナタやフトシの姿が、どこかに見えないかと思ったが、それも見当たらない。時間がないと言っていたが、いったいどこで、何をしているのだろうか。

 ハルカは、カナタの意図を図りかねながらも、今夜に備え、もう一度アーケードを往復して、地形を頭に叩き込んだ。

 近くの銀行で、貯金を5000円引き出した。今日の夜に備えて、買出しをする必要があった。ユザワヤで雲母粉10袋、1600円を買った。前回の教訓から、多めに用意しておいたほうがいいと判ったからだ。

 100円ショップで、パスポートケースも買った。ビニール製で、首から下げるヒモがついている。この中に予備の雲母粉を入れるつもりだった。

 玄関の靴は残像になっても、パジャマやタオルケットは残像にならない。その理屈はよくわからないが、自分の体に近いものほど残像化の影響を受けないのではないかとハルカは推測していた。これでうまくいけば、ある程度の物は持ち出せる。カナタが言っていたように、先週着た服も。

 釣具屋でオキアミも買った。前回の四倍、800円分。これを腹に収めることを想像すると、それだけで気分が悪くなってくるが、今日は絶対に不完全な覚醒をするわけにはいかない。

 洋服のサカゼン本店で、新しいタンクトップと短パンも買った。これが1980円。

 黄色いジャージの上下でもないかと探してみたのだが、そんな趣味の悪い色はなかなか在庫がないようだ。よく考えて見れば、ハルカにはカナタのような重装備で、メギ曜日をすばやく動き回れる自信がなかった。黄色い装備についてなにも言われなかったし、すると今夜重要なのは、おそらくハルカが商店街に駆け込むまでの時間なのだろう。それなら身軽な方がいい。

 夕食はほとんど食べなかった。オキアミに備えるためだ。

 あのオキアミは、もう料理のしようがない。熱を加えれば家中に臭いが広がるだろう。後で冷凍のまま、アイスキャンデーのようにかじるつもりだった。

 こういう時に限って、おかずがハンバーグだったりするのが呪わしい。いつも通り風呂に入ると、寝る前に麦茶を飲みに来たフリをして、冷凍庫からオキアミの塊を取り出し、部屋に持ち帰った。

 みっしりと凍りついた赤黒く四角い塊は、ちょっとだけアイスモナカのように見えなくもない。そう思い込んでなんとか齧りついたが、一口目から大後悔した。

 ガチガチに硬い。歯が痛い。ほとんど何の味もしない氷の塊だ。だが溶け出せばジャリジャリとした歯ざわりが気持ち悪く、口の中いっぱいに生臭さが広がってくる。

 せめて醤油でも持ってくればよかったかと一瞬思ったが、余計に事態が悪化するような気がしてやめた。これが四つもある。涙が出てきた。

 だが、青青魚魚に食われるよりはマシだ。

 死にそうになりながら全部のオキアミを腹に押し込み、服を脱いだ。

 着替える前に、全身に雲母粉を塗りこんでおいた方がいいと思ったのだ。

 先週買ったゴム手袋をはめ、 雲母粉の袋を次々に開封して、手足、顔、胸や腹、脇や腰と、たっぷりと全身に塗りこんでいった。その上から服を着てみると、あちこちがチクチクとくすぐったい。胸の先などは擦れて痛いくらいだ。

 雲母粉の残りをパスポートケースに入れ、タンクトップの中にしまいこんだ。

 先週の服を遠足用のデイパックに詰め込み、背中に背負った。これだと横寝しかできないが、どうせ寝ている暇はほとんどないだろう。バスタオル、両足の硬貨、すべての準備を抜かりなく整えると、時間はすでに1時を過ぎていた。

 ハルカはベッドに横たわり、静かにそのときを待った。

 オキアミのせいだろう。腹がゴロゴロと鳴った。

 どこかで雨音が響き始め、しだいに強くなっていった。いちおう携帯のバイブは用意しておいたが、眠くもならない。無理やりに目を閉じて、少しでも体を休めようとした。

 二時を過ぎ、三時を過ぎて、ハルカはいきなり覚醒した。

 あの特有の感覚があった。

 7月31.5日、メギ曜日だ。

 いよいよ始まるのだ。


サンライズカマタの戦い(1)

 ゆっくり薄目を開けると、顔を動かさないように、そろそろと眼球だけ動かして周囲を見回した。

 ひどく暗い。雨のせいだろうか、まるで海の底のような、深く暗い菫色の闇が部屋を満たしていた。

 青青魚魚の気配はない。部屋は乾燥している。

 すこしづつ、指先から腕、腕から肩、全身を動かした。金縛りもない。動く。

 ハルカは、すばやくベッドから跳ね起きると、窓に忍び寄った。カーテンの隙間から多摩川の方向を見た。外はさらに深い闇だ。太陽も星も見えない。おそらく、日曜から月曜にかけては終日雨なのだ。数百メートルの先で、視界は急速に閉ざされていた。多摩川あたりは完全に闇の中だ。

 まるで黒い霧が周囲を包んでいるかのようだった。あの「塔」も見えない。

 流れる雲の残像なのだろうか、紫に染まった灰色の層が、あちこち濃淡の斑を作って、空のごく低い部分に沈殿しているように見えた。

 ふと、闇の中で、かすかな光が、音もなく瞬いた。ハルカは、息を止めたまま闇の中を凝視した。

 また光った。

 間違いではない。

 青い。

 恐怖の記憶と結びつきながら、どこかひどく懐かしい青だ。ハルカはあわてて目をそらした。見ているとそのまま、あの青の奥に引き込まれそうな気がしたのだ。

 遅れて音が届いた。

 金属をこすり合わせるような、あの特徴的なカリカリという音だ。

 青青魚魚が来る。急がなければ。

 デイパックとパスポートケースが残像化していないことを確認し、部屋から出ようとして、ハルカは一瞬周囲を見渡した。

 いつも通りの自分の部屋。見慣れた家具。教科書にノート、夏期講習のテキスト。しかし、今はメギ曜日だ。これから待っているのは、あの恐るべき怪物との戦いなのだ。

 果たして、生きてまたここに戻ってこられるのか、想像もつかない。

 ハルカは、ドアをそのまま透過して外に出た。もはや合板のドア程度は、空気も同然に感じられた。

 「6・・・7・・・」

 ハルカは数を数えていた。早すぎず、遅すぎず、だいたい一秒感覚とになるように。先週の教訓から、できるだけ時間の経過を把握する工夫をしたほうがいいと思ったのだ。

 玄関のドアでは少してこずったものの、50を数える前に、こじあけることに成功した。

 隙間から、どっと湿気が侵入してくる。すばやく体を外に引っ張り出して、ハルカはマンションの廊下に立った。

 一瞬、溺れそうになった。

 呼吸はできる。それなのに、「ここが水中である」ような強烈な錯覚があった。パニックに陥りそうな自分を、あわてて深呼吸を繰り返すことで堪えた。大気の様子が異常だった。単に湿気だと思っていたが、そんな単純なものではなかった。

 雲母粉を全身に塗っているのに、空気はこれまでになく、ねっとりとして重い。視界の先は、急速に深い青紫に染まり、そのまま闇へと繋がっていた。

 周囲の様子が、度の合わない眼鏡をかけたように、奇妙に捻じ曲がって見えた。

 雨なのだ。

 目には見えないが、これがメギ曜日の雨なのだ。水滴の一つ一つが全て残像となって、大気を満たしている。それが空気と水の屈折率が混じりあわせ、風景をこのように青みがからせ、歪んだように見せているのだ。

 通常ありえない、飽和水蒸気量を超える湿度の世界。ハルカは、いわば空気と水との、中間の世界にいた。 「青青魚魚が川から上がってくる」というカナタの言葉が理解できた。

 闇の中で、また光が瞬いたような気がした。

 こちらは窓とは反対方向にある。闇の中で距離感がつかめないが、こちらからも光が見えたということは、ハルカがベッドから離れた気配を早くも察したのかもしれない。

 音がした。先ほどより光と音との間隔が短い。ハルカは雷を思い出した。

 ハルカは手足を泳がせながら、あわてて階段を下り、一階を目指した。

 「121・・・122」

 ガムをかむように数を数え続ける。これだけが恐怖を紛らしてくれる。

 自動ドアを透過し、マンションの外に出る。廊下には一応屋根となる部分があった。しかしここからは完全に屋外だ。雨量はさらに増しているに違いない。

 暗い。

 周囲はいちだんと青黒く、歪んで見えた。空気はもはや完全に液体と化している。密度が水より低いだけだった。ハルカは、濃密な青い闇を前にして、本能的な恐怖に足が震えた。

 「カリカリカリ」

 音が響いてきた。光のほうは、一階にいるハルカからは、死角なのか見えなかったのだ。

 来る。青青魚魚が来る。

 「168・・169・・・170!」

 ハルカは、青い闇の中に一歩を踏み出すと、そのまま蒲田駅前を目指して走り始めた。

 水の中を動くようだった。あるいは以前テレビで見た、月面の宇宙飛行士のようだ。浮力なのか張力なのか、とにかく地面を蹴るたびに、ハルカの歩幅は、軽く2メートルを超えた。

 初めて経験する、驚くべき現象なのだが、今は驚いている暇はない。

 空中でバランスを取りながら、ハルカは一歩一歩、宙を飛ぶようにして走り続けた。

 「224・・・225」

 周囲はまったくの闇だ。まだ家からは数十メートルしか離れていないはずなのに、 自分の位置を見失いそうになった。

 「312・・・313」

 次第に全身の抵抗感が増してくることに、ハルカは気付いた。見ると、手足には、いつの まにかびっしりと水滴が生じ、塗りこんだ雲母粉が流されてしまっている。残像だった雨が、走り続けるハルカの肌に接触して、水滴に戻っているのだった。

 ハルカはあわてて胸元のパスポートケースを引っ張り出し、マラソン選手のように、走ったままで雲母粉を塗りなおした。

 「カリカリカリ」

 背後からは、なお音が響いてくる。

 やはり少しづつ音が近づいてくるような気がしてならない。

 「402・・・403」

 行程の半分も過ぎたろうか。突然、前方の闇の中に、ビルのひとつが、光のシルエットになって、一瞬青く浮かび上がった。後方からの光を反射したのだ。

 「ガリガリガリガリ」

 ほとんど間隔をおかずに音が来た。

 (気付かれた!)

 直感した。

 音は一秒で何メートル進むのだったっけ? 1500メートルか?1800メートルか?たしか何秒かかったかで、雷との距離が割り出せたはずだ。ハルカはうろ覚えの理科の知識を、必死で思い出そうとしていた。だがこのメギ曜日で、そんな常識が通用するだろうか?目で確認するわけにはいかない。もし、あの「目」をまた見てしまったら、逃げ切る自信はなかった。

 「646・・・647」

 ハルカはひたすらに走った。光は次第に激しく、間断なく発生するようになり、そのたび周囲は青白く照らし出されて、周囲のビルが林立する巨大な墓標のように、闇の中に浮かび上がるのだった。もはや音と光はほとんど同時だった。

 「ゴーン」

 ひっきりなしの轟音が空気を震わせた。光が周囲を照らし出す瞬間、近くの電線や、電柱のトランスに、青白いスパークが走った。

 「700・・・701」

 「ゴーン」

 「704・・・705」

 「ゴーン」

 「706」

 「ゴーン」

 前方に踏切が迫ってきた。

 東急池上線。

 電車!

 金属質にギラギラと輝く巨大な残像が、眼前に立ちふさがっている。

 なぜこれに気づかなかったのだろう。

 自動車などとは比べ物にならない、数百トンの鋼鉄の塊だ。

 透明な金属質の輝きは、残像の湛えた膨大な運動エネルギー量を物語っている。

 (通過できるか?)

 (回り道すべきか?)

 (しかし背後には!)

 「ゴーン」

第10回へ続く(7月24日公開予定)

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最終更新:2010年10月17日 20:06