第7回


脱出(2)

 0犬の群れは、もう悠長な陣形を組むのをやめ、一列になってハルカを追ってきている。

 ハルカの走ってきた道筋に沿って、上空を数珠つなぎに並んでいる様子は、まるで連凧のように見えた。

 目の前には、ようやくたどり着いた多摩川の河川敷があった。野球場やテニスコートが広がっている。この多摩川さえ越えれば東京都に、家に戻れるのだ。しかしそのためには、なんとかこの先のガス橋までたどり着かねばならない。

 この土手を、あと1キロほど逃げ切る必要があった。

 こんなに走ったのは学校のマラソン大会走以来だろうか。

 脇腹が、ふくらはぎが痛み始めた。

 土手の上は、ここも意外なほどに残像が濃い。走る手足がそれに触れ、即席の防護服がさらに破けた。

 ただ、周囲の様子はよく見える。待ち伏せを警戒する必要だけはなくなった。

 はるか川崎方向のかなたに、例の塔がまた見えた。結局あれは何なのだろう。その謎を解ける時がくるだろうか。今は、この状況から脱出できるかどうかもわからなかった。

 土手の上に0犬の行列を従えて、ハルカはさらに走った。

 突然に、背後の0犬が音を立てた。声というべきなのかも知れない。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ

 金属同士をぶつけるような鋭い音で、3秒ほどの間隔で連続して起こった。小さな音だったが、ほとんど静寂に包まれたメギ曜日の中では、それはいかにも遠くまでよく響いた。

 それに反応するようにして、数珠つなぎの0犬が一斉に騒ぎだした。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ

 突然の事態にハルカは当惑した。

 しかしその意味はすぐにわかった。

 どこか遠くから、かすかだが同じ音が聞こえてきたのだ。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ

 いやな予感がした。

 その予感を裏付けるように、多摩川の対岸、東京都側の上空に、ゴマ粒ほどの小さな茶色い点がいくつか浮かびあがってきた。

 連絡を取り合っていたのだ。

 5つほどの点が、急速にガス橋の方に向かっていた。まるでハルカの狙いがわかっているかのように。

 橋の上で挟み撃ちだ。

 0犬は、群で協力して獲物を追いつめる、完全な狩人だった。

 目の前にガス橋が迫ってきた。

 だがどうすればいいのか。

 この橋を今渡らなくては、もう絶対に家までは間に合わない!

 そのとき、何かが猛然と迫ってくるのが見えた。

 川崎方向から、自転車だ。

 ハルカは、一瞬ポカンと口を開けた。

 残像ではない。ハルカのように普通に動いていた。

 自転車も、乗っている人間も、すべて黄色一色だった。

 それは、ハルカがメギ曜日ではじめて見た、生きて動く他の誰かであり、その奇妙な姿にもかかわらず、まるで白馬の騎士のように見えた。


黄色の騎士

 近づいて見ると、それはまったく気違いじみた騎士だった。

 自転車は、アルミの太いフレームに、サスペンションがいくつも仕込まれたマウンテンバイクだ。大掛かりな改造が施されているようで、なんに使うのか見当もつかない様々な道具類が、びっしりとフレームに装着されていた。

 タイヤやブレーキといった動作部分以外は全て、黄色いビニールテープが隙間なく巻かれている。

 乗っている人間のいでたちも、また気違いじみていた。

 ヘルメットにフェイスガード、ジャンパー、ブーツ、グローブ。

 そのすべてが真黄色に塗り潰されていた。

 服の繋ぎ目すら、黄色いビニールテープで厳重に巻かれている。そのためか全身が濡れたように光って見えた。

 さながらモトクロス選手と宇宙飛行士の合いの子といったところだ。

 黄色の騎士は、駆け寄るハルカに目もくれずに、目の前で急停車すると、フレームに装着された道具の一つを、素早く外して手に取った。

 ビニールテープを隙間なく巻きつけた棒状のものだ。

 フェイスガードの隙間にその先端を差込み、トロンボーンのように構えると、ほとんど同時に小さな黒い針のようなものが0犬に飛んだ。吹き矢だった。

 「蠣蛎蜘蜘蜘蜘蜘!」

 空気を切り裂くすさまじい声がした。

 背後に迫っていた先頭の一匹に命中したのだ。

 その名状しがたい異様な声と、かん高い響きの鋭さに、腰が抜けそうになった。

 0犬は結晶となった。

 あのぼんやりとした繊維質の体が、一瞬で凍結したように、立体のモザイクとなって固まった。

 続けざまに針が飛んだ。

 「蠣蛎蜘蜘蜘蜘蜘!」

 「蠣蛎蜘蜘蜘蜘蜘!」

 一発はさらに背後の一匹、もう一発は橋の方から迫る先頭の一匹を、正確に狙い撃ちしていた。

 見事な腕だった。

 三匹の0犬が、固まったまま、ゆっくりと地上に墜落して、そのまま自重で砕け散る姿を、ハルカは幻を見るように眺めていた。

 「どこから来た!」

 黄色の騎士は、はじめてハルカの方に向き直ると、フェイスガードを跳ね上げて、鋭く叫んだ。

 顔が見えた。やはり少年だ。

 おそらくハルカより二つは年下だろう。頬を紅潮させ、目には当惑と、焦りの表情を浮かべている。

 「もう終わるぞ!どこから来たんだ!」

 その声の激しさ、ハルカは我に返った。

 「ひ、東矢口」

 声がうわずってしまうのが、自分でも情けなかった。

 「バカ!来い!」

 少年は、いきなりハルカの手をひっつかむと、土手を駆け下りた。川に向かって。

 自転車は、吹き矢と共にもう一方の手で担いだままだ。速い。ハルカは土手の坂道を転げ落ちるようにして、必死で後を追った。

 0犬が、再び動き出した。吹き矢の射程距離を警戒するように、遠巻きの円陣を組んで迫りつつあった。

 野球場を越え、テニスコートも越えた。少年は橋の方には目もくれず、ひたすらに川を目指していた。

 泳いで渡ろうとでも言うのだろうか。

 岸までたどりつくと、少年はいきなり自転車を水面めがけて放り出した。

 ハルカは思わず息を呑んだ。

 しかし、自転車は沈まない。つかんだままの片手のハンドルさばきで、そのまま水上に立ち上がった。川の水が粘土のように固体化しているのだ。

 「乗れ!とばすぞ!」

 自分も水面に降り立つと、少年は断固として言った。


多摩川の上を

 ハルカと少年は、多摩川の水面を自転車で疾走した。

 それは、とほうもない体験だった。

 水面は、青灰色に輝く寒天の原野のようだ。物質としての水ではない。絶え間なく流れる川の残像、膨大なその運動エネルギーの上に乗っているのだった。

 ものすごいスピードで多摩川大橋が近づいてくる。

 自転車にサドルは一つしかない。ハルカは、後輪の軸から突き出した棒状の突起の上に立っていた。手は少年の肩にしがみついている。

 車輪から直に伝わる激しい振動に、ハルカは振り落とされないよう必死だった。

 足元を見ると、二つのタイヤが、わずかに水中へと沈み込んでいるのがわかる。

 不思議な寒天のぬかるみだ。わずかな轍が波紋となって、後に美しい尾を引いていた。

 止まれば、おそらくゆっくりと沈んでしまうのだろう。それにしても、なんと深く美しい青なのだろうか。

 ハルカの様子に気付いた少年は、背中を向けたまま怒鳴った。

 「下を見るな!」

 驚くハルカに向かって、少年は早口でまくしたてた。

 「アオウオだ!やつに見られたら0犬もやられちまう。だから見るな!」

 (なぜこの少年が、『0犬』の名を知っているのだろう!)

 (『アオウオ』ってなんだろう?)

 ハルカの脳裏に小さな疑問が浮かんだ。

 しかし次の瞬間、それとはまったく別の考えが、唐突に頭の中に膨れ上がり、そんな疑問を押しつぶしてしまった。

 それは、強烈で異常な思考だった。

 (0犬なんかどうでもいい。)

 (0犬なんかより、水だ。)

 (水の中が見たい。)

 (水の中が見たい。)

 (水の中が見たい。こんな男は信用ならない。)

 (水の中が見たい。そうだ、こんな男は最初から信用ならないと、自分は知っていたのだ。)

 何の脈絡もない断片的な思考が、後から後からハルカの頭の中に溢れ出し、脳を中から焼いて焦がすように果てしなく反響した。

 (水の中が見たい。)

 (水の中が見たい。)

 (水の中が見たい。水の中さえ見ればすべてはうまくいくのだ。)

 (水の中を見るのだ。)

 そしてハルカは、水の中を見た。

 水の中でこちらを見つめるなにかと目が合った。

 それは目だった。

 眼球のような生物的器官としての目ではない。むしろ描かれた絵のように、平面的でうつろに見えた。

 それは、人間の脳の奥底に、本能的な恐怖として焼きこまれた、「目」のイメージそのものだった。

 暗い水の底には、そのような目が、一瞬無数に折り重なって見えた。

 頭の中に、冷たく青いものがどっと進入してきた。

 ハルカは、絶叫した。


あと500

 自転車が水上で激しく転倒した。

 少年が何か大声でわめきながら、引きずるようにして、自分と自転車を岸に引き上げようとしているのを、ぼんやりと感じていた。

 まるでテレビの中継を見るように、すべてが遠く、他人事のように思えた。

 なんということをするんだ。とハルカは思った。

 (もっと水の中を見なければならないのだ。)

 (もっとあの冷たく青い感覚様を味わうのだ。)

 (もっとあの冷たく青い感覚様を味わうのだ。)

 ハルカは信用のならないこの男から逃げるため、必死で抵抗した。

 なにか鈍い音がした。それが自分の骨が鳴る音だと気付くのにしばらくかかった。

 少年がハルカの顔面を殴り飛ばしていた。平手打ちなどではない。手加減なしの本気だ。

 二発、三発、四発。上唇になにかぬるぬるとした温かいものが伝い落ち、その不快な温もりが、ハルカから青い感覚様を奪った。舌の上に鉄と塩の味が乗った。血だ。

 鼻血が噴き出している。

 「起きろ!来るぞ!」

 そこは多摩川大橋の橋脚だった。東京側の岸だ。

 視界の端に小さく0犬が見えた。川から上がったハルカたちを、再び追ってきている。

 あれが、0犬がまたやってくる。

 一気に自分の思考が戻ってきた。

 ハルカは、少年を突き飛ばすようにして跳ね起きた。

 唇を伝う血がぬるぬると温かく、周囲の風景がぐるぐる回っていた。

 少年は一瞬だけハルカの目をのぞきこんで、正気を確かめるようにすると、また腕をひっつかんで、土手を目指し駆け出した。なんとかハルカもそれに続いた。

 走りながら一瞬、川の方を振り返ると、ハルカたちの転んだあたりで、何か水面が青白く光ったような気がした。

 ようやく土手の上まで登りきって、少年はハルカの耳元で叫んだ。鼓膜が破れるほどの大声だ。

 「走れ!あと500もしたら終わりだ!死にたくなかったら家まで走れ!眠るな!」

 「500?」

 ハルカの問いかけに答えず、少年は自転車に素早くまたがると、土手の上を矢のように走り出した。再びガス橋の方向、0犬が迫る真っ只中だ。

 「御(おん)ショウタ様!」

 奇妙なときの声をあげ、少年は0犬の群れに突っ込んでいった。

 その姿がみるみる小さくなっていくのを、ハルカは呆然として見守っていた。

 突然に、静寂の中に一人とり残された自分に気付いた。

 (そうだ、)

 (急がなけ)

 (れば。)

 鼻血を手で拭った。手の甲にへばりついた、固まりかけの赤黒い血の色。

 気が遠くなりそうだった。

 まだぐらぐらする頭でしばらく考えて、橋の下をくぐり抜けた。こうすれば、横断の危険を冒さずに、もと来た下り車線側の歩道にたどり着ける。

 また走った。走りながら無意識に数を数えていた。

 あと500、という少年の言葉が耳に残っていた。

 国道一号線は、来たときと同様に静まりかえって、動くものは何もなかった。少年が注意をひきつけてくれたからなのだろうか。だがハルカには、あらゆる物陰にまだ0犬が潜んでいるような気がしてならなかった。曲がり角や大きな看板には特に注意しつつ、先を急いだ。

 142、143、144、145

 できるだけ普通に、遅くも早くもならぬようにハルカは数を数えつづけた。少年がいない今、不安を紛らすにはこれしかなかった。空が次第に暗くなってきた。メギ曜日の終わりがいよいよ迫ってきているのだろう。

 223、224、225、226

 カー用品店の前を過ぎ、コンビニの前を過ぎ、ラーメン屋の前を過ぎた。

 しだいにあの特徴的な睡魔が、少しづつ自分を襲い始めたことに気付いた。

 ハルカは脂汗を流しながら、さらに足を速めた。

 350、351、352、353

 ファミコンショップの前を過ぎ、またラーメン屋の前を過ぎた。蒲田陸橋が見えた。

 眠気が急速に増してきた。ずきずきと頭痛が始まり、眼球が勝手に動き出して視線が定まらなくなった。空はがらんとして暗い。一歩進むごとにその振動が頭に響いた。

 411、412、413、414、

 ようやく蒲田陸橋にたどり着いた。

 眠い、ただ眠い。空はもはや黒い空洞のようで、黄色い火花が自分の周りをぐるぐると回っているよう感じられた。

 自分が何をやっているのかすら、わからなくなっていた。

 あと86しかない、いや96だったろうか。

 夢遊病者のように、足を引きずりながらハルカは進みつづけた。

 483、484、

 角を曲がった。家が見える。ああ、しかしもうだめだ。

 その瞬間。メギ曜日が終わった。

 薄れ行く意識の中で、自分の体がもといた場所に、マンションの四階まで吸い寄せられるような感覚をハルカは感じた。


そして月曜日

 ベッドで意識を取り戻したハルカは、まさに悲惨なありさまだった。

 火傷のような赤い腫れが、露出していた肌の全てに及んでいた。

 手足のそこらじゅうは擦り傷だらけ、肘や膝は特にひどく、大きなかさぶたとなってズキズキと痛んだ。

 少年に遠慮なしに殴られたせいで、顔は青黒く腫れ上がり、足腰の筋肉は鉛のようにこり固まっていた。

 何よりひどかったのは、まるで交通事故にあったような全身の痛みだ。皮膚や筋肉だけでなく、骨や内蔵の細胞一つ一つに至るまで、激しい衝撃に、きしみ、悲鳴を上げていた。メギ曜日が終わるまでに、もといた場所にたどりつけなかったためのダメージに違いなかった。

 今が夏休みでよかったと本当に感謝した。

 だが、娘のおそるべき姿に驚愕した両親を、寝ぼけて転び、顔を机にぶつけた、と言いくるめるのは、かなり大変だった。

 ビニールの切りくずと成り果てた、「シミズデンキ」の黄色い袋が部屋中に散乱していたためもある。両親が、それぞれの出勤の支度に追われていなかったら、いろいろ詰問されずには済まなかったろう。

 一人ベッドに残ったハルカは、ろくに寝返りもできず、苦痛にあえぎながら、あわれな一日を過ごした。

 外は上天気で、窓の外には、大きく発達した入道雲の上端が見えた。

 どこからか、テープに録音された竿竹屋の声が、近づいては遠ざかっていく。いかにも平和な夏の一日だった。

 「竿屋、竿竹、20年前のお値段です。」

 ハルカはぼんやりと天井の蛍光灯を眺めながら、考えていた。

 ちょっとした遠出のはずが、とんでもない冒険行になってしまった。

 思い返してみると、生きて帰れたことすら不思議だ。自分の幸運と、あの不思議な少年に感謝せねばならなかった。

 それにしても、あれは結局何者だったのだろう。走り去った方角からすると、世田谷方面の子だろうか、下丸子か、久が原あたりかもしれない。

 少年の、決然とした眼差しと、紅潮した頬とをハルカは思い出した。

 奇妙ないでたちと、見事な吹き矢の腕を思い出した。

 たった一人で、0犬の群れに突っ込んでいった後姿を思い出した。

 あれは、ちょっと格好よかったな、とハルカは思った。

 湿布を貼った頬にそっと触れてみた。ものすごく痛かった。

 ・・・本気でなぐりやがって。

 感傷はどこかに吹き飛んだ。歯がグラグラだ。女の子になんと言うことをするのだろう。

 唸り声を上げながら、ハルカはベッドの中で一日を終えた。

 とにかく、もう外に出るのはやめよう。いや、こんな遊びそのものを、だ。

 エビも、雲母粉も、後藤伸吉も、メギ曜日も、もうおしまいだ。

 ハルカは固くそう決心した。

 しかし事態は、もはやハルカの決心くらいでは収まらなかったのである。

 第8回へ続く(7月10日公開予定)

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最終更新:2010年10月17日 19:53