第4回
多摩川探索(1)
大田区内の多摩川は、川岸の全体が公園となっている。広大な敷地にサッカー場や野球場がいくつも広がっており、堤防をかねた土手の上は、サイクリングロードとなっていた。
今日も大勢の家族連れでにぎわっている。なにしろ夏休みなのだ。
ハルカは母の大きな帽子を借り、いつもの自転車でサイクリングロードを走っていた。
午前の川風は爽快で、気分は悪くない。
目の前に広がる風景は、のどかではあったが、人工の手で整備しつくされ、やはりあの絵の面影はどこにもなかった。
だが、パノラマに描かれた場所を特定するのに、手がかりはいくつかあった。
例の「塔」の見え方からして、それが橋を渡った川崎市側でなく、大田区側であることは間違いない。
となると、カンバス3が多摩川の正面、カンバス1が下流方向、カンバス2が上流方向の景色となる。その地点で多摩川は、ゆるやかに大田区側に蛇行していた。
大田区に住んでいると、社会の授業で嫌でも覚えさせられるのだが、多摩川は、JRと京急の二つの鉄橋のあたりで、大きく湾曲している。
この付近では、「塔」は視界から外れてしまうはずだ。
となると、探すべきは、湾曲部の上流か、下流のどちらかだった。総距離にして8キロほどだろうか。
そしてもちろん、あの「圓團圖門」だ。あの門を見つけ出せれば、まずその場所に間違いない。
ハルカはとりあえず下流、東京湾方向に向かった。
上流のニコタマ(二子玉川)へ至る道は、普段から見慣れており、これまで「圓團圖門」のようなものを見た記憶なかったためだ。
対岸にそびえる大型アンテナを越え、湾曲部に近づくと、視点がダイナミックに変化し、川崎駅ビル群が目に入ってくる。
ただ、二つの鉄橋はそのままでは越えられない。サイクリングロードもここでいったん終わり、いったん堤から河川敷に降りて、鉄橋の下をくぐる形になる。鉄橋の方がそれだけ古くからあったということだろう。
ここからは河口がぐっと広がり、風景も変化する。独特の、泥の混じったような潮のにおいが微かに漂ってくる。海が近いのだ。
ここまでくると、周囲は町工場の密集地帯となる。実はハルカも、あまり「鉄橋のこっち側」に来ることはない。
10分も走ったところで、それはあっさり見つかった。
六郷水門
昭和六年三月成
プレートにはそうあった。伸吉の絵に描かれたものと、まったく同じ、古めかしいコンクリートと鉄製の、まさに水門だ。
今はあまり使われないのだろうか、建物は記念物のようによく手入れされており、水門の奥の濠は、今では小型ヨットや漁船の係留所になっているようだ。
しばらくぐるぐると門の周囲を巡り、ざらざらとしたコンクリートの肌をなでたりしながら、ハルカはしばし感慨にふけった。
ここから伸吉は、あの「塔」を、「メギ曜日」を見たのだろうか。
この場所にどういう意味があったのだろう。
多摩川方向に向き直って、しかしハルカはふと疑問を感じた。
「塔」が見えないのだ。
もちろん、普段は見えるはずのない「塔」なのだが、それにしても、伸吉がガイド線で導いたように水門の対角線上を探すと、それはあきらかに海の方を向いてしまうのだった。
ハルカが以前に「塔」を見た方向とも合わない。
まったく見当違いの方向というわけでもなく、角度からすれば60度ほどのズレではあるのだが、あれだけ偏執的にパノラマ図を作って残した伸吉のこだわりから考えると、どうも納得できなかった。
そう思うと、プレートの銘も気になってくる。
「昭和六年成」と書いてあるからには、伸吉が生きたころからあったに違いないが、だとするとつじつまが合わない。カビで読みづらくなっているにせよ、「圓團圖門」と「六郷水門」では、字面からして、かなり印象が異なる。
あの画数の多い奇妙な漢字を、まさか「六」や「水」とは見間違いないだろう。
思いあぐねてプレートをなでているうちに、どこかの犬と飼い主が、不審げに通り過ぎていった。
ひょっとして、とハルカは思った。
こうした水門は、実は川沿いのあちこちにあるのではないだろうか。
だとすると面倒だな、と思いながら、ハルカはまた自転車にまたがった。
多摩川探索(2)
結論から言うと。他の水門はなかった。下は東京湾まで、上はニコタマ(二子玉川)まで足を伸ばしたが、ないものはない。
汗だくになり、二時間かけてハルカが見つけたものは、この暑いのに川沿いでバーベキューをするバカな家族がどれだけ多いかという事実だけだった。(ハルカは昼も食べていなかったのに)
ニコタマから先は世田谷区だ。大田区からの距離からも、絵にある川幅からも、伸吉がそれ以上の上流に遡ったとは思えない。
60年前だ。おそらく以前にはあったものが、「六郷水門」ひとつを残してなくなったのではないか。いやそうに違いない。ヘロヘロになって上流から引き返してきたハルカは、そう結論付けた。
太陽はまさに中天にあってギラギラと輝いている。冷たいクーラーの風が、麦茶が恋しい。ようやく自宅そばの多摩川大橋まで引き返し、堤から降りようとして一瞬後ろを振り向いた。
気付いた。
あの構図だ。
カンバス3。
川幅、ゆるやかに大田区側に蛇行した川の角度。橋を中心にしたその眺めは、「メギ曜日の風景」のそれと、まったく同じだった。
川岸がコンクリで護岸され、雑木林がサッカー場になっているだけだ。
なにより、そこに門でなく、大きな橋と車の流れが、国道一号線があるだけだ。
橋のたもとの青銅のプレートには「TAMAGAWA-OHASHI 昭和24年」とある。
謎が解けたと思った。
「圓團圖門」は、伸吉によって描かれた6年後に、多摩川大橋になっていたのだ。
さすがにここまでの変化があろうとは思わなかった。
体から力が抜け、思わず笑いが出た。だが待てよ、とふと思った。
気付かなかった理由がもうひとつあった。
ここに水門があったとすれば、それらしい形跡がまるでないのだ。
第一、橋をかける場所などいくらでもあるだろうに、わざわざ水門をとり壊し、水路を埋めてまで、同じ場所を選ぶなどということがありえるだろうか。
しかし、周囲の景観からして、まさにここが「メギ曜日の風景」に描かれた場所であることは間違いなかった。
となると、あのパノラマ図は、やはり伸吉がいくつかの場所にあったモチーフを繋ぎ合わせ、思わせぶりに作った架空の風景だったのかもしれない。
(だが)
このときハルカは、ある思い付きというか、直感を抱いたのだが、まだ確信に至らなかった。あまりに突拍子のない考えだったこともあるが、何より早いところクーラーの効いた自宅に転がり込み、冷えた麦茶が飲みたかったのだ。
「後藤伸吉文書」(2)
「後藤伸吉文書」に対する興味(と、疑念)をますます膨らませるようになったハルカは、次に難題であるノート類の解読にあたった。
整理されていないボロボロの資料を、苦労して読み進めながら、まず最初に分かってきたのは、伸吉の人となりだった。
ノート1、「日記」によれば、伸吉は、昭和4年の生まれらしい。
例の「メギ曜日の風景」が描かれた昭和18年当時には、14歳だった計算になる。文書内には同年に16歳という記述があって、ハルカを戸惑わせたが、これはいわゆる数え年なのだろう。
日記の日付は、昭和20年の4月13日でぷっつり途絶えている。その唐突な幕切れは、おそらく空襲による死なのだろう。調べてみると、4月15日に大田区の大空襲があった。文書のあちこちが焼け焦げている理由がわかったような気がした。
42ページ分、日数にして230日程度ということもあって、伸吉がいつ「メギ曜日」を発見したのか、この日記からはわからない。
日曜日の部分には当初から、「変化」、「メギ有リ」などと記されている。それ以外は日常を淡々と記録した内容で、特に興味を惹くものはない。あるいは意図的に避けたのかもしれない。
「メギ曜日」に関する具体的な記録は、ノート2~5から散発的に見つかった。まず表紙に「研究」とあるノート4に、昭和16年のものらしい食事の記録がある。
5月17日 イワシ ヒジキ 就寝0200×
5月18日 ヒジキ 就寝0220 ×
5月19日 ヒジキ イカ 就寝0220△
5月20日 イカ 就寝0220△△
5月21日 イモ 就寝0230×
5月22日 イモ 就寝0230×
伸吉も、ハルカと同じ道をたどったかと思うと、少し微笑ましかった。
ただこれを読む限り、どうやら彼は「毎週日曜日」「深夜3時28分」と「エビ」という、あの法則の基本となる組み合わせを、なかなか特定できなかったようだ。科学的な分析にこだわったためか、特に「毎週日曜日」という奇妙な要素を、なかなか認めたがらなかったように見えた。この点をまったくいい加減に考えたハルカは、実は幸運だったのだろう。
伸吉が、はじめて意識的な覚醒に成功したのは、なんと2年後のことだ。決して日本が平穏ではなかったろう時期に、たいした粘り強さだといえた。
あるいは、現在受験期にあるはずのハルカが勉強もせず、こんな遊びに熱中しているように、彼にとってそれは、唯一の現実逃避だったのかもしれない。
しかしながら、試行錯誤を重ねた分、徹底した伸吉の分析とその結論は、ハルカのものより数段鋭かった。伸吉による覚醒条件はこれだ。
「毎月曜、午前3時28分40秒 右足ニ一銭銅貨、左足ニ五十銭銀貨 アミ(若シクハ、マダコ)80匁以上摂取」
足に硬貨を貼るというのも驚きだが、何より意外なのは、エビ以外の食材だ。
アミとは何かというと、調べた結果どうやら釣りエサのようだ。エビに似た動物プランクトンの一種らしい。最近では南極で取れるオキアミに、ほとんど取って代わられているらしい。キムチの材料にもするらしいが、ここらへんでは釣具屋にでも行かなければ手に入らない。盲点といえた。
マダコというのもノーマークだったが、いずれもクルマエビよりかなり安価だ。80匁というのは、グラムに直すと200グラム程度らしいから、量あたりの効率も悪くない。ハルカは次の日曜に、さっそくこの新材料で実験を行うことにした。
だが、伸吉の遺した驚嘆すべき研究の成果はこんなものではなかった。
覚醒条件のそばに記されていた、伸吉による「メギ曜日」の定義は次のようなものだ。
「メギ曜日」ハ、日月ノ曜日ノ間ニ存在スル、時空ノ別空間ニテ、オソラク大曜日世界ニオイテ往来ノ最モ容易ナルモノナリ。
特徴、サンムトリ第二曜日ニ似タ、空間全体ニ満チル紫色ノ薄明(電気的?)。
又独特ノ物トシテ動作物軌跡ノ半気体的凝結現象アリ。継続時間、約163分」
163分!
ハルカがおそらく30分もしないうちに睡魔に襲われてしまうことからを考えると、これは驚異的だった。伸吉による覚醒条件を満たせば、これが可能になるのだろうか。
「大曜日世界」「サンムトリ第二曜日」などという言葉の意味は、正直見当もつかなかった。
ページ同士がへばりつき、カビに覆い尽くされたノート5とノート8を、読める範囲でなんとか解読した限りでは、おそらくこれらのノート後半部分に、そうした部分についての説明があったようだ。
だが、ノート6、7、9、10と、そのほとんどはそもそも欠落している。
ハルカはあきらめて、最後に残ったノート11に移った。
唯一手帳サイズであり、日付からするとおそらく、最も古くから伸吉が記録に使っていたであろうものだ。
ノート11の秘密
これが最後の手がかりかと思い、意気込んでノート11を調べたハルカは拍子抜けした。
これはどうやら、伸吉の家計簿、というか「こづかい帳」なのだ。
昭和14年からの6年分、きちょうめんな字で、毎月の支出がきちんと記されている。
だがそれで終わりだった。
昭和16年から魚屋、釣具屋の支払いが増え、あのカンバスや画材の購入も、見るときちんと記されている。当時さすがにユザワヤはなかったのか、「月光荘」とかいう店で購入したようだ。
8号カンバス3枚、油絵具、テレピン油一瓶、雲母粉10匁、掌ニ塗ラヌコト
昭和18年1月21日
あとは学校の課題や、勤労動員のためらしい細かいメモ書き。ハルカが一番望んでいた情報は、とうとうどこにも記されていないようだ。
現在のところ、ハルカにとって最大の疑問は、伸吉がどうやってメギ曜日の中を、多摩川のような遠距離まで移動していたか、ということだ。
あの覚醒条件を満たせば、あるいは163分という活動時間を得ることができるかもしれないが、それだけでは不十分だ。特にハルカの場合は、車の残像が越えられないことには行動半径は広げられない。
60年前は、もちろん現在よりはるかに人口も交通量も少なかったろうから、ハルカが突破を断念した車の残像も、あるいは避けて通ることが可能だったかもしれない。
だが現在のハルカの、水の中を歩くような行動の不自由さからすると、残像がすべて避けられたにせよ、三時間で多摩川まで往復できるかは疑わしかった。なにより、まず体力がもたない。
より自由な行動を可能にするための方法が、まだ何かあるに違いなかった。
しかし、これまでの調査で見つからなかったことを考えると、それはまさに、欠落した後半部分にこそ記されていたに違いない。
あとは、カビだらけのノート5と8を、どこまで調べられるかだが、あそこまでボロボロになってしまっては、その望みも薄そうだった。だいたい、触ると手にカビがつくのが気持ち悪い。
気がつけば土曜の夕暮れ。博物館もそろそろ閉館だ。
ハルカは手詰まりを感じていた。
結局この文書に振り回されて、一週間以上が消えていた。中学最後の夏休みなのに。
いまさらながら、すごい時間のムダをしたような気分になって、野村さんの好意で使わせてもらっていた事務机の上に、ハルカは思わず顔を伏せた。
戦争が激しくなる前のものだからか、紙の質がよく、保存状態も一番マシなノート11を、腹立ち紛れにパラパラめくった。顔に風があたって気持ちいい。
伸吉の几帳面な文字が、ページをまたがり踊って見えた。
釣正 16銭 釣正 32銭 雲母粉10匁 65銭 雲母 30銭 雲母粉10匁 65銭
釣正というのは、たぶんアミを買った店なのだろうなあ…などとぼんやり考えるうちにふと気付いた。
雲母粉。
こんなに買ってどうするのだろう。
油絵に必要な画材なのか知らないが、ページをずっと眺めていると、絵の具を買った回数とほぼ同じだ。起き上がって、さっきの、1月21日のページを確認した。
掌ニ塗ラヌコト。
頭の中で突然、何か糸が繋がったような気がした。
そろそろ閉館だと告げに来た野村さんを突き飛ばすようにして、ハルカはその糸の先を確かめるため、蒲田駅まで自転車を飛ばした。謝るのは明日でいい。早くしないと閉まってしまう。
大田区民にはおなじみのユザワヤだ。