第1回

そのはじまり


今思うと、エビが悪かったのかもしれない。

ハルカの叔父は神奈川の下田に住んでおり、そのとき伊豆半島名産の伊勢エビを送ってくれたのだった。

スチロールの箱に、オガクズと共に詰められた活きエビが八匹。

父も母も、娘のハルカも、最初は大喜びした。

母が箱を開いて、オガクズまみれの宇宙生物みたいなのが、ゾロゾロとはい出てきた時には、ちょっと背筋が寒くなったものの、やはり新鮮なエビのうまさは最高だった。

ぷりぷりとした肉を味わい、大きな頭にたっぷりと詰まったミソをすすった。

父とっておきの、なんとか言う白ワインも開けた。大変にうまかった。

しかし、刺身で二匹、ボイルで二匹、オーブン焼きで二匹と、豪華フルコースを堪能するうちに、家族はしだいに言葉少なになっていった。

流し台の上でキューとか鳴いているやつを、もう一度オガクズの中に戻すのは不可能だ。今この場で食べつくすしかない。それは判っているのだが、ハルカはだんだん気分が悪くなってきた。

最後はワインで流し込むようにして、なんとか八匹を腹の中に片付けた頃には、家族全員、もうエビなんて二度と見たくもないという顔になっていた。

こういうのは、いつか腹いっぱい食べたいと思っているうちが花だと思った。

胸が苦しかった。

さっきまであれほど有難がっていたミソのえぐみで、喉の奥がムカムカした。

もとからアルコールに弱いのに、調子に乗ってワインも飲みすぎた。
(実はハルカは中学生だ)

ハルカはその夜、自室のベッドに転がり込むようにして、風呂にも入らずに寝込んでしまったのだった。

忘れもしない。4月17日。日曜日のことだ。

これで起きたら月曜日ではなかったと言ったら、信じてもらえるだろうか。

この長い話というのは、煎じ詰めると、つまりはそういうことだ。


菫色の水飴


長い夢を見ていた。

それは断片的な、まとまりのないイメージの連続で、ときおりぼんやりと像を結ぶことはあったが、ほとんどは、わけのわからないものだった。

ただ一つだけ、唐突な声というか、確信のようなものが、何度も意識を巡った。

「つながった!」

「つながった!」

「おまえは、つながった!」

具体的に何がどう「つながった!」のか、それはさっぱり見当もつかなかったが、夢の中でハルカは、繰り返し繰り返し、その声に強く揺さぶられた。

「つながった!」

「つながった!」

「おまえは、つながった!」

頭がずっしりと重く、寝汗が肌を伝う感触が、夢の中にまですべりこんで来るのが不快だった。

目が覚めた。

吐き気がした。

夜中過ぎくらいだろうかと、ぼんやり考えた。寝ぼけており、酔っ払っていた。目も耳も、なにか調子が変だった。

あたりは、明かりもつけないのに妙にぼんやりと薄明るく、紫がかって見えた。

より正確には、菫色というべきだろう。

そのせいなのか、部屋のデジタル時計の時間が、ぼやけてよく読めなかった。

頭が重く、ひどく眠く、吐き気も止まらない。さらにトイレも近くなってきた。

起きようか我慢しようか、しばらく悩んだあげく、ハルカはベッドからはい出し、よろめきながら廊下の先の洗面所に向かった。

空気が重く、肌が妙にヒリヒリした。


ようやく洗面所までたどりつき、用を済ませて帰ろうとして、ハルカは、はじめてそれに気付いた。

紫色の薄明かりに照らされた廊下に、それが見えた。

水飴の塊だ。

ハルカの通ってきた廊下全体に、まるで巨大な歯磨き粉のチューブからひねり出したように、それは漂っていた。

高さは、ちょうどハルカの背丈(162センチ)よりちょっと上まで。幅は1メートルくらいだろうか。外側は空気に溶け込むように透明で、内側にいくにつれて乳白色となり、中心ほとんど不透明で白っぽい茶色に見えた。いや、周囲が菫色のため、本当は何色なのかよくわからない。 

もちろん、こんなものが廊下にあるはずはなかった。

不思議とあまり恐怖は感じなかった。それがあまりに突拍子もなかったためだろう。

(これは夢だろうか?)

(これはなんだろうか?)

ぼんやりと考えながら、ハルカは指先で、その手近なところに触れていた。思えば、寝ぼけたハルカは大胆だった。

不思議な感触だった。

触れたところから全体に、ゆったりと波紋が生じていくのは水のようで、強く力を入れた部分が、空気にじんわり拡散していくのは煙のようだった。

しかも、しばらく経てば、それは再びもとの場所に固まるのだ。

まるで池の底の泥をかきまわしているようだとハルカは思った。

その指先が、だんだん痛くなるのを感じ、ハルカは指を引っ込めた。

見ると、まるで擦りむいたかのように、赤く腫れている。思えばさっきのヒリヒリもこれだったに違いない。多分、寝ぼけたまま、ろくに前を見もせずに、この中を突っ切って来てしまったのだ。

菫色に染まった廊下で、指先を口に入れながら、ハルカはぼんやりと立っていた。

水飴は、まだそこにあった。

(眠い。とにかく寝よう。これは多分夢だ。)

結局そう結論付けて、ハルカは自分の部屋に向かった。

とにかく眠かったし、夢ならはやく覚めて欲しかったのだ。

ハルカが再び目覚めたのは、4月18日。月曜日の朝8時半過ぎである


ハルカと蒲田について


いつもより寝坊だった。

ハルカの父はすでに出勤しており、食卓では母が不機嫌そうにしていた。

ハルカは昨夜の奇妙なできごとについて、ちょっと話をしてみようかと思ったが、母の顔を見てやめた。

急がないと遅刻だ。

早く朝食を済ませるよう急かされた。何も変わらない、いつもの朝の風景だ。

してみるとあの妙な出来事は、やはり自分にだけ起こった夢に違いない。

しかし、ヨーグルトにコーンフレークと干しブドウをふりかけつつ、ハルカはふと、あることに気付いた。

立ったままの母が、しきりと二の腕の横あたりをもんでいる。

腕、どうしたの、とハルカは聞いた。

「起きたらなんだか痛いのよ、腫れちゃって。」

エビのせいかしらねと、母は言った。

その場所。

それはちょうど、あの菫色の世界で、ハルカが触れていた水飴の、同じくらいの高さにあった。

ところで、ここらへんでハルカについて紹介をしておこう。

ハルカは中学三年の15歳だ。

身長成績は、平均よりちょっと上。

自分では、ちょっと美人かもと思っているが、どんなもんだろう。

父と母と三人家族。東京都の南のはずれ、大田区の蒲田に住んでいる。より正しくは、蒲田から東急目黒線で一駅、矢口渡《やぐちのわたし》の近く、東矢口三丁目と言うところだ。賃貸マンション四階の3LDK。

両親の仕事の都合で、三年前、この蒲田のはずれに越してきたのだった。

ついでだから、この話の主な舞台となる、蒲田という街についても紹介しておこう。

一番有名なのはたぶんあの「蒲田行進曲」だが、あれはかなり大昔の話だ。

映画の撮影所があったころのテーマソングらしいが、今ではそうした面影はもう跡形もない。蒲田駅の発車ベルで例のメロディーが流れるくらいだろう。

もともとあまり品のいい街ではない。飲み屋や風俗店が多い。大田区名物の町工場を中心に少しは栄えていたらしいが、そのにぎやかだった街並みも、不況と高齢化で、今はさびれるばかりとなっていた。

だがその一方で、潰れた飲み屋や商店の跡地には、安くて小さなマンンションが、ものすごい勢いで増殖している。都心に通勤するサラリーマン向けだ。

小さな没落と繁栄が、狭い一帯に入り混じって、何とも言えないゴッタ煮の風景を作り出していた。

環状八号線、国道一号線、京浜急行線、東急目黒線、東急池上線など、首都圏の交通網が、さらにそのゴッタ煮をズタズタに貫通している。ひっきりなしに行き来する物流のトラックと、通勤客を満載した電車が、街の印象をますますゴチャゴチャとさせていた。

近くには多摩川が流れ、これが神奈川県との境。多摩川に沿って5キロも歩けば羽田空港、そして東京湾があった。

まあ、別段どうということのない街だ。

だがまさか自分がこの街の、東京都大田区近辺の救世主になろうとは、もちろんこの時ハルカは想像だにしていなかった。


二回目と三回目


この「菫色の水飴の世界」は、ハルカの通う東矢口第二中学三年C組で、一瞬だけ盛り上がって、その一瞬後にはすっかり忘れられた。

何しろ学校でこの手の話には事欠かないし、人が死ぬとか呪われるとか、盛り上がる要素にいまひとつ欠ける内容だったからには仕方ない。

二回目と三回目がなかったら、ハルカもそのまますっかり忘れるところだった。

つまり、一回では終わらなかったのだ。

二回目はそれから約一ヵ月後。5月8日のことだ。

前回同様、やはり日曜日の深夜だった。

いつものように夕食後、月曜日の小テストのための勉強をして、風呂に入って、パジャマに着替えて11時には寝た。

夜中にふと目覚めかけたとき、再び「あの」色調を、あの特徴的な菫色を感じたのだ。

それは前回と違って、ごくボンヤリとした感覚でしかなかった。日暮れ時に、どこかから漂ってくるカレーの香りのように、菫色の雰囲気とでもいったものに包まれたまま、はっきり目をあけることもできず、ハルカの意識は押し寄せる眠気に飲み込まれてしまった。

やはり起きたら何事もなく月曜日。

だが、ある事実がハルカの興味を強くひかずにおかなかった。

エビだ。

やはり夕食はエビだった。今度はグラタンの具。すっかり忘れかけていたあの記憶が呼び覚まされた。

この奇妙な符合はなんだろう?

こうなると確かめないと気が済まないのはハルカの性分だった。

その二週間後の5月22日、ハルカはこっそりエビが献立に登るよう家族を誘導した。

何かというと天ぷらだ。必ずエビが入るし、実験が失敗してもこれはこれでうれしい。ハルカはイカやレンコン、サツマイモなどに混じって4匹のエビを食べた。

ハルカはその夜、はじめて意識的に「それ」に備えた。

小テスト用の勉強をして、風呂に入って、パジャマに着替えて11時にはベッドに入った。うっかり寝入ってしまわぬよう、ぼんやり天井を眺めながら待った。

12時。1時。2時。

しかし何もおこらない。

期待していたのも最初のうちで、だんだん飽きてきた。当たり前だがすごく眠い。

明日の朝が気になってきた。こんなバカをやっていれば一時間目の英語の小テストに響く。80点以下は、単語書き取り100回に再テスト。

あの薄汚いネズミ色の再生紙に、びっしりと英単語を書き連ねるのは実に不毛だ。

んなことを考えつつ、うつらうつらしてきたところで、三回目は起こった。

今度はこまめに時計をチェックしていたから、だいたいの時間もわかった。

おそらく午前3時20分過ぎ。

はじめて体験するその瞬間を、どのように表現したらいいだろう。

航空機事故や地震の際、テレビに速報が流れるその直前。

画面にはまだ何も変化はないのに、一瞬の静寂や、アナウンサーのかすかな様子の変化などから、なんとなく予兆というか、不吉な気配のようなものを感じないだろうか。

あの何ともいえない嫌な感じを、5倍にも強烈にしたような独特の感覚のあと、視界が突然菫色に変化したのだ。

スイッチをひねるような唐突さだった。それまでの暗闇に慣れた目からすると、まるで部屋中が菫色のライトに照らし出されたように見えた。

周囲の気温が、さっと二度ほど下がったように思えた。

いっぺんで目が覚めた。

ハルカは布団の中で、暗い菫色に染まった天井を凝視しつつ、しばらく硬直していた。

間違いない。夢ではなかったのだ。これが夢でなければだが。

待望の瞬間のはずなのに、不思議とあまり喜びは沸いてこなかった。

イコロの目がうまく揃ったときのような、ドキドキとした高揚感はあったものの、以前のような酔っ払った勢いがないためだろうか、なにか偶然「いてはならない」場所に紛れ込んでしまったかのような、漠然とした不安がハルカを包んでいた。

首から上だけを動かし、盗み見るようにして、ゆっくりと周囲を見渡してみる。

机や椅子、安い合板のクローゼット、いつものハルカの部屋が、全体に菫色となってしんと静まり返っていた。

時計のデジタル表示が、奇妙なことになっているのにもあらためて気づいた。

以前はただ、ぼやけたようにしか見えなかったのだが、注意深く観察すると、全体が半点灯のような状態で、時も分も、8の右の棒が取れたような形、つまり「EE:EE」のような表示のまま固まっていた。

ベッドを抜け出して、さらにじっくり時計を見てみようと思ったハルカは、自分の手が布団を押し上げられないことに気づいた。

手だけではない、全身が異様に重く感じられ、むきになって手足を動かそうとするたび、重さはぐんぐんと増してくるように思えた。

さらに強烈な眠気が、急激に全身に回ってくるのにも気づいた。まるで動こうとするハルカを抑え込もうとするかのようだ。

(眠りたくない!眠ってはいけない!)

(もっと「ここ」にいたい!)

(もっと「ここ」が見たい!)

叫ぶように、自分に言い聞かせるように、口をぱくぱくさせながら、ハルカは意識を失った。


決意


やはり起きたら何事もなく月曜日。

無理に体を動かそうとしたせいか、全身が妙にだるく、節々が痛い。

だが、そんなことはどうでもいい。

日曜の夜。

エビ。

そして菫色。

こには確かに、一種の法則性があった。

いつものように遅刻寸前で母からにらまれつつ、学校に向かい自転車を飛ばしながら、ハルカはアルキメデスだかピタゴラスだか、風呂場から裸で外に飛び出していった古代の学者のように興奮していた。

エウレカ!私は発見したのだ!

「それ、霊だよ!」

いつもの三年C組で、菫色の世界の話は、再びちょっとだけ盛り上がった。

だがその反応は、再びハルカを落胆させるに十分だった。

「霊」「金縛り」「異次元」「呪い」「魔法」

盛り上がっていた気分に、一気に冷水をかけられた気がした。

そうじゃない。

信じてくれないならまだいい、だが、これはないだろう、と思った。

あの異様で、独特な菫色の世界を、なんというか、そうしたありがちな言葉で括られてしまうのが、ハルカにはどうにも我慢ならなかったのだ。

だが、それがなぜかと言われれば、うまく説明が出来なかった。

不満足げなハルカを置いてきぼりに、やがていつものごとくに月曜の小テストが、そして授業がはじまった。

いつもと変わりない、月曜日の日常。

五月の日差しが心地よかった。

しかし、授業を上の空で聞き流すうちに、そしてご想像の通りというべきか、散々な結果に終わった小テストのため、ネズミ色の再生紙を英単語で埋め尽くすうちに。

ハルカの胸の中に、今朝の興奮が、先刻の不満がよみがえり、そして最後に不思議な使命感がわき上がって来た。

実のところハルカの日常は、近頃あまり面白くなかった。

いよいよ迫った受験に備え、家と学校と塾とを往復するだけの毎日だ。

別に大した目標があるわけではない。そこそこに勉強して、そこそこの公立高校の推薦をもらうだけの予定だ。両親は、もうちょっとレベルの高い私立校を目指したら、と言っていたが、それに特別な魅力も感じられないのだった。

それまで漠然と信じていた、自分の可能性や夢が、未来が、急にありがちな小さな現実の中に閉ざされていくような気がした。

ハルカには、さっきの自分がなぜ不満だったかわかった。

「未来」、「夢」、「可能性」、「霊」、「呪い」、「魔法」、どれも同じだ。

ちょっとロマンチックで、わかりやすく、そこそこに安心できる。

だが、どれも似通っていて、底が見えている。

なにもかもが、そうなのだ。

想像力と感受性に満ち溢れた15歳のハルカとしては、それがどうにも我慢のならないことだった。

偶然に垣間見た、あの菫色と水飴。

あの奇妙な世界は、少なくともそういういうこと「だけ」はなかった。

ロマンのかけらもないし、何にも似ていない。第一わけがわからない。あまりにデタラメすぎた。

日曜日と月曜日の間に、誰も知らない未知の世界があるのかもしれない。

中学生のハルカだって、ありえねえ、と速攻でツッコミを入れたくなる。

(しかし)

とハルカは思った。

それがいい。

やってみよう。

あの菫色の世界を、自分の目で確かめてやろう。

その正体が何か、見きわめてやろう。

それが幻覚でも、錯覚でも、なんでもいい。

それは絶対に、ハルカだけの、世界のどこにもない探検になるはずだ。

そこそこな可能性や、ありがちな夢より、こんな再生紙の裏に英単語を書く毎日より、よほど面白そうだ。

どうやらエビがあれば、あとは部屋で寝てるだけで済みそう、という気軽さもいい。

ささやかな決意だった。

それはハルカにとって、久しぶりに胸がドキドキするような秘密の楽しみに思えたのだ。

受験が本格化するまでの。

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最終更新:2011年04月18日 22:26