厳しさの結果論

「厳しい」という言葉があります。
それらはしばし「カッコいい人」を指して使われる言の葉です。
「人に優しく自分に厳しく」を理想として語る人がいます。
まるで誰もがそうあるべきとでも言いたげに、「自分を棚に上げて」、人にそんな「甘ったれた」理想を押しつける人が確かにいます。
人はみんな、自分には厳しくあるべきだということが、普遍の真理として、そこらかしこで語られています。

ね、自分に厳しくするってコトがどういうことか理解ってて言ってるんでしょうか。
人に厳しさが必要とか、自分に厳しくあるべきとか。
『あなたはそんなコトがしたくて生きているのですか?』


「甘やかしてはいけない」という論理を、絶対普遍の真実として振りかざす人がいます。
人はしばし時として、「甘ったれ」という言葉を罵声として吐き出し浴びせます。

ではまたここで問いましょう。
甘やかすことの、どこがいけないのですか。
そういう話です。



甘やかされた人は、何もできないそうな。
いいや、違うね。
甘やかされた人は、人に甘くすることができるんですよ。
それは、っぽく言えば「優しさの連鎖」と言えるのではないでしょうか。
できないことをしてもらっていいじゃない。
できることをしてあげよーぜ。
持ちつ持たれつ貸し借り全開の人間関係が理想じゃん。
親しい間柄では、特に。



さて。

厳しい人ってなんか嫌なんですね。
それは自身に対する都合のよさとかもそうだけど、それ以上の感情論として。
自分に厳しい人は見ててしんどいし、他人に厳しくを正しいとか思ってる人なんかは見てるだけでもう縛りつけて各種拷問を厳しく与えてあげたくなります。
人に厳しくしてる人は、「あなたを思って」とかほざきだすかもしれませんけど、そゆ人って、その先の思考が止まってるんじゃないでしょうかと思うわけです。
じっくり考えたら、「もっと笑顔」なやり方が絶対できただろうに、
「あなたの為なんだから、厳しくするのも仕方がない」って言葉に騙されてよりかかって、目の前の人に自分勝手な言葉を押しつける。
もしくは自分じゃない他の誰かの言葉を押しつける。
それって、キッパリ手抜きだって言えますよね。
厳しいってのは、本来「ろくでもない状況」をさす言葉だということ思い出してください。

「自分に厳しく人に優しい」ってのはしばし理想として語られます。
でも、それってどうなんでしょう。
自身を厳しく律することで与えられた優しさって、それホントに素晴らしいもんなんですかね。
自分はそうは思えないわけなんですよ。
まず例えるまでもなく、それってやたら重いやないすか。
よほどの無神経さんでない限り、厳しさの上で成立した優しさって、
与えられるとなんかしんどいと思うわけですよ。自分は。
なんつぅか、それがヒーローじみているほど、それに対する『お礼』って難いわけで。
自分に厳しいヒーローな人なら『お礼なんていらない』言うやもせんですが、それならそれで。さあ、この感謝の気持ちはどうすればいい?!
きっと、同じように行動しないと、自分に厳しく人に優しくしないと、その気持ちって発散できんと思うわけです。

想像してみて下さい。世界中が、「自分に厳しく人に優しい人」ばかりの世界を。
オレは嫌だよ。そんな恩着せがましいドMワールド。考えただけでも息苦しいっさ。

確かに、厳しさの果てに何かを成し遂げた人は素晴らしいです。
成し遂げたコトは尊いです。
それらを否定するなんてそんな気無いです。
厳しい環境で、それでも何かを成し遂げるなんて、サイコーにカッコいいです。
でも、憧れません。
だってそれは、絶対見ててどこか物悲しい。「厳しい」ってのは下策中の愚考なんです。
手段としては当然アリですが、それが最優先かと言われりゃ、それは断じてノー。
苦しみぬいた果ての苦渋の選択として「厳しくあること」を選ぶのが理想ってのは、それはちょっと無い話なんじゃあないかなー。


んで。
ホントにかっこいいのは、厳しい事を厳しいと思わないことなんじゃないかと思います。
厳しいとかそういう陳腐な言葉で人を語っちゃうから、凄い人が手の届かない人、みたいな錯覚を持っちゃうんですよ。
だからきっとね、厳しいとかそーゆーの、それは言葉にするのも駄目。
その人が凄いんだとしたら、それは「厳しいことを成し遂げた」からじゃなくて、もっと具体的な何かを具体的な手段と努力をもって成し遂げたからなんです。
こんな言うまでもないことを、何度自分はこー言葉にしてるか知りませんが、とにかくいつもいつもいつもいつも強く思うわけですよ。
なんか、別のすげぇ便利な言葉に誤魔化されてる人多すぎって。
厳しいなんて唯のつまんねぇ言葉なんですよ。
それはただの状況を形容する言葉なだけで、実際の中身なんてどこにも無いんだぜ。
知ったような口でさ、「厳しいことを達成したんだなー」とか言ってる暇あったら、もっとその人がそれを成し遂げるまでにどんな苦難とかがあったのかを想像しろと、そしてその妄想を確信スンナと。
達成者を達成者にした要因は、環境だったり言葉だったり色々あると思います。
人の人生なわけだし、そりゃ陳腐に簡潔に言葉にできるわけなんかないでしょーよー。
それでもそれをどうやれば達成できるか考える、『思いやる』
それこそが想像力のある人間であって、優しい人間なのではないでかなあと。
殺人を犯した人が想像力ないから犯罪犯したわけありません。
もっと心底くだらない理由だったり、譲れないもんだったり、ぜってー些細でアレ理由はあるんです。
想像力が無いってのは、理解のできない事件に薄っぺらな言葉で
自分とか人とかを誤魔化すことをいうんです。
それは罪でもなんでもないし、人間だれだって行う正常な思考です。
でもさ、それは優しくないよな。
ホラ、優しいの対義語は厳しいじゃないからこそ、
今もう一度、厳しいってヤツを否定したいわけです。
そんな誤魔化しの言葉、幸せに願い通りに生きていくうえで、必要ない。

だから、こうも思います。
「まず自分に優しくありたい」って。
それは自分を大切にするとかそういう意味よりもまず、自分のやったこと、やらかしたことを認めるってコト。
じぶんの頑張りを認めてあげて、自分の失敗を慰めてあげて。
人にするのと同じように自分にも優しくして、自分を甘やかすように、人を甘やかして。
そうやって自然体で、人に甘く接することのできる人になりたいわけです。

個人的には「自分にも人にも優しい」ってのが理想だと思います。
ま、誰彼構わず優しくありたいなんざ考えやしませんし、誰だった相手によって、嫌いな人苦手な人見限った人にはソレ相応に冷たくします。
それは、大切な人たちとかにはとことん優しくしてーってコトであったり、いやもうぶっちゃけ自分の器がやたら小さいってコトが大きな理由だとは思います。
それでも、だからこそ「人に優しい」という姿を、強く理想として描くわけで。
ちっちゃい器だからこそ、いらん厳しさとかは極力壁の外に向けて、
自分の中にいるひとたちとかには徹底して優しくしたい。
ちっちゃい器ぐらいは優しさで満たしたいって理想抱くわけです。


そこんとこ踏まえると、「厳しい」ってのはやっぱり独りよがりだと思うし、それは絶対ろくでもないやり方なんだから正しいとは思えないし、決して憧れるもんじゃありません。相入れたいとも思やしやせん。


はっきり言って、人に、たとえば子供に厳しくする理由なんかどこにも無いと思っています。
そら社会には人に厳しい人なんか大量にいますし、社会自体が理不尽だし、人は余裕が無い時なんかそら手段選ぶ余裕ないわけでそりゃ厳しく厳しくが無くなる事は決して無いでしょう。
世界は優しい人ばかりのユートピアでは決してありません。

だからこそ、さよ。
厳しさに負けないように厳しさを与えるんじゃなくて、厳しさに負けない優しさをがつがつあげる方が、絶対『すばらしい』じゃないですか。
厳しさに打ちのめされた人に優しくする方がいいや。

人に優しくする具体的な方法を知っているのは、人に具体的に優しくされた人だけだと思っています。
せめて余裕あるときは、ちからいっぱい想像力働かさせてやさしくすること、甘やかすこと、それは絶対に素晴らしいひと。

望むことをなんでもしてあげる甘やかしってのもあるかもしれません。
何もできない人間になってしまうと危惧する人もいるかもしれません。
でも、言いたいのは、そんな手抜きじみた甘やかしではないのですよ。
教えるのがめんどくさいから甘やかして全部やるとかそーいうのやないんすよ。
大切なのは一緒の時間を過ごす中で、相手を甘やかすってことなんじゃないかな。
そこに厳しさがあってもそれじゃ決して笑顔には繋がらないし。
人はしょっちゅうブチ切れて、色々とやらかしちゃうからこそ。
感謝の気持ちで人には優しく甘くありたいと思うわけです。

てゆうか。
人に厳しくして見返りに感謝されたらそれが理想って。
誰かのために厳しくするのが理想って。
それ何様よホント!!






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最終更新:2010年02月11日 13:16
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