言葉狩りをしようⅡ

大きめの本屋に行けば、圧倒的に気持ち悪い本が
春夏秋冬四季折々を問わず並んでいるコーナーがあります。
それはホント、「もしかしてこの国の大半は馬鹿なんじゃないか」と
うっかり自惚れ混じりな錯覚を覚えてしまうほどに
とてもとてもとてもとても頭の悪いコーナーなわけです。

テーマは出来る人「のやり方」「はこうしてる」「とあなたの違い」

それは、讃美歌のように見せかけて、よくいる人を否定する本です。
成功者に学ぶ類の本も、失敗をあげつらうような本も。
まさしくそんな本に手を出すことが即ちアホの存在証明みたいなテーマの数々。
なのにまるで本を読むという行為がさも崇高な行いだと錯覚させる言葉の数々。
あるのは結局結論が曖昧な精神論や感情論に逃げているのが見え見えのテーマばかり。
無個性染みた「できる人」を神格化する、人格のゴールが固定する言葉。
考えず、ただ従えばいいですよ。そうすればホラあなたも立派なエロい人!
おーばーか。

答えは決して他人の言葉ではありえない。
真理じみた言葉ほど、人の耳と目を塞ぐってこと。
そうやって「誰かにとって都合のいい存在」を目指す為の讃美歌が。
誰にも迷惑をかけられない、その代わり誰にも迷惑をかけない世界があります。
果たしてあなたはそんな世界でのびのびと生きていく自信がありますか。

頭使った気になれる本。
答えを知ったかぶれる本。
あなたの人格を否定する本。

古くは「○○脳」「簡単にできる○○」、「○○型」「○○力」。
そういう言葉が、最近は使えなくなってきています。
もしも冗談で使ったとしても、それ以上に陳腐で痛い言葉になっているから
自分が理解できないものを無理やりカテゴライズしてるような滑稽さが出てしまう。
いざって時に、あまりに贅肉じみた意味を持ちすぎている。

そもそもですよ。細分化こそが探求行為の原点なんじゃあないですか。
おおまかな傾向はあくまで傾向だというのに、
この国はもしかして大学教授とか有識者含めてバカばっかりですか、
そんな、うっかり自惚れ混じりな錯覚を覚えてしまうほどに
色んな言葉が便利に使われすぎているメディアだったり言葉だったりが多すぎる。
そのメディアを形造っている中に、私もいるんですよあなたもいるんですよ。

マスゴミって言葉に満足してんじゃねーよ。
忘れんなよ、そのジャッジするだけの言葉で満足してたら
それはあんただってマスゴミと同類じゃんよって言えるじゃねーか。
マスコミの問題を語る言葉はマスゴミじゃねーだろ。
それは包括してるだけだろ、包装紙じゃプレゼントの価値は語れないだろ。
そんな、中身のないモンに頼ってんじゃねーよ。真理の空蝉に踊らされてんじゃねーよ。

今回はそんな話です。この前の話とリンクした続編みたいな位置付けで。



音楽にうたわれた言葉が突然しっくりくることがあります。
それまで「薄っぺら」だと思っていた言葉に、
突然鮮やかに彩られた景色がのっかることがあります。
言葉って、「誰が云うのか」ってテーゼと同じぐらい大事なポジションに
「誰が訊くのか」っていう忘れられがちだけど超重いテーゼがあると思うわけです。

たとえば、テレビに出る有識者は。
恣意的て悪意あるチョイスの情報に対して多分ちっぽけな想像力を働かせて、知ったような事を、おほざきけつかります。
そしてその言葉を、悪意ある視聴者が適当に振りかざしたりします。
じゃあ、クソなのは誰と誰だ。
これが極端な例でも、悪い連鎖としてこういうことはよくあるものです。
それは「云った人」の人格云々よりも、「訊いた人」にもこそ問題あるということ。
もう言ってる人がクズなのはどーしよおも無いけど
それを持て囃す人がいたら、それはホントやめてほしいぜよと。

たとえ振りかざした言葉がもともとは別の人によって初めに発せられたものだとしても、やっぱり振りかざした人に発言の人格が問われるのって、そんなん当たり前ですよね。
それを理解ってない人、いる気がするんですよ。
ろくにその言葉の意味を咀嚼できてないくせに、吐きまくっている人、多い気がするんですよ。
正しいの名のもとに。間違っていないの名のもとに。
それはその言葉が間違ってないだけで、その言葉が正しいだけで
使っている人はなんも肯定されない言葉なのに。

自分の意思で暴言や知った口を利くならともかく、まるで免罪符みたいな時代錯誤が如く「○○って意見があるらしいよ」だけで思考を止めて満足して知ったような口で発言に責任持たないクソ。
悦に浸っている人がいるんだよ。そこらかしこに。

炎上とか見ても、燃やしている側に感じる不快感はそこにあります。
まるで芸能リポーターぐらいのウジ虫っぷりで
「正しい」「間違ってる」の名のもとに、言葉を執行する。
なるほど、それは正しいかもしれない。
なるほど確かに相手が間違っていたかもしれない。
だけど、そう決めた手掛かりはなんだ。
きっかけはそこに書かれていた言葉だろ。
その行為も言葉をきっかけに表に出るんだろう?

あんたは、自分の読解力に100パーセントの自信を持っている人ですか?
拡大解釈していないって、本当に言い切れますか?ませんよね。
誇張して文章を書かない人間がいるんですか?ませんよね。
そもそも決め付けをしないことは、理解という行為を深めるの上で大事なことですよね。
ああ、ちくしょうここは耳が痛いな。

結局さ、理解力って読解力だと思うんですよ。
社会人になって思うことは、大学ってなんだったんだろうなって事です。
とくに文系。教育、経済、法学、エトセトラ、そして文学。
どれも社会を生きる上で最優先で学ばなければいけないものだと思うわけですよ。
たとえば、人に教えることのできない人間がどれほどいることか!
経済の仕組みを考えながら政党のマニフェストを見ている人がどれほどいることか!
法も語れずに、どうしてこの国で生きることがこうも容易にできているのか!
文章を書くセンスのない人間が、この言語を扱う人の中にどれほどいるものか!
それらは大学出の数とそれらがかみ合わない気がするのはどういうことか。
中学高校でもっと教育、経済、法は学ばれなきゃいけないんじゃないかとはよく言われますね。
少なくともひとつは専門的に習得すべき大学で、現場そこまで目的意識が高められてるのかな。

もしかしなくてもこれだけは言える。
この国の教育カリキュラムの何がダメって、建前と目的が合致していないことだと。
包丁の使い方が達人級でも、味付け方知らなきゃ料理になんねえみたいに。
知識を道具としてどう使うか。考えるってのはそういうもんじゃねえかと。


名刀のように磨き抜かれた言葉があります。
それはたいそう便利な言葉です。なんだってDisれる魔法の言葉があります。
その鋭利な言葉は、斬る対象そのものが弱所であるかのようにざっくり根本を否定する、無敵の刃のような言葉です。
なるほど、この言論の自由な時代、誰でもその刃を振るうことができるでしょう。
どんなヘタレでも、名刀の切れ味のおかげで、真理を突いた感覚に至れるかもしれません。
別にすっげー言葉を鍛え上げる刀匠になれとは言わないですけど、よく切れるばっか振りかざして粋がったところでなぁ、とは言います。
なんかさ、好きになれんのだよね。
誰でも吐ける言葉を、誰でも吐いてる言葉を、誰もが吐いている角度で振り回す行為って。
「刀は斬る、刀匠は打つ。侍は…なんだろな」。そういうことでもあります。
刀持てば侍気取れるかもしれません。
侍気取れば、目の前を斬る勇気が沸くかもしれません。
斬ったものを見据える度胸もない癖にな。


んー、曖昧なたとえ話はも・いいすね。
別に引用するなってコトが言いたいんじゃないんですよ。
しっくりくるなら、使えばいいんです。
でも、それ単体じゃあ駄目だとも思うわけで。
それじゃあ無個性を気取っていることになってしまうと思うわけなんです。
ほら、アカギやカイジにあるかっこいい言葉が、
結局あんたの人生に何かきっかけとなった?なってねぇだろ?
その癖、やっぱり「わー名台詞だー」ってのたまう人へ。
あんたはホントに能無しだな。マジで何も、学んでいないのな。
アホがアホのアホにアホでアホ。


結局、根本にあるのは想像力のなさなんでしょうか。
陳腐にたどり着きましたよ。
それはうぬぼれた言葉ですが、使い古された言葉ですが。「想像力のなさ」って言葉の、その自分なりの解釈として、以下。
それは、能力的な意味ではなく、意欲的な意味での欠如を言及してる。
そりゃ楽すればいいよ、そのために言葉はあるよ、好きなだけ楽すればいいよ。
でも、楽した結果どうなるか、ぐらいは想像しようなってことでもある。
綺麗な言葉も便利な言葉もどんな言葉も道具です。楽するためのものです。
便利です。使い方を間違えなければとても優しい代物です。
そこを否定しちゃいけません。わかってます。それでも。


ネットの何がダメかって、コピペが簡単にできること。
こればっかりははっきりどうしようもないなあと思います。
短文がもてはやされる掲示板も多くあります。
流行語とかホント迷惑な話で、勝手に使い古して
貧乏臭いイメージすら定着させてくれます。まあ無粋。

もっとしっくりくる言葉があったんじゃないんすか。
もっとはっきり本音な言葉があるのに、それを濁してる場合なんですか。
その先にあるのは無個性や無感情すら通り越した。
誰かにとって都合のいい言葉の拡声器になってる自覚がありますか。

バカをDisるのは簡単だっつぅね。
同じDisなら、もっと真っ向から、
でかい相手や不特定多数を
否定しなくちゃあいけないんじゃないかな。
のっかれ、和、空気。それも大事だけど、
そればっか大事にしてもよくないんじゃないかな。

てめぇはどこにいますか。
誰かに迎合していて、それでカッコつけたつもりですか。
譲っちゃいけないライン、
それはきっと言葉にだってあると思うんだ。
もう、な。上っ面の薄っぺらい言葉はいいだろ。
正しいとか間違ってるとかで言葉を語るなよ。

使い古された言葉を贈りましょう。
『内なる声に耳を傾けろ』
コピペにただの誠実さも糞もないわけで。
それをすんなってことじゃない。
それが真理をついているみたいにふるまうなってコト。
優しくない言葉が優しくない言葉だって自覚を持とうってコト。
言葉には言霊が宿るってんなら、
その言葉に宿った言霊を見極める眼力っつーのがすげえ大事。
しっかり見据えてみてください。
きれいな言葉に飛びつかないことを。
きれいな言葉を振り回さないことを。

安易に投げたその言葉、それで踊らされる人。
物事に対して人が抱く感情は、真実は万人共通じゃないだろ。
こうあるべき、これがスマート、それもいいけど
もっと大事なところにある正直な気持ちってヤツと
吐いた吐こうとしたその言葉を照らし合わせてみてください。
それでも使いたい言葉なのかどうか。


言論弾圧とは全く別ベクトルの言葉狩り。
それをどこか意識的に感覚でこなすことは
それはもうとても大事なことだと思うわけです。





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最終更新:2010年02月11日 13:07
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