振り下ろす拳に覚悟は無い

エンターテイメントに触れていると。
特にフィクシヨンやノンフィクションには、とても大嫌いな演出がありまして。
それは、もはや作法といってもいいぐらいにそこらかしこで見る演出ですが、もう反吐通り越して血反吐が出るぐらいに大っ嫌いな描写でありまして。

それは、大抵の場合「正しい」として描かれている行いです。
ですがそれが、とにかく「許せない」の領域で嫌いなんですよ。
それは、漫画に限らず。
ドラマでも映画でもなんででも見ることができるシーン。

結論から言いましょうか。
大人が躾と称して子供を殴るといった教育が、滅したいほどに嫌いです。
死ぬほど嫌いを通り越しています。それほど嫌いです。マジで厭に思っています。
そういうわけで今回はそういう話。


昔、あるところに一人の少年がいました。
子供はとにかく勘のいい子供でした。
勘のよさとはつまり頭のよさです。
その子供は、世の中の納得できないことに説明をつける才能を持っていました。
問題の本質を見抜く能力がありました。

だから、ただ建前と暴力で子供を黙らせようとしていた先生が大嫌いでした。
小学校二年の時の担任と、三年の時の担任が大嫌いだったんです。
まだ、その子供は言葉を持っていませんでした。
勇気を持っていませんでした、強さを持っていませんでした。
ただ勘だけが納得の拠り所でした。

少年は大人になって、言葉を手に入れました。



悪いことをした子供がいます。
子供は悪いことをした自覚がありません。
周りの目があります。揉めるのはめんどくさいです。
さあ、あなたならどうしますか。
→殴る。




さあ、もしもいるなら体罰肯定派の方々に聞きましょう。
コレは正しいか、否か。あなたならどうしますか。


というわけでまずはズルイ導入として、体罰嫌いの言い分として有利な部分から。


ある子供が悪いことをしました。
優しくされたのにお礼を言わなかったのです。
それを見た保護者の少年は、少女の頭を殴りました。
それでも反省せず口答えをしようとした子供にもう一発。
そして静かに優しく語ります。
「誰かに良くしてもらったらお礼を言うんだ。それはみんなが守っている大切なルールなんだよ。たとえ子供でも」
そして子供は反省しました。帰り際に言いました。
「痛かったけど怖くはなかった。痛いのに怖くないなんて初めてだ。痛いと怖いは一緒ではないのだな。」
(このコラムのきっかけ。ジャンプSQ連載「紅」第九話より抜粋)

さあ考えてみてください。
いい話だと思いますか。これは本当にいい話ですか。
ちょっと、考えてみてください。
たとえば上みたいな聞き分けの良い頭のいい子に、果たして暴力が必要だったと思いますか。
殴られて泣き喚かない子供、そんな出来た子供に暴力ははたして必要なのかという話。
殴られた子が泣いていたら、会話なんて成立しないんというコトを踏まえて。
人はそこまで考えて殴るのかな。泣いていたらそこからどうする気だったのかな。
違いますね、基本そこまで考えて殴る人なんていません。
殴ったのは腹が立ったからじゃないって言える人はどれぐらいいますか。
正義感が目の前の暴挙に怒りを覚えたから、だからって殴るのか?それは本当に正しい教育なんですか。そこをまず考えてみてほしいんです。


最近の親は子供を甘やかしすぎる、とほざくアホがいます。
しかし考えてみてください。
子供を甘やかすのはそんなにいけないことなのでしょうか。
子供を甘やかす親を批判し腐っている人は、
それがなぜいけないのかと本当にそこまで考えているのでしょうか。
甘ったれになって、何がいけないのでしょうか。

自分は、助けを求めるのは勇気がいると強く思います。
確かに人に助けを求める人間は甘ったれかもしれません。
しかし、自分はそれを、「勇気ある人間」だと考えます。
だって自分の弱い部分晒して人に何かを求めるんだ、それは勇気がいるよ。
少なくとも理性をもって甘やかされた甘ったれは、出来るんですよ人に頼ることが。

大切なのは、「甘やかす」以外に何をするか、だと思います。
問題なのは、何をもって甘やかしたかということ。
もし優しさ持って甘やかすのであれば、それこそは愛なんじゃねえかと。

人生で、大切にしたい言葉がありまして。
「人にやさしくできるのは、人にやさしくされたことがある人だけ」
確信するに優しさとは性格じゃないと思います。スキルなんですよ。
優しくしてくれた色んな人がいます。色んな人が優しくしてくれました。
そんな人のようになりたいと思って、精一杯偽善ぶって生きる。
そうすれば他の人ももっと優しくしてくれるんじゃないか打算もこめて。
それは間違いなく、腕が試される行為。

親に甘やかされた子供は笑顔を覚えます。
そしてきっとその子供も甘やかすでしょう。
でもそれは精一杯の優しさと言い換えることもできるのです。
それは親が子供に出来る、なによりのことではないでしょうか。
願わくばそんな親たちが、子供や家族、友達その他
身内以外の人間にも優しい人であってほしいものです。
だれかれ構わずルールを押し付ける厳しい人間なんて、それこそ外道だと思います。
なのにそれもまず暴力に訴えるだなんて、そんな人間殴ってもイイヨ。
さあ違う話がそれたのでここらで軌道修正しましょうか。

極論すれば、悪も背負わずに正義は語れるものか。
たとえ子供のやらかしたことが悪だったとして、
その悪を暴力で押さえつけて自身にある社会の正義を押し付ける。
それは戦争にも似ています。ならばもしもその正義に納得できなかったら、子供には殴り返す権利があるんじゃないでしょうか。

全ての体罰肯定派に聞きたいです。
体罰ってさ、殴られる覚悟があって殴っているんだよな。
殴り合いになってでも伝えたい気持ちがあって殴っているんだよな。
まさか大人の高さなら子供に殴られないから殴っているんじゃないよな。
違うって?!実際そうなんだって!!想像力働かせろよ!!
ガキの高さで大人の脳天ドツけるわけねーって!!
ほら、殴り返される覚悟も無しに人間を殴ってんじゃねぇよ。
だって殴り返せないんだよ、子供の高さじゃ!!
勝手に見下してんじゃねーよ!!

子供ってヤツが殴られた瞬間って、何考えてると思いますか?
あなたなら突然殴られたらなんて考えますか!?
「ああ、自分は殴られるほど悪いことをしたんだ」とか
「うん、悪いことをしたんだから殴られるのは当然だ」とか
そんな風に考えるガキがそこらかしこにいると本気で思いますか?!
いねーよ!そんなヤツ。いたら怖いよ、見事に調教済みじゃねーか!!

殴られた子供が考えるのはさ、
「何で殴られたの?」とか「殴られるほどのコトしてねーじゃん」とか、
ホントそーいう思考なんだってば。
結局、言葉なんですよ、気持ちを伝えるのに必要なのは。
暴力ができるのは黙らせることだけ。
たとえその暴力の後に続いた言葉が正論で子供を導くに値するもの吐いたとしても、さ。
黙らせるために殴るなんて、糞野郎の存在証明みたいじゃねーか。

子供を殴っている人間は楽な方へ逃げている姿を子供に見せていると思うわけですよ。
殴りあうならまだいいよ。でも一方的に殴るな。
誰も彼も、あなたも、痛いのは嫌ですよ。
あなたには、子供に殴り返される覚悟が本当にありますか。

殴られて反省するのは犬猫のように躾けられたガキだけだと思います。
「悪いことをしたら殴られる」と刷り込まれてきた子供だけなんです。
それは考えて反省しているんじゃありません。
殴られたくないからと学習しているだけ。
そんなものが教育であってたまるか。オレは認めない。
それはお手と言われたらお手をするようなもんだ。習性だ。パブロフの犬だよ。
少なくとも自分は殴られたら恨みます。言葉を尽くさずに殴られるなんて屈辱です。
「言ってもわからん」扱いされた屈辱は、とても重くて痛いです。
それは反省を促す痛みとは違う気がします。憎悪を覚えるものです。


子供は大人とは違います。
子供とは、経験すべてから全力で何かを学習しようとする生き物です。
大人とは、経験すべてから全力で何かを学習すべき生き物です。自覚が必要です。
子供の前に、大人が相手を殴る姿があったらそら子供は殴りますよ、他の人を。
殴る人になりますよ。その方がストレートで楽だもん。

だから。
どうかフィクションの中でだけでも。
自分はそんな子供と真正面から向かう姿を見たいものですね。

大人が子供を殴るシーンが本当に苦手です。
駄々をこねている子供を頭ごなしに怒っている親を見るのが苦手です。
聞く耳を持たない大人に怒られている子供を見るのが苦手です。
子供が泣いている姿を見るのが苦手です、泣きたくなります。
黙っている子供を見るのが苦手です、抱きしめたくなります。
機嫌よく笑っている子供が、好きです。
誰だって好きのはずです。

やっぱり、殴ることはないよ。ね。ホント。勘弁してください。



じゃあ、「子供に殴られた時、どうすればいいのか」。
言わば現場の問題。そんな言葉があるかは知りませんが。

現実的にある大きな問題として、「子供が暴力を振るってきた時どうするか」。
コレはもはや言い訳の余地なく、ここまで意図して目をそらしていたポイントです。
個人的には、それでも暴力を子供に振るうべきではないと思います。
ただ、暴力を振るう権利は、当然あるべき権利だと思いますし、
そうして振るわれた暴力について、第三者がとやかく言うのは筋違いだとも考えます。
しかし、だからといって、その反撃で何かが解決するかといわれれば、 そうは思いません。
それは暴力の連鎖は、やっぱり暴力では止まらないんですよ。
核兵器は事実として、戦争に対する抑止効果を持っています。
圧倒的な暴力も、事実として他の暴力に対する抑止効果を持っています。
しかし、それで根本が解決されません。オレは断じてそう思います。
暴力に対して暴力をもって抑止しても、それは負け犬を生み出すか、
さらなるモンスター誕生の種を蒔くかのどちらかだと極論ながら思います。
確かにその場の解決として、体罰による解決は大きな抑止効果を持ちます。
しかし、最終的に必要になるのは、暴力ではない言葉だと願わずにはいられません。

ならば「いざという時に拳を振るえる人になるために」というテーゼはどうか。
例えば子供に予め切り札として の暴力を見せつけておくのはどうでしょうか。
自分もこの「いざという時殴れる人」はいてもいいと思います。
実際、自分も「あの時のアイツは殴っても良かった」と悔やむことが多々ありました。
それでも殴れなかったのは、「殴る」という発想が土壇場で浮かぶような
悔しくも、そして確実に嬉しいことにも、そんな人間ではなかったからです。
「誰か大切な人の為なら、迷わず法を犯せる人間でありたい」
それぐらいのテーマも込めて、自分は暴力自体は肯定しちゃったりします。
だから、「いざという時に殴れる人間」というのはアリです。
でも、です。
殴ることに対する迷いや躊躇いを払うために、「実際に有効な手段として」日頃の要所で体罰と言う形の暴力というものを子供に身を以て知らせるのであれば、 そのやり方には真っ向から反対の意を示さずにはいられません。
確かに優秀な戦士を作るのであれば、それは必要不可欠な教育です。
それに反対するのはきっと「甘ったれ」というヤツでしょう。
しかしそれでも。もう建前とか無しでシンプルにいきましょうか。
拳を振るった時に、後悔しないようにうまく人間を殴れる人間なんて、嫌です。
拳を振るうということはいつだって、後悔がつきまとうべきものだと思います。
蛇足つければ他にうまいやり方はなかったかと後悔できる人が好きです。
自分のしたことを正面から見据えられる人を尊敬します。

例えば学校。
振り返れば色んな先生がいました。すげえ良い先生の陰で、思い上がったクズな先生も沢山いました。
でも、少なくとも知っている暴力教師の中では、正しく子供の為に暴力を振るっている人なんていませんでした。そしてオレの知っている良い先生はみんな、暴力ではない、自分の言葉を持っている人たちだったんですよ。
だから、正しい形で拳を振るえる子供なんてほとんどいなくても、同様に、正しく拳を振るえる大人がごく少数だとも思うわけです。

自分が出来なかったことを子供に教えたい大人は沢山います。
自分の失敗を何とか子供たちに生かしてあげたいと考える大人は沢山います。
でも、それをうまく教えられる大人は果たしてどれほどいるのでしょうか。

たとえ暴力で立ち直った人がいたとしても。
オレは単純に立ち直った人を尊敬するべきだと思います。
褒められるべきは、絶対そっちだと思うわけです。
教えた人が偉いんじゃないんです。落ち込んだ人に向き合ったことは称賛に値するとしても、殴ったやつが偉いわけじゃない。教え方が素晴らしいわけでもない。
何事も、学び自分のものに出来た人がすばらしいとオレは思うわけです。



もちろん、子供がズルい生き物ってコトもわかってます。
自分自身が逆の意味でそうでした。
自分は絶対悪くないと確信しているのに、「早くこんなめんどくさい状態とはおさらばしたい」と思い、反省したフリをして謝って許してもらって そして中指を立てて一生引きずる勢いの今があったりします。
ですから、反省したフリをする子供がいることも存分に知っています。
だから、どうやりゃ「殴る以外にズレた子供を止めて理解ってもらえるか」って言われれば、もう論理も何もありません。出来ることは感情だけで、「それでも体罰はイヤだ」というだけです。 見苦しくても、もう本当にそれしかできません。

だからここでもう一度揺らぎかけた決意を再構築。
あえて言いましょう。俺は体罰、絶対反対。
悪は悪のままで別にいいんじゃないか、と思います。ズレててええやんと。

そういうわけで駄目っぽく言うと、
悪な子供も肯定できる、そんな甘やかしまくりの大人になりたいと思います。
そういう殴らない大人になりたいと思うわけですよ。

良いも悪いも関係なく、かっこいい子供がやっぱりかっこいいなと思うわけ。
つーわけで、精一杯子供相手にかっこつけた馬鹿な大人になりたいなあと思いますわけ。
それはつまり、子供に「カッコワルイ」を見せたくないってことです。
そして、自分の言うカッコワルイに「暴力」とか「体罰」があるわけです。
うん、それだ。『体罰をする姿を見せてはいけない』

暴力で人を黙らせる姿も。
暴力で人を矯正する姿も。
暴力で人に罰を与える姿も。
絶対に見せたくないです。
もしも体罰を肯定している人でもきっと、 子供を殴りたくてたまらないなんて人なんて、そうはいないはずです。
そういう人がいたとしても、今回のテーマにはそぐわない人なんで論外扱いします。
とにかく、きっと。考えてそれでも体罰をする人はどこかで罪悪感や後ろめたさを感じているはず。
自分はかっこ悪いんじゃないかと、きっとどこか感じているんじゃないんでしょうか。
そう思います、そう願います。そう信じます。
それは、きっと。体罰が「かっこわるい」と自覚しているからではないでしょうか。
そこなんですよ。
オレが体罰を否定する理由なんてそれで十分です。
たとえどれだけガキが馬鹿なことをやらかしてもその尻をぬぐって、また一緒に歩いてやれるぐらいの そんな甘やかしまくりの馬鹿大人になりたいです。
かっこよく黙って甘やかすヤツになりたいです。
見苦しくわめいて殴って一方的な暴力で矯正なんてしたくないです。
いつかその子が自分のそんな姿のカッコ良かった所だけを真似して、
色んな人に優しくできるような大人になってほしいな、という願いをこめて。

オレはやっぱり、体罰は反対です。
殴るぐらいなら、もう何もしません。
ただ、その子に代わってそいつのやらかして罪とかを償ってやりたいと思います。
どこまでも甘やかします。罪とか罰とかを押し付けるのではなく、優しさを押し付けます。

ってか叱るって行為すらあまり好きじゃない。
まあ色々と自分もかっこつけたこと言ってますけど、その根本にあるものに「人に怒る」ということが心底キライってことがありますわけで。
怒りの感情が芽生えるのはともかくとして、それを人に押し付けられるほど偉いのか。
てめーはナニサマなのかと。そんなことを自問自答してしまうからです。
人に対して怒って良かったなんてこともこれまでの人生でなかったですし。後悔オンリー。
たぶんオレは根本として、うまく叱れない人、なんだと思います。
論破するのも、感情で押すのも得意なんですけど、どこかで絶対エゴが入る。
公正な振りをするのは出来ても、公明正大であるなんて絶対出来ない。
ていうか、うん。やりたくない。

子供のときから、親とか先生が怒っている姿を見ても、どこかで凄い冷めていました。
「ああ、この人は今、オレの言い分なんか聞いてくれないんだろうな」って。
子供心に善悪を学んだのは、誰かの「怒り」ではなく、いつだって誰かの「哀しみ」とかが伝播してきたときだったと思います。あくまでも自分の話ですが。
人の怒っている顔を見ても、ホント反省とかしない子だったと思います。
いつだって後悔させて反省させてやり直そうと思わせてくれたのは、人の悲しむ顔でした。
ホントすげー苦手。そういう、人の痛々しいところ見るの、凄い苦手。
なんつぅんでしょうか。
親の表情って、ホントオレも凄い大事だと思います。
だからこそ。うん。
怒るとか殴るとか、そういう威圧的なコトはあんましたくないなあ、と。
うまくやれる自信、無いですもん。

この道来たら殴る、とか。この道に行かないと駄目だ。とか。
それを教えてあげるのは大切なコトだと思います。
もちろんそれはしつこかったり押し付けがましかったりしなければ、の話として。
叱るという行為はそれぐらい難易度高い。
だからこそ、そこの道に進むな。とか。あの道はイイヨ。とか。
そういうさりげなーく示せるひとがいいなって思うわけです。
誰だってそれが理想だと思うかもしれませんけど、結局後になって気づく親の偉大さってさりげないもんがほとんどですよね。
だからもしも進んでほしくない道に子供が進んじゃったら、うん。よっぽどの過ちじゃない限りは、やっぱ見守れる大人になりたいもんです。
それがかっこ悪い道だったら、指差して「お前カッコワル!」って笑い飛ばす、
それが出来る関係を築き上げたいもんです。
グレるのもきっと大きな経験だと思いますしね。

極論の勢いそのままにあえて言いましょう。
それでもあなたが体罰をするって言うのなら。
体罰したいならすればいいよ。もう否定しませんできません。


上の「体罰したいならすればいいよ」 という言葉は、あえて投やりな言葉を選んでます。投げかけてます。
たとえば自分は体罰で子供をうまく導ける人では絶対にないです。絶対無理です。
そして、体罰でうまく子供を導く人間に出会ったことも無い人生でした。
完全に正当で、一切の理不尽が無い体罰なんて、見たこと無いですマジで。
経験上、そして考えれば考えるほど、教育的体罰なんて存在しないと思っています。
ここは譲れない線です。

だからこそ、譲るわけですよ。
「体罰したいならすればいいよ」って。
ナニサマな態度で偉そうに喧嘩売るような姿勢で。

もしそれでもあなたが殴ると言うなら、子供のことを精一杯考えて、殴ると言うなら、自分には止められません。止めません。止められません。
だってホラ。
「自分がうまく出来ないからお前にも出来ないに決まってるぜ」なんて姿、 それは子供に限らず、誰にだって見せたくない姿やないですか。
だからこそ、これ以上はとめないんです。「すればいいよ」なんて酷い言葉も言うんです。
なんといいますか、人の価値観ってヤツを、無理に矢理に「オレの発言は絶対に正しい!」なんて態度で否定するに走るなんてそれは、オレが憎む体罰(あくまでも、オレが考える体罰)と同じです。
だから、それだけはしたくないんですから。
相手の言い分に理解できることがあるからこそ。二元論とかそういうのが嫌いだからこそ。
体罰は否定しても、クソみたいに理不尽な体罰をする人間は否定しても、
しっかりと考えて「それでもする」という人は否定できない。
だからこそ。これ以上は止めないんです。すればいいよって言うんです。


ですがそれでも、体罰してる所って見るのはやっぱり凄いキライです。
好きな人とか、大切な人とかがしてるの見てもきっと「それちがくね?」って思うと思う。
嫌いな人とか、どうでもいい人がしているのを見たら「お前が殴られろ」って思うと思う。
これは論理も何も無く、性格的な問題として。
だから。
あくまでもオレは体罰を否定するサイドの人間です。
やっぱり子供が殴りかえせない位置から殴るなんて卑怯だと思います。
殴るより前にまだ、できることはあるんじゃないか、って思います。
殴って子供の考えを改めさせる、なんてやり方がイヤです。
たとえば子供を「人をうまく殴れる子供」にしたかったら、格闘技でも習うように揺さぶればいいわけで。それはもちろん黒帯になったら殴れなくなるぜっていう落とし穴とセット。
でも、うん。
子供にだった性格とか個性ってヤツがあるし、
子供なりの判断基準とかあるんだから。極力それは尊重してやりたいもんですかね。
たとえ相手が子供であっても、やっぱ一方的ってのはイヤなんですね。
子供のときは大人の一方的なところって凄いイヤでしたし。



うん。そんな感じですかね。
あとは大体これまでに自分が言ってきたことの繰り返しなりますんで簡潔に。
やっぱり自分は、「極力勘弁してください」の勢いで体罰は苦手ですね。
ケースバイケースだとは思うけど、やっぱり大原則として。
それでもするというのなら、それはすればいいと思います。
それならそれで、フォローとかアフターケアとか出来る人になりたいと思うわけで。
殴るポジションは要らないけど、殴られた子供ケアするポジなら目指すひとつです。

そして最後に余談として。
自分は子供にどんどんエロくなってもらいたいなと思ってます。
まあ理由は色々とあるけど、 一番の理由は「知っていること=過ちを犯す」ってコトじゃないって考えるから。
中途半端にひん曲がったエロを突然目にしてゆがむ前にこう、 映画とかドラマとかで、そういうのを見せておきてーなあと思うわけです。

最後にもう一度、一番言いたかった部分を繰り返します。


全ての体罰肯定派に聞きたいです。
体罰ってさ、殴られる覚悟があって殴っているんだよな。
殴り合いになってでも伝えたい気持ちがあって殴っているんだよな。
まさか大人の高さなら子供に殴られないから殴っているんじゃないよな。
違うって?!実際そうなんだって!!想像力働かせろよ!!
ガキの高さで大人の脳天ドツけるわけねーって!!
ほら、殴り返される覚悟も無しに人間を殴ってんじゃねぇよ。
だって殴り返せないんだよ、子供の高さじゃ!!
勝手に見下してんじゃねーよ!!

子供ってヤツが殴られた瞬間って、何考えてると思いますか?
あなたなら突然殴られたらなんて考えますか!?
「ああ、自分は殴られるほど悪いことをしたんだ」とか
「うん、悪いことをしたんだから殴られるのは当然だ」とか
そんな風に考えるガキがそこらかしこにいると本気で思いますか?!
いねーよ!そんなヤツ。いたら怖いよ、見事に調教済みじゃねーか!!

殴られた子供が考えるのはさ、
「何で殴られたの?」とか「殴られるほどのコトしてねーじゃん」とか、
ホントそーいう思考なんだってば。
結局、言葉なんですよ、気持ちを伝えるのに必要なのは。
暴力ができるのは黙らせることだけ。
たとえその暴力の後に続いた言葉が正論で子供を導くに値するもの吐いたとしても、さ。
黙らせるために殴るなんて、糞野郎の存在証明みたいじゃねーか。

子供を殴っている人間は楽な方へ逃げている姿を子供に見せていると思うわけですよ。
殴りあうならまだいいよ。でも一方的に殴るな。
誰も彼も、あなたも、痛いのは嫌ですよ。
あなたには、子供に殴り返される覚悟が本当にありますか。



その覚悟を、暴力で押し付けてはいませんか?










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最終更新:2009年09月06日 18:25
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