第1話 救出計画


 1台の軍用車が、都心部のとある幹線道路を走っていた。
 後部座席には精悍な顔付きをした40代半ばの海軍将校が座っており、白い軍服の左胸に輝く色とりどりの勲章や略綬が、彼の地位と経歴の高さを物語っていた。
 また、詰め襟の両側に着けられた銀色の徽章は、一般の海軍将兵は持つことのない独特のものだった。交差した小銃に星と月桂樹をあしらった兵科章。それに錨を組み合わせた徽章である。日本海軍陸戦隊歩兵科の将兵であることを示す徽章だ。
 将校の名は板坂純哉といい、階級は大佐だった。20年前、海軍陸戦隊が新設された際に新任少尉として陸軍から移籍し、以来その発展に尽力してきた功労者だ。海外派兵の経験も豊富であり、部隊指揮官などを歴任した現在は陸戦隊司令部参謀の任にあった。早くも将来の陸戦隊司令官と目されている男である。
 今、彼は出頭命令を受け、陸戦隊司令部のある久里浜駐屯地から東京・市ヶ谷の国防省へと向かっていた。
 板坂はふと、窓の外を見てみた。道を行き交う人々の表情は一様に暗く、高層ビル街も彼らに重くのし掛かる巨大で陰鬱なオブジェに見えた。
 内務省の保安部隊と警視庁の警官隊によって、辛うじて首都の治安は守られていた。先日も、過激派に扇動され暴徒化した都民が、国会議事堂前で配給物資の不足を訴える大規模なデモを行い、多数の死傷者を出したばかりだ。
 板坂が車内に視線を戻して溜め息をついた時、運転手が言った。
「大佐、着きました。市ヶ谷です」
「うん」
 車は番兵が立つ国防省の正門に近付きつつあり、板坂は制帽と自らの姿勢を正した。

 板坂が案内された会議室には、すでに2人の先客がいた。
 1人は白衣姿の痩せた中年男で、見るからに科学者風の容貌だった。
「海軍陸戦隊の板坂大佐ですね」
「そうだ」
「技術研究本部技官の井脇俊光と申します。以後、お見知り置きを」
 彼は短い自己紹介をして会釈した。板坂は制帽を脱ぎ無言で会釈を返しながら、接していて快適でも不快でもないという第一印象を抱いた。
 もう1人は、日本人離れした藍色の長髪とオレンジ色の瞳が特徴的なスーツ姿の女性だった。20代半ばから後半ほどのエキゾチックな美人だったが、表情からはどこか陰のある印象が見受けられた。彼女は軽く会釈しただけで、名乗らなかった。
「やあ諸君、遅れてすまん。そのまま楽にしてくれ」
 最後に入室してきた背広姿の小柄な初老の男が、ドアを閉めながら言った。それが現国防大臣の大倉人史だと判ると、板坂は速やかに踵をダンッと打ち合わせ、直立不動の姿勢を取った。
「君が板坂大佐かね」
「はい、そうであります」
 大倉が差し出した手を握りながら、板坂は答えた。
「君の名は国防省でもよく耳にしているよ」
「はい閣下、光栄であります」
「うむ。では始めるとしようか。君に来てもらったのは他でもない。我が国の命運を左右する重大な任務のためだ。井脇君、説明を頼む」
「はい」
 大倉がドカリと着席する代わりに、井脇が白衣のポケットから伸縮式のスティックを取り出し、それを伸ばしながら話した。
「大佐は飛鳥島の戦史を御存知ですね?」
「……そうだが」
 飛鳥島という固有名詞を耳にした瞬間、板坂は無意識のうちに両手を握り締めていた。声もかすかに震えていた。
 20年前の第二次対米戦争末期、戦況が劣勢となった当時の日本軍首脳部は、東京から南東と小笠原から北東の交差線上に位置する人工の大要塞・飛鳥島に、陸・海・空軍の総兵力を結集した。これによって米軍の本土侵攻を阻止し、有利な講和を結ぼうと画策したのだ。
 しかし、それが仇となる事態が起こった。米空軍のB-2Aステルス爆撃機「スピリット・オブ・アナハイム」が、飛鳥島へ多数の純粋水爆を投下したのである。守備軍の戦闘機が爆撃機の撃墜に成功した記録が残されているが、結局間に合うことなく飛鳥島は守備軍もろとも消滅してしまった。
 本土の日本政府が受けた衝撃と絶望は、筆舌に尽くしがたいものだった。残存兵力の全てと本土防衛最後の砦、さらに九条星夜元帥を始めとする軍首脳陣を一瞬にして失ってしまったからだ。
 飛鳥島が失われる時は、日本が敗北する時であった。日本軍には、将軍も将校も下士官も兵も武器も物資もなかった。その全ては飛鳥島に集められていたからだ。本土に残されていたのは、実戦経験のない召集兵と余り物の旧式装備だけだった。もはや日本に、降伏以外の選択肢はなかった。
 それ以降の日本の歴史は、まさに屈辱で彩られたものとなった。戦犯裁判、米軍の駐留、軍備制限、賠償金、領土の租借など、米国が日本に科したペナルティは多岐に渡った。それを含めて、戦争の傷跡は今もなお残っている。
 特に悲惨なのが、食糧事情だ。開戦時に国民の2割が餓死していた日本は、米国に従属することでおこぼれを得る以外に、国民を養えなくなってしまったのである。今では国民の誰もが、食うのに精一杯である。もっとも、食糧生産が壊滅的打撃を受けたのは日米戦争の前に起きた第三次世界大戦の前後であり、それも日本に限ったことではないが。
 それでもいくらか救いだったのは、国内の大都市や産業地帯に目立った被害がなく、その機能を残していたことであった。飛鳥島守備軍の奮戦が功を奏した結果であるのは、言うまでもない。
 板坂を含む現在の日本軍の基幹要員は、ほとんどが戦争末期に召集兵として入隊した者である。敗戦を経験しつつも軍の再建に取り組んできた彼らにとって、飛鳥島の消滅は大きなトラウマだった。
「単刀直入に申しますと、飛鳥島は消滅していません。守備軍の将兵も多数生存している可能性が濃厚です」
 板坂は狐につままれたような表情を浮かべた。
「信じられないでしょうが、紛れもない事実です。もっとも、この世界から消えたことには変わりありませんが……」
 板坂は、この科学者風情の男がふざけているのかと、いぶかしんだ。現世ではなく霊魂の世界では健在だとでも言うのかと。
「つまり核爆発の瞬間、天文学的に微少な時間で生じた時空のひずみに呑み込まれ、異世界へ転移してしまったということです」
「何だと……」
 彼は今度は絶句した。
「これを御覧下さい」
 井脇が手元のリモコンを操作し、ホログラフ・スクリーンを起動すると、空中に何もない海の映像が映し出された。
「これは飛鳥島からの連絡が途絶して数時間後、海軍航空隊のジェット飛行艇によって撮影された映像です。この通り、飛鳥島は影も形もなく消え去り、洋上には軽石の破片すら残っていませんでした」
 井脇はスティックで映像を指しながら説明した。
「しかしながら、飛行艇が投下した環境センサーによる計測結果は、あまりにも奇妙なものでした。残留放射能を出さない純粋水爆とはいえ、起爆時には若干の放射線を放出します。にもかかわらず、一帯の大気中及び水中の放射能値は正常でした。そして……」
 映像が切り替わり、ポツンと浮かんだ1艘の舟のズームショットになった。
「これは何だ? 洋上には残骸も残っていなかったのではないのか?」
 板坂が問うた。
「そうです。唯一、これを除いては……」
 小舟からやや離れた海面に着水する飛行艇を、僚機から撮影した映像が出た。
「ここから先の映像は、国家の第一級機密として厳重に保管されてきました」
 映像はさらに、ゴムボートに乗り込むNBC防護服姿の兵士、水上から捉えた小舟、ストレッチャーに横たえられる失神した藍色の髪の少女と続いた。
 板坂はふと、横に立つスーツ姿の女性が表情を硬くしているのに気付いた。
「まさか……」
 スーツ姿の女性は板坂の方を向くと、お辞儀をして何ら非の打ち所のない日本語を話した。
「申し遅れました。セルシス・ナトゥーア・プリムラです。私はこの世界の人間ではありません」
「プリムラ君は20年前に救助されて以来、国防省で保護されていたのだ。彼女のお陰で、異世界のおおよその状況を把握することができた」
 大倉が言った。 
「彼女は飛鳥島が転移した海域を漂流していて、入れ替わりでこちら側の世界に飛ばされてしまったのです。戦後政府は米国にも極秘でプロジェクトチームを立ち上げ、飛鳥島の消失に関する調査を開始しました。予算と人員は少しずつ強化されていき、近年になってようやく空間転移の謎を解明するに至りました。そこで我々は、異世界へ救出部隊を派遣し、飛鳥島及び守備軍将兵を帰還させる計画でいます」
「帰還させるだと?」
 板坂はセルシスから井脇の方に向き直った。
「その空間転移とやらが本当だというのは分かった。しかし、一体どうやってそれを再現するのだ? まさか、また米軍に核を爆発させてもらうのかね」
「詳細はまだお話しできませんが、そのための技術と設備はすでに完成しています。ただし、転移は往復1回しかできないため、失敗は許されません」
「なぜだ?」
「設備は稼動と同時に全体がショートしてしまう上、何度も再建できるものではありません。また、時空に与える影響を考慮した結果、仮に設備の予備があっても連続稼動させるのは危険と判断しました」
「では、なぜわざわざ新しく部隊を送る必要がある? その設備を飛鳥島のあったポイントで稼動させるだけでいいのではないか?」
「設備の構造上、特定の物体を再転移させるには転移先で所定の作業が必要となります。また、守備軍の捜索・誘導も行わなければなりません。さらにプリムラ氏の証言によると、異世界は極めて危険な群雄割拠状態にあります。そのため、救出部隊は重武装の戦闘部隊であることが望ましいでしょう」
「というわけだ、大佐。現在、海軍機動艦隊から1個艦隊、同陸戦隊から1個連隊戦闘団、同航空隊から必要数を派遣する予定で調整中だ。もちろん全国からの寄り合い所帯だがね。君には地上部隊の総指揮を執ってもらいたい」
 再び大倉が告げた。
「私に、でありますか? いえ、しかし……」
 海外派兵で数々の修羅場を踏んできた板坂ではあったが、派遣先が派遣先なだけに困惑を隠せなかった。
「君を優秀な指揮官と見込んで、国防大臣の私が自ら頼んでいる。訊きたいことがあれば、納得できるまで答えるが」
「地上部隊を陸軍でなく我が海軍陸戦隊から出す理由は?」
「円滑な指揮系統を確立できるからだ。また、火力よりも機動力を優先したい」
「ではなぜ大きなリスクを払ってまで、一発勝負で救出しようということになったのですか?」
「無論、飛鳥島守備軍の兵力を回収するためだ。転移した時点で、飛鳥島には陸軍だけでも20万人以上の将兵がおり、海軍と空軍の有力な部隊も残っていた。これらは、現在でも質量共に十分通用するものだ。また、兵器の生産施設や食糧の自給施設もある。だが、それだけではない。これも今まで国家の最高機密とされてきたことだが……」
 大倉はそう言うと、自らリモコンのテンキーにパスワードを打ち込み、データファイルを読み出した。
「これは……!」
 板坂は息を呑んだ。スクリーンに、飛鳥島の地下から海底深くにまで広がる油脈のCGIが映ったからだ。
「まさに驚くべきことだが、飛鳥島は海底火山の噴火で生まれた島であるにもかかわらず、世界でも残り少ない産油地帯でもあったのだ。採掘量は日に1万2300トン、年間450万トンだ。もちろん、現在の日本のエネルギー消費量には遠く及ばないが、なくてはならないことに変わりはない。その他、石炭や天然ガスなどもかなりの量が採掘されていた」
 大倉はさらに、本土と飛鳥島を往復する船団の映像を映した。
「さすがの米国も、この点までは突き止められなかった。偵察衛星の眼をごまかすため、本土から飛鳥島へオイルを取りに向かうタンカーや輸送船には、海水や補給物資が載せられていたからな。もっとも連中も、船が行きも帰りも満載状態なのは妙だと思ったに違いないがね。もし気付いていれば、彼らはいかなる犠牲を払おうとも、飛鳥島の占領を諦めなかったはずだ。問題は、この海底油脈がすっかり消えてしまったことだ」
「つまり、油脈も丸ごと転移してしまったということですか?」
「そういうことになるな」
 板坂は、当時の政府首脳陣がいかに激しい絶望を味わったか、改めて理解した。軍事的拠点のみならず、資源産出地としても大きな意義を持つ飛鳥島を失ったのだから、それはまさに言語に絶するものであったと推測できた。
「大臣、当計画は米国政府も関知しているのですか?」
「伝達済みだ。石油を含めた一部の情報は除いてだがな」
 大倉は無造作に言ってのけた。
「それにしても、彼らがよく認めたものですね」
「背に腹は代えられぬのだろう。食糧及びエネルギーの確保と世界の治安維持のために、連中も相当の代償を支払っているからな。極東地域の軍事的・経済的負担が軽減されるのであれば、かつての悩みの種だった飛鳥島を元に戻すことも、やむを得んということだ」
 データファイルを再ブロックし、スクリーンを消しながら、大倉は淡々と答えた。
「確かに若干の不安要素はあります」
 井脇が言った。
「彼らが飛鳥島に籠もり、自活と最低限の自衛行動のみに徹して20年間を過ごすことは、十分に可能なはずです。しかし、もし彼らが異世界でその力を爆発させ、暴走していた場合、素直に回収に応じるかどうかは不明です」
「どういうことだ?」
「飛鳥島にいる兵士は全員、脳に特殊な処理を施され、戦争のためだけに生き死にするようになっていました。彼らの頭にあるのは戦争だけです」
「戦争中毒というやつか」
 板坂が呟いた。
 当時、本土に残された日本軍将兵で洗脳処理を受けた者はごく少数だったが、それでも彼らの一部が戦後に問題を起こしたため、明るみに出た。米国はこれを、人間の尊厳を深く傷付けた重大な犯罪行為であるとして、戦争裁判において取り上げた。当然、日本の政府と軍は国内外から激しい非難を浴びることになった。もっとも、米軍が捜査で押収した資料をちゃっかり本国へ持ち帰り、同様の研究に供したのは公然の秘密であるが。
 転移した飛鳥島には、若き大戦略家にして総司令官の九条元帥と参謀長の榊原政和陸軍大佐を始め、戦争狂としての勇名を世界中に馳せた紫芝柳陸軍中将、無類の天才的マッドサイエンティスト・氷室清一郎技術総監がいた。そして、所属部隊や各人ごとに差があるとはいえ、数十万の守備軍将兵は全員が闘争本能と戦争の遂行のみに生きる男達であった。彼らが戦雲渦巻く異世界に放り込まれた場合、どのような行動に出るかは想像に難しくなかった。
 彼らが戦争という名の麻薬に溺れていた場合、今さら日本軍の指揮下に復帰するかどうか。それが最大の懸案となったのである。
「板坂大佐、君は九条元帥と面識がある数少ない現役軍人だ」
 大倉が再び井脇に代わって言った。
「いえ、私にそのような覚えはありません」
「飛鳥島攻防戦が始まる数週間前、君は本土に最後の出張をした九条元帥の当番兵をしていたことがあるはずだが」
「ああ、そういえば……」
 板坂は、当時のことをおぼろげながら思い出した。学徒兵上がりの下士官に過ぎなかった彼には、10も歳の違わぬ元帥が眩しく見えて仕方がなかったものだった。
「まさか、万一の場合は私に九条元帥を直接説得せよとおっしゃるので? しかし、たったその程度の面識など役に立つかどうか……」
「それで十分だ」
 大倉はまたも無造作に答えると、改まって言った。
「この作戦には、日本が強国として再起できる可能性が懸かっている。必ず成功させてくれ」
 ここまで来れば引き受けるしかないと、板坂は腹をくくることにした。
「救出作戦の決行時期は、いつです?」
「3か月後だ。それまでに部隊の編成と訓練を済ませねばならん。プリムラ君の証言を基にした異世界の詳細な分析資料や、作戦計画に必要な書類その他は追って送る」
「了解しました。努力いたします」
「では、本日はこれで解散とする。準備をよろしく頼むよ」
 板坂は制帽を被って大倉に敬礼し、退室する途中でセルシスにチラと目を向けたが、先と変わらぬ硬い表情がそこにあるだけであった。



最終更新:2007年10月31日 02:13