序話 たった独りの移転者


 快晴の下、1人の少女を乗せた小舟が穏やかな大洋を漂流していた。
 その少女はボロ布のような服を着ているだけで、靴も履いていなかった。そして舟の床に座り込んだまま、輝きを失った目を虚空に向けていた。
 舟の中にあった水と食物はもはやなく、少女はガリガリに痩せ細り、激しい飢えと渇きにさいなまれ続けていた。その苦痛に満ちた感覚も、時が経つにつれておぼろげになりつつあった。
 少女は己の死が近いことを自覚していたが、彼女の幼い頭脳はそれを不幸だとは考えていなかった。延々と続く苦しみが死によって終わるのなら、それでもいい。自分を逃がし、ここまで生き長らえさせてくれた両親とも会える。あの“キゾク”の大人達に蔑まれ、こき使われ、一方でいやらしい目で見られることもなくなるのだから、と。
 突然、太陽が爆発したような激烈な閃光が、少女の視界を覆い尽くした。

 どれほどの時間が過ぎたのか、少女は視力を取り戻した。
 少女は最初、自分が死んで天国へ来たのかと思ったが、すぐにそうではないと悟った。
 空も海も、どこも変わったところはなかった。だが、何かが違っていた。まるで、自分だけが世界の全てから弾き飛ばされ、別のどこかへ来てしまったかのように思えた。
 言い知れぬ不安が、肉体の衰弱と相まって彼女の精神を蝕み始めた。
 薄れつつある視覚と聴覚が、轟音を立てて空を飛ぶ巨大な鳥の存在を知らせ、ますます不安を増幅した。
 それだけではない。大鳥は舟からさして離れていない海面に舞い降り、その腹の中から黒い小舟を送り出したのである。
 黒い小舟が少女の舟に寄り添うと、全身が白く膨れ、顔の部分が真っ黒に塗り潰された何かが乗り移ってきた。
 “それ”はギシリ、ギシリと床を軋ませながら、少女の方にゆっくり歩いてきた。
 もはや足腰が萎えて逃げ出すこともできぬまま、少女は自分に近付いてくる“それ”を凝視し続けた。
 やがて少女の眼前に立った“それ”は、体を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
 漆黒の顔面から、しかし紛れもない人の目が光の加減でチラと見えた瞬間、少女の脳内は今度こそ完全に飽和した。
 失神した少女は、バタンと音を立てて床に倒れ伏した。



最終更新:2007年10月31日 02:13