外伝Ⅳ 幻影の艦隊 後編


 九条皇帝が、この観艦式に出席されるそうだ。
 空母『エウロパ』は、今は賓客を迎える準備に忙殺されていた。乗員達でなく我々が、だ。数十分前のヴォルフ提督の発表は記者達を慌てさせた。まったく、冗談が悪過ぎる。
 皆が右往左往している。カメラを入念にチェックするカメラマン。運良く質問権を手にいれたライタ―が何度も練習をしている。本社に連絡を取ろうと通信室の前には、長い列が出来ていた。
 私も先輩記者の手伝いをしながら、その様子をどこか観察するような気持ちで見ていた。まるで熱に浮かれたような彼らを見ていると、私は冷めたような気分と孤独感を感じてしまう。
 孤独は、自分を振り返った時、真っ先に思い浮かべてしまう言葉だ。帝國という存在に疑念を持つ私は、いつも周りを気にするあまり自分を押し殺してしまっている気がして、なんだが情けない気分になる。
 私も帝國を信じてしまえば楽になるのだろうか? 
 その考えが現実味をおびたのは、一度や二度ではない。理由は憶えていないが、普段の生活の中できっと精神的に弱っていたのだろう。だが、そんな時、あの時の寒気を肌に感じて、私はいつも思い直す。宿命にも似た使命感が、最後に心の中で勝るのだ。けど、この短い葛藤もまた、私にはかなり辛い。帝國を疑う事は、本当はただの馬鹿げたことであるなら、それでもいい。しかし、私はこの寒気の取れないうちは止める事は出来ないだろう。
 せめて、仲間でもいれば、この苦難に耐えていけるのだろうか?
 私は、自分が帝國を疑っている事を誰かに話した事はない。帝國に近づいたときに感じる危険な気配が、誰かを巻き込むことを途惑わせる。それが卑屈だというのならば、私は卑屈な人間であることを甘受しよう。けど、それでも寂しい気分に浸ることは否めない。
 ようやく一息ついた私は、アイランド艦橋の壁にもたれかかり休憩をとった。でも、甲板の上ではタバコも吸えないので残念だ。艦内に設けられている喫煙室まで行くにはもう時間がない。皇帝が到着したら、また取材で忙しくなるだろう。まだ新米の私の記事が、新聞に載る事はないだろうけれど、これもまた記者としての習練だと思う。
 空が青い。雲も少なく、どこまでも遠くまで見渡せる。
空を眺めるのが、こんなに心地よいものだとは、なかなか気付かなかった。満足する気分になれる。誰かが言っていた。美しいものが、美しく見えるのは、その後ろに宝石箱を隠しているからだと。
 突然のサイレンで、私は我に返った。空襲警報。甲板の兵士達が高射砲座や対空機銃座へ駆け出してゆく。何者かがこの観艦式を襲撃したのか? 可能性がゼロでないにしろ、何かが起きた事は確かだ。すぐに避難すべき所なのだろうが、記者根性が出てすぐさまカメラを取り出し、舷縁に向かって駆け出した。どこかで指揮官らしい人物が、「撃つな! 撃つな!」と叫んでいる。どういうことだ?
 キャットウォークに飛び込んだ私の頭の上を、巨大な影が爆音と共にとんでもないスピードで通過した。

「えっ・・・!?」

 振り返った私は、その影の正体に息を飲んだ。私だけではない。その場にいた誰もが、信じられないという顔で、その影を追った。長大な翼を振るい旋回する機影。
 実体のある幽霊機。
 Ta152E改。
 幻などではない。朧ろげでもない。私の目に、はっきりと見えている。



 有川にとって、自身の身体の様に扱えるTa152E改で曲芸飛行のマネをするのは、わけのないことだった。ただ、高度に気をつけて好きなように飛べば良い。操縦桿から伝わるレイブンが「こう飛びたい」という意思を代弁するつもりで、有川はTa152を操った。
 空母を低空パスして、二回転ループ。三回目で機体を捻り、連続インメルマン・ターンと連続スプリットSを行い8の字を描く、バーティカル・キューバン8。再び空母の上空へ戻って高度300フィートをキープしたまま、4ポント・ロール。ターンして、今度はスロー・ロール。操縦桿を軽く横倒しにしながら、変化する揚力比に合わせラダーを効かす。ピタリと決まった。高度は変わらない。

「レイブン、何をしている! 危険飛行をやめろ!!」

 無粋な声が無線から響き、有川はため息をついた。どうやら、終わりらしい。相手の怒声は、本気で怒っているようだったが、すこし引きつっていた。理由は、わからない事もない。

「皇帝のリクエストだ。こちらレイブン、アプローチにはいる。コースを開けてくれ」

 後の皇帝がどうなったか有川は気にするつもりはなかったが、少し時間を取って着艦アプローチに入った。
 空母『エウロパ』の背後にまわる。フル・フラップ、ギア・フック・ダウン。三点姿勢を維持しながら、ゆっくりと降下。船尾を通過したところで、失速させフル・スロットル。機体が甲板へ降りると同時にフックが制動ワイヤーに掛かり、機体が前のめりになる。スロットルを下げ、Ta152E改は着艦完了。
 幽霊機が、周囲の人間を威嚇する。
 ワイヤーが外され、誘導員がおっかなびっくりした態度で前へ進むように指示を出す。すでに赤絨毯が敷かれていた。すぐに儀丈兵が行進し、その脇を堅め、Ta152E改にタラップが掛けられる。九条皇帝は毅然とした顔で、皆の前に現れた。拍手が起こる。
 甲板上で行われるセレモニーが終了すると九条皇帝を含めた大半の人々は、艦内ヘ入っていった。
 その後で、有川は操縦席から腰を上げる。立ち上がって、周りを見渡した。甲板の人影はままばらだった。僅かに残った整備員達が、疑心に満ちた目でこちらを見上げている。彼らは初めて幽霊機に乗る幽霊を見たのだ。
 なんとまぁ、たいした歓迎振りじゃないか・・・。
 幽霊は、薄笑いを浮かべ思った。



 私は、皇帝の記者会見をこっそり抜け出し飛行甲板まで戻った。落ち着こうと何度も深呼吸をしたが、焦らずにはいられなかった。Ta152E改が、そこにいるのだ。あの美しい鳥が。
 甲板に出て周りを見渡す。Ta152E改は甲板右舷側の待機エリアで潮風に吹かれ、羽根を休めるように佇んでいた。主翼が折り畳み構造ではないためエレベーターに載らないのだ。もっとも、格納庫に入れるつもりもないだろう。
 私がTa152E改に近づいても、制止はおろか誰も見向きしなかった。まるでそこには何もないかのように扱われていた。皇帝が往路にもTa152E改を使うと言えば、きっと厳重に警備兵を配置し、極上の待遇を受けていたかもしれない。けど、いまは精々帰投分の燃料を与えてやるぐらいの気しかないらしい。
 一歩一歩近づくにつれ、心臓の鼓動が増している。なにを緊張しているのだろう? きっと、あの機体が本当に生きている鳥のようにみえて、今にも飛び立ってしまうかもしれないと思っているのかもしれない。上面はダーク・グリーン系を主体とした迷彩模様、下面はグレイ系の単一色、その境を淡いウェーブが走っている。尾翼に降り返った黒い鳥の紋章。私の持っている写真と同じだ。長年の取材で、それが機体固有の識別マークらしいということがわかった。それ以外に自己を表すマーキングはされていない。あとは全て注意書きのステンシルの類である。
 私はTa152E改の前で立ち止まり、あらためてその精悍な鳥と対峙した。手を伸ばせば触れられる距離だ。私は自然と右手を上げようとしていた。

「何をしている?」

 突然、頭上から掛けられた声が私の動きをとめた。私が顔を上げると、声の主はTa152E改のコクピットから何かを射るような目で、こちらを見ていた。
 驚いたままの私が黙っていると、彼は主翼を伝って、甲板に降り私の前に立った。

「誰だ、あんた?」

 やはり、何かを射るような目で私を見た。睨んでいるのではないだろうが、気は許して無いという目だ。彼の声は底冷えするように冷たかった。

「アル・・・、アルタイル・リヴィングストンです。インペリウム・ツァイトゥングの記者です」

「記者? 皇帝なら、もう艦内にいったぞ」

 私は答えると、彼は首を傾げるような仕草をみせた。

「ええ、抜け出してきたんですよ」

 彼は、けして怒っている訳ではなさそうだった。冷淡な態度は、人見知りからくるものだろうか? 少し余裕が出来たのか、口元を緩めて少し笑顔を作る事が出来た。

「美しい機体ですね、Ta152E改。幽玄さを感じる。・・・さわっても良いですか?」

「さわる? 幽霊機に?」

 彼は不思議そうな顔で私を見た。無理もない。一般通論で言えば、自分から幽霊機に関わろうとする人間など稀代な存在に違いない。

「あんたはどこかの工作員か? 止めてくれ、壊されては堪らない」

「体に爆弾でも巻きつけて刺し違える覚悟で来るのなら、私はもう少し大きな獲物を狙いたいですね」

 「たとえば・・・」、と呟いて空母『エウロパ』の甲板を軽く足踏みした。
 笑いこそしなかったが、彼は「透けはしない」と答えてくれた。どうやら、許可を貰ったらしい。あらためて私は右手を伸ばし、Ta152E改の外板に触れた。今、私はこの幽玄な鳥に触れている・・・、とても信じられない体験だ。私の肌を圧迫しているのは、成層圏を支配する羽根を持った鳥に他ならない。神々に魅入られ、その領域に入る事の許された美しさを持つ鳥。

「夢みたい・・・」

 私は機体を撫ぜながら呟いた。感嘆でほとんど声にならなかった。

「子供みたいだな」

 彼が呆れたように言った。たしかに、私の行動は子供地味ていたかもしれない。けど、それはけして私の中では恥じるような事ではなかった。

「触る事は、見聞きするより大切ですよ。実際に触れてその手触りを感じることは、今まで知らなかった事を知る事ができる」

 私は、彼の方を振り向いて答えた。

「子供は純粋だから、そのことをよく知っている。私はそれに近い事をしてみたかった。
 名前を尋ねてもいいですか? あなたの名前」

「有川」

 有川と名乗ったパイロットは、キャットウォークの手摺りにもたれ、飛行服の胸ポケットから皮巻きのスキットル・ボトルを取り出した。あの目は、もう私を見てはいない。彼は空を見上げていた。私と同じように、いや、私よりずっと強い思い入れを持っているかもしれない。彼は、私よりあそこに近い場所にいるのだ。

「見事な曲芸飛行でした。帝国空軍曲芸飛行隊でも通じる腕をお持ちだ」

「いや、ソロだから楽なものだった。チームで飛ぶのなら違う難しさがある」

 彼がかぶりをふる。ソロ、と言う言葉が心に引っ掛かった。チームを組んだ編隊空中戦で戦う帝国空軍とは違い、幽霊機は常に単機飛行を前提としている。彼らは孤独に空を飛んだ。

「しかし、なぜあのような事を? いえ、あなたが来る事自体この観艦式の予定ではなかった」

「人間が集まれば、いろいろ問題がおこる。エゴや確執、その為の駆引き。帝國や皇帝も例外じゃない」

 この観艦式は海軍の予算確保の為に行われている。それは私も考えていたから、彼の言っている事はわからないでもなかった。まさか、皇帝まで利用しようとしたのは以外だが、それに抗する為実体のある幽霊機が使われたらしい。
 ではなぜ、彼らでなければならなかったのだ?
 「幽霊機に乗るのは幽霊」と彼が言った。

「招聘された理由を上げるとすればそれだけだろう」

 無味乾燥した口調で平然と答えた彼に、私は言葉を失った。「幽霊機に乗るのは幽霊」、それは実体のある幽霊機の特質を現すのに十分な言葉だ。幽霊機は、そこに在って無い存在だ。まれに、帝國空軍の戦闘機が幽霊機に襲いかかるという事件が起こる。帝國軍にとって幽霊機は目障りな存在でしかないわけで、その動機は様々考えられる。幽霊機はその飛行性能を持って回避運動を行うが、戦闘が避けられない時、なんの躊躇も無く帝國空軍の戦闘機を撃ち落とす。
 そんな噂を、私は耳にしたことがあった。しかし、それらに関しては全くと言ってよい程わからなかった。普通なら、それは十分な確信をもった故意による同士撃ちという重大な事件として扱われるはずである。それなのに幽霊機関係の事件の資料が残らないかといえば、幽霊機はその名の通り幽霊だからだ。人と人が事を起こせば、それは事件になる。しかし、相手が幽霊では、それは災難でしかない。帝國にとって幽霊機はそれに乗る者も含め、そのような存在なのだ。
 滑稽だ。と、それを知った時私は思った。理解はしたが納得のいかない事をそう結論付けた。けど、今その当人すら認めていることを知って、自分が浅はかであったと思い知らされた。

「あなたにとって、帝國とはなんですか?」

 馬鹿げている程無意味な質問だとわかっていたが、そう質さずにはいられなかった。

「帝國は、あなたの存在を無視している」

「帝國からどう思われようが、知った事じゃない。俺に限って言えば、帝國は止まり木のようなもんでしかない。俺が気に掛けるのは、こいつの機嫌と、空模様ぐらいだ」

 彼は、わざと味気ない答えをしているのではないか? そんな疑念が私の中に生まれていた。けど、彼が自分の愛機を見つめる表情に、私は彼が純粋に飛ぶ事が好きなのだと悟った。
 人間は本能では飛べない。だが、パイロットと言う人種には、本能として飛ぶ事を知っている者がいるという。彼がそうなのだろうか? あの射るような目は、鳥の目だ。そしてTa152E改は彼の翼だ。気高さすら感じる程の空の高みから世界を見渡す鳥。

「世界の闘いを、
 晴れ渡った高みから谷間にただよう霧を眺めるように、
 わたしは眺めていた。
 わたしは寡黙な、
 誇り高い、
 人生の客人だった」

 私は、手摺りに寄りかかり散文詩の一節を呟いた。故郷に伝わっている古い詩だ。

「世界や帝國は、空の上から見ればちっぽけな存在ですか?」

「下から見上げれば、俺もちっぽけに見えるだろう」

 私達の会話を、凄まじい砲声が打ち消した。
 訓練展示が始まったらしい。空母の横に並んだ重巡洋艦から、祝砲が放たれている。けたたましい砲声が轟くたびに空気が振動し、帝國海軍はその威容を見せつけていた。

「私の目から見る帝國はとても強大です。でも、その本質にあるのははあなたのような異世界からの異邦人だ。あなた達は、本当に伝説にある『救世主』なのですか?」

 『救世主』という言葉に、彼は肩をすくめ自嘲するように口元を歪めた。まるで「馬鹿らしい」とでも言っているようだった。
 式典塗装されたAD-1スカイレーダーの編隊が空母の上空をパスする。一斉に旋回、ファン・ブレイク。艦橋のウィングに集まっていた観客達を楽しませる。
 私はそれを不思議な思いで眺めた。彼らの創り出すものは、この世界には無かったものだ。しかし、ちゃんとステップを組めば、それらはけして辿りつかない事ではない。彼らはその行程を飛ばし、結論だけを創り出している。ありえない事だ。いかなる技術も、それは経験と練磨の蓄積から成り立つものなのだ。では、彼らはどこでそれを身につけた? ・・・異世界で、としか考えられない。彼らは、異世界で身につけた技術や文化を使い、この世界に帝國という自分達の領域を広げている。そう、インビンシブルな。
 そうだとしたら―

「まるで・・・、あなた達は、この世界を自分達の世界に塗り替えようとしているようだ・・・」

 しまった、と口を塞いだ時はすでに遅かった。思わず口にしてしまったが、聞かれただろうか? いや、聞えてしまっていたはずだ。私は恐る恐る横目で彼の方を見た。彼は目を閉じて何かを考えていた。

「それが本旨かもしれない」

 彼はスキットル・ボトルを呷って「壮大な胎内回帰だ」と苦笑した。彼は一体何を考えたのだろうか? 私にはわからなかったが、さっき漏らした言葉が的外れでは無いように思えた。

「なら、この世界は俺達をどうする気になる? 俺達は異端だ。客人ではない」

 「・・・もし、そうなら」と私は呟く。「わからない」とは言えなかった。あの時の寒気、そして今も私の中にある帝國への疑念。それは異世界の手触りだったのだ。

「世界は全力で抵抗しようとするかもしれない」

 あなた達の世界が、この世界から排されるまで。もしくは、この世界をあなた達の世界が取り込むまで。
 彼は無言でスキットル・ボトルを飛行服のポケットにしまった。Ta152E改の給油が終わり、もはや彼がいる理由は無くなる。今おこなわれている展示飛行の終了後、飛び立つ事になった。
 私は取材用のバッグの中から、一枚の写真を取り出し、彼に差し出した。例のTa152E改の写っている写真だ。

「これは?」

「尾翼の紋章・・・、これは、あなたですね?」

 彼は不思議そうに写真を受け取り、「そうらしい」と頷いた。
 写真を返そうとした彼に、私は首を振った。

「貰って欲しい。私達が会う事は、もう無いんでしょうね。まして、こうして話すような事なんて。
 私にとってTa152はちっぽけな存在じゃありません。こうして、間近で見る事も、触れる事も出来た。あなたのおかげです。ありがとう」

 彼はもう一度写真を見つめ直し、「よく撮れてる」と言って貰ってくれた。
 カタパルト士官が面倒臭そうにコンソールに着く。見送りなど、私ぐらいのものだった。コクピットに収まった彼はTa152E改と一体になり、鳥のように空を舞った。ぐんぐんと高度を上げ、空へ帰ってゆく。
 私がTa152E改に触れた時、右手は金属の中に流れる生命を感じていた。それは異なる世界の垣根さえ取り払う神秘的な力を持った気高い血潮だったのかもしれない。その根源は、本能として飛ぶ事を知る人間の本然だった。
 彼に「あなたは人間だ」と言ってやれなかった事を、私はすこしだけ悔やんだ。人々は彼から全てを奪い去っていったが、彼は人間の本然を失ってはいなかった。私は、それを確信した。他に幽霊と蔑まれ、自らも幽霊と自嘲しながら、彼は独自に世界に対している。それが何よりの証明だ。
 巨大な蒼穹を眺めながら、私は満たされた気持ちになっていた。



 数日後、観測飛行を終えた有川は、いつものようにバー『ギムレット』に訪れた。ピクルスをつまみに飲んでいると、ふと、あの観艦式で会った変わり者の記者の言葉が頭をよぎった。

「まるで、あなた達はこの世界を自分達の世界に塗り替えようとしているようだ」

「世界は全力で抵抗しようとするかもしれない」

 なかなか、身につまされる言葉だった。それは、空から見ている自分でも何所かで感じていたのかもしれない。
 空から見ていると帝國は、まるで壁にペンキを塗る様に世界を染めている。油絵の出来具合が気にいらない芸術家が、重ね塗りをするように自分達の色に塗る。郷愁か? いや、そんなもんじゃない。きっと、誰も意識なんかしていない。もっと奥、そう生存本能ぐらい深いところで力が働いているのではないのか。自分達には、もう退路は無いのだから。
 しかし、色が塗られるのは壁やキャンバスではなく、起伏のある大地であり領土である。世界は常に抵抗している。風や、土や、人を使って。

「世界を相手に、か・・・」

 呟いて、有川は小さなため息をついた。
 なんだ。それじゃあ前の世界と変わりないじゃないか?
 ドアが開いてデネブが入って来た。日課の礼拝が終わった後で来たらしい。片手に新聞紙を持ったまま、軽い挨拶をして有川の向かい側に座った。夕食をここで取る気なのか、けっこう注文する。

「なんだい、その新聞?」

「インペリウム・ツァイトゥング紙、三日前のものだけどね。あの観艦式が特集されてるわよ」

「皇帝は妖精に乗ってきたことになってるか?」

「ふれてないわね。残念だった?」

「いや、それでいい」

 注文したものが運ばれてきた。ミートパイをメインに、ミネストラスープ、ライ麦パン、野菜サラダの盛り合せなど、それまでグラスとピクルスぐらいしか置いてなかったテーブルが賑やかになる。

「観艦式、あなたはどうだったの?」

 フィシュ・アンド・ポテトをテーブルの中央に置いて、デネブが尋ねた。

「少し居ただけだよ。大した出し物を見る前に帰ってきた。
 ああ、でも・・・」

 有川は、一枚の写真を取り出しテーブルに置いた。

「なに、これ?」

「貰ったんだ。なかなか美人に撮れてる」

 Ta152E改を撮った写真。デネブはそれを手に取り微笑んだ。

「ふふん・・・、本当は、けっこう楽しんでいたんじゃないの? 有川」

「損はしなかったと思ってるよ」

 はにかんだように笑い、有川はそれを隠そうとグラスを傾けた。

「皇帝のものは皇帝に、主のモノは主に、レイブンのものはレイブンに返って来たんだ」

 写真を眺める有川は上機嫌だった。
 まるで空を飛んでいる時のようだ、とデネブは思った。



最終更新:2007年10月31日 01:58