外伝Ⅱ 不帰順領域 第4話


 高度10000メートルを越える高さへ昇ることは、神の領域に接するのと同じ事を意味する。それは、かつて音速の数倍の速さで飛ぶ戦闘機に乗っていた有川さえ感じていた。地上とは隔絶され人間の世界に帰順しない、もう一つの世界がそこにあった。
 左右に目一杯に首を振って、索敵をしていた有川が一瞬だけバックミラーに目をやった。

「空に上がればどんな感傷も忘れるんじゃなかったの?」

 後席でコンソールのデネブが微かに笑う。

「痛まないか? この高度では与圧しても高山並の気圧しかならない」

「別に怪我をしたわけじゃないのよ」

 青い左目が透き通って、背後の空と同化して見えた。

「でも、不思議ね。左目を失ったとき、世界が半減した気がした。でも、ここに来たらまた戻って来たように思えてくる」

「片目を覆うぐらいで塞がれる世界じゃないのさ、ここは・・・」

 饒舌になりかけた有川の言葉がまた途切れる。

「たまに、なぜだろうと思う。大気は希薄で、凍り付く様に寒い、雲すら地面にへばりついているようにみえるのに、どうして心細くならないのか。広々として、コンパスがあっても、時々自分の居場所を見失いそうになるのに」

「ここは魂が帰る場所なのかもね」

 パイロットは空で死にたがる。自分もそうだ。きっと、天へ昇る階段を横着する気だからだろう。
 そう思うと、なんだか笑えてきた。
 この途方もない空で、僅か40メートルの金属片を探しTa152E改は飛んでいた。

「何だろう? UHFをキャッチ、極超短波よ」

 ESMセンサの捉えた反応をデネブが伝えた。

「極超短波だって? 無線でも使っているのか」

「それはおかしいわ。単機の飛行って事は隠密性の高い任務って事でしょ?」

「そのはずだ・・・、周波数はわかるか?」

「5000MHzで安定してる、なんだろう? 受信もしているけど、相互通信の感じじゃないわね」

「5000MHz?・・・ そうか気象レーダーを入れたな。デネブ、間違いないそいつが爆撃機だ!」

「近い! 4時方向、高度下」

 Ta152E改は、多少の高度を犠牲にしながら右旋回を始める。

「レイブン、エンゲージ」

 交戦宣言を短く叫ぶ。
 ラダーを踏み込む時には有川の感傷は、切り捨てられた増槽のように消えていた。



 B-29Dスーパーフォートレス“サンダーボルト号”が気象レーダーを入れたのは、目の前に積乱雲が張り出してきたためであった。どんな無敵の巨人機も自然の織り成す猛威の前では、枯れ葉のようにもてあそばれてしまう。最終爆撃航路に入ってからでは容易に進路変更などできないため、なるべく雲を避けたコースを選ぶ必要があった。

「クソ、ここまで来て雲か!」

 機長席に座る富岡少佐が毒づいた。目の前に迫る雲海に対し、逃げ場を求めるように転進するのが癪にさわった。

「航法! ガルガレオまでどれくらいだ?」

「ETAは変わりません。ボム・ランまであと3分」

「総員戦闘配置! 各銃座は配置に付け」 

 隣のコ・パイ席に付いていたバグナード中尉が「必要ありますか」とぼやいた。

「たかが訓練ですよ。迎撃機なんて・・・」

「黙れ! 訓練だろうと、いつも通りやるんだ!」

 そうだ。これは訓練なんだ。
 富岡少佐はもう一度自分に言い聞かせた。
 いつも通り、荷物を必殺範囲に運ぶだけだ。爆弾倉に入っているのがなんだろうと、自分には関係ない! 無難にやり遂げ、階級章に星の一つでも増やせればめっけものと考えていればいいのだ。
 後方気密室と尾部気密銃座から、準備が出来た事を知らせる応答が返される。 
 B-29D爆撃機の銃座は、12.7ミリ口径の四連装銃座が機体前部の上下に二基、機体後部にも同じく上下に二基、そして尾部に20ミリ機関砲が一門という配置である。さらに、それらの銃座は遠隔操作装置によって連結され、仮に何処かの銃手がやられても銃塔が動くのであれば、他の銃手がすぐに変わりになる事ができ、弾幕を薄めない最大限の設計がされていた。

「しっかりの見張れよ」

 「了解」と返される。
 富岡少佐も銃座に活躍があるとは思っているわけではなかった。
 このB-29D爆撃機の飛ぶ高度10000メートルの高々度に上がれる脅威などそうありはしない。
 大丈夫だ。俺が不安なのは、やはりあの荷物のせいだ。核爆弾、神をも恐れぬ悪魔の化身を俺は運んでいるからだ。くそ、サンダーボルト号が酷くのろのろと飛んでいるように感じる。
 本当に、あの荷物のせいだけなのか?
 なんだ、このイライラする感じは?
 ひょっとしたら、これが虫の知らせってヤツじゃないのか?

「太陽から何かくる! 速い!?」

 後上部銃座手の叫びで、富岡少佐は太陽の方角に首を振った。逆光を浴びた漆黒の影が、こちらに迫ってきた。

「なんだ、コイツ!?」

 バグナード中尉が叫んだ。
 影がB-29Dの前を横切る。鈍い衝撃が機体を揺らした。

「敵襲! 敵襲! 敵襲! 撃て、撃てッ!!」

 各銃座が発砲を開始する。総数16門の砲火が火を吹く。弾幕と呼ぶに相応しいだけの銃弾がB-29Dの周りを覆っていた。

「敵は、敵は何所だ!?」

「馬鹿! 二時方向だ! くるぞ」



 B-29Dを飛び抜けたTa152E改は、降下で稼いだ速度をそのまま上昇に使った。銃撃がTa152E改の背後を掠めてゆく。

「化け物・・・」

 後席のデネブがB-29D“超空の要塞”の凄まじさに驚愕する。それは、空を飛ぶ飛行機としての巨大さでもあったが、それが放つ咆哮に対してでもあった。鯨のように巨大な爆撃機が、その姿を纏うかの如く銃撃をおこなっている。
 前席のバックミラーで見る有川は、鋭い目つきでB-29Dを射すくめていた。まるで猛禽類のそれを思わせる目、怖いとか、恐れることさえ忘れさせてしまう。
 Ta152E改が緩いバンクで反転する。旋回弧はかなり大きい。
 高々度の戦いでは、急旋回や宙返りといった派手な急機動はない。第三者には、すべてはスローモーションのように映るかもしれない戦闘だ。しかし、戦う者達は僅かに持てる揚力で重力に反発しながら、高度と速度を天秤に掛け、空を飛ぶ技術の全てを駆使して戦っていた。
 再び速度をつけて降下、レティクルの投影されたReviC12/Dに巨大な機影が迫る。

「距離、3000・・・、2000・・・」

 レーザーレーダーで計る相対距離を読み上げる。直接見るのではB-29Dの巨体で幻惑して距離を見誤りそうになった。地上で駐機してあるB-29Dならば見かけた事があったが、空を飛んでいるものとはまったくの別物だ。

「I(インディア)・バンドをキャッチ! 狙われているわよ有川!」

 TEWSの脅威ライブラリーを注視していたデネブが警告する。帝國のB-29Dには索敵と射撃管制用のための対空レーダーが装備されていた。

「ECM、スポット・ジャミング!」

 Ta152E改からB-29Dの対空レーダーが使用する周波数を直接狙ったノイズ・ジャミングが始まり、B-29Dの射撃管制が乱される。レーダーを管理する航法士が、すぐさま周波数を変更して対抗手段に出たが、それに一瞬の隙が出来た。

「フォックス・スリー」

 有川はその隙を付き、後上方から横滑りを掛けてB-29Dに向けて突撃する。B-29Dの周囲はすでに、猛烈な砲火で弾襖が出来あがっていた。
 距離100。Ta152E改が撃つ。
 三束の火線が大気を切り裂き、B-29Dの胴体と右主翼内側のエンジンが貫かれた。



 B-29Dの機内では、機関士がすぐさま被弾した二番エンジンをフェイザリングさせ、給油系統をカットする作業に追われていた。咳込みをするワスプメジャー・エンジンが落ち着きを取り戻しながら、死という安らぎを迎えた。

「被害報告!」

 富岡少佐は、急かしながら機体のバランスを取るため左翼の機関出力を絞った。

「二番エンジン停止!」

「ランクが殺られました、後上部銃塔を切り換えます」

 「くそォ・・・」と富岡が悪態を吐く。僅か二度の攻撃でこの様だ。後部気密室が撃ち抜かれた事で、酸素マスクをしなければならなくなり、機内にガスが掛かったが、それはじきに晴れた。エンジンも、消火装置が働き火災という最悪の事態だけは辛うじて防ぐ事が出来た。
 だが、自分とB-29Dは確実に追い込まれている。それもたった一機の正体不明機によって、それが富岡を焦らせていた。

「爆撃手、爆弾倉を開けろ!」

 コクピットの前にいる前部上下銃塔射手を兼用する爆撃手が、ぎょっとして振り返り「まだ投爆地点じゃありません!」と抗議した。

「かまわん、やれ!」

 富岡が有無を言わせぬ口調で命じる。
 核爆弾の破壊力なら、多少外したところで変わりない。B-29Dは、奇しくもドロシー機が消息を絶った場所、すでにガルガレオ高地の端に差し掛かろうとしていた。



 Ta152E改にしても、まったく攻め倦ねている状態だった。こちらのジャミングに対して、B-29Dのレーダー士が機転を効かしたらしく、周波数を変えるのではなく出力を上げるという対抗手段に応じてきた。単純に考えれば、こちらは単発、B-29Dは四発、それも3500馬力という大出力エンジンを持っている。電子戦の勝敗に大きく作用するパワープラントでは、一発が失われたとはいえ以前B-29Dが優位を保っていた。
 それに加え、潰したはずの後上部の銃塔が再び息を吹き返し、完璧な射撃統制がされた弾幕は一分の隙も無くTa152E改を寄せ付けはしなかった。

「爆弾倉が開いた!?」

 デネブの声に、有川は身体が強張るのを覚えた。高々度の寒さではない、過去の過ちを再びおかそうとしている恐怖が背筋を伝わる。そして、覚悟を決めさせた。
 残り僅かとなったGM1用の亜酸化窒素をチャージャに叩き込む。Ta152E改が弾かれたように急加速してB-29Dの前に飛び出た。
 切り返して反転。
 B-29Dの目前を占位。
 ReviC12/Dの示す射軸を、巨大な爆撃機に引き寄せる。一呼吸もない僅かな間。その時間が、引き伸ばされてゆくように長くなる。
 有川は、それが自分の身体がTa152E改から引き離されてゆくような感覚に感じた。それまで、常に一体になっていた飛行機からの声が聞えた。「お前の戦いだ、お前が決めろ」と告げているようにTa152が離れてゆく。
 それでいい、私怨の戦いだ。
 トリガーを引く。



 B-29Dの搭乗員達は、体当りするかの如く突っ込んでくる敵機に震駭していた。幾重もの火線がその後を追っていたが手遅れだった。

「敵機前方ッ!」

 バグナード中尉が叫喚する。
 富岡は最後の瞬間、その姿を見た。天使でも悪魔でもなく、ヴァルハラから舞い降りた裁定者の姿を。
 その刹那、30ミリ徹甲炸裂弾がB-29Dのコクピットを粉砕した。



 Ta152E改は、まるで吸い寄せられるようにB-29Dに接近していた。咄嗟に、操縦幹を動かそうとしたが加速がつき過ぎ三舵の動きを鈍らせる。FOX・4(空中接触)を覚悟したが、最後の瞬間に右翼が胴体を掠めTa152E改は離脱、その途端B-29Dの過流に飲まれ機体を木の葉のようにもてあそばれながら、高度を落とした。

「爆撃機は・・・?」

 有川が背後を降り返る。巨大なモービィディックが傾いている。止まる事なく傾斜していた。そのうち、エンジンが火を吹き始め、炎が翼に伝わっていくのが見えた。それを消火する装置と人間は、すでにこの世にはいなかった。
 あれは、火災が起こっている? 
 有川がそう思う間もなく、B-29Dで起こった火災は燃料タンクに引火し、爆発。主翼が引き千切れ飛ぶ。

「有川?」

 B-29Dの最後を見届けた時、気を失い掛けていたデネブが、ようやく正気を取り戻した。
 「落とした」とだけ有川が返す。なんの満足感も、達成感もない、虚しさだけが残った。結局、失った時間など取り戻す事は出来なかったのだ。そうとわかっていたのに。虚しい以外なんでもない。

「悪いけど、まだよ」

「そのらしいな」

 現実が急かせる。今はその方が良かった。
 前方に積雲を睨み、有川はスロットルに手を掛ける。雲は、普通ではありえない速度でTa152E改を覆うように広がっていた。これが結界なのだと、有川とデネブにはわかっていた。

「降りて来い、と言うことか・・・」

 雲に覆われる前にTa152E改は高度を下げ、結界の中へ降りた。



  Ta152E改は、湖の上で一度旋回すると、目印となる巨大な樹へ機首を向けた。あの術師、ランサスの居場所はわかっていた。

「有川、気を付けて。ラムサスは何か仕掛けてくるはずよ」

 有川が頷き、残弾を確認する。Mk108は全て使い切り、Mk151もあと僅か。機銃掃射で人間を狙うのはどうかと思ったが、他に手段がない。地面に降りれば、そこは奴の領域だ。
 地上から見たときは、湖からかなり離れて見えた巨大な樹はもうすぐだった。フラップを半分下げ、減速。巨大な樹を中心にターンする。
 バンクを付け、その下の広場を確認。黒い外衣を着た人影、ラムサイがこちらを見上げていた。
 旋回、再度射撃コースを捉える。緩く降下するアプローチ。降下率は着陸時より僅かに高めだが、機首は下がったままだった。操縦幹を握る手は、素直に動いていた。
 ラムサスへの敵愾心は、不思議と無くなっていた。自分が軍隊にいた頃、命を賭す価値のあるものは回りに沢山あった。それは間接的にも国のためだったのかもしれない。自分はその多くを失ってしまった。それをまだ捨てずにいられる事は、すこし羨ましくも思った。しかし、敵という関係は変わりない。
 トリガーを引く寸前、目の前を何かが遮った。

「なに!?」

 突然、森から飛び出してきたワイバーンが全身に銃撃を受け、そのまま身体を仰け反らせて崩れ落ちる。
 Ta152E改がナイフ・エッジを切って、ワイバーンを避けた。

「あいつッ、ワイバーンを楯にしやがった!?」

「後ろ!」

 振り向く間もなく、ファイヤーブレスが襲い掛かる。翼をほぼ垂直に立てていたTa152E改は、咄嗟にフラップを下げ、そのままバレルロールに持ち込む。
 有川も、ワイバーンを見た。二匹が後ろから追ってくる。おそらく、ここにいる最後の魔獣だ。始めは五匹いたが、あの二匹しか生き残ってはいない。
 フラップを上げ、スロットルを全開、さらにMW-50を使い加速で引き離す。エルロンロールを打って、旋回上昇。Gで身体が重くなる。
 有川は、首を振ってもう一度ワイバーンを確認する。まっすぐとこちらに向ってきた。口が開く。
 トルクを利用したロールでブレスをかわしながら高度を下げる。高速でワイバーンと交差。向こうが旋回する前に、上昇反転で背後を取った。
 「チッ」と有川が舌打ちする。Ta152E改の残弾は既に尽きていた。

「湖へ!」

 後席のデネブが叫んだ。

「湖?、どうする気だ!?」

 尋ねながら有川が指示に従った。ワイバーンの頭上をパスして、こちらに誘う。有川の予想通り、二匹のワイバーンはTa152E改を追ってきた。更に高度を下げ、梢を擦るほど低空を飛んで湖を目指す。速度ならワイバーンに負けることはない。

「ワイバーンを湖に落として!」

 無茶を言う、と思った。生まれたときから翼を持った空を飛ぶ生き物を相手に、こちらはかりそめの翼で飛んでいるだけに過ぎない。だが、有川は挑戦する価値のある事だと思った。空を飛べるのなら、これがラスト・ダンスになっても、まんざら悪くはない。
 湖の上に出る。朝日が反射して、湖面がキラキラと光っていた。

「いくぞ!!」

 機首を上げ高度を稼ぎ、頂点で切り返しアプシュワンに移る。
 スロットル・スローで減速。ワイバーンを引き付ける。スロットルを下げたまま、機体を左に横転させ旋回。しかし、ラダーは右に踏んでいた。高度が若干あがるが、速度が急激に低下する。
 機体が不気味に震動したと思うと、突然機首を下げ回転し始めた。

「風が離れる・・・!?」

 横からのGを堪えながらデネブがうめいた。
 Ta152E改がフラット・スピンに陥る。揚力を逃がした飛行機は、石ころと同じだ。しかし、有川はあえてそれをやった。
 Ta152E改が錐揉みしながら急降下、ワイバーンが、その後ろから襲い掛かる。
 三回転目で、回転方向とは逆にラダーを当てた。ヨーイングは徐々に効き始めたが、湖は目の前だった。
 間に合う! と有川は確信した。
 フル・スロットル。フラップ・ダウン。引き起こし。
 湖面に激突する寸前で、機首が僅かに上を向く。エンジンが唸りを上げ、Ta152E改は湖面を飛び抜けた。飛沫がワイバーンから視界を奪い、Ta152E改が掻き消えた。スピードを殺し切れなかった一匹が湖に突っ込み、水柱を立てて落ちた。
 Ta152E改はターンすると、そのまま上昇しすぐに反転した。

「まだ、一匹!」

 最後の一匹を探そうと有川が首を振った。ロールを打って背面で低空も探す。見つけられなければ、一度離脱しろと、戦闘機乗りの本能が囁いていた。

「必要ないわよ・・・」

 デネブが告げた。何もかもが終ってしまったような言い方だった。それは有川には、にわかに信じられなかった。湖面の様子がおかしいのだ。
 まだ、波立つ湖面からワイバーンが起き上がっていた。 

「まだ、生きてる!」

 スロットルに力をこめた有川がもう一度湖に目を遣る。だが、様子がおかしかった。ワイバーンはこっちへ向ってこない。水面への激突でかなり負傷しているのだろう、よたついた飛び方だった。

「あいつ、どこへ?」

 有川がワイバーンの前方に視線を巡らせる、あの巨大な樹が映った。

「まさか・・・」

 ワイバーンは、最後の力を振り絞り飛んでいる。そして、あたかも求めていた死に場所のように、巨大な樹に倒れ込んだ。
 有川が唖然として、それを見ていた。何が起こったのか、わからなかった。目だけが勝手に動いて、最後に残った一匹を見つけた。
 まるで、瞑目しているように横たわる仲間を見つめていた。

「結界は解けたわ・・・」

 かすれた声が、有川を現実に引き戻す。

「デネブ?」

「高度を上げて、空に・・・戻りたい」

 あの不快な結界の霧は、すでに消えていた。Ta152E改はスロットルを開放し、急上昇。雲海を抜け、果てる事のない空へ昇ってゆく。操縦幹を押し、水平飛行に戻る。朝日を横に見ながら飛んだ。高度9000メートル、速度340ノットを計器が指し示した。シリンダ温、排温、油温、過給器圧力、コクピット与圧、異常無し。エンジンは軽やかに歌っている。

「何が起こったんだ?」

 有川が尋ねたが、返事は帰って来ない。

「知ってるなら、話てくれ」

 沈黙が、有川を不安にさせた。それ以上声を掛ける事が出来なかった。
 しばらくして、しゃくりあげた声がぽつぽつ無線から零れた。

「ラムサスは、森としか契約していなかった。森を媒体にワイバーンを操っていた。ワイバーンを湖に落とす事で、森の領域から切り離したのよ・・・」

「それで、ワイバーンが自我を取り戻した?」

「使役の契約が破られれば、術士はその報いを受ける」

「ラムサスは、報いを受けたのか」

 すすり泣く声でデネブが呟いた。

「私はひどい人間だ・・・ それを、利用した・・・」

 有川は何も言わなかった。彼女が左目を差し出したのは、このための償いと思ったのかもしれない。空を飛んでいるのにつらい。
 コンパスを見つめ、一言だけ告げる。

「帰投する、RTB」

 デネブが頷き、涙をぬぐいキャノピーの外を見た。左主翼の先から飛行機雲が出来ている。その向こう側に、失ったはずの左目で気流が見えた気がした。
 果てしなく続く遠い道のような光景。天国は、きっとこの先にあるのだろう。見てると、また泣けてくる。
 彼女の左頬に、もう軌跡が引かれる事はない。
 かわりにTa152が、欠けた左翼端から涙を流していた。



最終更新:2007年10月31日 01:33