序章 船出


 深夜の闇の中に無数の光がきらめき、軍艦の起伏に富んだシルエットを幾多も浮かび上がらせている。
 京都府舞鶴の海上自衛隊基地では、旗艦を務める輸送艦「たんご」を先頭に、試験艦「しゅり」、イージス護衛艦「くろひめ」、汎用護衛艦「かすみづき」、補給艦「さろま」から成る計5隻の艦隊が、夜を徹しての出航準備を行っていた。 
 「しゅり」艦長兼艦隊副司令の安達原康行一等海佐は桟橋の一角に立ち、乗組員が艦と桟橋とを往き来して物資の搬入作業をしているのを不快そうに見ていた。部下達の手際は、決して彼を苛立たせるほど悪いものではなかったし、自分が着ている白い半袖制服に目立つ汚れが付いたわけでもなかった。
(行きたくない)
 これが安達原の本音であった。
 21世紀に何の根拠もなくバラ色の未来を描いていた人間の夢は、その最初の年である2001年に早くも無残に打ち砕かれた。
 宗教対立や民族問題による地域紛争は全世界で何ら変わらず続き、世界一の超大国アメリカ合衆国は衝撃的なテロ攻撃によって、多くの人命と共にその威信を失った。アメリカ政府は問題を粘り強く確実に解決するよりも、テロリズム撲滅のためと称する戦争を起こすというエゴイズムで鬱憤を晴らし、虚勢を張ることを決め込んだ。
 5隻の艦隊は、対イラク攻撃作戦準備に向け極秘行動中のアメリカ海軍第7艦隊を支援すべく、演習の名目でインド洋へ向かうことになっていた。
 日本は同時多発テロ事件後に電撃的に成立させた法律に基づき、米軍のアフガニスタン攻撃開始とほぼ同時期から、海上自衛隊の護衛艦や補給艦を派遣しての支援業務を行っていたが、それはあくまで後方での補給任務に限定されていた。
 しかし今回の派遣には、アフガン戦の際には見送られたイージス護衛艦の派遣や、陸上部隊の同行なども盛り込まれていた。
 ギリシャ神話の万能神ゼウスが戦の女神アテネに与えた、一切の邪悪を防ぐ盾“イージス”にちなんで名付けられたイージス艦は、艦橋の周り四面に配置された八角形のフェイズド・アレイ・レーダーによる全周360度の三次元探知機能を持ち、200以上の目標を捕捉・追尾し、うち12目標を連続的に迎撃可能な同時多目標処理機能を備えている。その気になれば、イラク海軍などは1隻で地球上から消滅させることが可能だ。
 「くろひめ」は、日本初のイージス艦「こんごう」型の5番艦で、基準排水量は7250トン。約100キロの長射程を誇るスタンダードSM-2ER対空ミサイルを始め、ハープーン対艦ミサイル、全天候射撃が可能な127ミリ速射砲、毎分3000発の弾幕を張る20ミリバルカン・ファランクスといったハイテク兵器を、ハリネズミのように搭載している。まさに、スーパーコンピューターと電子機器でできた艦隊の盾である。
 これに同行する2隻の戦闘艦も、世界でトップクラスの戦闘能力を持っていた。
 「はづき」型汎用護衛艦の2番艦である「かすみづき」は、同時期に建造された「たかなみ」型と比べて大幅な船体のコンパクト化とステルス性向上を実現しながらも、全く同じ強力な兵装を備えている。
 安達原一佐が主の「しゅり」は、旧式護衛艦を改造し各種新型艦載兵器のテストベッドとしたものであるが、新たに搭載したFCS-3ミニ・イージスシステムと次世代型三次元レーダーの組み合わせにより、目標処理機能を格段に向上させていた。5インチ砲やボフォース対潜ロケットランチャーなどの旧式兵器と、XSSM-2新型対艦ミサイル、ゴールキーパー30ミリバルカンCIWS等々の最新兵器を併せて装備した、ユニークかつ強力な艦である。
 「しゅり」で特に注目すべき点は、新設されたヘリコプター格納庫に2機の新型航空機を搭載していることである。SH-60Kシーホーク改対潜哨戒ヘリと、米軍の新型多用途機であるV-22ティルトローター機に早期警戒管制システムを移植したXEV-22オスプレイがそれだ。
 各艦に燃料、武器弾薬、水、食糧等の物資を供給するのが役目の補給艦「さろま」は、コンピューター制御の自動補給システムを完備しており、これらの物資を約1万5000トン積載できる。
 圧巻は基準排水量1万5550トンの大型輸送艦「たんご」だった。この最大の自衛艦は完全武装の揚陸部隊1100名を収容でき、ヘリとホバークラフト揚陸艇2隻を使用しての高速・立体的な揚陸作戦が可能となっていた。空母型の全通甲板を有していることで話題を呼んだ「おおすみ」型とは異なり、前部甲板に艦橋構造物を寄せ、中・後部を長大なヘリ格納庫と発着甲板に充てているのが特徴である。
 「たんご」によって輸送される陸上自衛隊第1危機即応連隊は、中部方面隊所属で総隊員数1040名。7月に発足したばかりで錬成中の新部隊であるが、隊員は全国各地から集められた精鋭揃いだった。周辺有事においての邦人救出や原子力発電所警備を想定して、駐屯地は舞鶴市内にある。自衛隊海兵隊とも呼ぶべき、自己完結性と機動性に優れた部隊である。
 この他にも「たんご」には、艦内の特殊警備並びに不審船の立入検査を担当する特別警備隊員や、FF-X試作水上戦闘機2機のテストを行う航空自衛隊の航空業務支援小隊も乗り込んでいた。
 しかし、現時点でイラクに対する軍事行動を起こすだけの大義をアメリカが持っていないことは、明白だった。しかも、後方支援任務にしか参加できないはずの自衛隊が、なぜこのような実戦的な装備を多数持ち込まなければならないのか、という疑問に対する防衛庁上層部からの回答は一切なかった。無論、このような作戦を国民に一切非公開で行うのは、憲法はおろか自衛隊の存在意義そのものに反する。
 が、派遣される当の自衛官らはそのようなことは関係なしに、ただ上の命令のまま動く以外できないのである。安達原の不満は、それ一点にあった。
「機嫌が悪そうだな」
 安達原の横に、陸上自衛隊の迷彩服を着た40代の男がやって来た。口髭の他にも無精髭をびっしり生やしている安達原とは対照的に、カミソリをよく当てた血色のよい丸顔にメタルフレームの眼鏡を掛けている。
「お前に関係ないだろ。それより部隊の乗り込みは、もう終わったのか」
 男は、第1危機即応連隊長の丸ノ内陽一等陸佐だった。安達原とは防衛大学校の同期生で、以来悪友の間柄にある。在学中は、反骨精神の強い安達原が何かと教官や上級生と問題を起こすたびに、丸ノ内が頭を下げて回ったこともあった。
「ああ。あんたの用足しよりも素早く乗艦したぞ。車両や物資の積み込みもとっくに終わってる」
 丸ノ内は軍隊流の下品な言い回しを交えつつ、自分の連隊の精強さを語った。
「今の時点で早々と不愉快にならない方がいいと思うがね。アフガン戦の時もアメさんと全イスラム国家が全面戦争になるとか大げさに言われとったけど、杞憂そのものに終わっただろ。インド洋に艦隊で出張ったからって、イラクと戦争するとは決まってないぞ」
「そのくらい知ってる」
 安達原は憮然とした口調を変えずに言うと、ズボンのポケットからタバコを1本取り出し、ジッポライターで火を点けて深く吸い込んだ。
「あれだけ禁煙するって言ってただろうが。それも自分から」
 丸ノ内は呆れていた。
「こういうことに限って意志が弱い。すぐ誘惑に負けちまう。しかもこんなふざけた作戦に駆り出されるときたら、なおさらだ。ニコチンくらい摂らなきゃ、やってられんさ」
 ふーっ、と煙を口と鼻から吐き出す安達原の顔は、わずかながらも和らいでいた。
「俺が言いたいのは、泥棒か海賊みたいにコソコソ行ってアメさんの役に立っても、少しも嬉しくないってことだ。俺達は普段堂々とした活躍はできないのに、何でこんな仕事ばかりお鉢が回ってくるんだろうな。ま、世界中が戦争だらけだってことから目を背けてきた愚民共と、ホワイトハウスにセッセと媚を売るスケベ根性丸出しの保守政治屋共が生んだツケだと思えば、当然か」
「ああ」
 一見自嘲的な安達原の言葉からは、無気力な国民と腐敗した政治家への激しい憎悪と侮蔑の念が読み取れた。
「ただ遠足に行くのが本当の任務なら、それが一番いいがな。とにかく、万事において隊員の生命を最優先しろとのお達しだ。お互い、それだけは気を付けようじゃないか」
「うん」
 丸ノ内の言葉に、安達原がもっともらしく相槌を打っているところへ、青の作業服を着た20代前半の海曹が来て敬礼した。
「安達原艦長。全出航準備、完了しました。艦にお戻り下さい」
「御苦労。すぐ行く」
 海曹に敬礼を返した後、丸ノ内にも敬礼をしてタバコを携帯灰皿の中に落とすと、安達原は「しゅり」へと走っていった。

「全艦、機関始動。もやい解け」
 旗艦「たんご」の艦橋の左側に位置する司令席に陣取った梨林悟郎海将補が、艦隊マイクを通じて命令を告げた。
 彼は今年で59歳になる温厚な老紳士だったが、表情からは芯の太さが感じられた。派遣艦隊の指揮官に選ばれたのは、真面目さと平凡な才能とを買われてのことだった。
 もやい綱と呼ばれる係留用ロープが桟橋から解かれ、各艦の甲板員が力を合わせて引っ張り上げた。
「それにしても、まるで悪いことをしに行くように動かなくともよかろうて……」
 理不尽な命令に対しての不平や不満を遠慮なく口にする安達原ほどではなかったが、彼もまた自分の任務に欺瞞を感じていた。
「艦長、隊員の士気はどうかね?」
 梨林は禿げ上がった頭を撫でながら、横に立っている岩田隆夫介一等海佐に訊いた。
「はい。アフガンの時と同様、『与えられた任務ですから』と割り切っている者が多いようです。目立ったところは特にありません」
 まだ40歳になったばかりのエリート将校は、上官への応対の手本を見せるように、きびきびと答えた。
「うん、ならいいが。だが、まるで何かのシナリオのようだな」
「は?」
「同時テロ事件の影響で対テロ措置法と改正自衛隊法が成立し、政府は有事法制の準備も進めた。それに東シナ海での北朝鮮工作船事件、朝鮮半島での不穏な動き。そして米軍の対イラク戦争準備。全ての物事が誰かの書いたシナリオの上で進んでいる気がする……」
「アメリカさんのシナリオですか? それとも世界を裏で操る秘密結社のですか?」
 岩田が彼にしては珍しく、冗談を交えながらいたずらっぽく言った。
「ま、私達の想像の域には及ばん話だろうな」
 梨林は苦笑しつつ、マイクを再び取り上げた。
「全艦出航。艦隊進路3-5-0。速力4ノットとなせ。単縦陣を維持せよ」
 単縦陣とは、文字通り艦隊が縦一列に並んで航走する隊形である。
 5隻の自衛艦がゆっくりと動き始めた。
(帰ってくる頃には、ちょうど定年退官だな)
 梨林はそう思いながら、帽振れをしている桟橋の隊員に向かって窓越しに敬礼した。
 通常、水上艦艇はラッパと汽笛を高らかに鳴らしながら出航する。が、派遣艦隊はまるで潜水艦のように忍び足で港を離れていった。
 2002年9月29日午前3時25分のことだった。



最終更新:2007年10月31日 02:41