外伝Ⅱ 不帰順領域 第1話



 鴬が世界の終りを歌い出す、
 神は友として狂女のトリロでものを言う。
 心に清い一撃が石弩から飛び出して
 その鴬を枯木から打ち落とす。
 『傷ついた祈り』(コクトー)



 このところ上杉中将の悩みの種は、しだいに酷くなっていた。帝國空軍総司令官である彼は、司令室に掲げられた地図の一点を見据えため息をついた。それに、タイミングを計ったように内線の電話が鳴った。

「中将、氷室技監がお見えになりました」

 「通してくれ」と答えるとドアが開き、助手の大林を従えた氷室技監が「やぁ」と挨拶した。

「おひさしぶりですな、上杉中将」

「ああ、悪いが挨拶は後にしてくれ、いろいろとこちらにも用事がある」

 正直に言えば、あまり長い時間会っていたくない。氷室のような人間は、上杉の最も苦手とするタイプだった。面と向き合って対峙するだけで、息が詰まる思いがする。

「それはそれは好都合。我々も用事が詰まってますので」

 軽いジャブで返し、氷室は皮張りの応接席にドンと慇懃無礼な態度で座ると、両手を顎の下で重ね不敵な笑みを見せた。

「では、用件をお聞きしましょう?」

「三ヶ月前占領したローディス教国を覚えてますか?」

「あいにく、僕は技術畑の人間でね。帝國の戦略にはノータッチだ。でも覚えてはいるよ。とるに足らん小国だったけど更なる進軍の輸送路の確保のために、モノはついでと占領した。閣下は嘆いていたよ。あんなところ三個師団で十分だった、弾の無駄使いをしてしまったと」

 小国とはいえ、一国を滅ぼしたというのになんという言いぐさだろう。しかし、彼の脳内にはその程度のこととしか認知されていないのだ。

「二週間前の事です。旧同国領土のガルカイオ高地で異常な事が起こり始めたのは」

「ほぅ、異常な事、それはなんですか?」

「ガルカイオ高地は主用輸送路の側面に位置しています。しかし、道が険しいため陸軍による警備が困難となり我々空軍が哨戒に付いてましたが、その哨戒任務に出していた部隊が相次いで消滅する事態が起こっております。現時点で五個飛行中隊がこのエリアで消息を断ちました」

「まるでバミューダ・トライアングルですな。何かの妨害にあったのでは?」

「妨害源があるとすれば、原生獣のワイバーンぐらいでしょう」

「魔獣ワイバーン、空を支配する飛龍。飛行隊はそれにやられたのではないのかな?」

 上杉は、その質門には「いえ」と強く否定した。

「ワイバーンは確かに強力な魔獣ですが、我々の主力機であるP-51ムスタング、P-47サンダーボルトで十分に駆逐できるはずです。もっとも近いフントゥア飛行場に所属する部隊は空軍全体でもかなり練度が高い」

 氷室は、まったく関心が無い様子で「ふん」と鼻を鳴らす。

「それで、一体我々にどのような協力を求めているのです?」

「明日、最後の哨戒部隊を出します。その任務に独立観測航空隊も同行調査をしてもらいたい」

「独立観測航空隊とは随分奥ゆかしい言い方ですね。あなた方が、いつもの言う『実体のある幽霊機』でいいですよ。しかし、あれは戦闘機でも偵察機でもありません、ただの観測機です。もし、Ta152E改がワイバーンに襲われたらどうします? あれは我々にとっても貴重な情報源なのですが」

「出撃部隊には出きる限り護衛せよと厳命します。しかしTa152E改は非武装機では無い。製造記録によればTa152Hと同じ、30ミリ機関砲MK108、20ミリ機関砲MK151ともに搭載されてますね?」

「うん、まぁ、確かに積んではいますけど。なぜ、うちのTa152E改を? 空軍にも彩雲という偵察機があったでしょう?」

「15000メートルの高高度を750キロの高速で飛ぶ事が出きるのはTa152E改だけです。もはやアプローチをおこなっていない手段はそれしか無い。もしこの作戦が失敗し、このエリアを制圧できないのなら、我々は“E・プラン”を実行するつもりです」

 E・プランという言葉に氷室がぴくんと眉を動かした。

「なるほど、わかりました。協力しましょう」

 空軍指令部を出た氷室は肺に詰まった空気を全部吐き出すような大きな深呼吸をした。一応、威厳を保つような、なるべく堅い喋り方をしていたのでへんに肩がこった。

「総監」

 今まで黙っていた大林が初めて口を開いた。「なんだい?」と氷室がくだけた口調で応じる。

「なぜ、協力を? 独立観測航空隊は強化人間部隊の追跡調査のために全機稼動スケジュールが決まってます」

「そんなの、スケジュールを詰めて一機空きを作ればいいだろ? 調整は君に頼むよ。もう約束しちゃったんだ。断われない」

 大林が心中でやるかたないため息をついた。たぶん、そのスケジュール調整作業で自分は今夜、徹夜だ。結局、氷室が了承した理由はわからなかった。もっとも、意味など無く、ただ気分次第で決めたのかもしれないが。

「上杉中将の言ったE・プランとはなんの事です?」

 氷室は口元を歪め笑って、「EはエンドのE、それで全て終わり」とだけ答えた。



 遥かな空を飛ぶ烏は、とても美しかった。
 細くすらりとひきしまった身体に、大きく広げられ風をやさしく撫でる羽根。瞳は、下界の全てを見透かすように漆黒に輝いている。そのクチバシには僅かな大気を掴み、そして掻き出す幅広いプロペラが付けられ、その心臓、Jumo213E液冷エンジンは、MW-50水メタノール噴射装置とGM1亜酸化窒素式強化装置を携えている。
 独立観測航空隊所属、フォッケウォルフTa152E改、コールサイン『レイヴン』、高度15000メートルの高空を時速750キロで駆ける孤独な烏。

「WP・オスカー82、通過」

 与圧キャビンのコンピットで、パイロットの有川祐二が酸素マスクに付けられた通信機に向けて告げた。「チェック」と後席から応じる声、オペレーターのデネブ・ローブが後席コンソールから次の指示を呼び出す。

「高度を下げて現在地を確認しましょう。フントゥア飛行場が見えるはずよ」

 「了解」と有川は答え、降下機動を開始。スロットルをスロー、プロペラのピッチ角をゼロへ、そして操縦幹を倒す。雲の中へ入り、視界が真っ白になる。その雲を抜けると広大な高原地帯が広がっていた。

「旧ローディス教国領か」

「綺麗なところね、今度はピクニックで来たいわ」

 デネブが呟く。たしかにどこまでも続く雄大な地平線のパノラマは行楽でくるなら良い所だろう。しかし、その先では、陸続と戦線の続く戦場だという事を二人は知っていた。
 「簡単な調査任務さ、観光みたいなもんだ」、ブリーフィングで氷室が言った。
 簡単だって?
 帰還する事が任務の独立観測航空隊に、簡単も難しいもない。
 観光だって?
 前線部隊の戦闘機を連れてか。
 だが、Ta152E改はブリーフィングの一時間後には空にいた。彼らに拒否する権利など無かった。
 帝國空軍の哨戒部隊と共に、旧ローディス教国領ガルカイオ高地にて調査活動をおこなう。それが今回の彼らの仕事だった。

「見えた。フントゥア飛行場だ」

 高原地帯に、まっすぐな線が引かれているのが見える。おそらく滑走路だろう、その右側にハンガーが連なり左側には燃料タンクが置かれていた。典型的な野戦飛行場だった。

「レイヴン、こちらフントゥア管制だ。確認したか?」

「こちらレイヴン、確認した」

「まもなく戦闘機隊が上がる。リーダー機はコールサインは『ドロシー』」

 滑走路の端に4機のP-51ムスタングが待機している。ダイヤモンドの隊形、おそらく先頭が『ドロシー』機なのだろう。

「ドロシーより、レイヴン。実体のある幽霊機と組む機会があるとは思わなかったが、今日は付き合ってもらうぞ。全機離陸開始」

「スケアクロウ、了解」

「ブリキマン、了解」

「ライオン、了解」

 4機の戦闘機隊が離陸する。素早くギアを上げ、鋭く急上昇。
 ベテランの連中だな、と有川は思った。基地が強襲された際におこなう戦闘機動だ。第二次日米戦争で311thSQに所属していたときもよくやった。スロットルの加減、操縦幹を引くタイミング、フラップ操作、一朝一夕で身に付くものではない。空中集合も早く、すぐさま編隊を整えた。

「ドロシー、スケアクロウ、ブリキマン、ライオン、変ったコールサインね?」

 統一性のみえない名前にネーミングにデネブが首を傾げる。

「TACネームだろう。オズの魔法使いさ。ドロシーはどうやら俺と同じ異邦人らしい」

「オズの魔法使い? あなたの前にいた世界にも魔法使いがしたの?」

「御伽噺だよ。嵐で魔法の国に飛ばされたドロシーは、元に世界に戻るため、途中で出会う仲間、脳の欲しいスケアクロウ(案山子)、心の欲しいブリキの木こり、勇気の欲しいライオンとともにオズ大王のもとへ向う御話」

「まるで、あなたと一緒ね。仲間になった私は一体なにを望んでいるのかしら?」

 ムスタングとTa152E改を中心に編隊を組み直す。ドロシー機が有川達に近づき軽く手を振った。有川はそれに頷くだけで応じながら、ふと思う。
 彼らは、どこへ行くのだろう? ここは魔法の国だが、この空はエメラルドの都へ続かない。



 山をいくつか越えると目指すガルカイオ高地に到着した。周りより400メートルほど高い、山の上に広がる丘のような土地だった。
 その上をWの文字を書く様にムスタングとTa152E改が編隊を組む。しばらく、五機で森の上を飛んだ。とくに異常は見られない、眼下に川が流れており、それを辿ると湖が見えた。湖の上を飛んだが、動いているモノは見つけられない。人も獣も見当たらなかった。

「こちらドロシー、何も見当たらない。お前たちはどうだ?」

 戦闘機隊も探している。向こうは4機もいるから、それぞれの受け持ちの視界に集中すればいいので、より注意して探せるはずだ。それなのに見つけられないというのは、何もいないからなのだろうか?
 編隊に緊張が走ったのは、その数分後だった。

「ライオンよりドロシー、四時方向に3、いや4、5。こちらに向ってくる」

「ドロシー、了解。タリホー、間違いないワイバーンだ」

 有川も首を回してそちらを見る。少し霧がかかった空を背に、羽ばたく影が5つ。ワニのような顔に、堅い皮膜に覆われた翼、そして特徴的な長い尾、魔獣ワイバーンだ。

「スケアクロウ、ブリキマン、上昇して上をおさえろ。ライオン、俺と来い。レイヴン、すまないが数が多い、全力で当たるから離れていてくれ」

「レイヴン、了解した。グッドラック」

 有川が答える。

「グッドラックか、久しぶりに聞いたよ」

 ドロシーは懐かしそうに言うと、機速を上げワイバーンの群れに挑みかかった。
 「珍しいわね」とデネブが言った。

「有川が、あんなことを言うなんて」

「ああ、地上にいたら言わないだろうな」

 地上にいるときは、自分は感情を閉ざしている。
 『実体のある幽霊機』と呼ばれる自分は、誰の味方でもなく、時に正規軍の部隊が全滅しようとも傍観しかしない。地上にいるときはその事でよく詰られる。感情を閉ざす事は、ある種の自己防御なのだ。もとより、飛鳥島の戦いで仲間を失ってしまった有川は、正規空軍にいたころから、とりつくしまもないと言われていた。
 飛ぶという行動からくる浮遊感のためだろうか、開放感のためだろうか。人間は飛ぶようには出来ていない、出来ていないモノがやっているのだから、違った感性が生まれるのだろう。
 それともただの地上にいるときの反動かもしれない。

「上昇する」

 スロットルを押し、Ta152E改は速度を上げながら上昇、戦闘エリアを巧みに避けながら観測活動を開始する。その間に戦闘機隊はドロシー、ライオンがワイバーンの群れと交差。そのまま飛び抜けてダイブするドロシー、ライオンにワイバーン達が首を振った。刹那に、空が紅くに染まる。ワイバーンが火を吹いたのだ。ファイヤーブレス。ワイバーンが魔獣といわれる由縁の攻撃魔法だった。
 しかし、ドロシー、ライオンのニ機は咄嗟にラダーを蹴り、左右に分かれ焼けつく火球を避けた。

「スケアクロウ、やれ!」

 上空にいた残りのニ機が全開降下で加速を付けワイバーンに迫る。肉迫しての射撃、12.7ミリ弾がワイバーンの背中に刺さる。銃撃されたワイバーンが断末魔の叫びをあげながら森へ落ちていった。

「よし!」

 ドロシーが反転、ライオンが後に続く。ワイバーンの群れがバラバラに砕けた。
 その様子をTa152E改はレーダーと望遠カメラを使い、遠目から眺めていた。いつの間にか、雲が張りだしたため、高度10000メートル以上の高高度へは上がらなかったが、戦闘機隊の善戦ぶりを見ている限りでは、雲の下でも安全だった。
 やはりドロシーは自分と同じ向こうの世界の人間のようだ。小隊を二個のエレメントに分け、一個を攻撃に、もう一つを防御に付かせ敵にプレッシャーを与える。典型的なドッグファイトの編隊機動だ。

「もう一匹やったみたい、残りは引き上げていく」

 2匹のワイバーンが倒されたところで、残りのワイバーンは遁走を始めた。戦闘機隊は、それを追撃するような事はしなかった。編隊を組み直し、自分達の損害を調べる。

「残りは逃げ出したようだ。各機、被害は?」

「こちらブリキマン、スケアクロウの尾翼が一部溶けてます」

「スケアクロウ、どうだ?」

「ラダーの効きが悪いですが、大丈夫です」

「ドロシー了解、ブリキマンはスケアクロウを連れて先に行け、ライオン、俺達はレイヴンを連れてゆく」

 2機に減った戦闘機とTa152E改は、哨戒を続けたが再びワイバーンの現れる気配は無かった。

「霧が出てきたか・・・」

 圧迫感を感じて、有川が呟いた。先ほどのワイバーンの出現と同時に現れた霧が編隊の周囲を覆っていた。

「デネブ、レーダーはいいか? これ以上霧が濃くなると目視界が狭くなる」

「ノイズが出始めているけど、離脱するスケアクロウとブリキマンまでは映ってる。レンジブースターを使う?」

 後席コンソールに備えられたPPIスコープを覗き、デネブが尋ねる。
 戦略偵察機並の能力を持つTa152E改には、動目標を捕捉するドップラー・レーダー、マッピング用の合成開口レーダーから、魔法の発動を感じ取るセンサまで、目にみえないモノを捕らえる機材も多く載せられている。
 飛鳥島科学技術研究所の粋を集め作られた観測機だった。

「いや、ノーマルレンジでいいだろう。あと30分でなにも現れなかったら、俺達も帰投する」

「わかった、・・・えッ!?」

 デネブが小さく叫ぶ。「どうした?」と有川。

「スケアクロウとブリキマンが消えた・・・!」

 有川が、すぐさまコクピットのMFDにレーダー画面を再生させる。一スイープの間に帰投コースにいた二機の輝点が消滅した。ノイズは低レベルで、エコーも無い。二機のP-51ムスタング戦闘機は完全に消え去っていた。

「レイヴンより、ドロシー。応答せよ」

「レイヴン、こちらドロシー。何があった?」

「帰投コース上でスケアクロウとブリキマンが消えた」

「なに!? そちらの見間違いか故障ではないのか?」 

 バック・ミラーにうつるデネブが首を横に振る。

「いや、ちがう」

「了解した。・・・クソッ、霧がひどい」

 ドロシー、ライオンが全速力で仲間が行方不明になった場所へ向う。Ta152E改もそれに続いていくが、それは捜索に加わるのではなく、この事態を解明するためだった。

「もう少し先に行ってみる。ライオンはこの下を探せ」

 ライオンが低空に下りて八の字に飛びながら、スケアクロウとブリキマンを探す。その上空ではTa152E改が合成開口レーダーを作動させ、目視で捜索できる出来る以上の範囲を一気に走査した。

「駄目だ、墜落痕すら無い。一体どうなっているんだ?」

「消えた、としか言えないわね」

「レイヴンより、ドロシー。そちらはどうか?」

「こちらドロシー、まもなく高地を抜ける。まだ何も発見出来ない。いや、待て・・・、なんだこれは・・・?」

 無線から聞えるドロシーの声が恐怖で引きつっていた。

「空が閉じる・・・!」

 ドロシーの機影がレーダーから消失。スケアクロウとブリキマンとまったく同じ状況だった。

「空が閉じる。なんの事だ・・・?」

「有川、離脱しましょう。私達だけでどうにかなる事態じゃないわ」

 デネブの口調は、まだ冷静さを失っていなかった。有川はそれに微かな安堵を覚えながら「わかった」と返し無線を切り換えた。

「ライオン、ドロシーが消えた。緊急事態につき、至急空域を離脱する」

「ラ・・・ライオン、了解した」

 たった一機残ったムスタングを連れ、Ta152E改が離脱コースを取る。霧がさらにひどくなって、しめった空気が機体を舐めた。ムスタングとの空中衝突を警戒し、翼端灯をパッシングする。ムスタングがそれに合わせ、お互いを視野に入れられる距離で編隊を組んだ。
 空が閉じる。
 ドロシーは一体何を見たんだ?
 空では、何が起こっても不思議でない。しかし、ベテラン・パイロットですら狼狽するほどの事態とはなんなのか、有川はそれがひどく気に掛かった。
 腹が締め付けられる様に痛い。不可思議な事態の連続で混乱しそうだ。
 だが直後、有川は目が覚めるような感覚に襲われた。すべての雑念を打ち消してしまうような鋭い戦慄。

「有川、後ろ!」

 デネブの声が、そのまま引き金となりラダーを蹴っ飛ばす。刹那に、右翼後方を飛んでいたムスタングが爆発し、衝撃でTa152E改のコクピットが揺れた。

「ライオンが・・・! ワイバーン!?」

 ファイヤーブレスが直撃したのだ。
 なおも旋回を続けながら、周りに視線を走らせる。霧は、濃霧となっていた。その向こうから次々とブレスが襲い掛かってくる。

「デネブ、レーダーで奴の位置を教えてくれ!」 

「何も映ってない!」

「じゃあ、探知装置だ。あのブレスが魔法なら探知装置でわかるだろ!?」

「駄目! モニターがノイズで何もみえない!!」

 霧がスポンジ状になれば、それがレーダー波を吸収してしまうことがある。しかし、対魔探知装置は一種のパシッブセンサーなので、ノイズ妨害は受けないはずだ。訳がわからない、しかし今は考えているときじゃない。

「だったら逃げるぞッ!!」

 MW-50を使いTa152E改が急加速で離脱を図る。と、有川はとてつもない圧迫感に駆られた。元より、この霧に呑まれてから何かに囲まれている感じはしたが、まるで目の前に見えない壁があるような気配だった。
 ほとんど、無意識に機体を動かしていた。予期しなかった機動にデネブが「わっ!」と悲鳴をあげるが、有川は構っていられなかった。左主翼の翼端が引っ掛かっている。しかし、何に引っ掛かっているかわからない。そこには濃い霧があるだけだった。
 これはただの霧じゃない。
 有川は直感した。 

「デネブ、高度をあげる。酸素マスクをしろ」

「どうしたの?」

「わからない。でも、このままじゃまずい!」

 自分も酸素マスクを装着し、Ta152E改の得意とする高々度まで一気に駆け上ろうと、スロットルを開き上昇した。
 雲を付き抜けた瞬間、有川は「空が閉じる」といったドロシーの最後の言葉を理解した。

「そんな、空が・・・!!」

 雲の上に、さらに雲が掛かっていた。しかも、ただの雲でなく、あの霧と同じ圧迫感を持っている。唖然として上を見上げる有川に、後ろを見張っていたデネブが叫んだ。

「下から、来た!」

 機体を横に滑らせ、下から撃ち上げてくるファイヤーブレスをかわす。
 反転してスパイラルを切ったが、まだ追撃してくる。

「何匹だ?」

「三匹! きっと、さっきのワイバーンね」

 有川は確認する暇がなかったが、デネブの目は元戦闘機乗りの有川より良い。信じてもいいだろう。

「こちらが浮き足立ったの見て逆襲ってわけか、降下で振り切ってやる!」

 Ta152E改が全力降下、速度が800キロを越え設計限界速度が近づき、機体が喘ぐように震動する。急角度のまま再び雲へダイブすると、雲中で進路変えてワイバーンを撒いた。
 ようやく雲からでると、先ほどの湖のところまで飛んでいた。ワイバーンの姿は見えない。

「振り切った・・・?」

 デネブが廻りを見渡しながら尋ねる。有川が返事をしない。うな垂れながら、操縦幹にしがみ付いていた。

「・・・デネブ、どうやら俺達は何かに閉じ込められたらしい。空が何かに塞がれている」

「空が塞がれている? どういうこと?」

「わからない。けど、ここから出られない。そんな気がする・・・」

「燃料も続かないし、ともかく下りましょう。あの川沿がいいわ」

 デネブは、湖に注ぎ込む川と辺りを覆う森の間に延びる野原を指差した。斜面じゃないかと思ったが、以外と平地で降りる事はできそうだった。

「川沿か、軟弱地でないといいが・・・」

 もし、地面が柔らかすぎれば降りたが最後、Ta152E改は足をすくわれ二度と飛べなくなる。それだけは考えたくなかったが、いつワイバーンが現れるかを考えれば選り好みしているわけにもいかなかった。
 その地点を一度大きく旋回し、フラップ、ギアを降ろして着陸態勢を取る。目標を正面に捉え、機首を立てながら降下、失速速度ギリギリまでスピードを落とす。
 タッチダウンの衝撃と同時に、機体をバラバラにするような振動が襲ってくる。未舗装の道路をスポーツカーで飛ばしているような感じだ。しかし、なんとか持ちそうだった。途中でギアが折れないかとヒヤヒヤしながら制動を掛ける。
 300メートルほど滑走して、Ta152E改が止まった。エンジンをカットし、有川がふぅと溜息を吐いた。機体を降り飛行帽を脱ぎ捨てる。気が付くと額が汗でびっしょり濡れていた。

「有川、いったいどうしたの?」

 後席から身を乗り出したデネブが主翼の付根を足掛かり機体を降りた。

「あれは、空じゃなかった。まるで鳥篭の中にいるみたいだった・・・」

 有川が力無く呟く。気力を失ったように、ひどく弱い声だった。

「ただの霧じゃないことは確かでしょうね」

「まるで壁だ」

 壁という言葉を聞いて、「もしかして・・・」とデネブ。
 対魔探知装置は、レンジ全域に魔法の反応を捕らえていた。まるで、この森全体で魔法を使っている様子だった。自分の感が正しければ、有川の言うとおり今のままでは自分たちはここから出られないだろう。

「有川の判断は間違いないかもしれない。たぶん、私達は閉じ込められたのよ」

「閉じ込められた?」

「・・・、そう」

 霧のせいか、空気はひんやりしていた。
 デネブはその空気に何かを感じ取るように、手をしなやかに動かし霧の流れを紡ぐ。

「結界の中に」



最終更新:2007年11月05日 20:33