プロローグ


「この戦争の結果、長江から日本本土にかけて、鉄のカーテンが降ろされた」
               ―――ウィストン・チャーチル(英国首相、1952年)


 1945年3月に終わった第二次世界大戦の結果、日本はソビエト連邦の傘下に加わることとなった。
 その原因の全ては1944年にある。その年は時代が急激な変化を始めた年であった。
 6月20日、アメリカ合衆国副大統領ヘンリー・ウォレスが、中国訪問中に帝国陸軍機の攻撃を受け乗機と運命をともにしたのを皮切りに、世界のあちこちで急激な変化が起こった。
 共通の敵“日本”を倒すために同盟していた中国国民党と中国共産党は、アメリカの仲裁も聞かずに内紛をはじめ、中国大陸は日本、国民党、共産党が三つ巴の争いを始めた。
 ヨーロッパでは、その一ヵ月後の7月20日、ヒトラー総統が総統大本営にて暗殺され、直後ベルリンで発足した臨時政府は米英に降伏する旨を発表した。
 しかし、東部戦線ではソ連側が(スターリンの命令で)この降伏宣言を無視しさらに西進を進めたことで、米英に過剰な危機感を植えつけた。
 そして何よりも決定的だったのは、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが国民向けラジオ演説“炉辺談話”の生放送の最中に急性脳卒中により急死したことだった。
 親中親ソ反日のルーズベルトの死は、その後のアメリカに大きな影響を与えた。
 ルーズベルトの後任は、ウォレスの死後副大統領に昇格したばかりのハリー・トルーマン。
 そして大統領に就任したばかりのトルーマンに、最初の試練は訪れた。
“カチンの森暴露事件”と“セント・クリスピンの虐殺”である。
 前者は、ルーズベルトが握りつぶしたはずだった、ソ連秘密警察NKVD(НКВД)によるポーランド人将校虐殺事件の調査報告書を、密使としてバルカンに派遣されたジョージ・アール大尉が国内外のメディアに暴露し、アメリカ国内世論を揺るがしソ連邦への疑惑を大きくした。
 後者は日本海軍がレイテ湾で上陸船団及び海岸堡に対する艦砲射撃を行い、陸軍のダグラス・マッカーサーをはじめ二十万人もの兵員と百万トンにも及ぶ多数の艦船を失い、合衆国の対日戦略を見直しせざるをえなくなった。
 トルーマンは後者について、ソ連向けレンドリースの中止によって浮いた人員と艦船の配備で、その穴を埋めることを決定したが、これは前者の事件に対するソ連への制裁的手段でもあった。
 一方、日本でも事態は急変していた。
 海軍がレイテ沖に突入しようとしていたその日、モスクワでは日ソ中立条約の破棄が言い渡され、その一週間後の宣戦布告が言い渡された。
 満州国および関東軍はこの報告を受けて、急遽居留民の避難と厳戒態勢をしき、ソ連との開戦準備に備えた。
 レイテを血で染めた連合艦隊がブルネイに到着したとき、ソ連は日本に宣戦布告し満州で矛を交えた。
 日本軍は準備をしていたとはいえ、圧倒的な数と火力を持つソ連赤軍に圧倒され、12月23日の皇太子誕生日には満州のほぼ全土を占領されてしまう。
 ところがこうした中、赤軍は何故か突然南進を停止した。
 ヨーロッパの赤軍が、日本軍と比べ物にならない難敵と激突したからだ。
 アメリカ軍と英国軍という名前の敵と、最初に戦闘を行ったのは、ゲオルギー・ジューコフ元帥指揮下の第一親衛戦車軍であった。
 ベルリンに最初に入場を果たした米英軍とソ連軍の戦いは、最終的にはソ連側の勝利に終わったものの、両者の友好関係は破局的になった。
 この事件でソ連は、いや、スターリンはこれ以上の敵を増やすことを恐れた。
 極東での急な進撃停止は、この事件勃発直後であった。
 そして、日本の運命が決したのは、翌年の三月だった。
 ヨーロッパでは東ヨーロッパを押さえたソ連と、アメリカを中心とする連合国が火花を散らしており、一方太平洋ではアメリカ軍は“セント・クリスピン”の痛手から立ち直れずにいた。
 三月。
 呉にブルネイから連合艦隊が帰還したその日、帝都で陸海軍の合同部隊によるクーデターが起こった。
 クーデター部隊は帝都を占領し、臨時政府の樹立を宣言。
 さらに日本はソ連に降伏することを発表した。
 無論交戦派の暴走も予想されたので、クーデターの首魁である寺津賢次郎陸軍少将は、天皇陛下に玉音放送を流す許可をもらい、民心と軍隊を抑えたのであった。
 これが日本がソ連の傘下に入った事の顛末である。
 なお、天皇はその後アメリカが占領した沖縄へ亡命し、それに続いて、一部の政治家が沖縄で亡命日本政権をたてていた。
 この天皇亡命事件は、“立憲君主制社会主義国”を掲げる日本民主主義人民共和国にとって、名目上の元首たる天皇が逃げ出したことは誤算であり、その後の教育現場では“天皇陛下は資本主義者に誘拐された”と教えることになる。


 それから半世紀。
 日本民主主義人民共和国は、ソビエト連邦の忠実な同盟国であった。
 オイルショック後の西側経済の混乱のさなかに急激に力をつけ、1970年代末に日ソの経済力が完全に逆転しても、日本はソビエト連邦を主として仰ぎ続けた。
 むろん、ぼろぼろに打ちのめされた日本が世界でも有数の経済力を有するには、それなりの過程があった。
 日本民主主義人民共和国と名を変えた日本は、終戦時のクーデターを起こした寺津が首相となり、日本の再生を国民に約束した。
 46年に寺津はモスクワを訪問し、日ソ相互通商援助条約を締結、その代償として北海道がソ連に租借された。
 無論、この日ソ相互通称援助条約には、日本への経済支援のほかに軍事支援も含まれていたことは、国民は知らなかった。
 この日ソ相互援助条約締結を知ったアメリカは、日本の再軍備化と拡張主義の再燃を強く懸念し、ソ連に抗議したが、スターリンはこの抗議後、日本に対する軍事支援を強化した。
 これには、スターリンの考えが大きく現れていた。
 スターリンは日本を盾として使うことを考えたのだ。
 特に、日本はソ連以上の質を誇る海軍を保有しており、一部の艦船は戦時賠償として引き渡されていたが、それでもまだまだ日本は強大な海軍力を保有している。
 ソビエト赤軍は、陸軍こそ世界最強を誇っていたが、西側の盟主たるアメリカには(特に航空戦力と海軍力が)質でも量でも完全に劣勢だった。
 特に、アメリカはトルーマン・ドクトリンを発表しており、すでにスターリンは西側との戦争は避けられない状態まできたのだと悟っていた。
 そして、45年に再発した中華動乱が再び大きくなろうとしていた1946年5月、スターリンは日本に対する支援をさらに強化し、満州に駐留するソ連赤軍向け物資生産を日本に命じた。
 日本経済再生の序曲が始まった瞬間であった。
 1948年には中華動乱は本格的に戦火が大きくなっていった。
 また、朝鮮半島でもアメリカの支援を受けた李承晩の大韓民国とソ連の支援を受けた金日成の朝鮮民主主義人民共和国の関係悪化に伴い、日本の特需はさらに高まることとなった。
 無論、アメリカは蒋介石の国民党もそうだが、李承晩にも大規模な支援を送っている。
 その理由としては、大韓民国の地理的位置にあった。
 ソ連などの共産圏に近く、さらに“ジャパン・ネイヴィー・ガーデン(日本海軍の庭)”と呼ばれるほど影響が強かった日本海における日ソの支配を脅かすことが出来る好位置に、この国があったからである。
 しかし、極東を舞台にした米ソの代理戦争は社会主義陣営の敗北に終わった。
 戦争初期こそ、1950年に朝鮮半島でも戦火が広がったことで、アメリカを中心とする国連軍が参戦し、アメリカの支援を受けた国民党・韓国両軍が優勢に事を進めたが、アメリカの目がヨーロッパに再び集中しはじめ、支援が先細りになっていた上に、農民を中心とした人心を失い、幾多の戦闘で兵士の士気も低くなったことなど、しだいに共産軍が優位に立ってきた。
 一方国連軍はリッジウェイ中将率いる第8軍が山東半島を占領していたが、共産軍の攻撃により国民党軍が南に下がったことで、孤立する危険性が出てきた。
 何しろ強大な海軍をいまだ保持する共産日本が、海軍を派遣する可能性もあったからだ。
 アメリカは、1951年からB-29による日本への空爆を再開していたが、ソ連から貸与されれたMiG-15戦闘機や、旧軍の本土防空戦でB-29と戦ったパイロットなどにより、WWⅡ時よりもB-29の損害は非常に大きくなっていた。
 そして、決定的な破局は、1952年の南京放棄宣言と、ソ連の支援を受けた北朝鮮軍の大攻勢開始であった。
 双方の戦線で、国民党軍と韓国軍は惨敗、蒋介石の首都南京放棄による戦線崩壊と李承晩の立てこもるプサン陥落は、もうだれにもとめることはできないかに見えた。
 アメリカはもはや蒋介石と李承晩が共産軍を食い止められないと判断し、最終手段を用いた。
 すなわち、中国と朝鮮半島への原爆投下である。
 投下された十一発の原爆のうち、中国には九発、朝鮮には三発投下された。
 偶然その日朝鮮人民海軍の視察に出かけ、平壌を留守にしていた金日成を除き、毛沢東を含めた中国共産党幹部と北朝鮮共産党幹部陣は、核の炎により一掃された。
 戦争はさらに激化するかにみえた。
 しかし、スターリンの病死(暗殺の可能性がある不可解な死)と北朝鮮軍の持てる物を全て出し尽くした最後の大攻勢により、戦争はようやく最終幕へと進んでいった。
 朝鮮半島では北朝鮮軍の攻勢により前線は崩壊、徹底抗戦を主張した李承晩が国民を捨てて沖縄へ脱出しようとした寸前に、自身の護衛に裏切られ、捕らえられた挙句、即決の人民裁判により電柱に吊るされた。
 中国では国民党軍の反撃と、党指導部のごたごたによって人民軍解放軍は敗走、長江を挟んでのにらみ合いへと至った。
 こうした状況の劇的な変化によって、停戦協定が結ばれることとなった。
 無論、大韓民国はこの停戦協定が始まる前に、すでに国家元首を含めた国土すら保有してないこともあり、事実上朝鮮半島の支配権は朝鮮民主主義人民共和国へと移った。
 一方の中国はといえば、現在の戦線たる長江を挟んだ停戦ラインが確定し、以後南北中国はドイツと同じ分断国家の悲しむべき歴史を歩むこととなった。
 なお、国連軍が占領していた山東半島は、アメリカのごり押しで中華民国側の飛び地となった。
 これは後々まで禍根を残す領土問題となる。


 この停戦が発表された時点で、日本は空前絶後の超好景気を迎えていた。
 約十ヶ月続いた米軍の爆撃などの被害もあったが、この超好景気の間に、日本経済は第二次世界大戦前並の水準にまで回復し、1957年の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。
 それと平行して、ソビエト側の承認の元、本格的な再軍備が開始された。
 戦後、日本軍は完全な解体はされず、日本側でいうところの“警察予備隊”という準軍事的集団と銘打っていたが、本質的には旧軍と変わらなかった。
 しかし、陸海空軍ともに徹底的なソビエト化がなされていた。
 当然のことながら、ソ連以外の連合国で構成された“極東委員会”が、戦争放棄と戦力不保持を明記した新憲法の草案は闇に葬られ、戦争反対を唱える平和主義者や知識人は、反体制派の政治犯としてが樺太に送られ、白樺の肥やしになった。
 こうして日本は50年代~91年まで、ソ連指導の下、繁栄を謳歌していったのであった。
 しかし、ソビエト連邦は誕生からわずか69年であっけなく崩壊。
 この結果、日本民主主義人民共和国は、ソビエト崩壊の影響をモロに受けることになった。
 元々日本は、ソ連産の工業原料やエネルギー資源に依存していたため経済成長が完全に失速し、1992年には初めて経済成長はマイナスを記録し、日本は長期不況に突入した。
 その間、日本をめぐる国際情勢はめまぐるしく変化していた。
 そしてその変化とともに、日本の望まぬ物語の幕は開こうとしていた。





最終更新:2008年06月02日 19:12