評定で初陣を言い渡されてから一週間が過ぎた。
この間、ずっとぼんやりしている訳にもいかず、自分の作った投石機部隊の調練に励んでいた。
それだけではなく、更なる投石機の製造を堀田に依頼すると同時に、人員の調達も積極的に行った。

……ただ、調練はあまり順調と言えるものではなく、投石機の製造にも時間が掛かると言われていた。
何も堀田は俺からの仕事だけで生活しているわけではない。他にもするべき仕事があるのだ。
それに親戚でも、何かの義理があるわけでもない。優先してやってもらうには、交友を深めるための時間が足りていなかった。

唯一、人手を募るのには上手くいっていたが、集めはしたものの、その質は御世辞にもよくない。
髭面の荒くれどもや露骨に媚を売ろうとするだけの役に立たなさそうな連中ばかりがすぐに群がってくる。
目的は、兵糧か金か。戦の最中に碌に戦わず、窮地と見れば持てるだけ持って逃げ出す。それが見ているだけで、頭にイメージとして湧き上がった。

俺だって馬鹿じゃないし、学習もする。戦国時代の状況がどれほど腐っているか理解しているつもりだ。
それに先日の評定で少々ばかり気に入られたのか、木下殿に色々とアドバイスも受けている。
人を上手く集めようとしている事も話して相談した。人たらしの木下殿なら効率的な集め方を知っているんじゃないかと思ったからだ。
その時に、絶対に注意すべき事を懇々と言われた。

たとえば、誠実さと正義を重んじているような言動を繰り返す奴ほど危険だ。そういう奴はあっさり裏切る詐欺師タイプだ。
今のご時世にそんな人間はまずいない。だから、そういう人間は真っ先に疑う。
しかし、どうしてもそいつを雇いたいならしっかりと身元を確かめてからにする事。少なくとも、身元がはっきりしていれば、たとえ僅かに過ぎなくとも多少は安心できるから。
身元も分からない場合は、どうあっても雇ってはならない。敵の間者か、そうでないにしても碌でもない人間である事には違いないのだから。

と、内容としてはそんな事を言われた。
喋り方や言葉は勿論、このようなものではないが、内容としては大体このようなものだった。
まぁ、それだけではなく、織田家での心得とか、信長様の好きなものとか、上手い言い回しの喋り方とか、どうでもいいようなそうでもないような事を聞かされた。
どうにも喋っているうちに段々乗ってきたらしく、そんな風に最初の話から脱線したり、また戻ったり、あるいは日常的な話や木下殿自身の武勇伝になったりと忙しなかった。

……ただ、面白かったのは事実だ。
いや、面白かったのではなく、面白いように話してもらえたのだろう。
言葉を巧みに操って、聞かせる相手を楽しませる。それくらいの事はお手の物だろう。
それどころか、相手の敵愾心を緩めたり、懐柔したりするのも得意のはずだ。
木下殿の大きな武器が言葉そのもの。今回話してその事はよく理解できた。
上手く使いこなせれば、恐るべき強力な切り札となるだろう。それは、豊臣の天下を築き上げた事で証明されている。

――俺も木下殿に学ばなければいけない。

己の武勇を高々と自慢できるような人間ではない俺には、頭で勝負する以外に道はない。

ともあれ、俺は木下殿のアドバイスをしっかりと受け止めて、念入りに集めた人間を選別して、配下の足軽として組み入れていった。
採用したのは、集めた人間のうちの半数にも満たなかったのは余談である。

ただ、そうやって精力的に動いていても、初陣の事が頭にちらついて離れない。
頭から追い出そうとして、こうも色々と働いているのだが、どうにも上手く頭から出て行ってはくれない。
だから少し疲れているのだろうと思って、今日はゆっくり屋敷で休むことにしたのだが……。



気晴らしに書いた現実から戦国 第七話「俺と女中」



部屋の中で本を読む。娯楽が少なく、退屈しやすいこの戦国においては貴重な俺の趣味だ。
読んでいる本も、実用性もかねて孫氏を選んでいる。今の日ノ本において、学んでおいて損はない兵法書だ。
この孫氏は全部で十三篇からなっているのだが、そのうちの用間篇という諜報に関する部分を今は読んでいる。

この他にも呉子、尉繚子、六韜、三略、司馬法、李衛公問対という書物を購入して手元において学んでいる。
一部は現存していない巻や篇もあるが、揃えられるだけの全巻全篇を揃えているつもりだ。
ちなみにこれらの書物を纏めて『武経七書』と言い、中華大陸における兵法の代表的古典とされる七つの兵法書とされている。

勿論、それら以外にも戦国策や韓非子、百戦奇略などの個人的に好奇心を刺激した書物は片っ端らに蒐集している。
ただ、この時代の本は本当に簡単に買えるものではない。おかげで結構な手間と金を使う事になってしまった。

……まぁ、それだけの事をする価値はあるだろうが。

「ん、ここは『故に間を用うるに五あり。郷間あり。内間あり。反間あり。死間あり。生間あり。五間倶に起こって其の道を知ること莫し、是れを神紀と謂う。人君の宝なり』……というところかな」

そして現在、原文を書き下している真っ最中。
更にそれを訳文にし、書き写しているところだ。ちなみに今のところを訳文にするとこうなるだろう。

『そこで間者というものは五種類ある。郷間、内間、反間、死間及び生間である。これらの間者がそれぞれ行動して、その事を全く気づかれないのは、神技というべきものであり、君主や将軍にとっては宝というべきものである』

この後には、前述した郷間・内間・反間・死間・生間についての説明が続いている。

郷間は敵国出身者を間者として使う事。内間は敵国中枢にいる人物を間者として利用する事。
反間は敵が間者として送り込んできた人物を、逆に間者として利用する事。死間は敵を欺くために自らの命を犠牲にして働く間者の事。
生間は敵の情報を探り、生きて帰って報告する間者の事。

まぁ、死間が最も得がたい間者だろう。自分の命を捧げる事が出来るほどの間者など早々いない。
そこまでの忠誠心を発揮してくれる間者がいるなら、それは生間にでもしておきたい。……ただ、そう思いはしても、死間自体の有効性は認めざるを得ないが。

そんな時、ふと障子の向こうに人影が写った。

「旦那様」
「ん……? ああ、なにかあったか?」
「いえ、昼餉の支度が出来ましたので、お呼びに参りました」
「うん、わかった。今から行く」

屋敷の女中が昼食の準備が出来たと言うので、すぐに手を止める。
本当は色々片付けてから行くのがいいのだろうが、どうせ昼を済ませばまた同じようにするのだから本の類は出しっぱなしで放っておく。

障子を開けて廊下に出れば、そこには正座をして頭を下げる愛らしい少女が一人。
彼女が俺を呼びに来た女中で、名を初(はつ)と言う。
元は、どこぞの中小商人の末娘であったそうだが、その商人である初の父が流行り病で亡くなり、それからは店を畳んで母の実家を頼っていたのだとか。
しかし、その実家も家計が苦しく、立ち行かなくなりそうであったので、結果奉公として出る事となり、その奉公先として俺のところに来ることになったらしい。

そうして女中として働いてもらっているわけだが、ただ女中と言っても種類がある。
特に近世の日本においては、宮中や武家屋敷に住み込みの形で雇用されて接客や炊事、洗濯などを行う女性の事を女中と呼称した。
その中でも接客や雇用した人間の身の回りの世話に関わる女性の事を上女中と呼び、炊事や掃除等を行う下女中と区別された。ちなみにこの下女中のことを下女とも言う。
また、上女中は下女中よりも上級の職であると考えられていた。更に上女中の仕事は、婚姻前の女性に対する礼法や家事の見習いという位置付けが成されていた。
この時期の日本では身分制度が確立されていたため、女中と雇用者との間には単なる契約関係ではなく、主従関係も見られたと言われている。

これが明治にでも入れば、女中の区別は希薄になっていくのだが、現時点では以上の通りである。
この屋敷にいる女中は彼女を含めて三人だが、他の二人にしても初と似たような身の上だ。この時代は普通に生きていくだけでも難しいのだとつくづく思う。

ともあれ、今は昼を食べにそのまま居間へと向かう。
その俺の後ろを静々と歩いてくる初。チラッと振り向いて様子を窺うと、ふと目が合う。
そして、何かあったのかなと首を傾げる仕草をしてきた。

……なごんだ。

なんというか、小動物的な愛らしさがある。
保護欲とともに、存分に愛でてみたいという欲求が心に沸き起こる。勿論、性的な意味でも……しかし、頭を軽く振ってその邪な思いを振り払う。
そして、溜息をつきながら、良くも悪くも俺はこの戦国時代の影響を大きく受けている事を再認識した。

直接聞いてはいないが、彼女の歳はまだ十代前半のはずであり、現代にいた時の俺の性的欲求の対象とはなりえないほどに華奢な体つきをしている。
はっきり言わせてもらうと、俺は雑誌のグラビアに出てくるようなむっちりとした女の肉体に対して性欲を持て余していたはずなのだ。
だというのに、まだ幼さが色濃く残る初に劣情を催してしまっている……これでは、ただのロリコンではないかと落ち込んだ。
そして、今の俺は性的嗜好がめっきり変わってしまっていると判断せざるを得ない。

この時代では結婚する年齢が低いのが常識である。
下手をすれば年齢が二桁に達する前に結婚を済ませている場合もある。……聞いている限りでは、勿論初夜も。
そんな時代にそれなりにいるせいで、かなり影響を受けているのが俺の状況だ――なんでそんな影響を受けるのかと悲観するしかない。

ただ、人間というのは、自分の置かれた環境に適応していく生き物だ。
……なんとも嫌な適応である。何もそんなところを適応させなくてもいいではないかと思う。
しかも、日本人的な周囲に合わせようとする性質を俺も持っているので、それが更に無意識的な助長をしているのではないかと思っている。
順調にロリコン化していくのをただ待つばかりの悪夢の日々……絶望である。

「あの……旦那様」
「……ん、あぁ、んん? どうした?」
「ええっと、早くお入りになられては……」

気付けばもう居間の前に到着していた。自然と足が動いていたようだ。
ただ、居間の襖は開いているので、中からの視線がもろに突き刺さる。
……少し、気まずい気分になった。

「……ん。そうだな」
「はい……」

まるで何事もなかったかのように振舞いつつ、居間へ入り、上座へつく。
それを初は、なんとも微妙な表情で見てきたが、華麗にスルーさせてもらう。

「それでは皆揃いましたので……十兵衛様、いつものようにお願いします」

俺が座ったのを見計らってから、初とは違う別の女中の雪(ゆき)がそう言って来た。
彼女は美しい黒髪とその名の通りの雪のように白い肌を持った群を抜いた美少女だ。
ただ、その黒髪と白い肌以上に目立つのが彼女の左目の眼帯である。
類まれな容姿を持っているのに、結婚もせずに俺のところの女中に収まっているのはそれが大きな原因の一つだ。

……今はまだそれについて語る時ではないため、割愛させてもらうが。

「うむ。では、全員手を合わせて……頂きます」
『いただきますっ』

居間にいただきますの声が一斉に唱和される。
そして、それを合図に派手に食器が音を立て、各々の腹に多くの食べ物が収められていく。

現在この居間には男が八人、女が十五人、全部で二十三人いる。そう。また孤児を引き取ったのだ。
二十三人のうちには勿論、俺と女中の三人が含まれているが、元々は男女共に五人ずつ引き取っていたのにプラスして、更に男子が二人、女子が七人増えている。
女子の比率の方に偏っている状況だが、これについては別に比率を考えながら引き取っているわけではなく、急がないと危険な状況に置かれている子供を優先して選んでいるためだ。
更にそうして選んで連れてきたものの、やはり介護の甲斐なく、あの世へと旅立ってしまう子供も少なくはない。
それによってますます歪な男女比率となり、現状に至っている。

「むぐ……ん……」

少々食事を喉に詰まらせたので、お茶を口から流し込む。
考えながら食べるのは、あまり噛まなかったりするのでよくはないのだが、それでも続けて考える。

まぁ男女比の歪さについては兎も角、それだけの人数がいると屋敷がどうしても狭くなってしまう。
今はまだ彼ら自身が子供であるため、体が小柄なのでなんとかなっているが、それでも屋敷に空いてる部屋は存在しなくなっている。
食費も激増しているし、着る物も履き物も必要だから、かなり買っている。
それ以外に教育のための本や文字を書く練習に使う習字道具一式と、それとともに消費される多くの紙。
それらの費用の負担は俺に重くのしかかる。

ただでさえ、初陣の事で悩んでいるというのに家庭の事情で資金難という事にも悩まなくてはならない。
とはいえ、信長様が思っていたよりも家臣に好き勝手させてるので、後者についてはなんとかなりそうでもある。
主命のない時には、田畑を耕していようが商いに精を出していようが構わないのである。
収支決算報告書の提出さえも必要ない。ただ正直それだと、家臣が商いで大きな成功を収めて巨大な財力を手に入れても主君の方は気付かない可能性がある。
まぁ、時間が経てば嫌でも気付くだろうが、それだと気付いた時には既に統制が効かなくなっていたなんてオチがあり得そうで、大丈夫なのかと思う。

とはいえ、そこまで急速に財を成す人間なんて早々いない。
だから問題が出ないのだろうし、力をつけてきたとしても家臣には違いないのだから、逆に上手く使えるかどうかが鍵だろう。
ま、とりあえず、俺はその商いしようがなにしてようが自由というのを最大限に利用する。
ようするに硝石作り以外に新しく産業を興すのだ。それには元々必要だろうと考えていたものを作るのが好ましい。
なので、まずは石鹸を作りたいと思う。

何故石鹸を作ろうと思ったのかと言えば、最近台所の洗い場で水洗いだけで食器が洗われているのを見た訳で。
しかも水道なんてものはないから、井戸の周りで洗うか、あるいは井戸から汲んできた水で台所の流しで洗うか、はたまた川に行って洗うかのどれかだ。
そして大抵の場合、川に行って洗う。いちいち井戸から水をくみ上げて洗うのが面倒だから。
井戸水を使用して井戸周りや台所で洗うのは雨で川が増水して危ない時くらいだ。
現代ほど治水工事が行われていないので洪水が起き易い。なので、そんな日に川に行くなんて自殺行為に他ならない。

まぁ、俺もたまに食器を洗う時があるから気にはなっていた。
そもそもこの時代、腸チフスや天然痘が珍しくない。突然病死という事態も十分にありえるのである。
更に、拾ってきた子供たちも随分と汚れていることが多く、彼らを身奇麗にして衛生的に良好な状態にする必要もある以上、石鹸は欠かせない。
それに衛生環境が悪ければ、子供どころか俺自身も病に倒れかねない。
故に石鹸が必要なのだ。衛生面と資金面の二つの目標を達成するために。

勿論、石鹸だけではなく、もっと多くの産業を興そうという構想も抱いている。
富とは力だ。織田家も油の専売を行う事により、富を得て力をつけた。

信長様の織田家は織田弾正忠家。元々は津島神社の宮司家の出である。
その津島神社は津島港を押さえ、尾張の物流を一手に司っている。
そして、この時代、油は油座と呼ばれる神社関係者でしか関われないようになっているのだ。
故に津島神社と津島港との人脈を頼りに出来た織田弾正忠家による油の専売は、織田本家である織田大和守家と主家である尾張守護の斯波氏を押さえつけ、凌駕するほどの力を与えた。
尤も、斯波氏に関しては織田大和守家の傀儡であったが。

そして、既にその織田大和守家の当主であった織田大和守信友は主家である斯波氏当主の暗殺により、その息子が信長様を頼る事で大義名分を得た信長様に討たれている。
更にその斯波氏の跡目を継いだ息子も、信長様を尾張から追放しようとした事から逆に信長様によって尾張を追放されている。
これらの事は有名な桶狭間の戦いの前に行われた事だが……どちらもまさに因果応報という言葉が似合う結果となっている。

俺にしても、迂闊に信長様の機嫌を損ねたり、叛意を見せたりすれば同様の結果を辿るのは間違いない。
まぁ今のところそんな事は考えもしないことだから全く問題はないのだが。
兎に角、今は金策に走る事と初陣に備える事が俺のすべき事。

「……な……ま?」

しかし、不安はある。上手くやっていけるのかどうかという不安が。
金策にしても初陣にしても、どちらにしても常にそうした不安が付き纏う。
成功すればいい。でも、失敗したら? ……そんな思いが俺の頭から離れてくれない。

「だ……様?」

これは俺の恐怖心からくるものだということはわかっている。
正直言って、俺は勇気のある人間ではない。どちらかというと臆病な人間だ。
だから、という訳ではないが、俺は自分の恐怖を拭いきれないでいる。
初陣以前に、俺はもう自分の恐怖に飲まれているのだ。こんな状態で戦場に出れば討ち死に間違いなしだ。
何とかしなければならない。しかし、一体どうすればよいのか自分でも――……

「旦那様?」
「ん、ん? ……ど、どうした初?」

考え込みすぎてて、呼ばれている事に気がつかなかった。
多少動揺したせいか、ついどもってしまう。

「いえ、あの……おかわりは?」
「え?」

そう言われて視線を下げると、そこには空になった御椀や茶碗があった。
どうにも考え事をしている間に全部食べてしまっていたらしい。
食べたものの味は全く覚えていないのだが、腹が多少重い。この感覚からすると結構な量を食べたのではなかろうか。
いつもならそれだけ食べれば止めるか、あるいは汁かけ飯を一杯食べて終了という程度だ。

とはいえ、折角作ってくれた料理を味わって食べないのは失礼に当たるのではないだろうか。いや、当たるに違いない。
別に食べた気がしなくて、誰かに食べられたような気分でなんとなく腹が立ったというわけではない。そう、決してそうではないのである。

「……ああ。じゃあ、頼もうか。ご飯と味噌汁、あとおかずも残ってたら」
「はい、分かりました。……今日の旦那様はよく食べられますね、ふふ」

なんだか笑われた……しかし、悪い気分にはならなかった。
正直なところ、むしろ心地よいとさえ思ったのだ。

こうした平和な日常が非日常的な世界に突然放り込まれた自分にとって、とても尊いものであるのだから当然だ。
少なくとも、自分はそう思っているし、確信している。

……だから、余計にこの日常を失う事を恐れてもいる。

「ええっ?! 御当主様、まだ食べられるんですか?! もう片付け始めちゃいましたよぅ……」

一瞬、心が冷たくなりかけた時、唐突に台所から声が聞こえてきた。
自然とそちらの方に目をやれば、また可愛らしい少女が一人。
彼女がこの屋敷に住む女中三人のうちの最後の一人、凛(りん)である。
容姿は同じ女中の雪のように飛びぬけて美しいというわけではない。しかし、それでも美人には入る。
言うなれば、田舎にいそうな美少女、というところだろうか。

彼女は、いつも慌しく動いてテキパキ仕事をこなすものの、慌てものの気質を持っているらしく、たまに急ぎすぎて失敗する事もある。
まぁ、それも愛嬌のうちと思えば可愛いものではあるのだが、時折大失敗をやらかさないか不安になる。
……ちなみにこれは完全に余談だが、彼女は女中たち三人の中で一番背と胸が小さい。

「御当主様ッ! 今、何か変な事をお考えになりませんでしたかッ?!」
「あぁ、いや……そんな事はないぞ。ないとも、うん」

それと人の害意に非常に敏感で、それについての勘が鋭い。
こうしたちょっとしたことでも容赦なく見抜いてくるので、迂闊な事は考えるのは避けたほうが無難である。
……まぁ、そう分かっていても考えてしまったりするけど。

「……そうですか。では、おかわりを今から用意いたしますので、しばしお待ちくださいませ。初さん手伝ってください」
「はい、今行きますね」

凛は不機嫌そうな目つきでこちらを軽く睨んでいたが、しばらくすると溜息を一つ軽くついて初を呼んだ。
初はそれにすぐに従って、台所の方へと移動する。それを見て、俺は少しだけ申し訳なく思う。
片づけの邪魔をしたようで、嫌な感じだ。事実、一緒に昼食を食べていた子供たちは、その体格に見合った食事の量であるため、もう食事そのものを終えて流しに食器を置きに行っている。
とはいえ、一つだけ言っておかなければならないことがあるだろう。

「初、凛」
「あ、はい。なんでしょう?」
「何かまた御用ですか?」

彼女達は俺が呼んだ途端に振り返る。
二人の視線を受けて少々気恥ずかしくなったが、最後まで言おう。

「いや、そのなんだ……ん、礼を言う――ありがとう」

感謝すべき事をされれば礼を言う。それは当然の事だ。
たとえ、こんな戦乱の時代であっても、そういう筋はしっかりと通すべきだ。
少なくとも俺はそう思う。だから礼を言った。言ってみた。

……でも、目の前で顔を見合わせてる二人を見ると自信を失くすんだが。

もしかして俺が間違ってる? などと思いながら彼女達の反応を待つ。
二人はお互いの顔を見て、何かを考えているように見えた。
すると、初のほうが凛の耳に口を近づけて何かを呟いた。
そしたら凛が少し吹き出して笑った。初もニコニコ笑っている。

一体何なのか。正直不安になるのでやめてほしいと思った時、二人は殆ど同時にこちらを向いて返答した。

「はい、どう致しまして」
「いきなり過ぎますけど、感謝の気持ちは喜んで受け取ります。こちらこそどう致しまして」

初が何を言ったのか気になるものの、二人はとても綺麗な笑みを浮かべていた。
そのせいか、初の言葉を追求する気にはならず、俺はただ彼女達の微笑を受け取り、今の平穏を享受した。
ただ、それでも無意識的に自分の顔に影を作ってしまっていたが。

――そして、その様子をじっと見ていた視線に気付くことはなかった。



そして、その日の夜。
俺は未だに悩んでいた。悩みながらそれを誤魔化すように本を読み耽っていた。
本来ならば、照明用の油代も馬鹿にならないため、夜間の読書は控えるようにしていたが、寝付けそうになかったので目を疲れさせるために読んでいた。
昼間に考えていた事が堂々巡りで、結局結論が出なかったことが大きい。

初陣だ。活躍するチャンス。成功すれば出世。目的も大きく進む。より多くの孤児たちを救える。
だが、怖い。恐ろしい。死にたくない。死ぬ危険すら遠ざけたい。安全なところへ逃げ出したい。

リスクとリターン。考えるたびに死がちらつく。そして、それが自分を怯ませる。
ここまで考えを引き伸ばしてしまって優柔不断だと思うが、そう簡単に決められる事でもない。
しかし、どうあっても決断しなければいけないのも事実である。
ただ、何か切っ掛けが欲しかった。何か自分の命を賭けられる切っ掛けが……。

「十兵衛様」

そんな時、障子の向こうから声がした。

「雪、か。どうした? 何のようだ?」

毎日聞いている声を聞き間違えるはずもない。間違いなくこの声は雪だった。
しかし、こんな夜更けに何の用があるのかと訝しげになる。

「いえ、特には。……中に入らせていただいても、よろしいでしょうか?」
「うん? ……まぁ、いいが」

怪訝に思いながらも、彼女を中へと招き入れる。
雪は俺の承諾を得ると、静かに障子を開けてゆっくりと入ってきた。
彼女の姿が灯明の薄明かりに照らされて映る。

「で、一体どうしたんだ? また誰かが喧嘩でもしてへそを曲げたか?」

流石にこの屋敷も人が増えて大所帯だ。
その分、衝突も増えていて、たまに喧嘩が起きる事も珍しくはない。そして、その仲裁も度々行っている。
率直に言って、面倒だとは思う。しかし、やらない訳にはいかないだろう。何しろこの屋敷の主は俺で、彼らの保護者も俺なのだから。

少しだけ憂鬱になりながら、再び本に目を落として読書を再開する。
あとは雪から誰と誰の喧嘩を収めればいいか聞いて、明日にでも仲直りさせればいいだろう。

「いえ、先程も申しましたように特に何も起きてはおりません」

しかし、雪は否定した。
彼女は別に何もないという。しかし、それでは何故こんな夜遅くに俺のところにきたというのか?

「それじゃあ何をしにきたって――」

素直にその疑問を口にしようとした瞬間、トンッと何かに軽くぶつかられた。
暖かく感じるその何か。一瞬だけなにが起きたのか考えたが、この場にいるのは二人だけ……雪が俺にぶつかってきたのだ。
いきなりの事に暫し呆然とする。何のためにぶつかってきたのか、何をするためにぶつかってきたのか。

……まさか、刺されでもしたかッ?!

あまりに唐突な事に徐々にパニックに陥り始める。
最悪の事態を考えながら、ゆっくりと顔をそちらに向けた。

「十兵衛様……」

だが、そこにいたのは卑劣な刺客ではなく、頬を染めた一人の少女がいるだけだった。
刺された訳ではないと安堵するが、この状況……それとなく空気を読んで頭を回せば、先程までの事が大体理解できてきた。
つまり、ぶつかられたという事自体がそもそも間違いで、ぶつかられたのではなく、抱きつかれたという事が正解。
で、更に雪の頬が染まっている事から見て、それを恥ずかしがりながら行っているという事。

……幾ら鈍くてもどういう事か理解できるというもの。恐らくは自分に懸想していると見て間違いないと思う。
でなければ、こんな夜更けにわざわざ訪ねて来るなどありえない。そもそもこうして抱きついてきたりはしないはず。
しかし、問題なのは、あまりに突然すぎる上に俺はこういう事に馴染みがない。
正直言って、俺の恋愛経験は少ない。結局片思いで終了する程度のものだ。
だからこんな時、どのように行動するのが最善なのか……全くもって分からない。故に現在対応に困っている。

但し、何かにつけて誤魔化したり、適当な嘘をついたりせずに誠実な態度で接するべきだという事くらいは分かる。
だから、俺は兎に角この場はひたすらに正直な気持ちで、それを真っ直ぐぶつけて対応しようと決めた。
それが彼女への、雪への誠意になると信じているから。

「……雪、あのさ――」
「十兵衛様。このままですと十兵衛様は死んでしまいます」

口に仕掛けた言葉を止められたのもある。当てが外れたという印象を受けたのもある。空回りしていると自覚して己を恥じたのもある。
だが、これら以上に『死』という言葉で、頭の中が半ば桃色状態だったのが一気に冷や水を浴びせられた形になった。

しばし、沈黙が辺りを支配する。どちらも何も言わなかった。
ただ、ひたすらに互いの温もりだけを感じていた。

それから数秒経ったのか、数分経ったのか。その間ずっと沈黙が続いていた。お互いに、なんと言っていいのか分からなくなっていた。
少なくとも、俺はそうだ。何を言ったらいいのか分からない。ただ、ずっとこのままでいる訳にはいかないとだけ感じていた。

そんな時、ふと気付いた。雪が僅かに震えているのを。
今日はまた随分と寒い。未だに冬であり、雪が降ってはいないとはいえ、風も冷たく、また強い。そんな日々が続いている。
だが、寒さだけが雪の震えの原因ではないだろう……恐ろしいのだ、俺の気に触って激昂されるのが。

内心、苦笑する。雪が害意をもって言って来ている訳ではないのは簡単に分かる。
ただ、家の主に向かって言う言葉ではないのは事実だ。この時代なら、通常何らかの処罰を受けたりする可能性がなくもない。
しかし、俺はそんな事はする気もないし、何より雪をそんな事で震えさせたくもない。
だから、俺の方から優しく言い聞かせるように口を開いた。雪が安心できるように、穏やかに。

「ああ、そうだな……それは自分でも、良く分かっている。でも、なんでそういう事を言うのか、聞かせてもらってもいいかな?」
「……十兵衛様に、死んで欲しくないからです」

聞いてみれば、とてもシンプルな理由だった。
今の自分は少しばかりキョトンとしているだろう。

ただ、そんな俺の事を気にせずに、雪は俺の着物をぎゅっと掴んで見つめてきた。
片方しかない目が潤んでいて、不覚にも胸の鼓動が高鳴った。

「雪だけじゃありません、この屋敷にいる皆もそう思っているはずです……。皆が皆、十兵衛様に大恩のある身ですから」

ああ、確かにそれは分かる。皆なんだかんだで俺に好意を抱いてくれているから。
生意気な態度を取ったりする奴もいるが、それは構ってほしいからだ。可愛い子供の駄々に過ぎない。

人間というものは、自分が窮地に陥った時に助けてもらえると、恩を感じて凄く感謝するものだ。
逆にそういうときに助けてもらえないと恨みに変わる。

……まぁ、某半島の人間は優しさというもの自体を理解できないので助けるのは意味がない。
むしろ、絶対にできないことをやらせて、できない事を理由に責めまくるべきだ、というのがその半島の人間に対する隣国人の正しい接し方らしい。

ともあれ、俺はそれこそ命すら危ない状態に陥っている子供たちを多く助けた。
彼ら彼女らがその事を感謝しているのは、毎日の平穏な日々の中で俺を慕ってくれている事から十分理解できる。
……尤も、時代が時代であるが故に、そういった感情面だけでなく、俺がいなくなると他に頼れる人間もいないから死んでほしくないと思ってると邪推もする。
真っ直ぐではない捻じ曲がった考え方だが、今の時世ならばそちらの方がむしろ正しいのかもしれない。
そうやって強かでなければ生きていけないという事情もあるし、それが分からない訳でもない……ただ、少しばかり悲しいが。

「雪、お前の言うことはよく分かる」
「十兵衛様……」

身体を雪の方へと向けて、両手を彼女の肩に乗せて言った。
ますます目が潤んできていてかなり泣きそうな状態に見える。それを見て更に心がぐらついた。心臓がバクバク鳴りっぱなしだ。

ただ、少しだけ疑問に思うことがあるので、心を静める時間稼ぎの意味も兼ねて、それについての質問を投げかけた。

「でも、ちょっと聞きたいことがある。何故俺が死ぬと言ったんだい? それだけがよく分からないんだ」
「……」
「教えてくれない……かな?」

何処か言い難そうだったので、優しく促してみる。
雪は床の畳の方を見て俯き、何か迷っているようだったが、しばらくすると顔を上げた。

「十兵衛様、雪は縁あってここにおりますが、元々は武家の娘です」
「……ああ、そうだな」

そう、雪は武家の娘だ。そして、俺からすれば若過ぎるが、顔も十分すぎるほどの美人と表現していい。
ただ、日本は時代によって美人の基準が異なるので、この時代の人間と俺の美人には差が出る。

戦国時代ではふくよかで瓜実顔、鼻筋が通っていておちょぼ口というところだ。既に現代の美醜感に大分開きがあるのが分かると思う。
まぁ、顔立ちの部分は兎も角、ふくよかなのは裕福な証であり、また頑強で出産にも強いという理由がある。
医療技術が発達していないこの時代ではとても魅力的な点なのだ。裕福という点も、飢え死にする事が珍しくないこの時代では特に重要視されよう。

……まぁ、それは兎も角として。

「雪は、討ち死にして行った人たちをたくさん見てきました。……だから、分かるのです。十兵衛様がこのままだと……」
「討ち死にする、と?」

雪は小さく頷く。それを見て俺は雪の言っている事は正しいと、冷静に判断を下していた。
正直考えたくはないことだったが、確かにこのままだと討ち死にしかねないとも思っていた。
喧嘩程度の殴り合いなら兎も角、斬り合い、撃ち合い、殺し合いでは今の俺ではおそらく話にならない。
何故そうなるか? 簡単だ。覚悟が違うからだ。

俺が幾ら覚悟を決めたとしても、それは口先ばかりになりかねない。
覚悟を決めた、決心した、などと言葉を並べたところで、本当に腹を括れているかどうか自分でも分からないのだ。

俺は実際に人を殺した事もない。刃物で殺傷させた事もない。俺の周囲だってそれが当たり前だった。
しかし、この時代の人間は違う。実際に人を殺した事のある人間なんてごろごろしているし、盗みを働いたり、人の弱みに付け込んだりと、そんな事は日常茶飯事だ。
そういったことが当たり前の世の中で生まれ育った人間と、治安が良好で政情も安定している殺し合いの危険とも無縁な現代で生まれ育った人間では話にならないだろう。
尤も、現代でも人の弱みに付け込んだり、口先で丸め込んで他人を騙す事がないとは言わないが。

だが、それにしたところで歴然とした差がある。その悪辣さに関しての歴然とした差が。
そして、その差を埋めるためには、俺は悪鬼羅刹の如き人間にならなければ駄目だろう。
欲望のままに動き、己の我欲の為に他人を罠に嵌め、死を強要し、そいつの持てる一切合財を奪う。それができなければならない。
それくらいの事が出来なければ生き残れない。この時代にいればいるほど、自分が甘い、生温いという事が思い知らされるのだ。

……時々、もうどうしていいか分からなくなる。

「十兵衛様」

再び悩みだしたとき、雪に声をかけられる。
何かと思えば、俺の手を掴み、それを自身の胸へと押し付けた。

カッと顔に血が昇って赤くなる。

「ちょ、ゆ、雪っ、な、何のつもりなんだッ!」
「十兵衛様、雪を……私をお抱きくださいませ」
「ばっ……ッ!」

馬鹿なと言葉を続けようとした。だが、それ以上言葉は続けられなかった。
何故なら俺の口は彼女の唇によって塞がれていたのだから。
そして、彼女の唇が与える柔らかなその感触に暫し呆然とする。思わずこれがキスかと感慨に耽る。

しばらくしてどちらともなく離れたが、僅かな時間だけしか触れ合っていないようにも、何時間もの時間触れ合っていたようにも思えた。
互いに興奮していて、息が荒い。
更に俺は雪の……女の匂いにくらくらしてきた。

「はぁ、はぁ、十兵衛様ぁ……」

雪も甘ったるい声を上げる。
俺は返事をするのも億劫で、荒い息遣いのまま、ただ雪を見つめた。
雪はそれを見るや、ただ優しげに微笑んで一言だけ言葉を紡いだ。

「――お慕い申し上げております」

そして、俺は夢現の状態のまま、雪に押し倒された。
その後の事はいちいち言わないでも分かるだろう。

ただ、静けさ深まる夜の屋敷の一室にて、高らかな嬌声が鳴り響いたのみ――ただ、それだけである。



最終更新:2009年03月31日 21:55