例の依頼から俺は度々熱田へ赴くようになった。
実際問題、実物を知っている俺が図面を引いたり、説明したりしないと物が出来ないからだ。
それに金属部品の調達も必要だった。
堀田はあくまでも家屋大工の棟梁であって、金属製品を鋳造する鋳物師ではない。
だからそれらは別口で頼む必要があったのだ。
これが中々金も時間も掛かることで、何より材料の調達がまた面倒だった。
信長様から材料と人員の工面はしてもらえるため、何とか都合がついたものの、自分だけで勝手に作ろうとしたらもっと面倒な事になっていたに違いない。

そうして材料も揃ったところで部品を作り、組み立てつつ調整を行い、三機の試作投石機が完成した。
僅か三機に過ぎないが、これらが想定どおりの力を発揮できるのならば、織田は城攻めにおいて圧倒的に優位に立てるはずだ。
その後は、堀田配下の次男坊、三男坊を中心に雇い入れ、一時投石機を分解し、信長様の居城のある小牧山に運び込んだ。
そして、あとは小牧山にて再び組み立てて運用試験を開始した。結果はまぁ上々であると言えた。
相当な距離に大きな石を飛ばせれたし、それで投石機が破損するような事にはならなかった。
組み立てにそれなりに時間がかかっていたようだが、それは慣れの問題に過ぎない。
彼ら自身も投石機の持つ力に気づいたようで、興奮した様子で夢中になって試験を行ってくれた。
俺は彼らの様子から、そのまま彼ら自身を投石機部隊として登用してしまおうと考え、小牧山城下の安宿に逗留させつつ、盛んに口説いた。
あくまでも投石機を試験的に扱う人間として雇い入れただけに過ぎないため、難色を示されると俺は考えていた。
事実、実戦部隊としての登用は渋られた。まぁ当たり前だ。命の危険もなく、しっかりとした日当が支払われるから熱田から小牧山まで着いて来たに過ぎないのだから。
簡単に言えば、いわゆるちょっとしたアルバイト気分で雇われただけなのだ。命がけの戦場に出るなんて御免だろう。

しかし、俺はそれを考えられる限りの手段で口説き落としに掛からないといけない。
一人じゃ投石機を扱えないし、組み立てだって構造が分かっていても困難だ。特にすばやく組み立てるなんて事は出来はしない。
だから俺には彼らが要る。彼らが必要なのだ。俺が出世していくためにはどうしてもいなければならない。
そして、その出世によって、より多くの孤児を救うのだ。
多くの孤児を救うためには彼らを騙す必要があるというのならばいいだろう。
騙してでもこちらに引き入れるまでである。それが俺の目的なのだから、そうするべきなのは当然だ。
数十人の若者と数千、数万の孤児たちを天秤にかけるのならば後者を取るのは俺にとっては当たり前の事に過ぎない。

だから、宥めすかして、酒を飲ませて、良い物食わせる。
遊女も雇って宛がう。投石機は敵と斬り合いにならずに味方の後ろから一方的に攻撃できるから前にでなくて済むと説く。更には楽に功を上げられる可能性を示唆する。
甘く甘く溶かして心の隙間に入り込む。但し、侮られないようにあくまでも上の立場という態度をこちらは崩さず、慎重に言葉を選んでゆっくりと彼らの心に浸透させていく。

美味い食事を食べて、酒でいい気分になり、若い女が自分にしなだれかかる。
次第に思考が麻痺していき、こちらの要求を彼らはただ呑むがままになっていった。
それ自体は自分にとって良いことなのだが、思っていた以上に簡単すぎたので、何か裏があるのではと、つい邪推してしまった。
尤も、アホみたいに浮かれて、もう遊女相手にこの場で色々と性的な事をしようとしている時点で、考えすぎだと判断した。

……とりあえず、遊女と彼らの間に何があったかの詳細は省く。いちいち言わなくても分かるだろうから。

まぁ、自分が連れてきた面々はまだまだ若い。だからそういった若さゆえの過ちも簡単に犯すのだろうし、彼らは特別勉強が出来たり、頭が回ったりする訳でもない。
ただ、それなりに使える大工というだけでしかないのだから、こちらのちょっとした奸計に嵌るのも無理はない。
堂々とした態度でこちらの見え透いた要求を拒絶するという事は期待するだけ無駄だ。というか、そういう人物には今のところ会った事がない。
だからまぁ、眼前の光景を見て、率直にこう思ってしまうのも無理はないだろう。

―――この時代、思った以上に馬鹿が多いのでは……?

そんな他愛もない事を考えていた永禄7年(西暦1564年)の2月に入ったばかりの現在。織田家の仇敵である美濃の斎藤家に大事件が起こる。
後世にも有名な竹中重治。通称、竹中半兵衛によって、斎藤氏の居城である稲葉山城を奪取したとの報が飛び交ったのだ。



気晴らしに書いた現実から戦国 第六話「評定」



「今こそ美濃を攻める好機っ! この機を逃さず、一挙に美濃を手中に収めるべきかと存知まする!」
「否ッ! それよりも稲葉山の竹中を降らせることこそが肝要! あやつさえ織田家に降らせることが出来れば稲葉山城はそっくりそのまま手に入る!」
「此度の事は竹中ではなく、その舅である義父の安藤守就が主導したのではないか? であれば、安藤こそを抱き込まねばなるまい」

つい先日の稲葉山城の事で、急遽評定が開かれた。いつもは粛々と始まるらしいが、今回は事が事なだけに大層な論議を呼んでいるようだった。
これが俺にとっての初めての評定だから、どうとも言えないのだが、とりあえず、この場に出れた事自体は良い事だと思う。
立身出世を考える以上、こういう織田家の方針を固める場には是非とも出ねばならないのは明白であるし。
まぁ、急に評定に出れるようになったのは、たまたまとある人物の伝手を頼れたからなんだが……。

「ようよう……このままじゃあ、何も言う事なくなるぜ? 稲葉山の事で殿に申し上げたい事があるから評定に出させてくれって言ってきたのおめぇだろ? どうするよ?」
「……いえ、まだそれがしが口を挟む時ではありませぬゆえ」
「ふーん、そうかい。ま、おめぇは殿のお気に入りみてぇだから、後でゆっくり話も出来るだろうけどよ」

この軽口を叩いてくる彼が俺が頼った伝手であり、名前を木下藤吉郎秀吉という。つまり、後に天下人となる豊臣秀吉その人である。
この秀吉……いや、木下殿のおかげで、俺はこの場にいられる。まぁ、木下殿の言う信長様のお気に入りというのは噂なんだろうが。
……ただ、噂といっても、信長様に直接抜擢されて仕官したのは事実であり、また俺の持っていた本の内容説明で、頻繁に面会していた事も事実である。
おそらく、そこからお気に入り云々という風評が生まれたのだろう。……お気に入りと言っても、ボーイズラヴな関係には至ってはいないが。全くもって至ってないが。

―――まぁしかし、木下殿もまだこの頃は大して偉くはない。
なのに、何故木下殿の伝手で評定に参加できたかというと、木下殿自身の弁舌と人脈によるものが大きい。
木下殿は、人たらしの達人。平たく言えば、喋りとおべっかがかなり上手い。正直、詐欺師に向いていると言い切れるくらいだ。
そして、木下殿の人脈を頼り、共に信長様の御側室である生駒の方様に面会して、信長様に俺の評定参加を許してもらえるよう頼み込んだ。
その結果は、今この場に俺がいる事が示しているだろう。ただ、そこまでして折角参加した評定がグダグダしているようなのがいただけないが……信長様も少し怖い顔をなさっているし。

―――もういい加減、発言しようか。結構ドキドキするけど、頑張ろう。

空気を肺に吸い込み、腹に力を入れて声を張り上げ、前に出た。

「殿っ! 僭越ながら申し上げたき事がございます!」
「なっ……!? これ司馬! 控えぬかっ!」
「そうだ! 殿の格別な御計らいで評定に出席するのも恐れ多いというに! 新参者のその方がこの場で物申すなどとはっ! 恥を知れ!」

俺の声に多くのものが呆気に取られたようだが、すぐに俺に対して厳しい言葉が浴びせかけられる。
まず最初に言って来たのが丹羽五郎左衛門長秀殿で、次が林佐渡守秀貞殿だ。
両名とも織田家の重臣とも言っていい人物だ。

ただ、丹羽殿が俺を咎めるというよりも、信長様の勘気を俺が蒙っては不味いのではという配慮が少しばかり窺えた。
まぁ、俺を庇うというつもりではないのだろう。家中での不和は望ましくないという考えからの配慮に過ぎないと感じる。

一方で、林殿はなんというか極端な話、悪意に満ちているとも言える。
信長様の権威をちらつかせ、自分の方が立場が上である事を強調しつつ、俺を咎めている。典型的な権威主義者か。
……まぁ、それだから個人的に好きではない人物なのだが。

ただ、そうこう騒いでいる間も、俺は信長様に頭を下げながらチラッと表情を窺ったりしていた。
すると、面白げに僅かばかり頬を緩めて信長様は口を開いた。

「構わん。申せ」

信長様は、ただそれだけ言った。
しかし、それによる状況の変化は大きい。丹羽殿も林殿もこれ以上の俺への追求はせずに黙ったのだから。
そして、評定の場は一時静けさが支配し、俺の言葉がこれ以上ないくらいに目立ちそうな状態になった。

……頑張れ、俺。大丈夫。慎重に言葉を選んではっきりと聞こえるように声を大きく出せばいいんだ。

再び俺は空気を吸い込み、そして一世一代の大芝居を打つべく、声を出した。

「は、ははっ! 誠に! 誠に有難き幸せにござりまする!」

俺は頭を何度も上下させ、そして床に何度も頭をこすり付けた。
これ以上ないくらいのうれしそうな表情を浮かべて。

まずは大げさに礼を述べる。これは意外と重要な事だ。
この時代は戦国時代であり、気に入らないというだけの理由で殺されても文句は言えない。
殺されないにしても鬱陶しい奴と見なされれば遠ざけられ、出世の機会も失われる。だからこういうおべっかはかなり大事なのだ。
木下殿は将来、豊臣秀吉として天下人にまで至るが、その木下殿にしても信長様に気に入られるためには何だってする。
もちろん、本人の実力も十分にあったのだろうが、それを生かせる機会を得るためには、こうしたおべっかは重要なのだ。

誰にしても、自分を慕う奴。自分を褒める奴。自分を認めてくれる奴。自分のために働いてくれる奴。自分を大事にしてくれる奴。
それらの人物には、必然的に甘くなるものなのだ。

「世辞はよいわ。はよう申せ」

……とはいえ、まだまだ俺は信頼と実績を得るには至ってはいないので、甘くは見てもらえないのだが。
しかし、ここから一気に信長様の寵臣となって、出世街道に乗りさえすれば、俺の目的も適う。

願いは、ただ多くの孤児たちを救うのみ。ただそれだけだが、その道程は命がけ。
ここで一つ間違えば、出世どころか俺の命なんてないだろう。だが、それでも俺は前に進む、進んでみせるっ!

ごくりと唾を飲み込んで、俺は続けた。

「はっ! 此度の稲葉山の一件に置かれましては、竹中半兵衛が舅である義父の安藤守就を説得した末に成し遂げたものにございまする!」
「……で?」
「はっ! 竹中は常々、主君である斉藤龍興めが酒色に耽るばかりで政(まつりごと)に関心を示さない振る舞いに苦々しい想いを抱いていたと聞き及んでおります! それ故、此度の事はあくまでも龍興めを諌めるための行動であると思われまする!」

そう言い終わるや否や、一気に場がざわつき始める。
しかし、耳に入ってくる言葉の多くが俺の発言に対して否定的だ。
それもそうだ。諌めるだけのために城を……しかも大名の居城を奪うなどということは馬鹿げているにもほどがある。
通常、そこまでの事をしてのけるのなら、御家の乗っ取りや少なくとも主家からの独立くらいはしてのけて当然。それが戦国の世というものだ。

……しかし、何事にも例外はある。

俺はこの稲葉山乗っ取りの行く末を知っている。そう、あらかじめ知っているのだ。
半年後に竹中半兵衛が城を龍興に返還する事を知っているし、その後、斎藤家から出奔して北近江で浅井の客分として仕える事になるのも知っている。
そもそも現在は情報が錯綜していて、今回の稲葉山乗っ取りに関して正確な状況が織田家でもまだ完全に掴めていない。
正直な話、織田家では俺以外に今回の事を完璧に把握しているものはいないとまで断言できる。それにしたところで、知っている理由はあらかじめ歴史を学んで知っているからという掟破りなものだ。
反則にもほどがあると自分でも重々思う。だが、その情報によって俺は手柄を立てさせてもらおう。

未だにざわめきが収まっていないが、それを打ち消すほどの声を張り上げる。

「故にっ! 竹中は龍興めにいずれ城を返しましょうっ! そして恐らくそれは半年ほどから遅くとも本年中にはそうなると見ておりまするっ!」
「馬鹿なっ!?」
「そのような事、あろうはずがあるまいッ!」
「全て貴様の憶測ではないかっ! どうしてそうなると言い切れるのだ!」

俺の言葉に、堪らず評定に参加している面々が叫ぶ。
それはそうだろう。折角取った城を返すなど正気の沙汰ではない。

既にそうなる事を知っているからとは言えない。
だが、それでも俺なりの根拠は示せる。俺の話が推論と見なされるだろう事は既に予測済み。その対策くらいは出来ている。
いざそれを言おうと口を開こうとしたその時。ドンッ、と床を思いっきり叩いた音が響いた。
それのみで、一気に静まり返り、皆の視線が音の先へ向く。

……その視線の先にいたのは、信長様だった。

「騒ぐでない」

ただ一言。ただ、それだけの言葉を信長様は仰られた。
しかし、その言葉の効果は大きく、誰もが口を開かなくなった。俺への非難の声は止んだのだ。

だが、俺は全く安堵できなかった。
何故か? 信長様が俺を見ているからだ。

特に何かするわけではない。ただ、じっと俺を見ている。
しかし、それが意味するものを俺は自然と悟った。

『ワシも家臣どもも納得させてみせよ。でなければ……』

―――斬る。

言外に、そう述べているのだ。

「……ッ」

汗が酷く、滲み出る。手がべとべとして、心臓の音が大きく聞こえる。
頭ではなく、本能が感じる死の予感。それが今、目の前にあった。
いつの間にやら、俺は命の瀬戸際に追い込まれている。だが……。

(……上等っ!)

今更だ。もうこっちはとうに腹は括っているんだ。
未来に戻る事が絶望的になって、それでもここで生き甲斐を見つけたんだ。
その生き甲斐のためなら、俺は……っ!

脳裏に何人かの顔がよぎると同時に、意を決して言った。

「根拠はありまするっ! それがしの言葉の根拠は、竹中自身の人生にござるっ!」

しん、と静まる評定の場で、俺はそのように発言した。
しかし、心の中ではかなり後悔する想いで一杯であったりする。

……言った。遂に、言ってしまった。これが通らなければ、俺は人生に幕を閉じなければならない。

先程までとは打って変わって、穏やかな気分になる。諦めの境地、とも言うべきものだろうか。
心臓の音も聞こえなくなった。手はべたついて少しばかり気持ち悪いが、これ以上の汗は出てこないようだ。

そして、緊張しながら信長様の反応を窺う。

「ほう? 詳しく申せ」

そう言うと、面白そうにこちらを見てきた。

幸いにも興味を持ってはくれたようで、こちらの話を聞く態度は取ってもらえた事に、まずはホッと心の中で安堵する。
聞く耳を持たれずに斬り捨てられたらどうしようかと戦々恐々としていたのだ。

……ともあれ、邪魔が入りそうにないこの状況で、後は説得するのみなのは僥倖である。

俺は懇切丁寧に、更に注意深く言葉を選んで信長様に根拠を述べた。
竹中半兵衛が幼少の頃からあまり外に出る事はない人物で、ひたすら部屋に篭って本を読む日々を過ごしていた事。
また、その本が六韜三略を始めとした武経七書であった事。それが竹中の智謀の源泉となっている事。
そうした幼少期からの生活から、交友関係は広くなく、更に武芸を特に重要視する侍衆からは侮られてきた事。
故にそれらの者たちからの人望はなく、また稲葉山城を占拠した事で竹中半兵衛という人物が彼らから見直されてはいるだろうが、それでも過去の確執は埋めがたいという事。
更にその確執から、竹中自身に重用される可能性が殆どないため、仮に竹中が独立したとしても、主君として担ぎ上げようとはしないだろう事。また感情面からでも主君と認めないだろう事。

これらの事を俺は懇々と説明した。
まとめると『竹中半兵衛は智に長けるが、武こそを誉れとする者どもからは侮られ、彼らからの人望もなく、故に大名として独立する事は出来ない』というところだろうか。
勿論、全ては未来の知識によって知りえた事であり、またそれから推測した事でもある。
当たっているかどうかは、正直わからない。だが、それでも信憑性はあるし、筋も一応通っているはずだ。
最悪、間違っていたとしても、俺の言葉が本当のようであればそれでいい。
たとえ、事実と違っていたとしても、元より結末を知っている身である。

竹中半兵衛には美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡せと言っても応じない。

これさえ知っていれば、結局如何様にでもこじつけて説明できる。
結果を知っている事。それが俺の、最高の強みなのだ。

心の中で笑みを浮かべる。それくらいの余裕があった。
気付けばもう、死への危機感は失せていた。窮地は乗り切ったと、俺は静かに確信する。

それを確認するべく、ちらりと信長様の顔を窺うと、きつい眼光は緩まっていた。
気配も張り詰めた感はあるものの、明確な殺意などは感じられない。

……一応納得してくれたようである。

評定に参加している面々も、俺の言葉に一理あるという顔はしていた。
尤も、気に入られているかどうかは甚だ怪しいが。

「大体の事は相分かった。が、なにゆえそうも斎藤の竹中に詳しい?」
「はっ。前々から敵方の斎藤家については独自に調べておったのでありますが、その際に斎藤家において活躍する竹中の事を知りまして、年齢もそれがしと近かったので興味が湧き、その詳細を知った次第にござります」
「……で、あるか」

その質問はあらかじめ予想している。
あまりに竹中半兵衛について詳しすぎれば不審に思われるのは明白。
最悪、斎藤家と何かしらの繋がりでもあるのではないかと邪推されかねない。
それを避けるために、事前に色々と明確な回答を用意しておくのは当然の配慮というものだ。
信長様もしきりに頷いて、俺の言っていることに納得してくれている。……もう一押しだ。

「殿、これまで述べたそれがしの言葉を信じていただけるのでしたら、竹中ではなく、此度の一件で動揺している他の斎藤家の家臣調略を推し進めていただきたく」
「ふむ……竹中ではなく、他の者どもをか。この機に乗じて、斎藤家そのものを切り崩しにかかる、という事か?」
「はっ。その通りでありま―――」
「殿っ! 今しばらくお待ちいただきたい!」

誰だッ! 心の中でそう叫びながら声のした方へ振り向く。
そこにいたのは、先程も俺に食って掛かった林殿だった。

「そやつはなんら武功も上げてはいない、初陣さえまだのひよっこ侍ではありませぬか! たとえ、言っている事に一理あろうとも、そのようなものの言葉をお聞きなさっては……他のものに示しがつきませぬっ!」

クソッ、林め……一度ならず二度までも邪魔をするか。
思わず心中で悪態をつく。

どうにも自分を目の敵にしているとしか思えない態度に、いい加減腹が立ってきた。
気に入らない奴だが、どうせ将来失脚して織田から追い出される運命なので無視しておこうと思っていた。
だが、こうも噛み付かれてはそれも出来ないし、何か仕返ししてやりたくもなる。

……とはいえ、まだ向こうの方が優位な立場。今は耐えるしかない。

沸々と湧き上がる憎しみを持て余しながら、俺はただ黙って聞いていた。

「佐渡守、いい加減にせい」
「ですが、殿……っ!」
「あくまでも食い下がるか。だが、ワシは十兵衛の言葉を取る」

信長様のこの発言に、林は悔しそうに、そして苦々しげに顔をゆがめた。

いい気味だ。俺は率直にそう思った。
もっときつく言ってしまっても構わないのにとさえ思う。

そのまま林は項垂れる様にして座りこんだ。
そんな姿を見ても同情心は一切湧かないが。

そんな事を考えていると、更に信長様は言葉を続ける。

「さりとて、佐渡守の言葉にも一理ある。故に、次の戦には十兵衛も出す」

……え? えええっ?!
予想外の展開に焦る。ただ焦る。そればかりである。
頭の中では、何故とか、いきなり過ぎるとか、そういった言葉が飛び交っているが、口からは出ない。

そして、ただ混乱するだけで、どうする事も出来ない自分。

「よいな、十兵衛」
「……は、ははっ! 必ずや武功を立ててみせまするッ!」
「うむ」

然も戦に出れる事が嬉しそうに言う。
顔は笑い、言葉も喜びに満たす。それが自然と口からこぼれ出た。
承諾してしまった事に気付いた後で後悔して、けれども拒否できたかと言われればそうでもなく、ただひたすらに混乱していた。

あとの評定は順調に進み、細々とした事が決められた。
そして、この後、信長様の言葉どおり、俺の発言した事が戦略として取られ、美濃への調略が強まる事になる。

しかし、初陣、初陣、と頭の中がそれで一杯の俺は、評定のその後の事を覚えていなくて、木下殿に色々と教えてもらう事になった。
肩を何度か叩かれて、褒められ、励まされもしたが、俺の心は浮ついていた。

……覚悟を決めたつもりだったが、いざ戦に出されるとなると、心が震えて怯える。

頭をよぎる血生臭い阿鼻叫喚のイメージ。中々抑えることのできない湧き上がる恐怖心。
それらで萎縮した心を如何にかする事が既に戦なのだろう。

もう戦いは始まっているのだ。
俺はもっともっと、己の恐怖に打ち勝てる覚悟をする必要性に迫られていた。



最終更新:2009年02月22日 22:25