東京 200X年1月26日 11:44
日本国家保安省本部ビルは、五十年代に数万人の労働者と囚人を使って建造された、スターリン・ゴシック様式の建物である。
旧日本放送会館(現JHK)の跡地に、地下五階、地上三十三階の規模を有する巨大なスターリン様式の建物は、皇居と日比谷公園を見下ろす位置にあった。
それは、国家保安省が“秘密警察”という恐怖の象徴であることを常に民衆に思い起こさせるため、意図的にその場に作られた経緯があった。
そして今日、その国家保安省本部ビルの最上階にある一際豪奢な作りの部屋に、国家保安省の重鎮たちがそろっていた。
「先の異変よりすでに一週間が経過しましたが、いまだ通信は回復しておりません」
「衛星通信もか?」
「はい、閣下。我が国はおろか、ロシア側の衛星でさえ接触できません。しかし、“紅天蛾”(べにすずめ)との通信は回復しました」
日本を除く全世界からの通信が途絶えてからすでに一週間が過ぎていた。
現在までに確認できたのは、南日本の支配領域と樺太を除く日本領とは連絡がついたが、そのほかの地域は全てのありとあらゆる通信が全て死んでしまっているということだった。
また、朝鮮半島方面や沿海州方面に、人民空軍による航空偵察が行われると共に、海軍及び国境警備軍もまた、貴重な燃料を消費し、周辺海域の探索にあたった。
だが、探索一日目にして状況は絶望的に悪いという結果が出た。
なぜなら、すぐ隣にあったはずの朝鮮半島やユーラシア大陸は影も形も見当たらず、ただ広大な大海原が広がるのみだった。
「“紅天蛾”からの情報ではどうなってる?」
日本が世界に誇る情報収集衛星“紅天蛾”は、あの大異変から二日後になってから通信が回復し、情報を再送信しはじめていた。
だが、送られてきたどの情報を見ても、状況が良くなることはなかった。
偵察衛星から送られてきたどの画像を細かく分析しても、あるはずの座標に大陸はなく、大陸がない大海原のはずの座標に大陸らしいものがある。
だが、いずれの大陸にも自分たちの知る国家の残滓を見出すことは出来なかった。
それ以外にも、日本に襲い掛かった苦難はまだまだ尽きていない。
「通信の復旧に全力を尽くせ。で、例の化け物どもの処分については?」
「それについては、現在海軍から海上保安庁ならびに国境警備軍の参加を要請してきました。総動員態勢で周辺海域の掃討を行うようです」
それは、今回の大異変が起こって三日目の出来事であった。
湘南海岸公園に、一体の水死体が漂着した。
水死体といっても、それは人間ではなくあきらかに海の生物の死体であった。
とはいえ、それには一角が生えており、まるで身体が鎧のように硬い鱗に覆われた鯨に似ていなくもない、得体の知れないものであったが。
この得体の知れない生物の死体が見つかってからというもの、日本各地の漁港で既存種の漁獲量の激減と、見たこともない新種の魚介類の発見が相次いで報告された。
同時に、漁に出たまま行く不明になる漁船の報告も、多く寄せられるようになった。
“巨大な化け物が漁船を襲ってきた”
そんな報告が、海軍の重ロケット巡洋艦“愛宕”が偶然救助した漁船の漁師からもたらされた。
イカ釣り漁に出た三隻の漁船のうち、二隻が巨大な鯨のような化け物に飲み込まれたというのだ。
無論のことだが、愛宕の艦長たちは、それを信じられなかった。
が、対潜哨戒班から、猛スピードで愛宕へ向かい突っ込んでくる物体の報が舞い込んだ途端、艦は騒然となった。
どう考えても、潜水艦ではありえないほどのスピードを出して、一直線に愛宕へ向かう“それ”に対し、海域から急速離脱しようと愛宕は、進路を本土へと向けた。
しかし、なおもしつこく追跡を続ける“それ”に対し、艦長はついに攻撃命令を下し、RBU-6000対潜ロケットと553mm魚雷が使用された。
攻撃から僅か数分で全てにけりがついた。
“それ”は水面に緑色の体液を広げながら姿を現した。
湘南海岸に打ち上げられたあの異形の化け物と全く同じ生き物が、口から緑色の泡を吹き出しながら、ひっくり返っていた。
海軍からの情報で、全国の漁協に遠方へ漁業へ行くことを禁じる通達がすぐさま出されたのは言うまでもない。
少なくとも、安全が確保されるまで遠洋漁業など、漁協のほうからも願い下げだった。
「まったく……。頭の痛いことだ。他に報告は?」
「先の日比谷デモ事件で逮捕者832名、並びに危険思想を持った関係者など1611名の処分についてですが、現在、青森の地下第101基地の装甲板補修工事、および各種国営農場に投入予定です」
「大澤め、消えてからも厄介ごとを残していきおって。連中は使い潰すつもりで使うんだ、いいな」
こうして、先の茅葺首相就任反対デモを行った人々の運命は決められてしまった。
この地下基地というのは、戦後の復興期に寺津賢次郎首相が進めた国土防衛計画に従い作られた、巨大地下軍事施設のことである。
現在、松代の総合作戦指揮所を初め、本州の七箇所に作られており、うち一つはここ東京にある。
それらの地下基地はかなり深いところに作られ、地中には強化装甲や強化コンクリートなどがサンドイッチ状態で幾層にも張り巡らされており、工事には幾万の政治犯が使用された。
これら過剰ともいえる防御対策には、ドイツ側からもたらされた戦訓を考慮に入れた結果であった。
旧ナチス・ドイツ海軍が、フランス北西部のロリアンなどの要所に作ったUボートブンカーは、1943年に実戦投入された12000ポンド爆弾、通称トールボーイが投入されるまで、効果的に潜水艦を空襲から守り続けた。
ドイツからもたらされた報告と、寺津首相が太平洋戦争や朝鮮戦争で経験した米軍の爆撃によって、地下要塞群は異常なほどの深度に作られ、幾重の防壁に覆われることとなった。
米軍がイラク戦争などで使用した地中貫通爆弾すら防御できるよう、これらの地下要塞はいまでも拡大と強化を続けていた。
さらに、これらの施設は有事の際に一般市民の避難所兼要塞となり、民兵用のための武器弾薬までもが保管されている。
無論ながら、これらの武器弾薬の保管庫は有事の際に開くようにしており、さらに常時警備兵が詰めているので、それらを奪っての反乱は不可能に近い。
一方、国営農場行きとなった者も、この先の運命はもはや地獄しか待っていない。
国営農場(ソフホーズ)は、農民を集団的な経営へと再編するための模範農場として構想されたものである。
日本では五十年代から国営農場が導入されたが、前首相の自由化政策の一環により、国営農場の大多数は解体され民間へと払い下げられた。
そんな中でも国家保安省はいくつかの農場を管理しており、それらを囚人労働用として使用していた。
それらの農場は、健康や安全に関しては非常に劣悪であり、体を壊す囚人が多く出ることで、全国の凶悪犯たちの間では“農場労働”は地獄の片道切符と同じ意味であった。
数年前に凶悪事件を起こした未成年らが、この国営農場で農作業についているという情報が、一部の外資系マスコミに流れたことがあった。
それらの未成年らは悪質かつ凶悪な犯罪を犯し、裁判では未成年という点を考慮に入れながらも、凶悪さゆえに一般刑務所にて懲役15年の刑を言い渡していた。
だが、行けば確実に体を損ね、“遠まわしの死刑”とまで言われたこの農業への未成年者の使用は、未成年者の人権蹂躙だと騒ぎ出した(アメリカやカナダなどの西側でネットを通じて反日活動を続ける)日本人やアジア人、外資系マスコミは、当局の妨害に合いながらも断片的ながらこの国営農場の実態を調査した。
だが、これらの面々がその調査を発表する数日前に、“ガス漏れ事故”や“交通事故”で死亡するなどし、結局これらの実態はうやむやのまま闇に葬られた。
つまり、どちらに派遣されても死に至るのはほぼ確実であった。
「では、次だ。衛星の情報収集については?」
「はっ。現在種子島から打ち上げた紅天蛾二号の軌道をトカラ列島付近に修正し、随時情報収集を継続させております」
トカラ列島。
赤い日本の行政上では、鹿児島県側薩南諸島に属する島嶼群である。
だが、沖縄と台湾にできた親米日本政権(南日本)の誕生や、戦後直後のごたごた、朝鮮戦争の飛び火化などによって、いつの間にか実効的な支配を南日本に奪われていた。
しかし、あの大異変後に行われた航空偵察では、トカラ列島を構成していた島々の南にあるはずの奄美大島がなくなっており、かわりに沖永良部島のあるはずの場所に、どうみてもそれ以上の大きさを持つ島があったという。
そしてもう一つ妙な情報も伝わってきた。
トカラ列島の一番南にある有人島、宝島からの連絡が途絶えたという。
宝島は、鹿児島県十島村(としまむら)を構成する離島で、人口は100人と少しの小さな島である。
そこからの連絡がこの四日間まったくこないという情報が、鹿児島市から届けられた。
「現在三軍ならびに、国家保安軍が調査のために待機しております。また宝島ですが、今現在鹿児島人民警察が調査に向かっています」
「よし、その件については連絡を絶やすな。何か進展があればすぐに伝えろ………そういえば、南シナ海で捕まえたという捕虜は?」
「はっ………少々お待ちを」
ぱらぱらと書類をめくる音が響く。
しかし、分厚い書類をはさめたファイルから、目当ての情報を見つけるのに少し手間取ってた。
「あぁ、ありました。まだ集中治療室からは出ていないようです」
「……回復次第すぐに尋問を開始しろ。時間がないことをわかってるのか?」
「はっ、はい。閣下……それと、もう一つご報告が……」
「なんだ?」
寺津の黒い瞳が男を捕らえた。
男は背筋に寒気が走ると同時に、冷たい冷や汗が出てきたことを自覚した。
唾を飲み込み、一呼吸おくと、彼は自分の持つ情報を更に語りだした。
「そ、それが、どうも彼女の検査をおこなった医師の話によると、血液検査の結果からいくつかの未知のDNAが見つかったとか」
「……どういうことだ?」
「わ、わかりません。ただ、報告書には専門的な医学用語がならんでおりまして……その」
「……貴様、現状を理解しているのか? あぁ、もういい。とにかく、回復次第尋問を可及的速やかに行うんだ。いいな」
露骨に不快の色を示した寺津に、男は啄木鳥のごとくうなづくことしか出来なかった。
何かが起こっている。
それも尋常ではない何かが。
(それがなにかはわからないだが……近い将来、我々は大きな決断を迫られるかもしれんな)
東京 200X年1月26日 同時刻
国家保安省で報告会が開かれている頃、茅葺よう子総理大臣は秘書官から受け取った分厚い書類を全て読み終えて、思わずめまいがおきてしまいそうになった。
「なんてこと……」
彼女が国家経済計画委員長になった時、日本を取り巻く周囲の状況は最悪であった。
最大の同盟国であり取引相手である共産国家が次々と崩壊、ついには総本山たるソビエト連邦すら崩壊した。
だが、このソ連の崩壊は一般市民には衝撃を与えたものの、日本経済の中心人物たる茅葺にとっては想定の範囲内でもあった。
ゴルバチョフは就任以来、同盟国価格で提供されていた各種資源が国際価格へと切り替わったこともあり、茅葺たちはソ連資源依存体質を変化させようと、89年ごろから様々な手を打った。
茅葺はまず中東へと目を向けた。
当時、中東はイラン・イラク戦争の終戦の余波で、周辺国家は大いに荒れ始めていた。
イラン、イラクの両国は、戦争にの痛手から国はがたがただった。
さらにサウジアラビアをはじめとする湾岸協力会議は、アメリカに擦り寄ったことでアメリカ製の武器を多数入手し、軍備を拡張していた。
特にイラクの経済危機は顕著で、1990年にクウェートへ侵攻するまで追い詰められた。
茅葺は外務省と協力し、イラン・イラク両国への復興支援を打電、ODAと武器輸出によって双方の信頼を勝ち得、石油の安定的な供給路を確保し、さらにはアフリカ諸国にも資源ルートを確立するまでに至り、資源を確保することに成功した。
そしてソ連崩壊後、旧ソ連構成国とロシア連邦では内戦が勃発する。
極東、中央アジア、コーカサス、さらには近隣のソビエト構成国を巻き込んだ内戦は約六年ほど続いたが、その間に、かつての同盟国だった日本へ貴重な人材資源が流出していった。
だが、このソ連の内戦と同時期に発生した高度経済成長の終焉により、景気の悪化は完全に避けられなくなった。
国内ではすでに失業者が多数出始めていた。
そこで、彼女は国内における食糧の増産計画と、余剰生産物販売権を与えることを発表し、さらに過疎化の進む農村部などに、農業従事者として失業者を派遣し、農村の救済と食糧確保政策を始める。
茅葺が国家経済計画委員長に就任した時点で、日本の食料自給率はすでに40%を切っており、東欧などからの輸入に頼りきっていたのが現状であった。
二億人を超える膨大な人口を支えるために、日本の食糧生産率の向上は至上課題であった。
無論、今まで事務仕事などをしていた失業者が、すぐに使い物になるという期待はしていなかったが、長期的な視野で見るとこの計画は一定の成功を収めた。
そして、日本と同じようにソビエト連邦や東欧からの食料輸入に頼っていた“カリブ海の赤い島”キューバは、ソ連崩壊後に深刻な食糧難に陥った。
だが、その後のキューバの躍進は著しく、93年からの農業改革によって、キューバ人たちは自給自足体制の確立に成功する。
しかしながら、キューバよりも人口が多い日本では、一朝一夕には自給率は向上しない。
自給率が50%を超え始めたのも、二十一世紀に入ってからだ。
それでも、末期状態のソビエトと比べればだいぶましではあった。
80年代後半から約6年ほど続いた未曾有の大凶作によって、ソ連の穀物輸入量は増大の一途をたどっていった。
共産圏の盟主であったソビエト連邦は、本来ならば敵国であるアメリカなどから穀物を輸入しなければならないほど生産率が低かった。
無論、それらにはスターリン、フルシチョフの時代に行われた農業政策の失敗が大きく響いていた。
トロフィム・ルイセンコなるいかがわしい農学者を党が重用していたこと、そしてスターリンによる強制的農業集団化がその原因であった。
元々広大なソビエト連邦の土地は環境的にも、農業生産に厳しい条件だった。
さらに、ロシア内戦による痛手は、当時もまだまだ残っていた。
そこに強制的な農業集団化によって、何十万という経験豊富な農民らが“富農(Кулак:クラーク)”のレッテルを貼られ、粛清された。
特に、ルイセンコはメンデルの遺伝子論を否定したうえに、自身の学説に反対する学者を党の権威を使って次々と逮捕・投獄した。
第二次世界大戦後も、ルイセンコは党内部で権勢をふるい、自身の学説である、“環境因子によっておこる形質の変化が遺伝する”論文を乱発した。
しかし、スターリンの死んだ翌月の1953年4月。
ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが、DNA立体構造のモデルを発表し、ルイセンコ学説は完全に否定された。
にもかかわらず、スターリンの後継者の地位についたフルシチョフは、このルイセンコと彼の取り巻きの言うことを信じ、ソ連農業生産にさらなる痛手をあたえた。
その結果、ソビエト農業と分子生物学分野には大きな痛手を残り、ソ連はこの分野で西側に大きく差を空けられることとなり、さらには“農業はソビエトのアキレス腱”といわれる状況からついに脱することはできなかった。
日本でもこの“ルイセンコ論”は一時期検討されていたが、比較的短期で終わったことが幸いだった。
今、日本では一時的な不作、突発的な災害などの食料不足に対処するため、主食である米や飼料穀物等の一定の備蓄を行っていた。
現在政府は米200万トン、食料用小麦数ヶ月分、食品用大豆6万トン、飼料穀物140万トンの備蓄を行っている。
それでも日本国民全ての腹を満たすことなど出来ないのだ。
首相となった今、この未曾有の国難に比べたら今までの苦労など、なんと瑣末なことだろう。
そして、彼女は目の前の現実に意識を戻す。
時計の針は間もなく正午を指そうとしている。
午後三時には緊急記者会見が始まる。
解放改革路線を打ち出し、言論の自由化を推進していた先代のおかげで、党お抱えの旭日や勤日以外のマスコミがやたらと五月蝿く騒いでいる。
特に、党政治局の“老害たち”を廃したことで、茅葺は完全に“十人委員会”を掌握したが、それらの分野においてはいまだに大澤派が強い。
(揚げ足を取られないように注意しないと)
内心でそう呟くと、彼女は秘書を呼んで会見に使う書類を受け取った。
東京 200X年1月26日 同時刻 東京某所革命記念総合病理学研究所。
セレスティアが目を覚ましたのは、真っ白な壁に囲まれたベッドの上だった。
何が起こったのか、と考えを巡らせるが思考力が働かない。
上半身を起こし周りを見渡すと、ベッドは見たことも無い、単調な音を出し続ける金属の箱に囲まれていて、そこから伸びる線は驚いたことに自分の体中に繋がっていた。
(何…? これ…?)
左手につながっていた線を引き抜くと、銀色の針が照明を反射し鈍く光って見えた。
抜いた瞬間に走った軽い痛みでようやく思考力が戻り始めた。
そして、その様子をミラー越しに観察する一人の看護師がいた。
彼女はセレスティアが覚醒したのを確認すると、すぐに机の上の内線電話の受話器をとった。
「先生、第3集中治療室です。例の患者が目を覚ましました」
ここは国家保安省直轄の革命記念総合病理学研究所。
国家保安省職員と党員専用の大病院である。
だが、それは表向きの顔であり、裏ではもうひとつの顔があった。
国家保安省の思想犯罪専門の特別捜査局が逮捕した人間を収容する刑務所兼実験場としての顔である。
セレスティアは、本土に帰還した豊橋丸からすぐその身柄を東京へ移送され、三日間眠り続けていたのだった。
ベッドから起き上がろうとしたその時、白い壁の一角が左右に別れた。
いや、そこが部屋から外界に通じる扉だったのだ。
扉から現れたのは、奇妙な恰好をした集団だった。
「あ、あなたたちは何者か! あの船にいた連中の仲間か!」
自分では大きな声を上げたと思ったが、まるで自分の声とは思えぬほどか細い声であった。
だが、その言葉を聞いたとたん、彼らはまるで石像のように硬直した。
「おい、今の……」
「……あぁ、日本語、だよな」
「おい、だれか。急いで保安将校呼んで来い」
セレスティアを無視し、かってに騒ぎ始める異形の集団を、彼女はただ見つめることしかできなかった……。
東シナ海 200X年1月26日 同時刻 鹿児島県人民警察航空隊所属Mil-8輸送ヘリ内
Mi-8J輸送ヘリコプターは、ソ連製の原型機を日本でライセンス生産している機体であり、軍や民間でも幅広く使われていた。
東シナ海を飛ぶ、白と黒のツートンカラーのMi-8の両サイドには、鹿児島県警という文字がでかでかと描かれていた。
「それで、連絡がなくなったのはいつ頃からなんだ!?」
「すくなくとも四日前はきちんと無線に出ていたそうだ!」
臥蛇島の海軍レーダー基地で給油を終えたMil-8輸送ヘリコプターには、鹿児島人民警察の武装警察官が乗り込んでいた。
宝島はトカラ列島最南端にある島で、鹿児島県鹿児島郡十島村に属する人口70人ほどの有人島である。
隆起サンゴ礁でできたこの島は、ロバート・スチーブンソンの小説“宝島”のモデルとなったといわれ、島内には、英国の海賊ウィリアム・キッドが財宝を隠したと伝えられている鍾乳洞もある。
四日前の夕刻の定時連絡を最後に、連絡を絶った宝島に、鹿児島県警はすぐにヘリコプターを向かわせようとしたが、折からの大雨によって一日出発をずらさざるおえなかった。
「同志中尉、あれを!」
ヘリのパイロットが指さす方向には、宝島が見えていた。
しかし、そこに見えた宝島は、あちこちから黒煙を上げた、見るも無残な姿だった。
東京 200X年1月26日 午後三時 東京。
会場はすでにマスコミで一杯になっていた。
やがて茅葺総理が現れると、カメラのシャッターが次々と切られた。
目が眩むほどの強い光が茅葺の視界を満たすが、彼女はきびきびとした足取りで演台へと歩いていく。
演台に資料を広げると、彼女は傍らの秘書官にうなづいた。
「それでは、記者会見を始めさせていただきます」
記者会見が始まると、静かな私語で満たされた会場はたちまち静まり返り、エアコンが風を送る音と、時折切られるシャッターの音、そして、彼女自身の声以外の音が何も聞こえなくなった。
「まず、この異常事態について長く政府が沈黙を保ったことについて謝罪いたします。我が国がおかれている状況は、お世辞にも良好であるとは言い切れません。すでにご存知の通り、現在我が国を除く全ての国家との連絡が途絶えており、私は人民軍最高司令官の権限を行使し、空軍に偵察命令を下しました」
いっせいにフラッシュが光った。
あの“大異変”の日、茅葺政権へ反対する大澤派と、その支持団体の一部“共産アジア連盟会”といった特定アジア人団体が、よりにもよって日比谷公園で大規模な反政権デモをおこした。
無論、それらは国家保安軍によって鎮圧されたものの、茅葺と東京都知事はすぐさま戒厳令を敢行した。
その間政府や関係各省はまったくの沈黙を守り、国民は政府から出される情報を心待ちにしていたのだ。
「その結果、残念なことに南の沖縄はおろか、朝鮮半島、ユーラシア大陸の所在すら確認できないという結果が入りました」
途端に会場全体でざわめきがおきた。
南の沖縄も、隣国の大陸すら消えた。
この情報は記者たちはおろか、テレビを食い入るように見ている国民にも、衝撃を与えたのだった。
ざわめきが収まるのを待って、茅葺総理は原稿の続きを読み始める。
「現在、全省庁が一丸となって事態の掌握に努めております。同志人民諸氏には、いましばらく不自由をかけることになりますが……」
と、そのとき能面のように表情を変えない秘書官が、袖から出てきて茅葺へと何事か囁いた。
「………記者団の皆様、記者会見はいったん中断させていただきます。再開の時間は改めてご連絡いたします」
総理、待ってください総理!
会場を去ろうとする茅葺を記者たちが呼び止めるが、そんな声をすべて無視して茅葺は退場した。
「状況は?」
執務室へ戻る廊下を歩きながら、引き連れた秘書官に話しかける。
「鹿児島人民県警からの報告では、現在の所、宝島島民59名の遺体が発見され、また島の建物は、ほぼすべて放火されるか破壊されており、復旧は重機がなければ不可能とのことです」
「テロ…ですか?」
「わかりません。報告ではどうも妙な恰好の人間の死体もいくつか見られるとのことで」
「? どういうことです?」
「これを見ればお分かりになります」
歩みをとめずに秘書官が手渡したのは、写真をプリントアウトしたものだったが、それに映っていたものは茅葺の思考を一瞬停止させた。
写真に写っていたのは、鈍く光を放った甲冑に身を包んだ、まるで中世の騎士のような格好をした人間が、泥まみれの土の上に仰向けに横たわっている写真だった。
甲冑には少なくとも7つほどの穴が開いており、そこから血を流しているのを見れば、銃撃を受けたのだというのは、女の茅葺でもみればわかった。
「これは?」
「島の住民の反撃で撃ち殺されたテロリスト、と思しき人物だそうです。他にも十数名分の死体を発見したそうですが、ほとんどがこのような恰好だそうです」
「……とにかく、生存者の捜索に全力を尽くすように鹿児島県警に伝えなさい。また、必要であれば国境警備軍も出動させてかまいません。あと、寺津大臣に、至急官邸まで来るように指示を」
「わかりました」
執務室に戻るまでに秘書官に指示を出し終え、秘書官はスタッフに先ほどの指示を伝達する。
執務室に戻ると、すでにスタッフが各省庁から届いた最新の報告書を茅葺の執務机に置いており、執務机は色とりどりのファイルで埋まっていた。
その中でも、国家保安省からの情報は一番上にあげられており、ファイルには“緊急”と“最重要”という赤い文字が書かれたテープが張ってあった。
ファイルを見た茅葺は顔色を変え、すぐに最高幹部会議員を招集するよう命じた。
日本が動き出そうとしていた。
その先に待ち受けるものが何かわからぬままに。
最終更新:2009年01月17日 21:59