第2話
200X年1月16日
晴天に恵まれた日本海は、風もなく穏やかであった。
だが、せっかくの好天にもかかわらず、沿岸の田舎町の漁師たちは船を出そうとしなかった。
その理由は簡単であった。
町の北側に目をやるとその理由が見えた。
それはとてつもなく巨大で、信じ難い事に周辺に浮かぶ軍艦が(たとえフリゲート艦程度であろうと)小指ほどの大きさにしか見えない程に大きかった。
少なくとも三十キロははなれたこの町からも見えることが、それの巨大さを物語っていた。
やがて、その巨大な物体が動き始める。
三十キロ先の町が揺れ動いた。
二十四基の巨大エンジンが唸りを上げ、巨大な機体を一気に加速させる。
上空から見れば巨大なエイのような機体が、ゆっくりと浮かび上がった。
轟音を残し、抜けるような青空に向って急角度で上昇していく。
日本民主主義人民共和国が世界に誇る“空中艦隊構想”の主力である超重巡航管制機P-1112“アイガイオン”が空へと飛び立った瞬間であった。
“空中艦隊構想”
元々は第二次世界大戦勃発前、かつて同盟国であったイタリアの首領ベニト・ムッソリーニが提唱した軍備拡張計画の一端であった。
数十年の時を経て、その計画はさらに精錬化・近代化され、当時旧ソヴィエト防空軍中将であったグスタフ・ドヴロニクが、軍機関紙“クラスナヤ・ズヴェズダ”にその論文を発表。
「広範囲に亘る航空優勢を継続して確立する新戦略及び戦術」と定義づけられたこの論文は、言わばユーラシア大陸全土に展開できる制空システムの構築を目的とする計画であり、長距離ミサイルによる攻撃と空中からの艦載機運用によって実現するとされていた。
ソヴィエト連邦を中心としたワルシャワ条約機構(WTO)軍は、北大西洋条約機構(NATO)軍に地上軍の数では優位に立ってはいたが、ハイテクの技術の差などを考慮すると、奇襲攻撃により緒戦で奪える制空権は、時間を掛けると必ず失う結果が目に見えていた。
制空権のあるうちに、地上軍はドイツを蹂躙しフランスへ侵攻しなければならない。
制空権を確固たる物とするべく、この“空中艦隊構想”は考え出されたのだった。
さらに、この“空中艦隊構想”は、世界最大の広さを持つソヴィエト連邦の防空体制にも大いに寄与するものだとしていたが、結局折からの財政難と上層部の無理解、圧力などによって計画は頓挫した。
なにしろ“空中からの艦載機運用”は、空母と同等の艦載機の発着、搭載能力を持った航空機の展開を指していたが、自国の海軍ですら、いまだまともな空母を保有してさえいなかった。
さらに、その実現には高い技術力のほかに莫大な資金が必要と想定されていた。
財政悪化と外貨不足に嘆く当時のソ連に、その計画を遂行できる能力はすでに無かったのだ。
計画は葬られ、グスタフ・ドヴロニクは極東の同盟国家である日本へ左遷される形となった。
しかし、計画は完全に闇に葬られたわけではなかった。
それが明らかとなったのは、ソヴィエト連邦が崩壊して五年たった1996年のことだった。
アメリカ合衆国の誇る“神の目”、偵察衛星KH-13によって捕えられていた事も明らかになった。
その機影が初めて捕えられたのは日本海の舞鶴沿岸付近で、全幅約一キロ近く、全長数百メートルの“エイ”のような形状をしていたという。
そう、ドヴロニクは祖国で成し遂げられなかった計画を、左遷先である極東の同盟国で見事に完成させたのだ。
アイガイオンは巡航速度を保ち日本を縦断するが、その姿は空に浮かぶ巨大なエイ、というよりも空に浮かぶ魔鯨を連想させる。
その周りにはコバンザメよろしく、無数の航空機が警戒に当たっていたが、その中でもひときわ目立つ機体があった。
赤と黒でカラーリングされたSu-33。
第三次中華動乱で、その名を世界に知らしめた日本人民海軍第一空中艦隊所属第009戦術飛行隊“シュトリゴン”である。
“シュトリゴン”は空中艦隊発足当初から配備された部隊で、第三次中華動乱では山東半島制空戦から信陽市解放作戦まで縦横無尽に戦い抜き、北方同盟軍(日本・朝鮮・北中国)の勝利に貢献した部隊だ。
『シュトリゴン2よりアイガイオンへ。哨戒任務完了。着艦の許可を求める』
「アイガイオンよりシュトリゴン隊、着艦を許可する」
『シュトリゴン2、了解。誘導を願う』
「了解。後方の乱流には気を付けろ」
アイガイオンは、太平洋戦争時の正規空母二個分の全長をもつほどの巨体である。
しかしながら、空母への着艦はどんなベテランパイロットでも緊張するというものである。
どんなに場数を踏んでも、それは決してなれることはない。
たしかにアイガイオンは、普通の空母に比べれば格段に大きく着艦はしやすい、と一般人は思うかもしれない。
だが、アイガイオンはただの空母ではなく、空を飛ぶ空中空母というべき存在である。
普通の空母よりも格段に速いスピードで飛んでいるのだ。
そんな飛行甲板に、29トンものフランカーを着陸させるのはある意味で無茶を通り越して無謀とも言える。
だが、哨戒任務を終え帰還するシュトリゴン隊は、一糸乱れずに次々とアイガイオンの飛行甲板へと戻ってくる。
芸術的ともいえる着艦であった。
着艦を見守る幕僚たちの間からさえ、感嘆の声があげる。
艦はまもなく紀伊半島へ到達する。
彼らが事前に受けたブリーフィングでは、紀伊半島上空で護衛艦隊と合流後、封印された命令書を開封すべしとされていた。
さらに数十分後。
アイガイオンは紀伊半島上空二万二千メートルで、護衛の空中艦隊と合流した。
「提督。護衛艦隊が見えました」
「……よし、予定通りだ。各艦に通達、このまま進路を小笠原諸島にとれ」
正面の大モニターには、アイガイオンを守る護衛たちが映し出されていた。
空中艦隊の防空を担う航空火力プラットフォームたるP-1114“ギュゲス”、空中艦隊の電子戦を担う電子支援プラットフォームたるP-1113“コットス”。
そして、空中艦隊各機のプロトタイプたるP-1110“フレスベルグ”の姿も見える。
威風堂々たる空中艦隊が勢ぞろいした瞬間であった。
だが、盟主国ソヴィエトですら出来なかった技術を実現させた日本の技術力はこれだけにとどまらなかった。
同日、矢臼別演習場。
北海道厚岸にある人民陸軍の演習場で、総面積約20000haにも及ぶ国内最大規模の演習場であり、ここでは連日連夜演習が行われている。
現在、国内の体制は準戦時体制へと移行しているが、それでも訓練は続けられていた。
その演習場上空に一機の輸送機が飛んできた。
アントノフ設計局が作り上げた世界最大規模の戦略輸送機An-22である。
『神崎大尉、予定ポイントに到達。降下!降下!降下!』
機体後部斜面が口を開き、そこから何人もの兵士たちが飛び出した。
だが、彼らは皆よく見るとまるで鎧のような装甲を身に纏っていた。
高度一万五千メートルから装甲を着けたまま降下。
まるで自殺のようなこの行動だが、地上付近になると自動的にパラシュートが開き、さらに制動用の固定ロケットブースターが作動し、炎を盛大に吐き出した。
着陸と同時にパラシュートが外され、装甲を身に纏った空挺兵士たちは、計画に従い敵陣地へと駆け抜けていく。
ブースターを全快で吹かし、敵陣地に対し攻撃を開始する。
敵方の兵士たちの5.45ミリ弾が命中するが、弾丸は全て装甲服に阻まれ貫通を許さなかった。
左肩に“01”とマークされた装甲服を纏っている神崎は、手に持ったショットガンで牽制しつつさらに急速接近する。
敵がいよいよまずいと判断し、旧式の9M14マトリューカ対戦車ミサイル(AT-3サガー)が発射された。
だが、有線誘導式の対戦車ミサイルは、三番機の放ったミサイル迎撃装置によってあえなく撃墜される。
歩兵の機関銃弾があたるが、それをものともせずに部隊は陣地を蹂躙し始める。
塹壕には手榴弾が投げられ、歩兵たちは次々と撃たれる。
東側から五十七式中戦車改Ⅲ型(T-55J)と、六十一式重戦車改(IS-3MJ)がのっそりと現れた。
戦車砲を発砲するが、機動力の違いからまったくかすりもしない。
神崎大尉の操る一番機は、すぐさま戦車に肉薄し、エンジンのある後部へと射撃を集中し、一気に二両を各坐させた。
『大尉、第二陣が接近中です。合図の許可を』
「よし、やれ!」
味方が発煙手榴弾を投げ、もくもくと赤い煙が発生する。
すると、さらに二機の輸送機が彼らの頭上へ接近してきた。
さらに空中に咲く白いパラシュートの花々。
幻想的な光景ともいえるだろう。
だが、その光景は突如として終わりを告げた。
第二陣の最後の班のパラシュートが開いた瞬間、強い風が突如吹いてきた。
最後の班の二機は何とか態勢を立て直したが、残る一機が態勢の立て直しに失敗し、バランスを崩して左下の機のパラシュートに突っ込んだ。
「訓練中止! 非常事態発生! 非常事態発生!」
神埼大尉はその光景を見てすぐさま無線機に怒鳴った。
予備のパラシュートが開くのが見えたが、もはや遅すぎた。
二機はそのまま泥濘の海へと落下していったのであった。
СНБ、という言葉がある。
これは略語で、正式名称はСпециальный Нападение Бронюと呼ばれている。
西側ではS.A.A(Special Assault Armor)という名称で呼ばれていた、パワードスーツの一種である。
当時、泥沼化していたアフガニスタン戦線にて、ソヴィエト軍の損害は増大の一途をたどっていた。
陸戦の王者たる戦車などの機甲部隊がその活動を著しく制限されており、ゲリラ側からいい的であった。
これを教訓に、ソヴィエト陸軍ボルトキエヴィッチ設計局(OKB-411)が中心となって作り上げたのが、このSAAであった。
初の実戦投入は1995年のチェチェンで、ロシア連邦軍は東部での反乱(ソ連崩壊後、極東やウラルの自治共和国が独立宣言を行ったため)鎮圧を行うために集結させていた軍備をチェチェンに投入。
その際、モスクワ軍管区に集中配備されていたSAAを装備したロシア第二スペツナズ旅団が、グロズヌイ突入に大きな役割を果たした。
だが、内戦はとどまることを知らず、SAAを作り出したボルトキエヴィッチ設計局の主だった人間たちは、他の技術者たちと同じく極東の同盟国家日本へ脱出してしまう。
かくして、SAAの技術は日本へも伝わり、日本人民軍に配備されるようになったのである。
「助かったこと自体が不思議なくらいだ。空挺軍時代、似たような事故があったがあの時は全員助からんかった」
眼前の上官、ボリス・カラコーゾフ中佐はため息混じりに言った。
この部隊に配属されてから、かつての戦場の英雄は中間管理職となった。
そして、その苦労は髪の毛に多大な影響を及ぼしてるようで、かつてはふさふさの赤毛が今は砂漠化していた。
残りの領域も、まもなくあらされてしまうだろう。
(気の毒に……)
と、神崎直哉大尉は思う。
つい先日も、支給されたアルコールを全部飲み干した三人の阿呆のことで上からこっぴどく絞られたばかりなのに。
「まぁ、グリアノフ中尉も、岩永伍長も有能ですから」
直哉の言葉にうそは無い。
この日本人民軍特務攻撃軍に所属するためには、少なくとも三軍もしくは国家保安軍のスペツナズ部隊において三年の研修と実戦経験が無ければ配属されないことになっている。
特に、SAAが配備されている第一統合レンジャー教導師団はその中からさらに選ばれた人間しか入隊できない。
直哉自身、人民陸軍山岳スペツナズと親衛空挺旅団にいたこともあり、中東ではアメリカ軍特殊部隊やイスラエル軍との実戦経験もあった。
「たしかにな。だが、それも今日で終わりだ。軍医の診断結果ではグリアノフは右半身にどうしても障害が残ってしまうそうだ。幸いなことに偵察局無線傍受隊が彼をほしがっていたので、そっちに転属してもらうことになった」
「残念です」
グリアノフ中尉とは、一度極東での作戦で一緒に行動しただけだが、彼が有能だったのはそのとき理解していた。
「かたや……岩永伍長だが。彼はもはや使い物にならない」
そこまで言って彼は重々しく溜息を吐く。
岩永伍長が再起不能の重症でも負ったのだろうかと直哉は思ったのだが、続いた言葉は彼の想像をはるかに超えたものだった。
「墜落の瞬間、やつの眼前に白い光が現れて『汝、迷える子羊よ。武器を捨ててマグロを獲れ』と告げたらしい。あの馬鹿は不名誉除隊になっても、大間に移住すると言っとるそうだ」
「…………きっと、いいマグロ釣りになれますよ」
「馬鹿野郎め、何がマグロだ。本来なら銃殺ものだぞ。あの玉無しは豆腐の角で頭をぶつけて死んでしまえばいいんだ!」
生粋のロシア人がまるで日本人のようなことを言う。
不思議に思うかもしれないが、今の日本ではそれが当たり前なのだ。
日本人でありながらも、まったく日本人といえない人種のサラダボウル国家。
それが今の日本だった。
生粋の日本人が最近は少なくなってきている。
かつて、ソヴィエトを指導していたスターリンが、幼女趣味の同郷人ベリヤに行わせた民族強制移住政策によって、日本列島そのものを巨大な収容所として使用した。
ソヴィエトと日本の間には日本海があり、日本海そのものが強制移住者たちの故郷を隔てる壁となったのだ。
その被害者は様々だ。
まずロシア人を筆頭に、ウクライナ人やポーランド人、カザフやダジクなどの中央アジア系の民族が、そして次にドイツ系、ユダヤ系、さらにチェチェン人やコサックなど対独協力者を多数排出した民族が、徹底的に弾圧されたあと送り込まれてきた。
そんな経緯があり、純和風黒髪黒瞳の日本人は減少傾向にある。
直哉自身は黒髪に黒い瞳の純和風な容姿であるが、顔立ちはどこと無く西欧人のような感じがする男性である。
だが、最近の日本人には金髪碧眼やら赤毛やら茶色、銀色など、髪の毛はおろか顔つき、体つきからすでに日本人離れしてしまった者が少なくないのだ。
あともう五十年もすれば、直哉のような半和風の人間すら珍しい存在になるだろう。
「まぁ、あんな馬鹿の話はいい。神崎大尉。君を含めた今回の演習参加部隊は明日以降の休暇は無期限取り消しだ」
「……懲罰、ということですか?」
「違う。君が訓練中に情勢が変わったんだ」
中佐は机の脇に寄せていた書類を差し出す。
失礼しますと一言言って、書類を受け取り内容に目を走らせる。
「……真実ですか?」
「あぁ。君のお父上の署名つきだ。全軍第一種戦闘配置だ」
お父上。
その言葉に彼は顔を少ししかめるが、中佐はそれに気がつかず、マールボロを取り出して火をつけた。
共産国家の軍人がアメリカタバコを吸う、という絵柄はなんとも奇妙なものだが、ことタバコにいたっては、政治の世界よりも先にイデオロギー問題を超えたのであった。
「しかし、中央では政権が変わったのでは?」
「……ここからは私の独り言だが」
中佐は語りだす。
独り言。
これは上官が信頼する部下に、軍機を漏らす常套手段であった。
「米軍が我が軍の戦闘機を撃墜したそうだ」
「米軍が?」
「詳しいことは私も知らない。師団長閣下ですら知らんのだ。だが、茅葺閣下は米軍に対してある程度の譲歩がつくまで戦闘体制を維持するつもりなんだろう」
「しかし、これ以上戦闘体制維持は……」
「わかっている。本日の夕食前に師団長閣下がその旨を話される。それまで……すまん」
話は唐突になった電話できられた。
中佐の様子から見てどうやら師団司令部からの電話のようである。
中佐は話が長くなりそうなのか、彼に手で退室を促す。
彼は敬礼をして部屋を静かに出た。
日本民主主義人民共和国は、八十年代半ばに人口二億人を突破し、この小さい島国は人で溢れかえった。
太平洋戦争で崩壊した日本は、わずか四十年で世界の大国としての地位を取り戻したのだ。
七十年代末頃には、世界第二位の経済力を保有した日本であったが、かつての勢いを失いつつあった共産主義の盟主たるソビエトを支えていた。
実際、崩壊前日までソビエト連邦は日本の経済援助で細々と生きながらえていた状態であった。
長年の大軍拡と核武装によって疲弊しきっていた経済が、アフガニスタンへの軍事介入によって止めを刺され、犯罪と党要人の汚職が蔓延り、国民のモラルと士気は下がり、ロシア人らはその内にあった、非自立と集団的無知への根深い潜在的願望を止めなくなった。
ソビエト連邦の威信は、内部から失墜していったのだ。
日本に住むロシア系からは、蛇蝎のごとく嫌われているゴルバチョフ書記長のペレストロイカやグラスチノフは、国家そのものの崩壊を加速させるだけに終わった。(崩壊前日まで続けられた日本側からの様々な経済援助は、破綻したソ連経済にとっては焼け石に水でしかなかったが、CIAは日本の経済援助が無ければソビエト経済はもっと早くに破綻していたと大統領に報告している)
このソ連崩壊は日本に大きな影響を与えたと同時に、巨大なビジネスチャンスをも生み出した。
ソ連崩壊とその後の構成国家における大規模な内戦は、日本の兵器ビジネスにとって大いにプラスに動いた。
内戦が終結する二十一世紀初頭までに、日本は自国で生産したロシア系兵器の売り上げを伸ばしていった。
シベリア産の工業原料やエネルギー資源に依存していた日本経済は、九十年代中頃からアフリカ・中東へとシフトし、後にアメリカから“テロ支援国家”と名指しされる国家群と友好的な関係を築き上げたことで、回復し始めていた。
経済の回復によって、日本は最大の課題、社会主義の盟主たるソビエト亡き後、祖国統一計画と国家防衛問題に血眼になっていった。
ソ連崩壊により、事実上唯一の超大国となったアメリカ合衆国と沖縄傀儡政権(と、東京側が称している)は、赤い日本の国防にとって大きな脅威であった。
八十年代中頃、弾道弾防衛構想に日本は“120センチ対地対空両用磁気火薬複合加速方式半自動固定砲”を製造し、超巨大高射砲によってミサイルを吹き飛ばすというなんとも簡単な方法を生み出した。
実際にソ連側の弾道ミサイルを日本海上空で吹き飛ばしその理論を証明したことで、アメリカから絶大な脅威ととられ、アメリカは沖縄に膨大な戦力を駐留させていた。
今回の政争によって勝利を得た茅葺総理大臣は“自立した日本”という就任演説を行い、国民と世界に日本国内が再びまとまったことをアピールした。
日本は平穏を取り戻し始めたが、米軍はその膨大な戦力をそのまま貼り付け続けていた。
さしもの日本も米軍の動向がおかしいと気がつき偵察機が派遣されたが、何を間違ったのか米軍がミサイルを発射し偵察機を撃墜するという事件が発生。
双方のデフコンは上がり、太平洋に再び戦乱の暗雲が近づきつつあった。
最終更新:2008年08月29日 22:04