第4章 出動


 「たんご」の会議室では、上級幹部の誰もが息を殺してテレビモニターのビデオ映像に見入っていた。
 広大な密林、見知らぬ動物の影、そして巨大な飛行生物の大群。
 彼らの常識では理解できない全ての事柄が、そこにあった。わずか5分間足らずの無編集無修正の映像だったが、すでに10回以上も繰り返し流されていた。
「もういいだろう。消してくれ」
 梨林に言われ、安達原がリモコンを操作してテレビとビデオデッキのスイッチを切った。
 将校達は緊張から解放されると、すぐに重苦しい沈黙に包まれた。誰一人として意見を述べようとする者はいなかった。
「これはもう、考えられるのはただ1つです」
 手元のお冷やを飲み干してから立ち上がり、安達原は口を開いた。
「時空間転移、つまりタイムスリップです」
「タイムスリップ……」
「そ、そんなエ……SFのようなことが本当に起きるのか」
 丸ノ内に続いて、護衛艦「かすみづき」の艦長が深刻な顔をして言った。
「そんなことがあってたまるか」
 木林艦隊先任の言葉は、安達原に対してではなく彼自身に向けられたものだった。
「私にも原因は判りません。ですが、我々は間違いなく与那国島沖で時空のひずみ……いわゆる亜空間に呑み込まれ、こちらの世界に連れてこられたのです」
「では君は、ここがいつの時代だと言いたいのかね?」
 梨林が訊いた。
「2億4800万年前から6500万年前まで約1億8300万年間続いた中生代、すなわち恐竜時代であると断定します」
「何だとっ!!」
「きょ、きょ、恐竜時代だ……!?」
「恐竜……」
 梨林に対する安達原の答えに、室内の全員が騒然となった。
「全員静まれ! 安達原君、話を続けてくれたまえ」
「はっ。鳥谷三佐が持ち帰った先程のビデオ映像ですが、ここが中生代であるという数多くの証拠が写っています。森林を構成している背の高い樹木群は全て、種子が子房で包まれていない裸子植物でした。あの地上数十メートルにもなる巨大な針葉樹は、ジュラ紀で大型草食恐竜が食べていたものに違いありません。そして、食事中だった大型動物は角竜のトリケラトプス、群れを作っていたダチョウ型の奴はオルニトミムスかガリミムスです。最後に写っていた巨大な鳥は翼竜のケツァルコアトルスで、イージスが発見した渡り鳥の群れはケツァルコアトルスより一回り小さいプテラノドンでしょう。浦子二佐の『ふかしお』のソナーに先日捉えられた謎の水中音響も、海トカゲ類や首長竜といった海に生息する中生代生物のものであると思われます」
 安達原は一気に喋った。
「それにしても、やけに詳しいものだな」
 木林が、彼にしては珍しく安達原に感心した。
「彼は幼稚園から高校まで、将来は恐竜博士になるんだと本気で考えていて、その手の本を読み漁ってばかりいたそうです。防大生の頃、私によく話してくれました」
 丸ノ内が顔を苦笑させながら言った。
「つまり恐竜オタクということだろう。それがどうして防大に進学して自衛官になったのかは今さら訊かんし知りたくもないが、それは別としてもう少し分かるように説明してくれんかね? ジュラ紀だのトリケラ何とかだのと言われても、さっぱり分からん」
 木林の言葉に、幹部の過半数が頭を上下に振った。
「分かりました。それでは手短に、要点のみを説明いたします」
 それから約1時間に渡って安達原は、中生代が三畳紀・ジュラ紀・白亜紀の3つの時代に分かれていたこと、恐竜は鳥盤目と竜盤目に大きく分類されること、その種類、特徴、生態などを延々と語り続けた。
 彼の講義が終わった時には、全員が顔に疲れを浮かべており、丸ノ内のみ独り苦笑しているという有様だった。誰もが膨大なオタク的知識に、脳細胞を対応させられなかったのだ。
「あの、司令。いかがしますか? もう少し詳しく話せますが……」
「いや、もう結構だ。座ってよろしい」
 梨林の声からは、力が失せかけていた。
「いえ、その前にもう一言だけ言わせて下さい。たった今気付いたのですが、この世界は我々の知っている中生代と決して完全に一致するものではないかと」
「何ィ!?」
 先程とは比較にならない驚愕の声が、異口同音に発せられた。
「いい加減にせんか! この世界は中生代だなどと言い切り、子供の頃から本で覚えたロクでもない雑学を振り撒いた後は、知っている中生代とは違うだ!? 幹部将校全員に不安を煽って混乱させる気なら、拘束せざるを得ないぞ!!」 
 木林は怒りで顔を紅潮させながら椅子から立ち上がり、安達原を指差して怒鳴り散らした。
「木林君、落ち着け。安達原君に扇動されずとも、すでに我々は不安になっておる。それに彼の話も興味深そうだ。聴いた後で拘束しても遅くはあるまい。安達原君、頼む」
「ありがとうございます」
 梨林の助け船に乗った安達原は、コホンと軽く咳払いして説明を再開した。
「例の映像にはジュラ紀特有の巨大な裸子植物が写っていましたが、白亜紀に勢力を拡大し始めた被子植物の小さな木々も、所々に見られました。ジュラ紀にしては被子植物が多過ぎ、また白亜紀にしては裸子植物の巨木が多過ぎます。気候にも、高温多湿なジュラ紀と温暖な白亜紀の両方の特徴が見られます」
「と、言いますと?」
 補給艦「さろま」の艦長が、怪訝な表情をしながら訊いた。
「ズバリ言いましょう。この世界は遙か未来の地球そのものなのです。まあ、仮に新中生代とでも呼びましょうか。もっとも、西暦2002年から2億4800万年後なのか6500万年後なのかは不明ですが」
「………」
 あまりに飛躍した話に、もはや驚きの反応すら表れなかった。
「突飛ではあるかもしれませんが、私はそれ意外考えられないと思います。地球が生命を養えるのはあと10億年とされていますが、その間に40億年ある生命の歴史の一部が繰り返されていたとしても、何ら不思議ではありません。そして、その中であらゆる面において微妙な誤差が生じ、世代の違う恐竜が共存できる環境となったのでしょう」
「安達原、ちょっと待ってくれ。とすると、人間はもう絶滅してしまっているということだな?」
 丸ノ内が言った。
「多分そうだろう。だが、どの程度の文明レベルかはともかく、少数の人類が生存もしくは新生している可能性もまた、捨て切れないと思う。いたとしても、恐竜から逃げ隠れしながら原始生活を営んでいるのがオチだろうがな」
「ありがとう安達原君。席に戻りたまえ」
 梨林が、安達原と入れ替わりに席を立った。
「諸君らにもそれぞれの考えがあろうが、私個人としては彼の説に賛成したい。なぜなら、間違っているという証拠が今のところないからだ。これからまず最初にすべきことは、上陸しての直接情報収集並びに、広範囲に渡っての航空偵察である。特に前者は極めて危険な任務となろう。だが、一刻も早く周囲の現状を知るのが先決だ。さっそく準備を始めてくれ。それから各自、状況を包み隠さず部下に説明するように」
 彼の鶴の一声によって、幹部達は書類をまとめながら慌ただしく席を離れていった。

 午後2時30分、「たんご」の航空要員待機室では、空自支援小隊長の今井一尉が緑色のフライトスーツを着た2人の男を前に、ブリーフィングをしていた。
「飛行計画は以上、単純そのものである。お前達2人は『しゅり』のオスプレイを護衛し、その電子偵察任務を支援すると同時に、写真撮影等の情報収集を行ってくれ。なお、高度は十分に保つように」
 フライトスーツ姿の2人は、FF-X試作水上戦闘機のテストパイロットの大橋勲・木戸重光両二等空尉である。
「何か質問はあるか?」
「1つあります」
「何だ、チャージャー」
 航空自衛隊ではアメリカ軍にならい、パイロットの名をタックネームというコールサインで呼んでいる。大橋はその名から“イーサン”、木戸は貯金が趣味であることから“チャージャー”と、それぞれ呼ばれていた。
「護身用として、武器は積めますか?」
「対空ミサイル及び機関砲弾はフル装備だ。もっとも翼竜なんかにわざわざ使うより、高速で離脱した方が早いと思うがな」
「赤外線追尾ミサイルなんざ、味方のケツに突っ込んじまいますよ」
 大橋が笑った。
「よーし、ブレイク!」
 今井が言うと、大橋と木戸は装備室へ向かった。
 血液が脳から下がらぬよう下半身を締め付ける耐Gスーツを履き、通信機内蔵の酸素マスクを入念にチェックする。次にパラシュートとサバイバルベストをハーネスで固定し、P220拳銃を収めたホルスターを脇から下げた。
「それじゃ、恐竜ちゃんのお写真撮りに素敵なフライトといきますか!」
 大橋が子供っぽい無邪気な笑みを浮かべ続けながら、木戸に話し掛けた。
「俺はイラクのミグ戦闘機が相手かと思ってたよ」
 木戸はそう言って苦笑しながら、航空ヘルメットを取り上げた。
 2人はそのままヘリコプター格納庫へと上がり、それぞれ愛機の狭いコクピットに滑り込むとキャノピーを下ろした。
「燃料注入完了。20ミリ機関砲弾400発、全弾装填完了。AAM-3短距離誘導弾2基、翼下に搭載完了。ジャミング・ディスペンサー、異常なし。エンジン、異常なし」
 主任整備員が、機体の装備状況を順序よく読み上げた。
「ラジャー。全システム、オールグリーン。プリフライトチェック完了。発艦準備よし。チョーク外せ」
 車輪止めを取り除かれた2機のFF-Xは、専用の小型電気自動車によって発着甲板へと引き出された。
「ライフネット展開。発着甲板要員、総員待機態勢!」
「LSOよりノワール・ワンとツーへ。無線のテスト。応答せよ、送れ」
 格納庫上に設けられているヘリ管制所から、通信が入った。
「ディスイズ・ノワール・ワン。交信はクリアだ」
「ディスイズ・ノワール・ツー。チャージャー、絶好調!」
「クレーンで機体を吊り上げる。注意せよ」
 格納庫左舷側にある大型クレーンが起動すると、大橋機の背部フックを固定して持ち上げた。
「ギア・アップ。経過は良好」
 大橋は言うと、水上発進に使わない車輪を収納した。
「左舷側に降ろすぞ。ゆっくりだ」
 甲板要員が遠巻きに見守る中、油圧駆動音が鈍く響き、大橋機は静かに着水した。
「エンジン始動。出力10パーセント。滑水開始」
 海水吸入防止のため機体上面に位置しているエアインテイクが唸りを上げ、大橋機はゆっくりと海面を滑っていった。
「ノワール・ワン、レディ・トゥ・ゴー!」
 「たんご」から100メートルほど離れたところで、大橋は管制官に離陸許可を仰いだ。
「ラジャー、ノワール・ワン。クリアド・フォア・テイクオフ」
「サンキュー。クリアド・フォア・テイクオフ!」
 大橋は、威勢よく言うとスロットルを目一杯押し込み、エンジンを全開した。
「行くぜっ!」
 単発エンジンが轟音を張り上げ、飛行艇型の機体と翼端のフロートとが海面を激しく引き裂いた。水上機や飛行艇にとって最も危険なのが、この離着水時である。
「現在速度130ノット、140、150、160、今だ! テイクオフ!!」
 操縦桿を手前に引いてフラップを上げると、大橋機はふわりと空中に浮上した。
「離水成功。機動飛行に移る」
 翼から直角に折れ曲がっていたフロート付きの翼端を水平にすると、大橋はエンジン出力を調節して巡航に入った。
 FF-Xは対不審船・不審機用に開発された小型局地水上戦闘機で、航続距離は1000キロと短いものの、無駄のない完成された機体となっており、テストが順調に進めば2年後には制式量産化され、主に沖縄・日本海周辺のパトロール任務に就くことが決まっていた。
 固定武装の20ミリ機関砲を両翼付け根に1門ずつ装備し、AAM-3短距離空対空ミサイルまたは2.75インチロケット弾ポッド2基を主翼下に、対地・対艦両用の500ポンド爆弾2発ないし750ポンド爆弾1発を胴体内の爆弾倉に搭載できる。
 他にも、海上自衛隊のUS-1A救難飛行艇と同様に陸上滑走用車輪を備えており、陸上基地での運用も可能だ。
「ようイーサン、チャージャーただ今参上!」
 大橋が振り向くと、いつの間にか木戸機が離水し、急上昇してきていた。
「調子はどうだ? チャージャー」
「ああ、実にスムーズな飛び具合だな。F-15やF-2とかF-4みたいな派手さはないが、日本の科学技術の結晶に乗ってるのを肌で感じるぜ」
 ヘルメット内のレシーバーから聞こえてくる木戸の声は、実に楽しそうだった。
「バーカ、何言ってやがる。3か月前に初めて乗せられた時にゃ、『何でイーグルドライバー一筋の俺がこんな不細工な亜音速機に乗らなきゃならないんだ』なんて愚痴ってたくせに」
「ふざけんな! 俺がそんなこと言うわけないだろ!」
「コラお前ら、アホ話してる暇があったら給料分の仕事しろ!」
 2人の会話に、今井一尉の怒声が割り込んできた。
「こちらマザーシスター。ノワール・ワンとツーへ。間もなく発艦する。エスコートをよろしく頼む」
 今度は、「しゅり」のヘリ甲板で発進準備中のXEV-22オスプレイ早期警戒機から、通信が入った。
 オスプレイの最大の長所は、両翼端のプロペラを上方に向けるとヘリコプターになり、前方に向ければ固定翼航空機となるティルトローター機であることで、これによって最高時速562キロ、航続距離2220キロという高性能を実現していた。
 航空母艦を持つことができない海上自衛隊にとっては、通常の護衛艦からも離着艦ができるという点において、非常に魅力的な航空機であった。
「マザーシスター、テイクオフ!」
 オスプレイは「しゅり」の発着甲板から垂直上昇していくと、プロペラを垂直から水平にしながら飛行を始めた。
(うまくやってくれよ……)
 陸地の方角へ向かう3つの機影を艦橋から眺めながら、安達原はそう願っていた。

 同じ頃、「たんご」の車両甲板の一角に、偵察小隊と嘉城二尉の普通科小隊が整列させられていた。全員が各自の火器を持ち、ヘルメットと防弾チョッキ着用の完全武装だった。
「小隊本部、小銃第1班、第2班、第3班、総員集合完了! 嘉城二尉、小隊総員37名集合完了しました!」
「御苦労、江見原曹長。別命あるまで、全員をその場で休ませよ」
 25歳近く年上の小隊付先任陸曹である江見原耕哉陸曹長に、嘉城が返礼した。
「小隊長、演習でありますか?」
 班長の1人である島崎一曹が、10.7キロもの重量がある62式機関銃を軽々と担ぎながら訊いた。
「僕もよく知らない。ただ、連隊長命令の非常呼集だから演習じゃないでしょう。そのうち説明があると思うが……」
「それにしても、こうも簡単に弾薬が出るのは初めてですな。いつもはやれ書類だ、やれ手続きだとうるさいのに」
 江見原が続けた。
「そうですね」
 嘉城は苦笑しながら言った。
 やがて、丸ノ内が田中川副連隊長と船橋混成機動大隊長を伴って現れた。
「敬礼!」
 斉木偵察小隊長の掛け声に合わせ、集まっていた隊員が3人の指揮官に対して一斉に敬礼をした。
「御苦労、休め。諸君らに集まってもらったのは他でもない。これより上陸偵察活動を命ずる。なお、当該区域は大型の野生肉食獣等の出現が予想されるため、万一の際には小隊長命令による身体防護射撃も許可する。難しいのは分かるが、是が非でもやり遂げて欲しい。海と空からの万全のサポートを約束する。私からは以上である」
「普通科小隊はチヌーク・ヘリで、偵察小隊はLCACで陸地に向かう。班ごとに無線連絡を絶やさず前進せよ」
 彼の後を引き継いだ田中川が言ったのは、それだけだった。
「正直言って、これはベトナムで米軍がやったサーチ&デストロイ作戦とほぼ同じだ。目的が敵の撃滅ではなく、状況調査であるということしか違わない。危険な反面、大きな成果はほとんど期待できない方法である。だが他に有効な手段はない。ジャングルが相手では、航空偵察にも限界がある。どうか頑張ってくれ」
 最後に船橋が激励した。
「何か質問のある者は?」
「連隊長は野生肉食獣と言われましたが、具体的にはどのような種類のものが出ると予想されるのですか?」
 丸ノ内の問いに対し、嘉城が右手を挙げて訊いた。
「まだはっきりしておらんが……虎もしくはライオン以上で怪獣未満といったところか」
「何です?」
「恐竜だ。言っておくが、冗談ではないぞ」
「………」
 彼を始めとする隊員全員が、ほぼ同時に「信じられない」と言いたげな表情をした。
「他にはないな? では、状況開始!」
 丸ノ内の命令が響くと、隊員らはおのおの装備をまとめて移動を始めた。
「恐竜だってさ。お前、どう思う?」
「よく知らねえけど、出てもおかしくなくなくねえか? 昨日から変なことばかり起こってるみたいだしよ」
「何だか、漫画か映画みたいだな」
「そうだったりして」
「でも恐竜って、銃で撃って死ぬのかな? 怖いなあ……」
「だったら今のうちにションベンしてこい!」
 隊員の話題は、専ら“恐竜”という単語のみに向けられていた。
「小野寺さん、どうなんでしょうか?」
 尾川二士が小野寺士長に問うた。
「知らん。俺も恐竜は映画と漫画と図鑑でしか見たことないしな。尾川、お前は?」
「あるわけないじゃないすか。とにかく、今すぐにでも家に帰りたいです」
 彼ら普通科小隊員は狭い通路を抜け、ヘリ甲板に上がった。すでにCH-47JAチヌーク
大型輸送ヘリとOH-1偵察ヘリが格納庫から引き出され、最終点検を受けていた。
「これよりBLを支給する! 各員、必要な分を取れ!」
 嘉城が声を上げる傍らでは、補給小隊の隊員が松の木でできた弾薬箱をカーゴから降ろし、銃剣で素早く金属テープを切って開け始めた。弾丸の入った紙箱がぎっしり詰まったブリキ缶が出され、さらにその蓋が剥がされた。
「あの、小野寺さん」
 またも尾川が小野寺に尋ねた。
「何だ?」
「これって弾薬ですよね?」
「見りゃ分かるだろ。新品のピカピカ実弾だ」
「でもBLって言ってましたよね?」
「だから何だよ」
「俺あんまりよく知らないんですけど、確かBLって美少年同士のホモ話じゃありませんでしたっけ? 最近、婦女子の間ではやってるとか何とか小耳に挟んだんですけど……」
 突然、小野寺の鉄拳が左頬に炸裂した。
「脳足りんのカビパンツが! 聴け!!」
 昨日右頬に受けたものとは比較にならぬ痛みと衝撃でうずくまった尾川を、小野寺が防弾チョッキの襟首をつかんで乱暴に引き起こした。
「いいか、まずBLってのは定数弾薬のことだ! おめえが言ったのはボーイズラブのことだろ! お前、新隊員教育の座学時間に何習ってたんだ!? 俺が一からしごき直してやるぞ!!」
 島崎班長や他の隊員が「何だ、何だ」と集まってくるのも構わず、小野寺は尾川をガクガクと揺さ振り、彼の顔に唾を飛ばしながら怒号を張り上げた。
「それからなぁ、俺がオタクだからってホモ属性もあると思ったのか!? 俺は萌え系アニメ属性だ! 漢だ! 腐女子とは違えんだよ!!」
「いえ、そんなこと思ってませんし、僕も男です……。それにモエって何です?」
 両目から涙を流しながら、尾川が弱々しく言った。
「バカヤロー!! 漢字の漢と書いてオトコと読むんだ! 己の信ずる道を行く男のことをそう呼ぶんじゃ、このタコが! 萌えってのは何かに深い思い込みを抱くことだ! ついでに言うと腐った女子と書いてフジョシ、ホモ好きのオタク女を指すんだ! 分かったか、テキサス馬糞の干しカスがあ!!」
 罵詈雑言の混じったオタク用語の説明は、ようやく締めくくられた。
「分かりましたぁ~!」
「聞こえん!!」
「分かりましたあぁぁぁ~!!」
 尾川は必死で叫んだ。
「またやってやがるな、お前ら! 罰として1週間、班全員の半長靴磨きとベッド整頓だ!!」
 群がる班員を掻き分け、2人を引き離しながら島崎が怒鳴った。
「自衛隊も堕ちたものですわ。私も若い頃は古参の士長や陸曹によく殴られたもんですが、あんな軟弱なことでは殴られませんでした。ただの神経質な問題児ならさっさと除隊させれば済むんでしょうが、兵隊としての出来がいいだけに始末が悪いんです」
 喧噪を呆れ顔で眺めていた嘉城に、江見原がこれまた気抜けした声で語った。
「はあ……。まあ、そうですね……」
 嘉城は呆れ顔のまま相槌を打ったが、何とか気を引き締め、「各自、持ち場に戻れ! 弾倉に弾を装填せよ!」と命令を発した。
 弾丸をマガジンに込める小銃手、リンクベルトをケースから引き抜く機関銃手、木箱から対戦車ロケットランチャーや無反動砲弾を出す砲手と、それぞれが自分の武器をいつでも使用できる状態にした。その間、小気味よい金属音が飛行甲板中に響き渡った。
「用意はいいな? よし、ヘリに搭乗!」
 嘉城を先頭に、小隊員は後部貨物ドアからチヌークの機内に足を運んでいった。
「エンジン始動。キャビンドア閉めろ」
「キャビンドア閉め。エンジン始動します」
 機長と副操縦士が搭乗完了を確認した後、2基の強力なターボシャフトエンジンが轟音を立て、ローターが周囲の空気を切り裂き始めた。同時に、OH-1も発進準備に入った。
「エンジン全開。離艦する!」
 機長の声と共に、チヌークはその巨大な葉巻型の機体を勢いよく垂直上昇させた。間髪置かず、OH-1がそれに続く。
「やれやれ。帰ってきて機体整備が終わったらすぐまた飛べたぁ、ホントに忙しいこったね」
 OH-1のパイロット席で、機長の鳥谷三佐がぼやいた。

 一方、偵察小隊員は車両ごと、パーキング甲板から船体後部のウエル・ドックに直接移動していた。
 ドックに収容されている2隻のホバークラフト揚陸艇・LCACには、29名の隊員と87式偵察警戒車3両、ジープ2台、オートバイ8台が大きな余裕を残して収まった。
「野郎共、行くぜ!!」
「えい、えい、おーっ!!」
 武器弾薬の補給と車両の点検を済ませた後、斉木三尉の音頭に合わせて、真河三曹を始めとする小隊全員がキャビン内で気合いの声を上げた。
 それから間もなくして、艦尾のドック扉が開放された。LCACは2つの巨大なガスタービンプロペラを逆転させ、バックで艦外に滑り出すと、すぐさま40ノットの全速で浜辺へ突っ走っていった。



最終更新:2007年10月31日 03:01