第2章 異変と迷走


 梨林海将補は、司令室のデスクでノートパソコンを使って事務をしていた。
 一区切りが付いたのでパソコンの電源を落とすと、それとほぼ同時に艦内電話が鳴った。
「私だ。何かあったのか」
 受話器を取り上げて言った。
「司令! 大至急、艦橋にお戻り下さい!!」
 梨林は岩田艦長の悲鳴じみた声から、ただならぬ事態が起こったと直感した。
「了解、直ちに艦橋へ上がる!」
 彼は受話器を叩き付けるように置くと、大急ぎで艦橋へ通じる通路を駆け上がった。
 艦橋では、岩田以下全ての隊員が顔を真っ青にしていた。
「何があったのだ! 中国軍が台湾に侵攻し始めたのか! それともまた北朝鮮が弾道ミサイルを発射したのか!?」
「ち、違います司令。全艦の対水上レーダーが、僚艦以外の物体を全て見失いました。対空レーダーもまた同様で、映るのは雲だけとなっています」
「何だと。機器の故障か」
 梨林は首をひねった。
「いえ、機器は全て正常そのものです。探知していた目標が消えてしまったようなのです」
 岩田は狼狽を隠し切れない口調で言った。
「よし。艦長、自衛艦隊司令部に緊急事態発生と連絡せよ。佐世保地方隊にも支援を要請してくれたまえ」
「ハッ!」
 岩田が命令を伝えるべくマイクを取ろうとした時、通信長が艦内電話で連絡してきた。
「ブリッジ、こちら通信室。僚艦以外の無線のコンタクトがありません」
「無線が使えない? だったらフリーサットを使え!」
 フリーサットとは、海上自衛隊も利用している米海軍の軍事用通信衛星である。
「それが……フリーサットからの反応がありません。衛星追尾アンテナをフル稼働させて探しましたが、軌道上に確認できないのです」
 岩田は言葉を失った。レーダーが使えなくなり、無線が使えなくなり、頼みの綱の衛星通信までが使えなくなったのだ。
「……司令、無線も衛星も使えません……」
 やっとのことで、声を喉から絞り出した。梨林以下、艦橋にいた全員がざわめいた。
「コンタクトは取り続けるように言え。異変があったのは、いつだ?」 
 梨林が岩田に訊いた。
「1415時、今から約5分前、3番艦『くろひめ』から、レーダーが探知不能と報告を受けました。それから続々と、他の艦からも同様の連絡が届いております」
「岩田艦長、航海班より報告です。オメガとロランが、地上局からのコンタクトがなく使用不能とのことです」
 艦橋に駆け込んできた当直士官が言った。オメガもロランも、地上局から発せられる電波をキャッチして現在位置を知る方式の航法無線である。
「ならばGPSが頼りと言いたいところだが……船務長、使えるか?」
 GPSは衛星からの発信電波で位置測定をするシステムで、カーナビゲーションにも使用されている。
「残念ながら……GPS衛星も反応がありません」
 申しわけなさそうに船務長が答えた。
「司令、これは想定不能の非常事態です。万一のため、全艦に戦闘配置を命じて下さい」
 作戦担当の艦隊幕僚が、梨林に言った。
「……全艦に繋げ」
 通信士官にそう命じて、彼はマイクを取った。
「梨林だ。全艦に告ぐ。相次ぐ混乱による不測の事態を考慮し、これより戦闘態勢に入る」
「総員戦闘配置!」
 けたたましい警報音が艦内に鳴り響き、乗員はそれぞれの持ち場へと駆け込んだ。陸自と空自の隊員もそれに続き、艦隊は一瞬のうちに喧噪に包まれた。
「司令、戦闘配置完了!」
「2番艦戦闘配置完了」
「3番艦、戦闘配置完了しました」
「4番艦、配置完了しました」
「5番艦、配置完了」
「司令了解。全艦配置完了と認む」
 3分ほどで各艦の艦長から報告があり、梨林は司令席に腰を下ろすと再びマイクを持った。
「司令より全艦の乗組員、陸自第1危機即応連隊員、そして空自航空業務支援小隊員の諸君に告ぐ。我々は現在、想定不能事態に直面しておる。よって現場最高指揮官の権限により、戦闘配置を下命したものである。諸君は動揺なきよう、それぞれの職務に専念していただきたい。以上である」 
 梨林はその後、艦隊に現コースを維持させるよう命じた。GPSも航法無線も使えないため、六分儀による天測と海図、ジャイロコンパスのみが頼りの航海となった。
「コロンブスかマゼラン、よくてキャプテン・クックの時代に逆戻りってわけだ」
 航海士が海図に蛍光ペンで線を引きながら、ぼやいた。

 陸自と空自の隊員は完全装備の上で、ヘリ格納庫とLCAC格納庫、車両甲板に待機となった。彼らは、床に座ったまま落ち着かなそうに辺りを見回したり、装具の点検をしたりしていた。
 尾川二等陸士は、89式5.56ミリ小銃を抱えたままガタガタと震えていた。
「お前大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
 彼の横で漫画本を読んでいた小野寺士長が、心配して声を掛けてきた。
「大丈夫なわけないじゃないですか……。小野寺さん、よくこんな時に落ち着いて自分の趣味に浸ってられますね?」
「ま、そんなに大したことじゃないだろ。抜き打ちの演習かもしれんしよ」
 小野寺の愚鈍なまでの呑気さは、健在だった。
「そうでしょうか……?」
 尾川は不安そうに言いながら、立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「便所です」

「ソナー探知270度。目標、潜水艦らしい」
「何っ! 潜水艦だと!?」
 試験艦「しゅり」のCICで、安達原艦長が思わず叫んだ。自分達以外にも異変に巻き込まれた者がいるとは、想像すらしていなかった。
「水測長、アクティブ探知始め。決して見逃すな!」
「アイ・サー!!」
 潜水艦を探すソナーには、聴音専用のパッシブソナーと、探信音波を発して目標との距離を測るアクティブソナーの2種類がある。安達原は、アクティブで潜水艦の位置を特定するよう命じる一方、梨林に連絡を入れた。
「司令、副司令の安達原です。たった今、本艦のソナーが潜水艦らしき目標を捉えました。詳細は不明ですが、敵味方の識別が済むまで、対潜戦闘用意をしておくべきかと思います」
「了解した。全艦、対潜戦闘用意」
 梨林も即座に命令を下した。潜水艦の艦長が混乱していた場合、艦隊に攻撃を仕掛けてこないとも限らないからだ。
「対潜戦闘、270度!!」
「目標、距離3200メートル。深度150。速力20ノット。方位変わらず」
「ソナー、目標の音紋識別はまだか」
 安達原は水測長に訊いた。
「今、音源ファイルと照合中です。もう少し時間を下さい」
「急げ」
 人間にそれぞれの指紋や声紋があるように、船舶も音紋と呼ばれる固有のスクリュー音を持っており、それを分析することによってその船のタイプやナンバーを知ることができるのである。
「艦長、ファイルにありました。ノイズ特徴は、我が海自の『ふかしお』です」
 水測長の一言で、CICのあちこちから安堵の溜め息が漏れた。
「司令、目標は味方潜水艦『ふかしお』でした」
「了解。全艦、対潜戦闘終了」
 安達原が梨林と短い交信を終えた時、水測長が「目標、現在浮上中」と言った。
「彼らも我々が味方だということを知ったんだろう。艦橋に上がる」
 彼はCICを出た。

 「ふかしお」が浮上前の安全確認のために上げた潜望鏡は、「たんご」の艦橋張り出しからも見えた。
「おおっ、味方の潜水艦だあ!」
「俺達だけじゃなかったんだ!」
「オーイ、ここだぁー!!」
 海面に突き出された潜望鏡に向け、隊員がしきりに手を振り始めた。一連の異変が止まるわけではなくとも、仲間が増えるということは何よりも心強い。
 やがて、「ふかしお」の黒光りする涙滴型の船体が、激しく吹き上げる気泡と共に海上に現れた。 
 「ふかしお」は、「はるしお」型の次に海上自衛隊が建造した最後の涙滴型潜水艦で、
基本的には「はるしお」型と同型であるが、多数の新装備が試験的に搭載されていた。原潜にも見劣りしない性能を持っている艦だ。
「『ふかしお』艦上に乗員数名を確認。ボートの準備をしています」
「よし。艦隊速度を4ノットに落とせ。左舷側でボートを待つ」
 見張りから報告を受けた梨林は、艦橋から甲板へと降りた。
 間もなくして、艦長らしき男が2人の部下を引き連れ、船外機付きゴムボートに乗って「たんご」へと向かってきた。
「第2潜水隊群第6潜水隊所属『ふかしお』乗員3名、貴艦への乗艦許可を求む!」
「乗艦を許可するッ!」
 甲板士官との間でハンドスピーカーを使った短いやり取りがなされ、ボートが「たんご」に接舷した。まず甲板から垂らされた縄梯子で乗員が甲板に上がり、次にボートがロープで引っ張り上げられた。
「SS-589『ふかしお』艦長の浦子俊伸二等海佐であります」
 いかにもベテランの軍人といった精悍な顔付きをした作業服姿の男が、姿勢を正して梨林に敬礼した。葉巻をくわえ、魚雷を脇に抱えたソフト帽被りのギャングザメが描かれたマンガチックな識別帽とのミスマッチぶりが微笑ましかった。
「御苦労。艦隊司令の梨林悟郎だ。状況は分かっているな?」
「はい。本艦は潜航中に電動モーターが不調になったため、海中に停止して修理を行っていました。そして1415時、この艦隊を除く全ての艦船の音が一斉にソナーから消滅してしまいました。最初は核爆発があったのかと思いましたが、もしそうならば我々も無事では済まないわけですし、とにかく修理を終えた後に全速力で追ってきたのです」
「君らは艦隊の真下にいたのか」
 異変が起きた時間が同じなら、場所も同じはずだと梨林は考えていた。
「はい。ちょうどその時、艦隊が本艦の真上を通過するのを探知していました」
「やはりな。ところで、君には臨時に私の指揮下に入ってもらうが、よろしいか?」
「はっ。非常時ですので」
 海の忍者である潜水艦に水上艦艇と行動を共にせよと命じるのは、潜水艦乗りの誇りを深く傷付けることを意味する。しかし、浦子艦長が冷静な判断をしてくれたため、梨林は安心した。
「ありがとう。さっそく艦に戻り、任務に就いてくれ」
「アイ・サー」
 敬礼を交わすと、浦子ら3人の乗員はボートで「ふかしお」に戻っていった。
「司令……我々はこれからどうなるのでしょうか?」
 岩田一佐が遠慮がちに言った。
「分からん。ここまで来たら、天命を待ちつつ最善を尽くす以外あるまい」
 梨林はそう言うと、艦橋へ戻った。

 夜になっても、戦闘配置は解除されなかった。隊員を否応なしに団結させ、混乱を防ぐためには他に方法がなかったのである。
 新たに潜水艦「ふかしお」を加えた派遣艦隊は、2キロだった各艦の間隔を1キロに設定し直し、常に緊密な無線連絡を取り合いながら進んだ。
 各艦の航海科員は星座や惑星を観測し、緯度と経度を測る作業に追われていた。が、どういうわけかそれは遅々として進んでいなかった。
「お前ら、術科学校で居眠りばかりしてやがったのか! 世界最強のイージス艦の乗員ともあろう者が、ろくに天測もできんのか!!」
 「くろひめ」の艦橋張り出しで航海長が、星図と六分儀を手に星空を見上げてはあたふたしてばかりいる部下達を叱り飛ばした。
「航海長、星座が実際の空に全く当てはまりません!」
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ! 貸せ!」
 若い海士から星図を引ったくると、彼は自分の眼で確かめ始めた。
「信じられん……。こんなアホなことが……」
「どうした、航海長。天測はできたか」
 艦長兼艦隊先任の木林与一一等海佐が、艦橋張り出しに出てきた。
「艦長。自分も信じられませんが、星図を構成している星が移動していたり、なかったり、ないはずの新しい星があったりで、星図がまるで役に立たないのです。まともに観測できるのは金星や火星などの惑星と、月だけです。それも、全く違った位置にあります」
「何だと! 北極星や北斗七星もか!」
「はい。北極星は星の群れの中に紛れ込み、ひしゃく型の北斗七星はバラバラになっています」
 木林は驚愕した。 

 同じ頃、「ふかしお」のソナー室では、ソナーマンが水中音響の解析を急いでいた。海棲生物の声や遊泳音を割り出し、どの海域を航行しているのか、おおよその見当を付けるためだ。
「ん? 何だこれは」
 水測長が計器を調節して、ヘッドホンにじっと耳を傾けた。
「イルカかな? シャチ……それともクジラか……」
 データファイルを検索したが、彼のヘッドホンに入った音の記録はなかった。
「水測長、どうかしましたか?」
 横にいた若いソナーマンが訊いた。  
「いや……。俺は潜水艦でソナーをいじるようになって20年になるが、こんな生物の鳴き声は聴いたことがないな……」



最終更新:2007年10月31日 02:50