第1章 航海にて


 出航から約12時間が経った午後3時、派遣艦隊は朝鮮半島と目と鼻の先の対馬海峡を通過しようとしていた。だが、九州方面を北上中の熱帯低気圧が、海をひどく荒れさせていた。
 艦首を激しくバウンドさせ、ローリングとピッチングを繰り返しながら、押し寄せる荒波と吹きすさぶ烈風を切り裂くように艦隊は進んだ。
「それにしてもひどい時化だなあ」
 輸送艦「たんご」の艦橋で、梨林海将補が双眼鏡で外を見ながら言った。
 彼が座っている司令席の前の窓にも、まるで機銃弾のように雨粒が降り注いでいる。忙しく動いているワイパーも、遺憾ながら役立っているとは言えなかった。
 彼の横では、凶暴なウミガメのマークが描かれた識別帽に作業服姿の岩田艦長が、顔面蒼白になりながら必死で船酔いに堪えていた。
「大丈夫かね? 無理せずに座った方がいい」
 梨林は自分の席と反対側に位置する艦長席を指差して言った。
「いえ、結構です。いくら何でも、少しは慣れませんと……」
 海上自衛隊にも長年勤務した旧帝国海軍軍人の父を持つ梨林は、18歳で二等海士として入隊し、現在まで水上艦勤務一筋で通していた。まさに生まれながらの船乗りである。
 片や、現場での実務経験を積みながら地道に努力を続け、叩き上げ幹部として成功した彼とは対照的に、岩田は防衛大学校と江田島の幹部候補生学校を主席で卒業した若手エリートだったが、艦隊勤務は極端に少く、「たんご」の艦長になるまでの3回の艦艇乗務でも、海が荒れては酔ってばかりいた。
「我ながら情けないです……。戦後日本最大の軍艦の艦長が船酔いの若造士官だなんて、三文漫才にもなりませんよ……」
「まあそう自虐的になるな。古いタイプの輸送艦は船底が平たくなっているから、この時化ではそれこそ木の葉のように揺れていたはずだ。とてもこんなものでは済まんよ。それに、船酔いに階級は関係ないということくらい、君も海上自衛官なら知ってるだろう?」
「はい……」
 顔を無理に苦笑させて答えると、岩田は艦内マイクを取った。
「CIC、異状ないか?」
 CICはコンバット・インフォメーション・センターの略で、現代の戦闘艦の中枢となる戦闘指揮所のことである。レーダーやソナー、データリンクなどで収集された情報を統括したり、各種の武器をコントロールするCICには、常に担当の隊員達が詰めている。
「対空・対潜・対水上、共に感なしです。韓国軍と北朝鮮軍の通信も、通常とほとんど変化ありません」
 CICの管理を担当する砲雷長の声が、スピーカーから返ってきた。
「艦長、了解」
「私は少し休ませてもらうよ。老いぼれると、徹夜明けは辛いものでね。何かあったら連絡してくれたまえ」
「どうぞ、ごゆっくり」
 梨林は席を立った。

 「たんご」に設けられている揚陸部隊用の居住区は、所狭しと並ぶ三段ベッドと、通るのがやっとの狭い通路のみで構成されていた。潜水艦のそれを手本にした造りだ。乗員用の居住区も似たようなものであるが、人口密度がまるで違っていた。まさに、ほぼ全てが男で占められている人間の巣だった。
 至る所で陸上自衛隊員が、呻きながらベッドに突っ伏していた。彼らはイスラム教を信奉し、メッカにいるアラーの神に祈っているわけではなかった。ひどい船酔いに堪えていられないだけである。
 その中を、ごく少ない女性自衛官のうち2人が、大量の紙袋と酔い止めの錠剤を抱えて、忙しく走り回っていた。
「あーもう全く、薬とヘド袋配るだけならともかく、どうしてこんな男ばっかりのカイコ棚の間縫って走り回らなきゃなんないのよー!」
 おかっぱ髪の目立つ横井葉寧美二等陸曹が、甲高い声で言った。
「ほとんど全部が男の人なんですから仕方ないじゃないですか……。しかもどうして所属も違うし階級も上の私が、わざわざ横井さんのお手伝いしないといけないんですかぁ!?」
 横井二曹と比べて控え目な印象を受ける青山花織子三等陸尉が、抗議の声を上げた。
「うるさいわよ! 花織子ちゃんは黙って私に付いてくればいいのっ!!」
「は~い……」
 横井二曹は連隊本部管理中隊内の衛生小隊に属する衛生士で、時化で連隊員に船酔いの者続出とのことにより駆り出されていた。
 一方、連隊本部付通信士官の青山三尉は彼女より4つも階級が上でありながら、同じ高校で1年後輩だった縁があるために、事あるごとに顎で使われていた。
「それじゃあ1回1錠、4時間おきに水で飲んで下さい。すぐに楽になりますから。くれぐれも安静にお願いします……」
 苦しんでいる年配の曹長に酔い止めを渡して歩き出そうとした横井は、不意に「あのう、衛生士のお姉さぁん……」とオヤジ臭い声で呼び止められた。
 体中が総毛立ち、血が凍るような感覚を覚え、彼女はその場に立ちすくんだ。 
「は、はい!?」
 辛うじて、声を絞り出した。
「薬が効くまで、背中さすっていて欲しいんだけど……」
 曹長はそう言うと上着とシャツをまくり上げ、毛の目立つたるんだ背中を露出させた。
 横井は青山の手を引っ張り、「苦しんでいる隊員がまだ大勢いますので失礼いたします!!」と叫ぶが早いが、狭い通路を全速力で走り抜けた。
「さすってあげればよかったのに……」
 嫌味っぽく笑って呟いた青山を、横井が般若のようになった顔でジロッと睨んだ。

 翌日、艦隊は沖縄近海を抜け、与那国島沖に達していた。
 昨日の大時化が嘘であったかのように、海は凪いでいた。空も抜けるように青く、文字通りの順風満帆だった。各艦の甲板上では手空きの隊員が、日光浴をしたり運動に励んだりと思い思いの時を過ごしていた。
「いい天気ですねえ」
「それはいいんだけどな、尾川ぁ。お前、何度言ったら分かるんだ? 半長靴は顔が映り、聖母マリアがうっとりして舐めたくなるまでピカピカに磨けって、あれほど言われたろうが。新米のお前がしっかりしないと、俺が班長にどやされるんだぞ」
「す、すいません。小野寺士長」
 「たんご」のヘリ甲板の一角で新人の尾川龍成二等陸士が、彼の面倒見役である小野寺久陸士長に靴の磨きが足りないことを咎められ、慌ててその場で脱ぎ、また磨き始めていた。
 尾川は高校を卒業してすぐに自衛隊に入隊していたが、これといった動機はなく、他の連中とは違った道を歩んでみたいという単純な考えからだった。新隊員前期教育過程修了後に第1危機即応連隊を志願したのも、大好きな射撃訓練の機会が他の部隊より多いためであった。
 一方、尾川より4歳年上の小野寺は、暇さえあれば目を輝かせて漫画本やアニメ雑誌を読んでおり、そのくせ無反動砲を扱わせれば右に出る者はいないという変わり者である。眼鏡に小太りという外見をした見るからのオタク青年であり、半ば無理矢理にその趣味に付き合わされることがあるということを除けば、面倒見のいい先輩だった。
「それにしても、いつ帰れるか判らないってのはきついな。テレビでアニメは見られない、雑誌も本も買えないときたら、こりゃ戦死するより辛いこった」
「我慢するのにちょうどいい機会じゃないですか。だんだん新しい世界が開けてきますよ」
 妙にニヤニヤしながら、尾川が言った。
「何か言ったか」
 それまでとは打って変わったドスの効いた声で、小野寺が返した。
「はい、オタク気を捨てて真人間になるにはちょうどいい機会だと……」
 バシッという音と共に小野寺の鉄拳が飛び、尾川は目から火花を散らして倒れた。
「いってえぇぇ……」
 尾川が真っ赤に腫れ上がった右頬を押さえながら起き上がった。
「この俺にオタクをやめろと軽々しく言うとはいい度胸だ。腕立て用意……始めぇ!!」
 鬼軍曹ばりの気迫で小野寺は号令を発した。
(くそぉ、このクソ眼鏡オタクめぇ、いつか必ず殺してやる……)
 尾川が激しく小野寺を憎悪しながら腕立て伏せをしていると、彼ら2人の所属する小隊の隊長である嘉城洋三二等陸尉が、班長の島崎修一一等陸曹を伴ってやって来た。
「お前達、またやってるのか?」
 嘉城が呆れた口調で言った。特級射撃バッジを持つ狙撃手であるが、防大出の青年将校というよりは人のいい若者という感じが強い男だった。
「いえ、性根の鍛え直しであります。自分が尾川二士に半長靴の磨き方を指導していましたところ、図に乗って生意気な口を利いたからです」
 慌てて敬礼し小野寺が答えた。その横では、尾川が敬礼しながら陰湿な眼差しを彼に向けていた。
「分かった。だが、ほどほどにしとけ。島崎班長、後を頼む」
「はっ、小隊長殿。おうお前ら、暇なら艦内の便所掃除でもしろ」
 嘉城の後ろから、比叡山の僧兵を思わせる頑健な体付きをした島崎が歩み出ると、2人を両脇に抱えて引きずっていった。
「お前んとこの隊員、また面倒起こしてんのか?」
 坊主頭の男が、からかうように嘉城に声を掛けた。彼の同期生で、戦車小隊長を務めている黒崎和磨三等陸尉である。
「何でもないよ。とやかく言うんだったら、お前もさっさと二尉に昇進しろよ。俺と同期のくせしてさ」
「バカヤロ。そっちこそ階級で威張りたきゃ、レンジャー資格取ってみろ。俺はちゃんと取ったぞ。ただ射撃がうまいだけで、防大出の新品幹部が部下から尊敬されるかよ」
「お前よりましだ。戦車乗りがレンジャー資格なんか持ってたって、無駄なだけだろ」
 軽口を叩き合いながら、嘉城と黒崎は他の幹部が集まっている士官室へ降りた。
 2人が部屋に入ると丸ノ内連隊長の他に、副連隊長兼普通科大隊長の田中川正純二等陸佐、混成機動大隊長の船橋宗明二等陸佐、空自航空業務支援小隊長の今井雅夫一等空尉ら部隊幹部が、テーブルを囲んでいた。その他にも数人の非直の幹部が雑談をし合ったり、お茶を飲みながら将棋を楽しんだりしていた。
「おっ、ちょうどいい時に来たな。黒崎君、お子さんが産まれたそうだな。おめでとう」
 丸ノ内が言うと、何人かが歓声を上げて拍手した。
「ありがとうございます。出動準備でゴタゴタしていた時に妻が産気付きまして……。大急ぎで病院へ行きましたら、ちょうど産まれるところでした」
 顔を赤くして頭をボリボリ掻きながら、黒崎が言った。
「出航前にお子さんの顔が見られてよかったな。それで男か? 女かい」
 モヒカン頭にサングラスという出で立ちの船橋二佐が、ニヤニヤしながら訊いた。
「それが……そのう……双子でして、男と女両方なんです……」
 おおッというさらに大きな歓声が、沸き上がった。
「そいつはさらにおめでとう。で、名前は決まったか」
「はい、何とか。もう届け出ましたが、まだ言えませんですね……」
 船橋の問いに顔を真っ赤にしながら黒崎が答えると、今井一尉が「おいおい、家族機密は上官にも教えられないか」と言ったために、大爆笑が巻き起こった。
「嘉城二尉は、階級では黒崎三尉に勝ったが嫁さんでは負けたな」
 中年の艦隊幕僚が笑いながら言った。
「はあ……」
 まだ独身の嘉城が、やはり赤くなって下を向く。それを横目で見ていた黒崎が、意地悪そうに肘で彼の胸を軽く突いた。
「子供を持つと、生活がすっかり変わるぞ」
「うちのは来年高校受験でさ、年末までに帰れないと色々とまずいんだ」
「結婚は人生の墓場だぞ」
「嘉城君はいつ結婚するんだ?」
 次々と幹部達の笑い話に花が咲いていく中、田中川二佐のみは独り沈黙していた。細く鋭い目をした40代後半の太った大男で、まさに骨と肉の塊のような印象を受ける。頬や顎を始め、体中に痛々しい傷跡があった。
 彼は、他の自衛官らには決して見当たらない暗い雰囲気を帯びていた。単なる性格の暗さではなく、殺し屋特有の陰鬱さとでも呼ぶべきものだった。
 日本が侵略された時以外は戦わないことを前提に存在している自衛隊ではあるが、創設以来、非公式に実戦を経験した幾人かの自衛官がおり、その中に田中川も含まれているとの噂が流れていた。真偽のほどは確かめようもなかったが、彼が陸自最精強の第1空挺団レンジャー教育隊に長年在籍し、アメリカやイギリス、イスラエルなどの精鋭特殊部隊に、かつてから研修の名目で何度も足を運んでいたという経歴と、全身の古傷が何を意味しているかは、容易に想像できた。
 無論ながら、田中川がそれについて口にしたことは、今に至るまでない。
 近寄りがたい性格を持つ男ではあったが、実戦時には頼りになる指揮官として、第1危機即応連隊に招かれたのである。
「では、自分は車両甲板の点検に行ってきます」
 そう一言だけ丸ノ内に告げると、田中川は退出した。
「前から思っていたんですが、田中川大隊長って変わった方ですね。仕事の鬼というか何というか……」
 嘉城が誰にともなく言った。
「彼はああいう性格だが、軍人としては超一流だ。今度の作戦で万一何かあっても、素早く対処してくれるだろう」
 丸ノ内はそう言いながら、手元の書類をまとめ始めた。
「ああ、そういえば……」
 嘉城が思い出したように切り出した。
「連隊長。我々はやはり、米軍と共にイラクを攻撃するのでしょうか?」
 嘉城の問い掛けに、他の幹部は静まり返って丸ノ内の答えを待った。誰もが、いつも心の中でその答えを知りたがっていたのだ。
 丸ノ内はコーヒーをすすって一呼吸置き、「いや、それはなかろう。そんなことをしたら、その日のうちに自衛隊は消えてなくなってしまうぞ。ただ、戦争が終わって国連の平和維持活動が始まれば、当然自衛隊もそれに参加するだろう。大量の陸上部隊と武器弾薬類を満載してきたのは、PKF本隊業務参加の予行演習のためだと思う。そうでなくてもこの連隊や艦隊より強力な兵力を、アメさんは持ってる」と、落ち着いた口調で話した。
 空間に幹部達の安堵の溜め息が満ち、再び懇談に花が咲き始めた。
(本当にそれだけであればいいんだが、な……)
 丸ノ内は思った。

 派遣艦隊はおろか、世界の海軍で最強のデータシステムを持つイージス艦「くろひめ」
のCICでは、20名強ほどの隊員がレーダー、ソナー、通信、武器管制と、それぞれの配置に就いていた。
 多数のモニターから発せられるカラフルな光が、この薄暗い部屋の照明となっている。
 隊員らは、レーダーに映った艦船と航空機の敵味方識別や、通信電波の発信源解析、兵器のチェックといった作業を黙々とこなしていた。
「あれ? 故障かな」
 対水上レーダーを担当する電測士が、ふと気付いて眼前のモニターを覗き込んだ。
 4隻の僚艦は、何ら変わらず表示され続けている。しかし、それまで映っていた遠方の他の艦船は、一切が画面から消えていた。それだけではない。与那国島を始めとするいくつもの島影も消えてしまっていた。
 電測士の背中に悪寒が走った。
「た……対水上レーダー、僚艦以外の目標を全てロスト! 失探しましたっ!!」
「何ぃ!?」
 彼の悲鳴のような報告を聞いたCIC要員全員が、異口同音にそう叫んだ。
「確かか。機器は正常か?」
 電測長が駆け寄ってきた。
「間違いありません! 日・米・中・台の各国艦艇はおろか、一般船舶から島の影までがきれいに消えてしまっています!!」
「レーダーが利かんということがあってたまるか! 最大出力で探せ!! 空電ノイズの影響ではないのか? 太陽風の月例予報は!?」
 砲雷長が叫んだ。
 太陽風とは、太陽黒点の活動が高まった際に起こるフレアによって飛び出す、帯電した粒子の集団のことである。太陽風の中の紫外線やX線の影響で、地球上の電波が乱れたり、変圧器がショートして送電がストップしたりする磁気嵐が発生する。
 海上自衛隊は、アメリカ軍から太陽風に関するデータの提供を受けている。砲雷長が大急ぎで手元のキーを叩き、データを照会した。
「今頃は大規模な黒点活動もない……。こりゃあどういうことだ!」
「砲雷長! 対空レーダーも全目標をロスしています!!」
 数百キロ先の飛行物体を強力な電子ビーム走査で探し出すSPY-1Dフェイズド・アレイ・レーダーが、探知した目標を見逃すなどということはあり得ない。が、現実に“イージスの眼”は捉えるべき飛行物体を見失っていた。
「艦長に連絡しろっ! 大至急だ!!」
 午後2時15分、快晴。海上は平穏そのもの。位置、東経123度24分、北緯23度56分。
 以上が、周囲の全ての状況だった。



最終更新:2007年10月31日 02:43